歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

野洲市・市三宅東遺跡 最古の割竹形木棺の蓋?

2009年03月30日 | Weblog
 市教育委員会が30日、大規模な玉造り工房などがあった市三宅(いちみやけ)東遺跡で弥生時代後期(2世紀)の割竹形木棺の蓋がほぼ完全な形で見つかったと発表した。同種の木棺では最古級という。
 最古の出土例の一つとして知られる久宝寺1号墳(大阪市八尾市)の割竹形木棺(3世紀、コウヤマキ)より古く、最初期のタイプとみられる。
 割竹形木棺は、古墳時代前~中期に大和政権で大王や有力豪族を葬る際に使われており、太い丸太を縦に2つに割り、中を刳り抜いて本体と蓋にする。同木棺の起源や普及の様子を探る重要な手掛かりとなりそうだ。
 出土したのは全長3・5m、幅45-65cm、厚さ約4cm、高さ29cmの半円筒形に加工したスギ材。厚さが薄く、蓋と判断した。本体部分が未発見で、実際に人が埋葬された形跡はない。水分の多い水路跡にあったため、保存状態が良く、鑿など工具の削り跡も残っていた。これまで製造法などは破片や、墓に置かれた痕跡から探るしかなかったが、今回の発見で具体的に分かるだろうとしている。
[参考:共同通信、産経新聞]


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全南霊岩郡西湖面奄吉里支石墓群 支石墓周辺から祭祀に使った黒色磨研土器発見 数百年後にも祭祀

2009年03月28日 | Weblog
 埋蔵文化財専門調査機関の東北アジア支石墓研究所は27日、全南霊岩郡西湖面(서호면)庵吉里(엄길리)支石墓(지석묘)群(全南道記念物82号)を発掘調査した結果、支石墓は青銅器時代中期に作られたが、5号支石墓上石を支えた支石そばから祭儀が終わった後埋めたと見られる黒色磨研土器(흑색마연토기)2点を発見し、数百年後もこの墓に対する祭祀がなされたことを見せる考古学的証拠が発見されたと発表した。このような例は初めてであるという。
 この5号支石墓内部からは、紀元前800-紀元前400年頃青銅器時代中期の支石墓から出土する石剣が出土している。
 今回発見された土器2点のうち1点は長頚の典型的な黒色磨研土器(高さ17.8㎝)で、もう1点は粘土帶土器形態(덧덧띠토기형태、高さ14.7㎝)であった。
[参考:聯合ニュース]
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尼崎市・東園田遺跡 弥生時代のタコつぼにシカの絵 全国初

2009年03月27日 | Weblog
 市教育委員会が27日、東園田遺跡で出土したイイダコ漁のタコつぼ(1世紀、弥生時代中期-後期)に、線刻されたシカの絵が全国で初めて見つかったと発表した。
 つぼは高さ8・7cm、口径が最大4・4cmの楕円型の湯飲みのような形で、紐を通したとみられる穴もあった。側面には初夏のころの夏毛の斑点を表現したシカと海の表現をした可能性もある格子柄の絵があり、頭と耳は1本の線でY字形に描かれ、首から下の胴体と尻尾は輪郭を描いて表現していた。他の土器では見られない写実的な技法が特徴。
 鹿毛があることから漁を終えた初夏ごろ、豊漁を祈念して描かれたとみられる。
 東園田遺跡は弥生時代には海岸沿いで、2003年に519個のタコつぼが2カ所からまとまって見つかったが、絵があったのは、この1つだけだった。
[参考:共同通信、産経新聞]


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堺市・大野寺跡 行基建立の「土塔」を復元

2009年03月27日 | Weblog
 奈良時代の僧・行基(668~749)が築いたとされる、大野寺の跡地(堺市中区土塔町)から出土した「土塔」(国史跡)が、約1300年前の築造当時の姿に復元され、堺市は27日完成記念式典を開いた。
 土塔は約53.1m四方、高さ約8.6mの四角錐形で、十三重の仏塔。各地のお寺で見かける五重塔や七重塔と同じで、仏舎利を納める仏塔の一種。ピラミッド型の仏塔はほかにも奈良市の頭塔(ずとう)が知られているが、堺市の土塔の方が一辺が約20m長い。土で盛られた仏塔としては国内最大。
 行基が727年に建立した大野寺の境内にあったとされ、長きにわたって荒れ果て、表面が崩れて土の山になっていた。
 市は、土塔の発掘調査を1998~2003年度に実施。幅3~1mの階段が12層に連なっていたことがわかり、2004年度から、復元工事を進めていた。構造が判明している12段分を復元し、南側と西側の面には灰色や茶色の瓦約5万枚を葺いた。近くには模型のモニュメントも作られた。
 4月1日から一般公開される。
[参考:朝日新聞、読売新聞]

備考
■土塔山観音院大野寺 (堺市中区土塔町2167)
高野山真言宗。高僧行基が建立した四十九院の一つ。本尊は十一面観音。寺暦や規模などの詳細は不明だが、境内には古い礎石が残る。現在は本堂と、門、庫裡がある。道路を挟んで東南に土塔があり、さらに土塔の南には大門池がある。
平安時代の安元元(1175)年に記された『行基年譜』に、神亀4(727)年に建立されたとあり、また同寺跡・土塔出土の八葉複弁蓮華紋軒丸瓦にも「神亀四年」と記され、創建年代が確認されている。ただし、奈良時代の建物跡が見つかっていないので、創建当時は土塔のみが作られた可能性がある。
■土塔 (堺市土塔町2143-1)
主軸をほぼ真北にする方錐形に土を重ねて造られた塔で、発掘調査の結果、一辺約53m(180尺)、高さ約9m(30尺)の規模と判明。現在は12段あるが、かつては頂上に八角形の建物が乗る十三重塔だったらしい。各段の表面は瓦で葺かれていた。
今回の復元では、4面のうち西側と南側の2面のみ5万枚の瓦を葺いている。
[参考:堺市HP、同志社大学歴史資料館HP、朝日新聞]

■大野寺は、添付の地図の記載の場所にあります。土塔はこの大野寺から道路を挟んで東南にあります。
 鳳駅(大鳥大社)から東に1.8kmのところに、行基の母親の生誕地の華林寺(けいりんじ、古名は蜂田寺)があり、大野寺はさらに東に3km先にあります。行基の生誕地である家原寺(えばらじ)は華林寺から北に約1.5km先のところです。


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トルコ・カマン・カレホユック遺跡 世界最古の鉄器を発見

2009年03月26日 | Weblog
 中近東文化センター(東京都三鷹市)が調査しているトルコにあるカマン・カレホユック遺跡で、紀元前2100~同1950年の地層から小刀の一部とみられる鉄器が発見され、岩手県立博物館の分析の結果「世界最古の鋼」であることが26日、分かった。
 鉄器は、中近東の歴史的文化を研究する中近東文化センター(東京都三鷹市)の調査隊が2000年にトルコ・アナトリア半島の同遺跡で発見した。折れた状態で、合わせると長さは5cm程度。錆がひどかったが、切断して断面を調べたところ、小刀の一部とみられることが分かった。
 同センターが1994年に同遺跡で発見し、これまで最古とみられていた鋼(紀元前20-18世紀)を約200年さかのぼることになる。同じ地層から鉄滓(直径約2cm)1個や鉄分を含む石も2個見つかり、同遺跡周辺で製造された可能性が高まった。
 ヒッタイト帝国も同半島にあったとされる。 
 鉄の使用は、ヒッタイト帝国(紀元前14-12世紀)で始まったとされており、通説を覆す結果だとする。
[参考:時事通信、共同通信、朝日新聞]

世界最古の鉄器、トルコで発見 ヒッタイト起源説覆す(朝日新聞) - goo ニュース
世界最古の鉄器か=日本調査隊、トルコで発見-通説覆す可能性(時事通信) - goo ニュース
世界最古の鋼と判明 4千年前、トルコ遺跡の鉄器(共同通信) - goo ニュース

