歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

盛岡市 原敬別邸「介寿荘」跡

2016年05月30日 | 盛岡
盛岡 原敬別邸「介寿荘」跡

昨日(5/29)は、家内の実家の法要があり、法宴の会場をホテル東日本盛岡の日本料理「介寿荘」にて行いました。
「介寿荘」は、政治家・原敬の別邸「介寿荘」の跡地という由来から命名したそうです。
ホテル東日本盛岡と隣接する七十七銀行の北裏には、別邸時代の赤いレンガ塀が残され、圓通(えんず)神社が鎮座しています。
圓通神社の由来と書かれた説明板が赤レンガ塀に掛かっており、下記のように記されています。

圓通神社由来
この地は、原敬(内閣総理大臣 大正7年)の別邸介寿荘のあった所です。
 原敬は、少年時代儒経の根本である漢籍を、青年時代は耶蘇経を、そして晩年はコツコツと仏教を深く研究された方です。
 仏典の2.3は暗記するほど深く研究し、とても信仰の厚い方でありました。又、神社に対しては、深く尊宗を持ち、自分で菩提寺、大慈寺を建立(大正8年)しております。
 原敬の偉大さは、特に兄弟の仲は良く、母に孝養を尽くし、友情に厚く国家本位の政治を行ない、大西郷の遺言の通り美田を求めず、人間原敬の面目全く躍如としております。
 孔子の儒教精神と、西洋の自由思想をほどよく摂取調和し実践した人間の手本とすべき人でありました。
 昭和55年ホテル建設にあたり、時の流れに荒廃していた氏神の一部が出土した事から有志により復元をはかり、無病息災、家内隆盛、子孫繁栄、良縁、商売繁盛、交通安全の守護神として造られた神社であります。
                                         昭和63年8月吉日

当時(おそらく明治後期から大正初め頃)の「介寿荘」の写真は、「蔵から出てきた盛岡 : よみがえる写真乾板 / 伊山治男 編」(東京 : 国書刊行会, 1989.7)に収蔵されています。奈良真順氏の撮影です。
 参考: 2011-07-05 盛岡市・中ノ橋・奈良写真館 宮沢賢治ゆかりの写真館



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伊東マンショの肖像画

2016年05月24日 | Weblog
東京国立博物館本館7室の特別展示「伊東マンショの肖像」で、2年前にイタリアで発見された肖像画が初めて公開されている。(5月17日~7月10日)
同展示室には立派なパンフレットが置かれており無償でいただけるようである。

伊東マンショ肖像画、初公開へ 天正遣欧少年使節


過去のニュース・情報
2014.3.17 天正遣欧使節・伊東マンショの肖像画をイタリア北部で発見
伊東マンショ


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橿原市・瀬田遺跡 弥生時代末期の大型の円形周溝墓見つかる   

2016年05月14日 | Weblog
 奈良文化財研究所が12日、奈良県橿原市城殿(きどの)町の瀬田遺跡で、前方後円墳の原形と考えられている、陸橋を持つ弥生時代末期(2世紀中ごろから後半)の大型円形周溝墓(直径約31m)が県内で初めて見つかったと発表した。陸橋を持つ弥生時代の大型円形周溝は四国や近畿に多いが、奈良県内では確認できていなかった。 周溝から出土した土器から時期を判断した。
 見つかった円形周溝墓は、墳丘は失われていたが周溝ははっきり残っていた。墳丘部の直径が約19m、周溝の幅6~7m、周溝の深さは約50cm。これに長さ約7m(南西部)、最大幅6mの陸橋が取り付く構造。 埋葬施設は見つかっていない。
[参考:奈良新聞、産経新聞、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞]

国内最大級の円形周溝墓見つかる  奈良・橿原の瀬田遺跡、奈文研が調査

前方後円墳のルーツ?奈良に弥生末期の周溝墓跡

前方後円墳のルーツ発見か 奈良で弥生末期の円形墓
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渋川市・金井下新田遺跡 6世紀初頭の網代垣で囲まれた方形区画遺構が見つかる

2016年05月12日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団は11日、同県渋川市の「金井下新田(しもしんでん)遺跡」で、6世紀初頭(古墳時代後期)の火山灰の地層から、平成26年度に確認された囲い状遺構の西側で、網代垣(あじろがき)に囲まれた方形区画遺構とその周辺の祭祀関連遺構が見つかったと発表した。

網炭化した状態で見つかった網代垣は。植物の茎を編んだ高さ約3m、厚さ約30cmの3層構造で、約55m四方の区画を囲み、角材の柱が1.8m程度の等間隔に立っていた。垣の材料はアシなどのイネ科とみられる。近くから祭祀に使ったとされる土器が1000点以上、ビーズ状の臼玉(うすだま)や勾玉計数千点が出土。遺構の中央からは大型竪穴住居も見つかった。当時の首長の祭祀をつかさどっていた政治的な拠点だったとみられる。
[参考:共同通信、上毛新聞、毎日新聞、産経新聞、朝日新新聞、NHKニュース、群馬県HP報道提供資料]

過去の関連ニュース・情報
 金井東裏遺跡

地域首長の政治・祭祀拠点か 渋川・金井下新田遺跡
<金井下新田遺跡>太古のロマンに思い 政治拠点発見 好保存状態に期待 /群馬
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谷川岳天神平 と 史跡 水上石器時代住居跡

2016年05月01日 | Weblog
先週の月曜日(4/25)に、谷川岳天神平に行きました。
天気が素晴らしくよく、爽やかな風が心地よかったです。

天神平展望台よりパノラマ写真

天神平からの帰り道、カーナビに石器時代の史跡が目に入ったので行ってみることにしました。県道から脇道に逸れて登ったところにありました。

石器時代の遺構は、小屋(写真左)の中に保存されており炉跡もありました。(写真中央) 小屋には説明板が掛けられており、下記のように記されています。
「山地上にありて二箇所存す。一は字坂上にあり、昭和10年に発見せられ地下約3尺の處に位置す、河原石を以て略々楕圓形に敷き東西徑約4尺7寸南北徑約6尺4寸を有するものにして稍々中央に長さ約1尺3寸幅約1尺1寸深さ約6寸の石圍ひによる長方形の爐阯を存し南方約2尺3寸離れて甕形土器埋沒せり、一は字大久保にあり昭和12年の発見に係り地下約6尺の下に位置し河原石を以て東西徑約12尺6寸南北徑約10尺の楕圓形に敷き同じく中央に長方形の爐阯を具ふ。両遺構阯及附近より石器、縄文土器を出せり、山地に存する石器時代住居阯として顯著なるものとす。」

また、小屋のそばに別の説明板が立てられており、下記のように記されています。
「史跡 水上石器時代住居跡
今から約3500年前の縄文時代の後期、私達の祖先達はこの周辺に小さな集落を造って暮らしていました。このころは、まだ金属の道具が使われる前の時期で、主に石や土で作れた道具を使っていたことから「石器時代」ともいわれています。このころの人々は、山や川からの豊富な獣・魚・植物などを狩猟採集しながら大自然の中で生活していました。当時の家は竪穴住居が一般的ですが、ここ大字大穴字大久保と字坂上から発見された住居址は、石で囲った炉を中心として、周囲の床面に河原石をきれいに並べて置いた「敷石住居址」と呼ばれるものです。大きさは長径2mと4mほどの楕円形の住居址2軒が、沢を隔てた位置に見つかっています。当時の人々が使っていた深い鉢形の土器や石斧・石皿・矢尻などの石器が出土しています。ここは、太平洋戦争より前に発見されたこと、石を敷いた特別な住居が山奥の中に2軒も隣接してあることによって、国の史跡に指定されました。
昭和19年11月13日指定 みなかみ町教育委員会」

小屋の近くの小高い丘に登ってみると、「開運 大穴琴平神社」と扁額の掛かった神社がありました。(写真右)
斜面には珍しくムスカリが咲いていました。周辺にある石碑には阿部さんの名前が多く刻まれていました。通って来た道にも阿部さんのお墓がありました。家に帰って調べると、湯檜曽温泉は室町時代の始め、奥州の豪族・安部氏の末裔、阿部孫八郎貞次によって発見されたとの伝承があるようです。群馬県には阿部姓がさほど多いわけではないですが、群馬県内ではみなかみ町が一番多いのです。

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