府中市教委は29日、備後国府があったとされる同市元町のツジ遺跡から中世の青銅製印鑑を発掘したと発表した。県内では牛乗遺跡(庄原市)に続き2例目だが、印面の文字が読めるのは初めて。備後国府関係の有力者の私印とみている。
印鑑は印面が4cm四方、つまみ部分を含む高さ3・5cm、重さ120g。篆書で「賀□私印」(□は不詳)の4文字刻まれており、9~10世紀ごろの平安期のものとみられる。「私印」は個人の印鑑を示し、2文字目は判別不能だが「友」(注2)である可能性が高いという。8月に地表から約80cm掘った中世(12世紀以降)の地層から土師器のかけらなどに混じって出土した。
文献(注1)に岡山県吉備中央町(旧賀陽町)の豪族賀陽(かや)氏の賀陽宗成が865年、安房守から備後介として赴任してきたとの記述があり、賀陽氏に関係する人物の持ち物だった可能性もある。
現地説明会が11月14日(日)午後1時半か開かれる。遺跡は府中駅の北約800mの距離。
[参考:中国新聞、山陽新聞]
(注1)中国新聞が触れている文献とは、「三大実録」と思われる。「三大実録」で賀陽朝臣宗成に関する記録は下記のとおり。
三代実録 貞観四年(862)3月4日 備中國賀夜郡人左大史正六位上賀陽朝臣宗成。隷左京職。
三代実録 貞観六年(864)1月7日 左大史正六位上賀陽朝臣宗成(略)外從五位下。
三代実録 貞観六年(864)6月28日 外從五位下賀陽朝臣宗成爲安房守。
三代実録 貞観七年(865)5月16日 外從五位下行安房守賀陽朝臣宗成爲備後介。
また、続日本紀には、765年に備中国賀陽郡の人賀陽臣小玉女等十二人が賀陽朝臣の姓を賜るとの記録などがある。
続日本紀 天平神護元年(765)6月朔日 備中國賀陽郡人外從五位下賀陽臣小玉女等十二人賜姓朝臣。
さらに、三大実録では桓武天皇の第七子と記される賀陽親王(794-871)が、日本後紀の821年に初出し、薨じる871年までの間に記録がたくさん現れる。豪族・賀陽氏と関係があるか否かは不明。
日本後紀 弘仁十二年(821)1月7日 无品賀陽親王四品。
三代実録 貞観十三年(871)10月8日 二品行大宰帥賀陽親王薨〈云々〉。帝不視事三日。桓武天皇第七子也。
(注2) 「友」は「太」とも見える。もしそうであれば、「賀太」となり、松江市・キコロジ遺跡から出土した平安時代初期(9世紀)の墨書土器に書かれた「賀太」と同じ字となる。キコロジ遺跡の「賀太」は「潟」かとも想像していたが、吉備津神社の神主・賀陽氏が出雲に足を運んだ折、朝酌川あるいは大橋川を渡ったときに祭祀を行ったとか、ここで一時逗留したなどが考えられ興味は尽きない。
ちなみに、臨済宗開祖栄西(1141-1215)は、吉備津神社の権禰宜賀陽貞遠の子として生まれている。
過去の関連ニュース・情報
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2010.8.27 松江市・キコロジ遺跡 平安初期の「賀太」と書かれた墨書土器が多数出土
ツジ遺跡から青銅製印鑑発掘(中国新聞) - goo ニュース
印鑑は印面が4cm四方、つまみ部分を含む高さ3・5cm、重さ120g。篆書で「賀□私印」(□は不詳)の4文字刻まれており、9~10世紀ごろの平安期のものとみられる。「私印」は個人の印鑑を示し、2文字目は判別不能だが「友」(注2)である可能性が高いという。8月に地表から約80cm掘った中世(12世紀以降)の地層から土師器のかけらなどに混じって出土した。
文献(注1)に岡山県吉備中央町(旧賀陽町)の豪族賀陽(かや)氏の賀陽宗成が865年、安房守から備後介として赴任してきたとの記述があり、賀陽氏に関係する人物の持ち物だった可能性もある。
現地説明会が11月14日(日)午後1時半か開かれる。遺跡は府中駅の北約800mの距離。
[参考:中国新聞、山陽新聞]
(注1)中国新聞が触れている文献とは、「三大実録」と思われる。「三大実録」で賀陽朝臣宗成に関する記録は下記のとおり。
三代実録 貞観四年(862)3月4日 備中國賀夜郡人左大史正六位上賀陽朝臣宗成。隷左京職。
三代実録 貞観六年(864)1月7日 左大史正六位上賀陽朝臣宗成(略)外從五位下。
三代実録 貞観六年(864)6月28日 外從五位下賀陽朝臣宗成爲安房守。
三代実録 貞観七年(865)5月16日 外從五位下行安房守賀陽朝臣宗成爲備後介。
また、続日本紀には、765年に備中国賀陽郡の人賀陽臣小玉女等十二人が賀陽朝臣の姓を賜るとの記録などがある。
続日本紀 天平神護元年(765)6月朔日 備中國賀陽郡人外從五位下賀陽臣小玉女等十二人賜姓朝臣。
さらに、三大実録では桓武天皇の第七子と記される賀陽親王(794-871)が、日本後紀の821年に初出し、薨じる871年までの間に記録がたくさん現れる。豪族・賀陽氏と関係があるか否かは不明。
日本後紀 弘仁十二年(821)1月7日 无品賀陽親王四品。
三代実録 貞観十三年(871)10月8日 二品行大宰帥賀陽親王薨〈云々〉。帝不視事三日。桓武天皇第七子也。
(注2) 「友」は「太」とも見える。もしそうであれば、「賀太」となり、松江市・キコロジ遺跡から出土した平安時代初期(9世紀)の墨書土器に書かれた「賀太」と同じ字となる。キコロジ遺跡の「賀太」は「潟」かとも想像していたが、吉備津神社の神主・賀陽氏が出雲に足を運んだ折、朝酌川あるいは大橋川を渡ったときに祭祀を行ったとか、ここで一時逗留したなどが考えられ興味は尽きない。
ちなみに、臨済宗開祖栄西(1141-1215)は、吉備津神社の権禰宜賀陽貞遠の子として生まれている。
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