歴歩

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川崎市高津区・蟹ケ谷古墳群 1基が全長30mの前方後円墳と確認

2012年03月31日 | Weblog
 川崎市教委は29日、同市高津区蟹ケ谷の蟹ケ谷古墳群にある1基が、6世紀後半のものとみられる前方後円墳(全長約30m、高さ約2m)と分かったと発表した。市内に現存する唯一の前方後円墳で、権力の大きい豪族の墓と見られる。
 同古墳群では1969年に2基の円墳が、76年にさらに1基、計3基の古墳が確認されていた。
[参考:神奈川新聞、読売新聞]

備考:蟹ケ谷=蟹ヶ谷
 住居表示には蟹ケ谷が使用されているようだ。
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奈良市・春日大社 「赤糸威大鎧(梅鶯飾)」の保存修理が終了し4月から展示

2012年03月31日 | Weblog
 春日大社は30日、国宝「赤糸威大鎧(梅鶯飾)」の修理が終わり、4月1日からの展示を前に報道陣に公開した。当鎧は鎌倉時代後期(13世紀後半)の作品で高さ144cm、重さ約26kg。梅の木に鶯や蝶が舞う装飾金物など、繊細な意匠が施された最高傑作のひとつ。
 春日大社は甲冑修理を国選定技術保持者である小澤正実さんに依頼し、平成23年5月から東京国立博物館で修理を始めていた。
[参考:産経新聞]

2011.3.31 奈良市・春日大社 「赤糸威大鎧(竹虎雀飾)」の保存修理が終了し4月から展示
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橿原市・藤原宮跡 「建部門」に使用した?巨大な礎石2個が見つかる

2012年03月29日 | Weblog
 奈良文化財研究所が28日、橿原市の藤原宮 (694-710) 跡の宮殿の中心・大極殿跡から東約450mの場所で、礎石を据え付けたと見られる柱穴(直径2~4m)が東西に3つずつ、2列あるのが見つかり、さらにその西側で、重量が1トン近くもある大きな礎石2個(幅、奥行き、高さ各約1m)が見つかったと発表した。
 約1km四方を大垣(塀)で囲まれた藤原宮には、東西南北に3カ所ずつ、全部で12ヶ所の門があったとされ、柱穴はこれまで確認された藤原宮の門の跡と柱の間隔が同じことなどから、東側の真ん中の門に当る「建部門(たけるべもん)」(注1)の可能性が高いという。 また、2個の礎石は、都が藤原京から平城京に移された後に一帯が農地となった際、元の位置から動かして捨てられたとみられる。
 建部門は他に5か所で見つかっている門跡から、高さ約1mの基壇上に立つ礎石建物で、規模は幅(南北)25m、奥行き(東西)10m、瓦葺だったとみられる。
 藤原宮の門の跡が見つかるのは6例目だが、柱穴などとともに礎石が確認されたのは初めて。
 現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
[参考:共同通信、NHKニュース、産経新聞、読売新聞]

(注1)建部門: 藤原宮南面中央は朱雀門(一説には、大伴門と呼ばれた)で、東面は北から、山部門・建部門・小子部門が判明している。 宮廷を警護した軍事氏族・建部氏にちなむとされる。
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都城市・王子山遺跡 縄文時代草創期、最古の食用植物遺物を発見

2012年03月27日 | Weblog
 宮崎県都城市教委は26日、同市山之口町花木の王子山遺跡から、約1万3000年前・縄文時代草創期のネギ属の鱗茎(りんけい、地下茎の一種)とドングリの炭化物、土器についたツルマメの圧痕が見つかったと発表した。 食用植物の遺物としていずれも国内最古で、当時は氷河期が終わって気候が暖かくなってきた時期に当たり、植生の変化に対応した縄文人の生活様式がうかがえる。
 山之口小校増改築工事に伴い、2010年11月~11年3月に約280㎡を調査し、縄文草創期~早期(1万1000~7000年前)の集落跡を確認した。火を炊いた跡とみられる炉穴約30カ所の周辺から植物の炭化物が見つかり、これらは、1年をかけて、熊本大学、国立歴史民俗博物館などに分析を依頼していた。
 分析の結果、ドングリ53点、ネギ属の鱗茎68点を確認し、放射性炭素年代測定で、約1万3000年前と判明した。 土器の圧痕も、大豆の原種とされるツルマメの跡と確認された。 遺跡からは石皿や摺り石のような加工具が大量に見つかっており、野草や豆類を擂りつぶしていたと考えられるという。
 ドングリは鹿児島県・東黒土田遺跡で出土したものが最古だったが、ほぼ同じ年代。 ネギ属の鱗茎は宮崎県・別府原遺跡(びゅうばるいせき)、ツルマメは長野県・山の神遺跡の土器の圧痕がいずれも縄文早期で最古だったが、これを大幅に遡る。
[参考:読売新聞、NHKテレビ、UMKテレビ宮崎共同通信、時事通信、毎日新聞]