2010.4.3最古の鋼生産か [2010.4.3読売新聞]
 紀元前「2100前~1950前頃の地層から出土した遺物に、鉄器の原料となる鉄鉱石や、製鉄やs精錬の際に出る鉄滓が含まれていることが分かったと報道された。
 1年前の当記事との関連が分からないので調査中。
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鳥取市・本高弓ノ木遺跡 古墳時代の穂摘具が出土

2009年03月26日 | Weblog
 取県埋蔵文化財センターが26日、古墳時代(4~7世紀ごろ)の水田・集落跡とみられる本高弓ノ木遺跡(もとだかゆみのきいせき、同市本高)から、稲など穀物の穂を摘み取るために使われた「穂摘具」が出土したと発表した。
 木製の台に鉄製の刃が差し込まれた、ほぼ完全な形で見つかったのは国内で初めて。
 出土した穂摘具は2点で、ほぼ完全なものが古墳時代中期(5世紀ごろ)の地層から出土。残りの鉄刃が一部しか残っていないものが古墳時代前期(4世紀ごろ)の地層に埋まっていた。鉄器が農具として普及する過程を知るうえで貴重な資料という。
 完全に近い方は、手元側の端に突起のある長さ10・4cm、幅4・1cm、厚さ0・8cmの長方形のカシ、長さ7・2cm、幅1・7cm、厚さ0・1cmの鉄刃が差し込まれていた。もう一方は、長さ8・15cm、幅4・1cm、厚さ0・9cmの平行四辺形のヤマグワの台に、鉄刃の一部が残っていた。2点の形状が異なっていることから、この時代に穂摘具が進化していたことがうかがえるという。
 どちらも手元側に2カ所の穴があり、紐を通して使ったとみられる。
 穂摘み具は九州や近畿地方で100以上出土しているが、いずれも欠落や破損があり、大半は古墳の副葬品だった。今回は、木材が残りやすい多湿の土壌に埋まり、鉄の酸化も進まなかったことから、刃がついたまま出土したという。
 この穂摘み具は30日から4月17日まで、鳥取市国府町宮下の同センターで公開される。
[参考:朝日新聞、産経新聞,、中国新聞]


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高松市・高松城 生駒家の紋瓦が初出土

2009年03月26日 | Weblog
 高松市文化課は19日、高松城跡(同市玉藻町)の天守跡から讃岐国の領主だった生駒家の家紋が入った瓦が出土したと発表した。
 生駒氏が築城した高松城、丸亀城、引田城跡から家紋が入った瓦が出土するのは初めて。
 生駒家は1587(天正15)年、生駒親正が豊臣秀吉に讃岐一国を与えられてから、お家騒動で出羽国(秋田県)の矢島(やしま)に転封になる1640(寛永17)年まで4代54年間にわたり讃岐国の領主を務めた。
 瓦は、天守台南西隅の堀底から出土した瓦類の中から見つかった。左側が一部欠けているが状態はよく、源氏車の上半分を切った「波引車(はびきぐるま)」という生駒家の家紋を簡略化してデザインしている。生駒家の歴史を記した『讃羽綴遺録(さんうてついろく)』によると、生駒氏が豊臣秀吉の朝鮮出兵に加わった際、海を渡る時に陣幕が波をかぶり、当時使用していた家紋「丸車」が半分水につかった。だが戦功を挙げたため、それ以後、半分の形を示す「波引車」が家紋に使用されるようになったという。
 生駒期の天守に装飾用として使用していた可能性が高く、貴重な発見という。
 これまで城内を細かく調査してきたが、松平家の家紋瓦は数多く見つかるものの、生駒家の家紋瓦は全く出土していなかった。松平氏が入城する際、生駒家の家紋の入ったものを徹底的に処分していたのではとみている。
 出土した瓦は21日から4月30日まで市歴史資料館常設展示室、5月1日から来年3月31日まで玉藻公園陳列館で一般公開される。
[参考:四国新聞、朝日新聞]

