歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

亀岡市・国分古墳群 両袖式横穴式石室が見つかる

2009年07月31日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが30日、同市千歳町の国分古墳群で、6世紀後半(古墳時代後期)の築造とみられる両袖式横穴式石室1基や、7世紀(飛鳥時代)の小石室1基が見つかったと発表した。同古墳群で確認された古墳は、これで計62基となった。
 横穴式石室は全長7・6m、幅は最も広い部分で1・6m。玄室と、そこにつながる通路の一部に石が敷き詰められていた。玄室内や石室の周辺からは、須恵器や馬具の一部とみられる鉄製品、耳飾りなど計13点の副葬品が出土した。
 小石室は全長1・2m、幅0・5mで、棺を載せたとみられる楕円形石が三つ残っていた。
 また、同古墳群の西に接する蔵垣内(くらがいち)遺跡からは、今回の調査で2世紀ごろ(弥生時代後期)の一辺6mの竪穴住居跡1基や、多量の石や鉄の滓(かす)を埋めた中世の土坑4基などが見つかった。
 現地説明会は8月1日午前10時から行われる。
[参考:京都新聞]
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橿原市・観音寺本馬遺跡 縄文時代の土壙墓の四隅に杭

2009年07月31日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が30日、観音寺本馬遺跡で、土坑の四隅に木製の杭を打ち込んだ縄文時代晩期(約3千年前)の土壙墓が見つかったと発表した。杭は墓を掘り返して、家族や血縁者ら一族を同じ場所に埋葬するための目印として、当初から計画して墓を造ったとみており、類例がなく貴重な史料とする。
 土壙墓16基は東西約30m、南北約20mの範囲に集中し、そのうち3基から人骨13体が発見され、四隅の杭は6基で確認された。
 土壙墓はほぼ長方形で、長さ1・3~1・5m、幅80~90cm、深さ30~40cm。杭は成人や乳幼児ら複数の人骨が埋葬された3基すべてで確認され、遺体を複数回に分けて埋葬した跡と見られる。杭の太さ5~10cm。長さは1・2~1・5mあったと推測されている。
 人骨はいずれも縄文人の特徴を備え、うち1体からは、上の前歯2本を斜めにフォークの先のように研磨した「斜状研歯(けんし)」が確認された。呪術者の特徴とされ、集落の中心人物だったのではないかとする。斜状研歯が見つかったのは津雲貝塚(岡山県)に次いで2例目という。
 ほかに、石製のペンダントなども出土した。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]

過去のニュース・情報
 橿原市・観音寺地区遺跡 土器棺墓から縄文時代の4歳前後の幼児の骨発見
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青森県西目屋村 水上(2)遺跡 縄文時代の「石棺墓」が14基出土

2009年07月29日 | Weblog
 県埋蔵文化財調査センターは、2005年度から発掘している西目屋村砂子瀬地区の水上(2)(みずかみ2)遺跡で、縄文後期(約4千年前)の石棺墓14基を確認、さらに増える可能性もある。石棺墓は県内各地で出土しているが、これだけまとまっている例はほとんどなく、一帯が一定の期間、特殊な性格を帯びた葬祭の場として使われた可能性があるとみている。
[参考:東奥日報]
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韓国・忠州下九岩里 新羅古墳群を発掘中、現地説明会を実施

2009年07月28日 | Weblog
 今年6月10日に国立中原文化財研究所は、新羅時代最大遺跡地の1つである可金面(가금면)下九岩里古墳群(하구암리 고분군)一帯の分布状況に対する精密実態調査とGPS測量を完了させ、本格的な発掘を開始すると発表したが、本日7月28日(火)、午後1時30分より発掘調査現場で、説明会が開かれた。
 25、27、28号墳の3基を標本として発掘調査。
 古墳3基は皆、南側傾斜面方向に羨道を現わす地上式横穴式石室墳である。
 封土の流失を防ぐために1段の護石がある。
 傾斜面に位置した27・28号墳は封土周辺に溝が作られている。
 稜線の峰に位置した25号墳は棺を安置する玄室の周囲に割り石を使い、1m以上の厚さで補強して、封土を水平に重ね重ねに固めてあげて玄室を密封した版築状態が確認された。
 出土遺物は短脚高杯(짧은굽다리접시)、台付長頚壺(굽다리긴목항아리)の土器類を主として、25号墳の屍床では金銅製腰帯装飾とイヤリング1組が出土した。
 これらの遺物は、2008年に調査した楼岩里古墳群(6世紀中~後半)の出土品と似た様相を帯びているという。
 今後、下九岩里古墳群全域にかけて、実態調査と標本発掘をする予定。
[参考:聯合ニュース]