最古の食用植物を発見=縄文のネギ、マメも―宮崎(時事通信) - goo ニュース

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2011.3.6 都城に縄文草創期の集落、竪穴式住居跡など出土
 都城市教育委員会は、王子山遺跡から、縄文時代草創期(約1万2000年前)と、縄文時代早期(約9000~7500年前)とみられる竪穴住居跡や土器が見つかったと発表した。 県内で縄文時代草創期の集落跡が確認されたのは、上猪ノ原遺跡(かみいのはるいせき、宮崎市清武町)に続いて2例目。
 草創期の集落跡からは、長径2・2m、短径1・5mの竪穴住居跡が確認され、土器の破片や、黒曜石が見つかった。
 近くには火を起こして調理したとみられる配石炉(はいせきろ)があり、中央部には何かを焼いた後の炭化物もあった。
 穴の中に焼いた石を入れ、葉でくるんだ肉を蒸し焼きにする集石遺構の跡もあった。
 氷河期が終わり、暖かくなった1万2000~1万年前頃、日本列島南部の海岸沿いから人が定住するようになったとされている。
 3月中旬まで調査され、校舎を建てるため、埋め戻されるという。 [参考:2011.3.6読売新聞]

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佐賀市・尼寺一本松遺跡 新たに後漢時代1世紀中頃の方格規矩鏡が出土

2012年03月24日 | Weblog
 佐賀市教委は22日、昨年暮れに、甕棺から青銅鏡「雲雷文帯連弧文鏡(うんらいもんたいれんこもんきょう)」(直径約11cm、後漢時代、1世紀中頃)が出土した尼寺(にいじ)一本松遺跡(佐賀市大和町尼寺)で、甕棺墓とともに青銅鏡「方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)」(直径約11cm、後漢時代、1世紀中頃)が新たに見つかったと発表した。 方格規矩鏡の出土は県内では14例目という。
 鏡はほぼ完全な形で出土したが、長い間使用されたあと、意図的に割られ、弥生後期前半・1世紀ごろの甕棺の外側に、添うように埋納されていた。 棺の内側は赤色の顔料が塗られ、小さいガラス玉も出土したという。
出土した2面の鏡は、4月5日から5月6日まで佐賀市大和町の肥前国庁跡資料館で一般公開される。
[参考:佐賀テレビ、朝日新聞]

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 2011.12.27 佐賀市・尼寺一本松遺跡 1世紀代の墓群が見つかり、甕棺のそばから雲雷文帯連弧文鏡が出土
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鳥取県南部町・境矢石遺跡 2200~2000年前の木棺墓跡累計100基を確認

2012年03月23日 | Weblog
 米子市教育文化事業団は22日、「境矢石(さかいやいし)遺跡」(西伯郡南部町境)の丘陵の中腹から裾野にかけた長さ150m、幅70mの範囲に、弥生時代前期~中期(2200~2000年前)の木棺墓跡計100基が確認されたと発表した。長瀬高浜遺跡(東伯郡湯梨浜町)の96基を上回り、同時代の集団埋葬施設としては山陰最大級という。
 2010年3月から調査しており、丘陵中腹で長方形の遺構(長さ0・7~2・3m、幅0・5~1・1m)19基を発掘。うち2基には木棺を支えた石が残っていた。 木棺墓跡はこれまでに81基が確認されていた。
 周囲に大規模な集落があった可能性が高いとみられ、弥生時代の生活様式を知る上で貴重な発見としている。
 現地説明会は24日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:読売新聞]