 生駒氏は、大和国平群郡生駒の出身で、始祖は藤原不比等の次男房前(681-7377)。後裔良房(804-872)のときに大和国生駒庄に住み、以降、家広(?-1501)が尾張国へ移り住む際に、住んでいた地の名を取り生駒姓を名乗るようになる。
 親正(1526-1603)の時、織田信長の臣下となる。信長の死後は秀吉の家臣となり、度々の戦さに参加し武功を上げ、讃岐国17万石を与えられた。関が原の戦いでは、西軍に参加するが、息子の一正が東軍に参加したことから生駒氏の所領は安堵された。当初、丸亀城にいたが、その後居城を高松城に移した。
 高松城は、生駒親正が1588年に築造を開始し、1590年に完成されたとされる。
 1639年、生駒高俊(1611-1659)の時、生駒騒動により出羽国矢島藩1万石に転封となる。
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木津川市・鹿背山城跡 多聞櫓の遺構

2009年03月26日 | Weblog
 同市教委は25日、戦国武将・松永久秀(1510~77)が16世紀後半に山城とした鹿背山(かせやま)城跡で、土塁の上に建てられていた櫓跡や掘立柱建物跡の一部が見つかったと発表した。
安土城など近世城郭では石垣の上に長屋を築く「多聞櫓」が採用されたが、鹿背山城が最古の確認例になる可能性が高いという。
 同城跡は標高136mの山の山頂部分に主郭があり、櫓跡は、城跡のほぼ中央部、南北方向の土塁(長さ約20m、幅4~8m、高さ約1・6m)の南端上で出土した。補強のため、基底部の斜面には石が積まれていた。直径約1mの柱穴跡が3カ所確認され、櫓の規模は、東西4・15m、南北3・75mと推定されている。
 今回の調査では土塁全体の発掘は行われなかったが、柱穴の形状などから、多聞櫓が立っていたとみられる。
 一方、掘立柱建物跡は土塁のすぐ西から6つの柱穴跡が見つかり、東西6m、南北3m以上とみられる。土塁とは緩やかな斜面(長さ約2m)で結ばれており、羽釜や土師器なども出土したことから、鉄砲隊など兵士の宿営場所があったとみられている。
 鹿背山城は南山城地域最大の山城で、木津川に面した標高約136mの山頂に築かれ、3つの主郭を持つ。15世紀後半に興福寺(奈良市)の出城にもなり、16世紀後期に大和を支配した戦国武将、松永久秀が再整備した。
 土塁上に櫓と長屋状の建物を築いた「多聞櫓」は、松永久秀が1560(永禄3)年に整備した多聞山城(奈良市)で取り入れた。
 現地説明会は28日午前10時と午後1時から行われる。問合せは木津川市教委。
[参考:京都新聞、産経新聞、共同通信、朝日新聞]


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加古川市・古大内遺跡 古代山陽道の駅「賀古駅家」と確認

2009年03月25日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館は25日、同市野口町の古大内(ふるおうち)遺跡で奈良時代(8世紀)の主要道路・古代山陽道の遺構が初めて見つかり、「賀古駅家(かこのうまや)」の所在地と確認したと発表した。
 学術調査のため、今月から6カ所(計77㎡)を試掘し、駅家推定地の中心部やや東寄りで、築地塀の溝(幅2m、長さ約3m、深さ60cm)が見つかった。塀は駅家の中心施設「駅館」を囲うように設置されていたとみられる。溝の東30mでは古代山陽道の側溝跡(幅80cm、長さ約10m、深さ50cm)も確認された。
 播磨地方の役所に特有の播磨国府系瓦も溝から新たに見つかった。この瓦の様式から8世紀後半(奈良時代)の溝とみられる。
 文献などによると、駅家は役人らの馬の乗り継ぎや宿泊のため、官道沿い約16kmごとに設置され、全国に約400カ所あったとされる。一般の駅家が常備する馬は5~30頭だったが、10世紀に編纂された「延喜式」には「賀古40疋」の記述がある。博物館は「駅家として、国内最多の馬を抱える規模だった」としている。
 同遺跡は周辺の地名や役所に特徴的な古瓦が出土してきたことなどから賀古駅家跡だと推察されてきたが、駅家に直接結びつく遺構が見つかったのは初めて。
 現地説明会は28日午後1時半から行われる。
[参考:毎日新聞、朝日新聞]
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岡山市・造山古墳 ミサンザイ古墳より築造時期が古い可能性も