過去のニュース・情報
 韓国・忠州下九岩里 新羅古墳群の発掘を計画
 忠州楼岩里古墳群を発掘 「本軌道」


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蒲郡市・上ノ郷城跡 大量の盃が出土、鵜殿氏一族の結束の儀式に使用か

2009年07月24日 | Weblog
 蒲郡市教委および同市博物館は22日、上ノ郷城跡(同市神ノ郷町)の第4次発掘調査で、主要な建物のそばから何枚も積み重なった状態で土師器の盃が出土していたことなどを発表した。
 盃群は、四隅に10cmほどの石を配置した掘り込み(50cm×60cmの方形、深さ10cm)の中で発見され、直径8~12cmの土師器の盃20枚以上が丁寧に置いたように積み重なっていた。ごみ捨て場ではなく、建物のそばから発見されたため、一族の結束を誓う儀式で使用したとみられると推測している。
 室町時代から戦国期にかけ4代にわたって鵜殿氏が居城した同城は、徳川家康に攻められて落城した。今回出土した小皿群が、死を覚悟した一族による別れの盃である可能性もある。
 現地説明会が、25日午前10時から開かれる。
[参考:東日新聞、東愛知新聞]

過去のニュース・情報
 上ノ郷城跡 虎口付近から金銅製飾り金具が出土
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彦根市・佐和山城 武家屋敷の堀と紐金具を発見

2009年07月23日 | Weblog
 滋賀県教育委員会は23日、戦国武将・石田三成の居城「佐和山城」の遺跡(彦根市佐和山町)から、武家屋敷跡の堀を発見したと発表した。秀吉が用いた「桐紋」をかたどった銅製紐金具などが見つかった。佐和山城の実態を初めて明らかにする貴重な史料とする。
 遺構は、江戸時代後期に描かれた「佐和山城絵図」(重文)に「侍屋敷」と記された北東側の山裾「奥ノ谷」で出土。今回の調査では幅2~3mの堀が見つかった。堀は東西約250m伸び、その堀から約20~30m間隔で溝を南北に伸ばし7区画以上に区切っていたとみられ、橋を支える杭や門柱のような木も残っていた。城郭周囲の武家屋敷は堀で区画される例が多く、今回の発掘はその実例といえる。
 一緒に出土した土器類の年代から、1590年~1600年に佐和山城主だった三成の時代のものとみられる。
 また、堀などから見つかった桐の文様をかたどった銅製の紐金具は、箱の留め金の一部(縦5cm、横3・7cm)とみられ、皇室の菊紋代わりに用いた「五三桐(ごさんのきり)」が刻まれていた。
 堀跡から、大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、珍しい陶磁器も出土し、豊臣秀吉の甥で関白を務めた秀次の失脚後、三成は秀次の家臣を多く抱えたとされ、県教委は「この屋敷に住まわせたのだろう」としている。
 佐和山城は京都と東北を結んだ陸路と琵琶湖の湖上交通の要衝にあり、石田三成が、天下統一の戦略拠点として修築した。関ヶ原の合戦で三成が敗れた後、城は解体され、彦根城の建築に使われた。
 現地説明会は26日午前10時、午後1時半の2回。(雨天決行)