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 境矢石遺跡
 長瀬高浜遺跡
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松江市・西川津遺跡 漆の原木と漆を貯蔵した土器片が出土 集落で栽培から製品作りまで一連作業

2012年03月22日 | Weblog
 島根県教委が16日、松江市西川津町の西川津遺跡で昨年11月に、弥生時代前期(紀元前3世紀頃)の漆の原木(直径3・7cm、長さ16・7cm)と、漆の樹液を貯蔵していた土器製の壺(高さ8cm)が出土したと発表した。 漆の栽培から漆製品作りまで遺跡内ですべて行っていたことを示す、弥生時代では全国初の例であり、弥生時代の漆文化で、古代出雲が重要な役割を担っていたことが分かる貴重な発見としている。
 漆原木に横方向に掻かれた跡や、漆が手入れなしには育ちにくいことなどから、原木は自生ではなく人が栽培、採取したものとみられるとしている。 こうした原木の発見例はこれまで東日本に集中しており、昨年、福井県若狭町の鳥浜貝塚で見つかった縄文時代草創期(約1万2600年前)の例が最古である。 今回の発見は、近畿以西では最も古い例となる。 弥生時代では長野県の2例に次ぐ3例目だが、西川津遺跡のものが最古であるという。
 また、これまでに縄文時代に漆の栽培・採取、製品作りまでの一連作業を実施していたのは下宅部(しもやけべ)遺跡(東京都東村山市)で見つかっているが、弥生時代では見つかっていなかった。
 一方、貯蔵用土器は、内側や縁に黒色の漆が付着し、採取した樹液を貯蔵したとみられる。 元は壷型だったが、漆を取り出しやすくするため上部は割られたとみられる。
 他に、漆を塗った土器の破片(弥生時代中期)や櫛(弥生時代前~中期)など漆製品も見つかった。
 出土品は、松江市鹿島町の市立鹿島歴史民俗資料館で24日まで一般公開されている。
[参考:2012.3.17読売新聞、朝日新聞、2012.3.23毎日新聞]

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 西川津遺跡
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寝屋川市・讃良郡条里遺跡 滑石製の子持ち勾玉が出土

2012年03月19日 | Weblog
 寝屋川市教委が18日、古墳時代中後期(5~6世紀)に集落が広がっていた寝屋川市新家の讃良郡条里(さらぐんじょうり)遺跡で「子持ち勾玉」が出土したと発表した。 500個以上の小さな玉も同時に出土し、古墳時代の祭祀を考える重要な資料になるとしている。
 今回見つかった子持ち勾玉は緑色の滑石製で全長6・7cm、幅2.8cm重さ69・1g。 上部に紐を通す穴(直径6mm)がある。
 周辺からは、紐穴のある小玉や、板状の双孔(そうこう)円板(直径2~3cm)(注1)10個以上が出土している。いずれも、滑石製。
 現地説明会は24日(土)午後1~3時に開かれる。
[参考:2012.3.19産経新聞、2012.3.23読売新聞]・・・2012.3.23一部追記

(注1)茨城県桜川市高幡遺跡から出土した双孔円板(石製模造品)は、鏡を模したものと説明している。[参考:茨城県教育財団埋蔵文化財部HP]

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2007.1.18
 大阪府文化財センターは17日、四條畷市砂の讃良郡条里遺跡から、近畿地方で最古の弥生土器が多数出土したと発表した。 縄文と弥生の両時代の土器の特徴を併せ持った甕なども見つかり、遺跡の中では縄文土器と弥生土器が共存している。
 九州北部が源流とされる初期の弥生土器に似た形状の壺や甕などが見つかった。縄文土器の影響を受けた「刻目(きざみめ)」と呼ばれる紋様が入ったものもあった。 粘土を帯状に張り付けた「突帯文」と呼ばれる文様がある縄文晩期の土器も一緒に出土しており、縄文から弥生に変わる過渡期だったとみられる。 近畿地方における弥生文化の成立を考えるうえで重要な資料としている。
[参考:読売新聞、朝日新聞]

2005.11.30
 四條畷市、寝屋川市にまたがる讃良郡条里遺跡の古墳時代の遺構で今年、製塩土器、良質の馬具などが見つかった。周辺での発掘成果とあわせて、一帯が古代北河内で営まれた(河内)馬飼の場の中核部分だったことを物語る資料として注目される。
[参考:読売新聞]
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佐久市・周防畑遺跡群 奈良時代・8世紀後半の獣脚風字硯が出土

2012年03月18日 | Weblog
 長野県埋蔵文化財センターは17日、佐久市長土呂、塚原の「周防畑(すぼうばた)遺跡群」と、長野市桐原の「浅川扇状地遺跡群」の奈良時代の両遺跡から、8世紀後半に作られ、当時の役人が使っていたとみられる硯(すずり)がそれぞれ1点出土したと発表した。遺跡所在地の近くに役所が置かれ、地域の中心地だったことを示す貴重な資料としている。
 2006年7月に「佐久市周防畑遺跡群」から発見された硯は長さ11cm、幅7cm、高さ3・9cmの須恵器の破片で、底の部分に獅子をかたどった脚が1本付いていた。復元すると長さ17・5cm、幅17cm、高さ3・9cmの「獣脚風字硯(じゅうきゃくふうじけん)」と呼ばれる硯になるという。
 獣脚の付いた硯は7世紀までに見られるが、8世紀以降には出土していない。また、国内では8世紀後半~9世紀前半には硯の形が「風」の字に似ている「風字硯」が一般的。 硯は窯に入れる際、上にすると灰などの釉薬がかかるため、表面を下に向けて焼くのが一般的。今回の硯は表面に釉薬がかかっており、当時の佐久郡の役人が地元の窯に発注し、試行錯誤して作ったのではないかと推測している。
 一方、長野市桐原の「浅川扇状地遺跡群」の竪穴住居から昨年4月に出土した硯は、直径約16cmの円形で筆を立てるための穴が空いている。
 出土品は、5月13日まで県立歴史館(千曲市屋代)で開かれる企画展「長野県の遺跡発掘2012」(中日新聞社後援)で展示している。
[参考:信濃毎日新聞、中日新聞、読売新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.1.21 佐久市・西近津遺跡群 「美濃国」刻印の須恵器が出土
 2008.8.12 佐久市 西近津遺跡群 現地見学会 9/7
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高松市・船岡山古墳 四国最古級の円筒埴輪が出土

2012年03月17日 | Weblog
 高松市教委は、徳島文理大学と共同で発掘調査を続けている同市香川町の「船岡山古墳」(全長45mの前方後円墳)で、四国最古級のものとみられる円筒埴輪が大量に見つかり、前方後円墳の形状などから、古墳時代前期の3世紀後半のものあると発表した。
■ 前方後円墳は全長44mで、前方部が3世紀後半の特徴である三味線のばち状に開いた形をしている。
■ 東側に比べ、西側が石を列状に並べて裾を区画する精巧な造りで、集落があった西側からの眺望を意識していたとみられる。 構造は平らに削った土地に盛り土をした後、石を積み上げ、その上にさらに盛り土をしており、讃岐地方で主流の「積石塚」と、畿内などで一般的な盛土だけの古墳とを併せた様式の可能性がある。
■ 円筒埴輪は高さ60cm以上、直径30cmほどと推定され、透かし穴の形は三角形や巴形で、突起で区切った段ごとに4つ以上並ぶ。 透かし穴が円形で1段に二つ並ぶ4世紀のタイプと異なる。
■ 同時期の石清尾山古墳群(同市峰山町など)とは古墳の特徴が異なることから、高松平野には有力者の勢力が二つ以上あったと考えられる。
 現地説明会は20日(火祝)午前10時~正午に開かれる。 雨天の場合、24日に延期。
[参考:2012.3.15 NHKニュース、2012.3.17毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.9.26 高松市・船岡山古墳 全長45mの前方後円墳ともう一基からなる古墳群と判明
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赤穂市・有年牟礼・山田遺跡 兵庫県内最大級の方形周溝墓が出土

2012年03月17日 | Weblog
 赤穂市教委は16日、同市有年牟礼(うねむれ)の「有年牟礼・山田遺跡」で、弥生時代後期末~古墳時代初頭(2世紀後半~3世紀前半)の方形周溝墓2基が見つかったと発表した。 弥生中期以降の方形周溝墓は岡山県内ではほとんど見つかっておらず、また、同遺跡から西約1・1kmの有年原・田中遺跡では23年前に、弥生時代後期(2世紀頃)の円形状の大型墳丘墓が見つかっており、近畿で盛んに築かれた方形周溝墓と中四国でみられる円形状墳丘墓が近くに位置するのは、この地域が文化交流あるいはせめぎ合いの拠点であったのではないかとしている。 さらに、田中遺跡で見つかった円形状の墳丘墓は前方後円墳のルーツとも考えられ、方形周溝墓よりも以前に造られていることから、有年周辺の墓制が、弥生時代後期末以降は近畿の様式に変わっていった可能性があると考えている。
 今回発見された方形周溝墓2基のうち規模の大きい1基(19・5m×15・4m)は、県内では洲本市の寺中遺跡(じちゅういせき、長辺20・9m)の方形周溝墓に次ぐ大きさという。 周溝は幅2~2・6m、深さは20~50cmで、中からは盛り土を補強していたとみられる人頭大の石が多数出土した。下層からは新たに、墓と同時代の甕などの土器片4点が見つかった。
 また、86~88年の発掘調査で同遺跡から見つかった土器を復元したところ、3点の内2点は讃岐、河内(生駒西麓)産の壺だったことも新たに判明した。
 現地説明会は20日(火祝)午後1時半から開かれる。
[参考:赤穂民報、神戸新聞、読売新聞]
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福岡県福津市・手光波切不動古墳 金銅製馬具や円形透かし穴のある祭祀用土器が出土

2012年03月16日 | Weblog
 福津市教委は15日、同市手光(てびか)の「手光波切不動(てびかなみきりふどう)古墳」(7世紀)から、沖ノ島の祭祀遺跡からの出土品と類似する須恵器片、金銅製馬具の一部などが出土したと発表した。 金銅製馬具の出土は、同じ津屋崎古墳群の中では宮地嶽古墳、勝浦井ノ浦古墳に次ぎ3例目。 宮地嶽古墳は、地方豪族の首長「胸形君徳善」の墓とされており、手光波切不動古墳にも胸形君に相当するクラスの有力者が埋葬されていた可能性が高まったとしている。
 地層断面から、金銅製鞍金具の一部(約20cm)を確認した。 ほかに、鉄製鐙、轡、腹帯留金具の一部など、馬具が多数出土した。
 また祭祀用土器である須恵器製の器台とみられる破片(4~12cm)5点も出土。一部には沖ノ島の祭祀遺跡(宗像市)の出土品に特有である、飾りとみられる円形の透かし穴があった。 津屋崎古墳群から沖ノ島との関連をうかがわせる祭祀用土器が出土したのは初めてという。

 手光波切不動古墳(直径約20mの円墳か方墳)は胸形君一族の墓とされる津屋崎古墳群(5~7世紀)60基の一つで、宮地嶽古墳から約1・5km南東に位置する。 両古墳は古墳時代終末期の築造で、横穴式石室を持つ内部構造も共通している。(石室の長さは手光波切不動古墳10.8mに対し、宮地嶽古墳は23m。)
 日本書紀(注1)には大海人皇子(天武天皇)妃の父として胸形君徳善が記され、その墓は宮地嶽古墳と考えられている。
(注1)「日本書紀」天武天皇二年(673)二月丁巳朔癸未《廿七》 天皇命有司。設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮。立正妃爲皇后。々生草壁皇子尊。先納皇后姉大田皇女爲妃生大來皇女與大津皇子。次妃大江皇女。生長皇子與弓削皇子。次妃新田部皇女。生舎人皇子。又夫人藤原大臣女氷上娘。生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘。生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大甦娘。生一男。二女。其一曰穗積皇子。其二曰紀皇女。其三曰田形皇女。天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女。次納胸形君徳善女尼子娘。生高市皇子命。次完人臣大麻呂女擬媛娘。生二男。二女。其一曰忍壁皇子。其二曰磯城皇子。其三曰泊瀬部皇女。其四曰託基皇女。
[参考:西日本新聞、毎日新聞、読売新聞]
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滋賀県湖南市・岩瀬谷古墳群 6世紀後半の古墳5基と、うち3基から中世に彫られた矢穴を発見

2012年03月15日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が14日、大砂川流域に点在する古墳時代後期(6世紀ごろ)のものとされる岩瀬谷古墳群(湖南市正福寺)の調査で、6世紀末頃の横穴式石室を備えた古墳5基を確認し、そのうち出入り口が開いていた3基の石室の東側で石を割るために彫り込まれた「矢穴」が彫られた花崗岩が発見されたと発表した。
 矢穴があった石室の中からは、鎌倉から室町期にかけて使われた黒色土器の茶碗や土師器の皿など計約10点ほどが見つかり、たき火の跡も残されていたため、穴の形状や遺物から、中世(13世紀から14世紀)の石切り場だったと判断した。
 岩は高さ約2mで、矢穴(長さ約15cm、深さ8~9cm)はそのほぼ中央に約1mの間隔で、横向きに上下2列(上段に7つ、下段に6つ)に彫られていた。 同古墳群周囲には円光寺(同市菩提寺)など中世期の石塔などを備えた寺社が10以上あり、関連をうかがわせるという。
 ほかに、古墳の石室内や周辺からは土器、鉄器や銀の象嵌を施した刀の鐔(つば)など140点が出土した。
[参考:京都新聞、中日新聞]

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 2008.12.17 大和郡山市・額安寺 宝篋印塔の矢跡は中国・寧波がルーツ
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天理市・西山古墳 国内最大の前方後方墳の謎を解明のため、墳丘の測量を開始

2012年03月14日 | Weblog
 天理大学と国際日本文化研究センター(京都市西京区)の研究チームは、西山古墳(全長183m(注1)、4世紀築造)の形や構造を明らかにし、謎の解明につなげようと、3次元レーザースキャナーを用いた立体的な画像で古墳を再現する研究を始めた。 15日までの3日間で測量を行う。
[参考:NHKニュース、奈良新聞、天理大学考古学・民俗学研究室HP]

(注1)天理市のホームページでは全長190mとしている。

過去の関連ニュース・情報
 2010.8.18 大和古墳群にある前方後方墳7基を焦点にした文化財展が始まる
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埼玉県鳩山町・新沼窯跡 国内最大級の瓦窯跡を確認 武蔵国分寺の瓦を製造

2012年03月14日 | Weblog
 鳩山町教委は13日、同町泉井(いずい)の新沼窯跡(しんぬまかまあと)(注1)から、新たに24基の窯跡が確認されたと発表した。 1959年に立正大学の調査で2基の窯跡が発見されており、合わせて26基となる。 奈良時代に聖武天皇の勅命(741)で建てられた「武蔵国分寺」(東京都国分寺市)創建時の瓦を焼いた窯と見られ、今のところ確認できている瓦窯跡の数(注2)では国内最大級としている。
 26基の窯は、いずれも同じ斜面に作られており、幅約80mの狭い範囲に集中している。 古墳時代から平安時代に作られた「須恵器」を作るための、トンネル状の原始的な構造で、入り口に段をつけるなど須恵器用の窯を瓦用に改造した跡や、瓦を一度に多く焼くために奥を拡張している痕跡もあり、武蔵国分寺の瓦を生産するために須恵器工人が工夫していた様子がうかがえるとしている。
 窯跡からは、武蔵国分寺でも見つかっているものと同じ文様の鬼瓦も出土している。 瓦に豊嶋郡の「豊」、秩父郡の「父」など、当時の郡名が刻まれた郡名瓦が出土しており、武蔵国二十一郡のうち十三の郡名と四つの郷名が確認された。
 奈良時代後半に同寺の瓦作りを目的に、20~30年の短期に操業していたとみられる。
 町教委は、作られた瓦は後世に鎌倉街道上道(かみつみち)となる古代道を通って国分寺まで運ばれたと推定している。
 南比企窯跡群(みなみひきようせきぐん)を国の指定遺跡とするための調査を昨年6月から続けている。
 現地見学会が17日(土)午前10時と午後1時の2回にわたり開かれる。

(注1) 奈良・平安時代の遺跡群・南比企窯跡群(鳩山町、嵐山町、ときがわ町)を構成する遺跡の一つ。
(注2) 茨城県石岡市の瓦塚窯跡や香川県三豊市の宗吉瓦窯(むねよしがよう)跡では24基が見つかっている。

[参考:共同通信、東京新聞、読売新聞、鳩山町HP]

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 武蔵国分寺
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