2009年03月22日 | Weblog
 3月21日の現地説明会には、「岡山県内外から約400人が訪れ古代ロマンに思いをはせた」と報道がありました。
[参考:産経新聞]

3月20、21日掲載分
 造山古墳(同市新庄下)を調査している岡山大新納(にいろ)教授(考古学)は19日記者会見し、今月1日から始めた発掘調査での成果を発表した。
 3年計画の初年度で、今回は前方部西側、後円部北側を発掘した。
 後円部では地表から1・75m下で人手が入っていない地山を確認し、古墳の長さは、従来の最大360mとの推定からやや小さく350mとほぼ確定した。
 全長約360mで全国3番目の大きさの上石津ミサンザイ古墳(5世紀前半、堺市)と比べ、前方部が未発達である可能性があり、また墳丘斜面の角度との関係から、築造時期がより古い可能性があるとの見解を示した。造山古墳がより古ければ、吉備地方に一時期、全国で最大規模の前方後円墳があったことになる。
 埋葬された人物の権力を知る手がかりとなる周濠の有無は確認できていない。
 両調査地点からは、5世紀前半の円筒埴輪などの破片約500点が出土。多くは中世の層から見つかった。
 現地説明会は21日午前10時~午後4時。問合せは岡山大吉備文化共同利用施設。
[参考:3/20、3/1 読売新聞、毎日新聞、岡山大学HP]



キーワード: 岡山市・造山古墳
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加古川市・人塚古墳 発掘調査を実施 現地説明会3/22

2009年03月21日 | Weblog
 国史跡・西条古墳群の一つ「人塚古墳」(同市山手2)では、加古川市教委文化財調査研究センターにより発掘調査進められているが、その現地説明会が22日に開かれる。
 西条古墳群は、他に「行者塚古墳」(前方後円墳100m)と「尼塚古墳」(帆立貝形古墳 全長52m)の大型古墳3基を中心に形成される。いずれも古墳時代中期(5世紀初頭から前半)の築造とみられる。人塚古墳は帆立貝古墳で全長65m~75mとみられてきた。
 今回の調査は1月初めより、古墳群を史跡公園として整備するのに伴い初めて実施したという。
 調査の結果、後円部は直径60m、高さ12mという。前方部は短いとしているが、全長としてどう加味するのかは不明。葺石の状況や周濠の様子が確認できたとする。円筒埴輪、家形埴輪などの破片が出土し、5世紀前半ごろの築造とする。
 また、堀の斜面から瓦窯跡が出土し、北東に隣接する県史跡・西条廃寺(7世紀~8世紀初頭建立、法隆寺式伽藍配)の屋根瓦を焼いた窯という。
[参考:毎日新聞、加古川市HP]

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桜井市・纒向遺跡 卑弥呼時代の建物群と柵が出土

2009年03月20日 | Weblog
 桜井市教委が20日、邪馬台国の「最有力候補地」とされる纒向遺跡で、卑弥呼(?~248年ごろ)と同時期の3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵が見つかったと発表した。
 今回の調査地点では、78年度に柵と神殿のような建物跡(約5m四方)を確認していた。
 今回の調査は、区域を約380㎡に広げ今年2月から実施し、前回確認した5m四方の建物跡を凸字で囲む柵列を検出した。柵列は更に南北へ伸び、東に折れ曲がっている。柵は南北23m以上、東西9m以上の範囲を囲っていたことが分かった。総延長は40m以上になるとみられる。
 一帯は約100m四方が付近に比べてやや高い地形。大規模に整地され、柵で複雑に区画していた。
 新たな建物跡(南北6m以上、東西は不明)は、前回確認した建物跡の東側5・2mで見つかった。 新旧出土の2棟は、周囲を巡る凸字形の柵(南北の最大幅約26m)の内側にあった。その西側で以前、見つかっていた柱穴は同様の建物跡と分かった。
 過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことも確認した。
 3棟は、西端の一棟がある「外郭」と、凸字形の柵に囲まれた2棟がある「内郭」に分かれた宮殿構造だった可能性もある。
 3棟が高台の西端に位置することから、さらに東へ発掘を進めれば、神殿のような中心的な建物が見つかる可能性がある。
 当時、方位に合わせて計画的に建てられた例は極めて珍しい。このような特異な構造は同時期では例がないといい、王権の中枢施設の一角の可能性があるとする。
 現地説明会は22日午前10時と午後1時から行われる。
[共同通信、産経新聞、毎日新聞、読売新聞]



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大和郡山市・額安寺 宝篋印塔 解体修理・組立が終り750年前の姿が甦る

2009年03月20日 | Weblog
 古刹・額安寺(大和郡山市額田部寺町)で18日、解体修理を終えた鎌倉時代の「宝篋印塔」の組み立て作業があり、約750年前に造られた当時の姿がよみがえった。
[参考:毎日新聞]
過去の記事・情報
 大和郡山市・額安寺 宝篋印塔の矢跡は中国・寧波がルーツ
 伊賀市・霊山寺 石造宝塔 伊行元の作と判明
 東大寺南大門 石造獅子 中国の石材「梅園石」か
 
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福岡県添田町・陣屋遺跡 700年前の火葬に用いた石室墓が出土

2009年03月20日 | Weblog
 添田町教委は18日、同町中元寺の陣屋遺跡が、奈良~鎌倉時代の墓群だったとする調査結果を公表した。
火葬に用いた石室墓などが見つかっており、町教委は火葬文化が九州に広まった時期を推測できる貴重な発見とする。
 昨年10月から同遺跡の発掘調査をしたところ、2基の石室墓や焼却灰を捨てた3か所の「灰原」、平安時代の5基の「土壙墓」が見つかった。このほか、副葬品の碁石や磁器の破片、木棺に打ち付けたとみられる鉄釘なども多数出土した。
 石室墓は方形で、縦1・3m、横1・9m、深さ40cm。複数の石によって周りが囲まれている。中央に棺を置き、その上にまきをくべて遺体を燃やしたとされる。石に付着した炭化物を調べた結果、使用されたのは1290年頃と推測されることが判明した。人骨は見つからなかったが、武士や僧侶のような有力者を火葬したとみられる。
 遺跡がある地域は大宰府政庁の直轄地だったが、その後、大分・宇佐地方の寺社や地元豪族の支配地になったとされる。
 町教委は22日午後1時半から現地説明会を開く。
[参考:西日本新聞、読売新聞]
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津市・山ノ下古墳群 新たに横穴式石室の古墳3基を確認 22日に報告会

2009年03月20日 | Weblog
 津市教委は22日に、山ノ下古墳群(津市安濃町戸島)で行っている発掘調査で確認された古墳について、市民向けの報告会を開く。
 同古墳群は安濃川中流右岸の標高50―60mの丘陵に位置し、計25基の古墳を確認している。80年代から古墳群を発掘しており、01年までに6、7世紀の古墳15基を確認していた。
 今回、市教委は昨年10月から今年2月まで発掘調査を行い、新たに横穴式石室の古墳3基を確認した。
 3基のうち「B20号墳」は、直径14mの円墳で、横穴式石室は長さ6・6m、幅1・1m、玄室(幅1.1m、長さ3.1m、高さ1.7m)は長さ3.5mの通路につながるが、石積みの段差のため、約60cm通路より低かったことを確認した。周辺の6、7世紀の古墳は石室内で、玄室(埋葬する場所)が通路より約60cm低くなっているという。安濃町地域の古墳の特徴が改めて確認されたとしている。
 三基の石室からは、ほかに、鉄製の鏃、須恵器、玉類などが出土した。
 報告会は22日午後1時半から、津市安濃町の安濃中央公民館で。市教委生涯学習課。
 23日からは同市東観音寺町の市安濃郷土資料館で出土品を展示する。
[参考:3/17毎日新聞、3/19伊勢新聞、3/21読売新聞]
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