■佐和山城: 戦国時代に近江の六角氏と浅井氏が争奪を繰り広げ、織田信長も攻略した。石田三成の入城は1590年で、1600年に関ケ原の戦いで三成が敗北して3日後、落城した。徳川家康の家臣・井伊直政が城主となり、彦根城築城に伴って1604年に廃城となった。
[参考:時事通信、産経新聞、京都新聞]]
武家屋敷の堀と紐金具発見=石田三成の居城跡-滋賀(時事通信) - goo ニュース

佐和山城年表
鎌倉時代 佐保氏(宇多源氏・佐々木定綱(1142-1205)の子・時綱が佐保氏を名乗る)が築城したとされる。
戦国時代 浅井氏の支城となる。浅井氏の家来・磯野員昌が城主となる。
元亀年間(1570-1573)  磯野員昌(生没不詳)が織田信長と戦う。
1571 磯野員昌が降伏し、代わって織田信長の家臣・丹羽長秀(1535-1585)が入城する。
1582 本能寺の変後の清州会議で、戦功のあった堀秀政(1553-1590)に与えられる。
    その後、堀家の転封に伴い堀尾吉晴(1544-1611)が入城した。
1590 五奉行の一人石田光成(1560-1600)が入城した。


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八幡市・備前遺跡 弥生後期の大型竪穴住居跡2棟を確認、大規模集落か

2009年07月23日 | Weblog
 八幡市教委は22日、同市八幡南山の備前遺跡の発掘調査で、弥生時代後期(2~3世紀)の竪穴住居跡が見つかったと発表した。
 同遺跡ではこれまでも住居跡が見つかっており、大規模な集落が形成されていた可能性がある。
 調査した場所は、洞ケ峠に連なる尾根の先端部分で、平地から約30m高い丘陵地。出土した竪穴住居跡は方形の2棟分。住居を取り囲む溝や柱穴の跡などを確認した。うち北側のものは、南西部の半分を検出、一辺が約7・5mで、通常は5~6m程度の方形住居としては大きい。炉跡が3カ所あり、単なる住居ではなく何らかの共同の作業場があったとみている。南側の住居は西辺の一部が確認され、甕2個のほか、食器に使う鉢や供え物を置く器台、高坏が1個ずつ、床面に放置されたような状況で出土した。
 今回の調査地から南西350mの場所でも、同時期の竪穴住居が見つかっている。
[参考:京都新聞]



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小田原市・小田原城跡 八幡山遺構群第5次調査 遺跡見学会

2009年07月23日 | Weblog
 昨年度に引き続き県立小田原高等学校グラウンド整備工事に伴う確認調査で、小田原城跡八幡山古郭の「西曲輪」から、昨年度発見された本曲輪北堀と三味線堀の延長部分が新たに発見された。本曲輪北堀は幅20mを超える巨大な堀であったことが判明した。
 また、本曲輪北堀の埋め土の中から、古墳時代前期(4世紀中葉~後葉)の壺形埴輪が出土した。周辺に古墳の存在は知られておらず、壺形埴輪の出土は未知の古墳が山頂部付近に存在したことを示唆するものであり、小田原市内および西湘地域では埴輪として初めての出土となるという。
 遺跡見学会は下記の通り行われる。
日時:平成21年7月25日(土)および・26日(日) 午後 13:30~15:00 (小雨決行、荒天時は中止)
場所:神奈川県小田原市城山3-26-1 (財)かながわ考古学財団 小田原城跡八幡山遺構群発掘調査現場
[参考:(財)かながわ考古学財団]

過去のニュース・情報
2008.10.24小田原城跡八幡山遺構群 第4次調査(障子堀)遺跡見学会
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氷見市・稲積川口遺跡 7世紀の柄つきの馬鍬が出土

2009年07月23日 | Weblog

稲積川口遺跡出土馬鍬。 「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて2011.6.14撮影

 氷見市教委は22日、昨年9~11月に同教委が調査した稲積川口遺跡(同市稲積)から、7世紀前半の農耕具、馬鍬がほぼ完全な形で出土したと発表した。北陸三県では初の出土、柄の部分も付いた状態での出土は全国初という。馬鍬は、田植え前の水田で牛馬に引かせて代かき作業をするための農具。
 柄は地面に水平に付いていた。長さ117・5cmのクリの木の台木に代かきをする木製の歯(60cm、装着状態で45~47cm)が11本、柄は2本あるうちの1本(52cm、同43cm)が付いていた。現在近くを流れる余川川の七世紀ごろの河道が見つかり、農耕具として使用後、川の護岸材に使われたとみられる。水中につかっていた状態が長かったため、腐食を免れたらしい。
 柄が地面に水平に付いたものは、馬鍬の歯が鉄製になる奈良~平安時代にほぼ消滅したとされる。地面と垂直に付いた柄のものは、1960年頃まで各地で使われた。
[参考:読売新聞、中日新聞]
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明日香村・石神遺跡 迎賓館の門が瓦葺は、迎賓館以前6世紀初めの寺院跡?

2009年07月23日 | Weblog
 奈良文化財研究所が今年の2月12日に、飛鳥時代の迎賓館とされる明日香村の石神遺跡で、7世紀前半-中ごろの掘っ立て柱建物跡2棟や別の建物の周辺を巡るとみられる溝跡が見つかったと発表した。
 遺跡の東端から、南北に延びる掘っ立て柱塀(長さ約25m)や建物跡(南北5.4m、東西8.1m)、瓦が大量に埋まった溝(長さ約16m、幅1.5m、深さ20cm)などが見つかった。
 掘っ立て柱建物から南に向けて塀の跡が延びていた。東側は幅16-17・5mの通路に面しており、建物は門と推定した。いずれも東門だったようで、溝跡からは大量の屋根瓦が出土。数十年間で3回建て替えられ、最盛期の斉明天皇(在位655-661年)の時代に瓦葺になったらしい。一緒に出土した土器から時期は7世紀前半~中ごろと推定。
 瓦が多数出土したが軒先に飾る瓦はなく、棟の周囲だけ瓦葺にし、後は檜皮(ひわだ)などをふいたのではとみている。
 宮殿に瓦が使われるのは694年の藤原宮(同県橿原市)が最初とされる。寺を除くと、その50年近く前の瓦葺建物は極めて異例。石神遺跡中央部でも瓦葺建物は見つかっていない。
 そして14日には現地説明会が行われた。
[参考:2009.2.12 共同通信、日経新聞、朝日新聞]

 今日23日、産経新聞では、「(前記の)迎賓館の東門と推定した建物跡は、その後の調査で7世紀前半の遺構からの出土と判明。瓦も飛鳥寺や豊浦寺の瓦に次いで古い奥山廃寺式と分かり、620~630年代の建物と特定された。」と報じた。
 さらに、国内で普及が始まって間もないころの寺院だったとみられるとする。
[参考:2009.7.23産経新聞]

初期寺院の創建時期
 飛鳥寺:6世紀末~7世紀初頭
 豊浦寺:7世紀初め
 奥山廃寺:620~630年

過去のニュース・情報
 2009-02-12 明日香村・石神遺跡 迎賓館の門が瓦葺?
 [参考] 石神遺跡の瓦/奈良文化財研究所紀要No.2004(2004.6) (奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部・花谷浩)
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ロシア・沿海地方で高句麗あるいは初期渤海の遺物を初めて発見、陶磁器破片に「道隆弘知」の文字

2009年07月22日 | Weblog
 東北亜歴史財団と釜慶大、ロシア科学アカデミー極東支部が昨年に続き、ロシア、沿海州豆満江付近ポシエト(Posyet)湾周辺にあるクラスキノ城(塩州城、염주성)発掘現場で20日間の共同遺物発掘作業の結果、高句麗時代のものとみられる遺物が初めて発見された。
 沿海州を含む極東ロシアの一部地域が高句麗の支配下にあったという記録はいろいろな文献に出てくるが、考古学的遺物が発見されたことはなかった。

遺物の概要
①住居地2ヶ所と市場などが立ち並んでいた跡とみられる3ヶ所で、せいろ(시루、蒸し器)、陶磁器破片、腰帯、農機具、瓦窯の焼き跡など遺物が多量に出土した。
特に発掘現場1角の深さ約2mの地点で、かまどとせいろなどが出土し、壁面には住居跡であることを示す黒い帯が現れ、初期渤海または高句麗時代の住居跡だった可能性を見せている。
②周囲1.2kmの城跡では、石で地盤を固めて土で覆った土石混築方式の城跡と、城門を防御する甕城(おうじょう、옹성)が発見され、高句麗の伝統的な築造方式のため、この城は高句麗時代の城か高句麗の築造方式をまねた初期の渤海の城とみられる。
③今回の発掘現場では、「道隆弘知」、「世」、「面者」と書かれた陶磁器破片が発見された。
道隆弘知という字は、壊れた陶磁器の中に落書きした形で残り、この字は陶磁器に陰刻されたため渤海の遺物発掘現場で四字の字が一度に出てきたことは非常に異例だ。ある関係者は「日本側発掘団は、道隆弘知が日本人僧侶でその人が渤海に文物を伝播したと主張するが、渤海は日本に34回使節を送ったのに、日本はせいぜい15回の使節を送ったという日本側記録をみると、話にならない説」と一蹴した。
④一方、この城の井戸の場所では契丹の土器が発見され、この城が契丹により滅ぼされた可能性が推定されるため、また、城郊外周辺に女真族古墳200基余りが発見されることにより、この城の主人が高句麗(?)-渤海-契丹-女真族に変わったとみられる。
[参考:聯合ニュース]

渤海(ぼっかい、698年 - 926年)
 中国の東北地方東部・沿海州・朝鮮北部を領土として栄えた高句麗族・靺鞨(まっかつ)族の国。698年震国を建てた大祚栄(だいそえい)が713年唐により渤海郡王に封ぜられ渤海と称した。唐文化を輸入、日本とも頻繁に通交した。都は国都の上京竜泉府(黒竜江省東京城)をはじめ五京(ごけい)があった。926年契丹(遼)に亡ぼされた。(goo辞書より)

過去のニュース・情報
2007.11.16 渤海の遺跡調査で金の装飾品を確認、古代石川と密な交流
 金沢学院大美術文化学部文化財学科の小嶋芳孝教授らは、8―9世紀に今の中国や北朝鮮、ロシアにまたがって栄えた国「渤海」の考古学調査で、金のかんざしや指輪など当時の繁栄がうかがえる貴重な品を初めて確認した。能登や加賀の港を経由して古代石川との交流が深い場所で出土した多様な遺物から、活発な交易が裏付けられたことになる。
 遺物の主な出土地は、塩州城の遺跡「クラスキノ城跡」。当時は延長約1400mの壁で囲まれた中に役所や住居がある港町だった。
 渤海と当時の日本は互いに使節を派遣して物や情報を交換しており、塩州城と越前国加賀郡の郡津(金沢市の畝田・寺中遺跡とされる)、能登国羽咋郡福良津(志賀町福浦港)を行き交う航路は特に盛んに利用された。
 小嶋教授は約10年前からクラスキノ城跡の発掘調査に加わり、昨年10月にロシア科学アカデミー極東支部と共同調査の協定を締結。今年3月、同支部から国内で初めて渤海出土品約30点の化学分析を委託された。
 調査した結果、出土したかんざし3点は銅製で、1点は金メッキが施されていたことが分かった。同じような品は渤海でもわずかな遺跡からしか見つかっておらず、初出土となった金メッキの指輪と合わせ、対外交流で富を得るなどした人物がいた可能性が大きいという。
 唐の古銭や、のちに渤海を滅ぼす契丹の民族が使っていた帯金具など、他国との接触を示すものも見つかり、小嶋教授は「クラスキノ城跡は日本や唐の文化が入り交じったにぎやかな港町だったのではないか」と推測している。
[参考:2007.11.16北陸新聞]

追記
2010.3.3 沿海州・渤海城 発掘調査報告書を発刊
 2007年からロシア科学アカデミー極東支部歴史/考古民俗学研究所と共同でクラスキノ土城(塩州城、염주성)を発掘している東北亜歴史財団は、ロシア側と一緒に2008年度の発掘成果をまとめて『2008年度沿海州クラスキノ渤海城バルヘソン韓ロ共同発掘調査報告書』を最近発刊した。
 報告書によると、城跡から高句麗式土器が出土し、高句麗の村に基づいて建設された可能性が大きいこと、また、住居から出土した土器の底から「道隆弘知」と書かれた銘文は、「道隆」と「弘知」が仏教の普遍的価値を表現したものである可能性が高いとしている。
[参考:聨合ニュース]
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「藤原定家筆歌合切」の一部、俊成女の歌を書き取った新しい断簡を発見 800年の謎が解明

2009年07月20日 | Weblog
 鎌倉期の歌人で新古今和歌集の選者、藤原定家(1162-1241)が、定家の姪で当時を代表する女流歌人、俊成女(むすめ)(1171-1254?)の歌を書き取った新しい断簡(原本の1ページ)が旧伯爵家の旧蔵品から見つかった。この断簡は、途中で文意が途切れ、長年、意味不明とされていた東京国立博物館(略称:東博)所蔵の「藤原定家筆歌合切(うたあわせぎれ)」の一部と判明した。
 東博の歌合切は、後鳥羽院歌壇を率いた藤原俊成(1124-1204)の養女が、やはり新古今集の選者だった夫の源通具(みちとも、1171-1227)と結婚後の蜜月期に2人だけで行った詠み比べを、定家が書き留めて批評している。定家が若いころの数少ない自筆の書で、王朝風の流麗な書風に特徴があるという。
[参考:産経新聞]
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奈良県吉野町・上岩倉遺跡 平安時代後期の塔の基壇を確認 宝塔院跡か

2009年07月19日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所などの測量調査で18日、吉野町の金峯山寺(きんぷせんじ)の南東約3kmの山中にある上岩倉遺跡で、平安時代後期の塔の基礎部分とみられる土壇が確認されたことが分かった。
文献史料では承保3(1076)年に白河天皇が石蔵寺宝塔院を建立したと記され、宝塔院跡の可能性が高いという。
[参考:産経新聞]
(写真は、宝塔院跡説明板のある場所からやや降ったところから、金峯山寺を撮影したもの。2006年4月撮影)

過去のニュース・情報
 金峯山寺
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阿南市・宮ノ本遺跡 古墳時代中期~後期の集落跡を確認

2009年07月18日 | Weblog
 04年度から発掘調査を行っている「宮ノ本遺跡」(同市長生町宮ノ本)の6年目となる調査で、縄文から弥生時代への移行期の住居跡、鎌倉時代の荘園跡などを発見した。
 本遺跡は縄文時代から室町時代にかけて継続した集落遺跡で、古墳時代後期(6世紀)と鎌倉時代に2度の隆盛があったとみられる。古墳時代後期については、須恵器、土師器などの土器のほか、勝浦川以南の県南地域で初となる竪穴式住居の集落跡も出土。鎌倉時代の荘園とされる「竹原庄」の跡も見つかった。
■平成21年度の発掘調査の成果
 6軒の竪穴住居跡を検出した。05年度の調査で検出した2軒を合わせると、8軒の竪穴住居で集落を形成していることがわかった。これは、古墳時代中期~後期(6世紀半ば~7世紀前半)の竪穴住居跡で、この時期の集落は勝浦川以南では初の確認例である。
 竪穴住居跡群は桑野川に沿って東西にやや長く分布している。出土遺物の時期差や位置関係などから、最大4軒ほどの竪穴住居跡で構成される規模の集落が建て替えを繰り返しながらおよそ100年間にわたって営まれてきたと考えられる。
 竈は7軒の竪穴住居跡で残存しており、いずれも住居の北辺に造りつけられており概ね北西に主軸をもつ。いずれの竈も使用頻度の高さがうかがえる。
 05度の調査で確認された竪穴住居跡のうちの1軒では鍛冶行為があったことが確認でき、さらに今年度確認された竪穴住居跡では砥石が出土したことから、集落内で小規模な鍛冶(村方鍛冶)が行われていたことと考えられる。
 説明会が午前10時~正午に行われる。(雨天決行。)
 宮ノ本遺跡は桑野川の左岸に位置し、桑野川および那賀川の堆積作用により形成された沖積平野上(標高3.3m前後)に立地する。
 04年に始まった発掘調査では縄文時代晩期~弥生時代前期の竪穴住居跡が確認された。縄文時代晩期の住居内からはサヌカイト製の石器、弥生時代では磨製石斧や打製石庖丁など農耕に関連した遺物やミニチュア土器などが出土している。
 また、鎌倉~室町時代の掘立柱建物跡を中心とした集落も確認された。これらは平安時代末に成立した「竹原庄」と関連づけられる集落が展開していると考えられ、さらに青磁・白磁などの輸入陶磁器や和泉・東播・備前などの交易をうかがわせる土器が出土した。
[参考:毎日新聞、徳島県埋蔵文化財センターHP]

竹原庄
 竹原庄は左大臣藤原頼長(1120-1156)の領地であったが、頼長の死後、後白河上皇の後院領に編入された。阿波誌に「昔為 名藍地。方八町領 竹原領」とあり、仁和寺末の隆禅寺が管理した。
 長寛元年(1163)9月25日付の文書(八桙神社寄進状)には「本家一院(後白河院)領家左大臣藤原基実(1143-1166)」とある。
 承元3年(1209)8月、後白河院から前仁和寺門跡守覚法親王(1150-1202、後白河院の第2皇子、母は藤原季成の娘)に伝領された。
 文永8年(1271)普門寺領となった大野本庄、宝荘厳院領の大野新庄外2庄を合わせて「竹原5箇庄」と言われるようになった。
 他の2庄とは岩脇、南島、岡、中原とされており、もう一つは古庄、柳島の地としている。
[参考:阿南市HP]



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加古川市・古大内遺跡 「賀古駅家」の門の礎石・唐居敷を発見

2009年07月18日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館(播磨町大中)は17日、奈良、平安時代に都と太宰府を結ぶ古代山陽道沿いの中継施設「賀古駅家(かこのうまや)」跡とされる古大内遺跡(加古川市野口町古大内)で駅家表門に続く進入路を初確認し、「唐居敷(からいじき)」と呼ばれる門の礎石を発見したと発表した。唐居敷が見つかったのは同県上郡町の落地(おろち)遺跡に次ぎ全国で2例目。
 賀古駅家は奈良時代以前に整備された古代山陽道沿いに設置され、奈良、平安時代に貴族らの宿泊施設などとして利用されたという。
80m四方の築地塀で囲まれ、馬40頭がいる日本最大の駅家だったとされる。
 今回の調査では、駅家東辺の南寄りの部分を発掘。見つかった道が東辺と直交して東に延び、山陽道と直交することから進入路と判断した。この結果、賀古駅家は東辺に表門を持つ構造と判明した。
 唐居敷は、表門跡とされる場所から西約60mの大歳神社境内で発見。約70年前の同神社の社殿建築の際、表門跡から運んだとみられ、ほかの礎石20個とともに庭石に使われていた。落地遺跡の野磨駅家跡(上郡町)から出土した唐居敷よりひと回り大きいという。
 礎石は、地元で産出される竜山石(凝灰岩)。2個ともほぼ同じ大きさで、縦115~130cm、横60~85cm、厚さ40~50cm。それぞれ「軸摺穴(じくすりあな、礎石に掘り込まれた扉の軸受け穴)」と「方立穴(ほうだてあな、扉との隙間を埋めるための木材を立てる穴)」とみられる方形の穴が2つあった。間口約10m高さ約5mで、開閉式の扉2枚が付いていたと推定している。
 礎石の大きさなどの特徴から、賀古駅家が「八脚門」と呼ばれる格式の高い大きな門を備えていたとみられる。
 20日午後1時半から現地説明会があり、8月8日午後1時半~3時半、同館講堂で調査報告会が開かれる。
[参考:共同通信、神戸新聞、産経新聞]
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 賀古駅家
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