歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

甘粛省 西夏文字の象棋の駒「士」を発見

2008年03月27日 | Weblog
 甘粛省武威市で、最近、西夏文字が刻まれた銅製の象棋(将棋)の駒が発見された。
 駒は円形で直径2.5cm、厚さは0.4cm。両面にそれぞれ西夏文字と漢字の「士」が刻まれている。西夏文字が記された象棋の駒が発見されたのは初めて。
 象棋の起源は紀元前3世紀頃、インドで考案されたチャトランガという、当時は互いに相手の駒を取り合う戦争ゲームで、1組が5種類、8枚の駒を4角の隅に配置し、4人で争うものであった。その後、欧州に伝わりチェスになり、中国では「象棋」に、さらに朝鮮の「チャンギ」、日本の「将棋」になったと考えられている。
発見の経緯は、1人の古銭収集家が自身の収集した古銭を持って、武威の博物館の文化財専門家の鑑定を依頼したことからはじまった。専門家は、中から1枚の西夏の時期の銅貨が駒に似ていることを見つけた。 [参考:中国情報局、中国新聞網、新華ネット]
備考:
 西夏は唐代(619~907年)初期から勢力を拡大したチベット系のタングート族が1038年に建国。首都は興慶(現・寧夏回族自治区銀川市)。一時は中国北西部を中心にかなり広大な領土を得たが、1227年にモンゴルに滅ぼされた。西夏の時代には、中国には北宋(960~1127)、金(1115~1234)があった。
 西夏文字は11世紀に作られた独自の文字。
 中国の象棋の駒は基本的に円形の銅製であり、古いほど裏面は図像が鋳出されている。今回出土されたものは、図像がなく代わりに、西夏文字と漢字が両面に刻まれている。西夏の民族と漢人の密接な付き合いを示すものと評価される。
 現行の象棋は日本の将棋と同じように2人で戦い合うが、駒は7種類16枚ずつ配置する。(互いの駒は、位は同じでも字が違うものを使用。日本では、8種20枚ずつ) 中国の象棋と日本の将棋がどのような伝来ルートであったか、あるいはその関係があったかについては、資料が乏しくわからないというのが妥当であろうか。
[参考文献]
 「将棋の発生と伝播」 増川宏一   考古ジャーナル 428,1998
 「古式将棋と将棋の伝来」 清水康ニ     同上
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県高取町・寺崎白壁塚古墳 墳丘八角形の可能性

2008年03月12日 | Weblog
 高取町教委は、1997~2002年にかけて渡来系豪族、東漢(やまとのあや)氏の首長墓とされる寺崎白壁塚古墳(7世紀前半)を調査し取りまとめた結果、墳丘の北側と南側の計2か所ですそに角があったことなどが判明し、延長線を結ぶと八角形に復元できるという。墳丘の形が八角形である可能性があることを指摘するとともに、「中国大陸や朝鮮半島の技術を日本にもたらした東漢氏が、先駆的に取り入れたのでは《としている。  八角形墳は桜井市の舒明天皇陵の段ノ塚古墳(7世紀前半)で初めて採用されて以降、多くの天皇・皇太子の墓に採用された。寺崎白壁塚古墳は、段ノ塚古墳と同様、墳丘前方の斜面が台形の基壇状に整備されている点も似ている。
[参考:読売新聞]

■寺崎白壁塚古墳 南斜面に築かれた45m規模の三段築成の多角形墳。南北に46m、東西前面60m、背面30mの台形の基壇(三段)に30m規模の台形の墳丘下段(二段)と16mの方形の墳丘上段(一段)からなる三段築成の古墳と考えられる。 墳丘の南面から真北に向かって花崗岩の切石を組み合わせた内法の長さ2.24m幅1.1m高さ0.9mの石槨に長さ8.8m幅1.6~1.9m高さ1.6mの羨道がつく横口式石槨を検出した。石槨は原則として両側壁、奥壁と天井をそれぞれ一石とし(床面は2石)石材の間には漆喰を補填している。明日香村・真弓鑵子塚古墳(6世紀中ごろ)の西約1km、与楽鑵子塚古墳の直ぐ北西方向にある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中野市・柳沢遺跡 昨年10月・11月に出土した大阪湾型とみられた銅戈7本のうち1本は九州型と判明

2008年03月01日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは、昨年末に同遺跡から出土した「銅戈が形状の異なる2種類があったことを発表した。同時に見つかったのは国内で初めてという。 出土した7本(22~36cm)のうち長さ34cmの1本が、刀に刻まれた「樋と呼ばれる2本の溝が杉の葉のような「綾杉文という文様が刻まれており、 「Vの字形に先端でくっついた九州型。残りの6本は、「ハの字形に先端で離れている大阪湾型であった。 九州型は、広島県、高知県までの西日本で出土する一方、大阪湾型は近畿地方で出土し、同時に出土した例はないという。 また、同時代の祭器「銅鐸《も確認され、銅戈と一緒に出土するのは東日本で初という。いずれも、紀元前2世紀ごろに作られ、紀元前後に埋められたとみられる。
[読売新聞、朝日新聞、共同通信]
 昨年、同遺跡からは銅鐸片2点が出土したが、調査の結果2点は一致することが分かった。周囲の土を落とした結果、胴体部分の鐸身(たくしん)に「流水文があり、上部のつり手の部分に縁があることなどから、比較的古い型の「外縁付紐式(がいえんつきちゅうしき)1式とした。
[信濃毎日新聞 2008.3.1]

<これまでの発見の経緯>
 弥生時代の「銅戈《(大阪湾型)2本出土    2007年10月23日
 銅鐸と銅戈5本、一緒に埋紊 東日本初、長野・柳沢遺跡  2007年11月1日
 新たに青銅製祭器「銅鐸(推定高さ20cm)の破片2点と銅戈5本が見つかった。銅戈はやりの穂先に似た形で、大阪湾周辺で多く見つかっている「大阪湾型とみられる。 → このうちの1本は今回、九州型と分かった(H20.2.28)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする