歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

富山県立山町・剱岳 3ヶ所の雪渓で氷河を発見か

2011年12月31日 | Weblog
 富山県立山町芦峅寺の立山カルデラ砂防博物館が11月15日、立山連峰の主峰・雄山(3003m)東側斜面の御前沢(ごぜんざわ)雪渓と剱岳(2999m)近くの三ノ窓雪渓、小窓雪渓の計3か所で氷河とみられる氷の塊を確認したと発表した。 正式に氷河と認定されると、日本で初めての発見で、さらに、これまで南限とされていたカムチャツカ半島よりさらに南限となる。
 日本にも、1万2000年くらい前までは氷河があったとされているが、間氷期に入り、氷河は残っていないと考えられていた。
 氷河ができる条件は、気温が低く、夏に多量の雪が降ること。
 氷河を確認できたのは、小型の観測機器が開発されたおかげという。
[参考:11.16北日本新聞、11.24読売新聞、12.31共同通信]

追記
2012.4.6
 読売新聞の朝刊で、「立山連峰にある全長400~1200m、厚さ30m前後の三つの氷の塊が、国内初の氷河として日本雪氷学会に認定された。」と報じられた。 三つの氷の塊とは前述の三ヶ所の雪渓のとおり。

関連情報・ニュース
 剱岳(剣岳)

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長浜市・塩津港遺跡 平安時代末期の津波による痕跡か、一様に北側に傾いた柱跡が見つかる

2011年12月30日 | Weblog
 滋賀県長浜市西浅井町(注1)の塩津港遺跡(しおつこういせき)で、平安時代後期の神社跡から見つかった柱の多くが湖面とは逆の北側に傾いていたことが滋賀県文化財保護協会の発掘で分かった。 元暦2年(1185)8月(注2)に起きた地震(M7超)により琵琶湖で津波が発生し、湖岸の波が押し寄せた可能性があるという。 湖周辺にも多数の活断層が存在し、「方丈記」などの文献(注2)から、地震の発生はこれまでも指摘されてきたが、発掘で琵琶湖の津波とみられる痕跡が確認されたのは初めて。
 同協会によると、神社跡から11世紀半ば~12世紀末の門柱(直径約15cm)など約20本が見つかった。 地上部分は大半が欠けており、長さは地中に埋まっていた部分を含め約50cm。ほとんどが一様に約5~10度北側に傾いていた。
 また、2008年度に神社の周りにあった堀の北側で5体の神像が出土した件(注3)については、神像も津波で流され、堀に埋まったのではないかとみている。
 神社跡の地表の標高は 現在の琵琶湖水面より90cm(注4)ほど低いため、当時あった神社は 平安末期から江戸時代までの400年間に堆積した層がなく、神社は大地震による地盤沈下で湖底に沈んだと推定されるとしている。
 また、神社跡は湖岸から約100m内陸に立地し、神社跡の至る所で 地震による液状化で砂が地上に噴き上がる「噴砂」跡が見つかった。 液状化に伴う軟弱地盤の沈降が起きた可能性もある。
 これらの現象は、堅田断層などが活動して起きたと可能性があるとしている。
[参考:12.24中日新聞、12.29スポーツ報知、産経新聞]

(注1)2010年1月1日に、伊香郡西浅井町は長浜市西浅井町になった。
(注2)元暦二年(1185)七月九日(新暦8月13日)の大地震のこと
 『愚管抄』に、「午の時ばかり、なのめならぬ大地震ありき。古の堂のまろばぬは無し。(略)」
 『吉記』に、「午の刻大地震。洛中然るべきの家築垣皆頽れ、舎屋或いは顛倒、或いは傾倚す。打ち襲わるる死者は多く聞く。今度の地震に於いては殃に遇ざるの人無し。去る月二十日(注a)以後すでに以て連々、今日大動以て外□数十度、万人魂を消すものなり。(略)」
 『吾妻鏡』7月19日の条に、「地震良久。京都去九日午剋大地震。得長壽院。蓮華王院。最勝光院以下佛閣。或顛倒。或破損。(略)」
 『玉葉』に、「午刻大地震、古来雖有大地動事、未聞損亡人家之例、仍暫不騒之間、舎屋忽欲壊崩、(略)」
 『方丈記』に、「又同じころ(元暦二年(1185))かとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。(略)」
(注a)『吾妻鏡』元暦二年(1185)6月20日の条に、「天陰。夜半大地震。一時中動搖及數度」
 『玉葉』 同上に日に、「今夜子刻大地震4 4 4 、不異治承之例、可恐々々」
と予兆らしきものの記述がある。

 『吉記』7月29日の条に、「(略)。地震なお止まず。」
 『吾妻鏡』8月27日の条に、「午剋。御靈社鳴動。頗如地震。(略)」
 『方丈記』には、先の文章に続いて、「(略)。おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。(略)」
と余震が続いたことが記されている。

(注3) 2008.11.11 滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安時代の神像 5体出土
 平安末期―鎌倉初期の公卿・内大臣中山忠親日記「山槐記」には、近江地方で1185年に大地震が起き、琵琶湖の水位や水流も急変したと記されている。遺跡に近接する日吉神社(西浅井町月出)では、神像が高波で流されたとの伝承も残る。また遺跡は、現在の琵琶湖の基準水位より約1.5m低い。この地震で本殿が倒壊したのではないかと考えている。

(注4) (注3)では、遺跡は現在の琵琶湖の基準水位より約1.5m低いとしていたが、今回、遺跡の標高は 現在の琵琶湖水面より0.9mほど低いとしている。

過去の関連ニュース・情報
 塩津港遺跡

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宣寧郡嘉礼里 2千500年前の大型支石墓2基を発見

2011年12月29日 | 韓国の遺跡・古墳など
 宣寧郡は28日、嘉礼面嘉礼里(의령군 가례면 가례리)で住民情報により現場調査の結果、青銅器時代・2千500年前の大型支石墓(고인돌)2基を発見したと発表した。
 1号墓: 横3m、縦3.4m、高さ1.6m、40t
 2号墓: 横1.4m、縦2.6m、高さ1.3m
1号墓には、農耕のための星座跡と知られる性穴(성혈、星穴)が12個確認されており、宜寧地域で確認された支石墓中最大という。
[参考:聨合ニュース]

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佐賀市・尼寺一本松遺跡 1世紀代の墓群が見つかり、甕棺のそばから雲雷文帯連弧文鏡が出土

2011年12月27日 | Weblog
 佐賀市教委は26日、同市大和町尼寺(にいじ)の「尼寺一本松遺跡」(マンション建設予定地)で、弥生時代後期前半(1世紀代)の墓群(甕棺17基、石棺3基)が見つかったと発表した。
 墓群からは、祭祀で使ったとみられる多数の土器類が見つかった。
 甕棺の一つは内側が朱色に塗られており、この甕棺に添うように、故意に打ち付けて割った跡がある直径約11cmの青銅鏡「雲雷文帯連弧文鏡(うんらいもんたいれんこもんきょう)」が出土した。 文様から中国の後漢時代中期(1世紀中頃)の製作とみられる。鏡の裏面も朱色に塗られていた。同型の青銅鏡が発見されたのは県内で14例目だが、甕棺の副葬品としては初めてという。 地域の首領クラスか呪術者の墓の可能性が高いとみている。
[参考:佐賀新聞、読売新聞、朝日新聞、サガテレビ]
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東京文京区・水神社

2011年12月26日 | Weblog
水神社(すいじんじゃ) 文京区目白台1-1-9



 鳥居の右横に水神社の説明板が立っている。
 説明板には下記が書かれている。
「祭神は、速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)(注1)、応神天皇。創建の年代は明らかでない。『江戸砂子』には、「上水開けてより関口水門の守護神なり」とある。
 わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水(もんと)(注2)が開いた。井頭池からの流れを目白台下の現大滝橋のあたりに堰(大洗堰)を築き、水位を上げて上水を神田、日本橋方面に通じた。
 伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我 水伯(すいはく、水神)なり。我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町のことごこく安泰なり。」と告げたので、ここに水神を祭ったという。
 上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかなかんだ上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後ろには目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。
文京区教育委員会          昭和58年3月」

 江戸名所図会の「水神社、八幡宮」の挿画には、一棟の社殿に水神社、八幡宮と記されて描かれている。
 さらに、
■水神社
(略) 竜穏庵別当たり。上水の守護神を祀らん為に、北辰妙見大菩薩を安置す。祭神は罔象女(みづはのめ)(注1)なり。(略)
■八幡宮 同じ社地にあり。往古より鎮座といふ。下の宮と称し、椿山八幡宮とも称せり。(略)
 と、書かれている。

(注1)江戸名所図会では、日本神話における水の女神・罔象女(みづはのめ)が祭神となっているが、現在は、罔象女に代わって、速秋津彦命、速秋津姫命の男女二神が祭神となっている。 日本書紀では、罔象女の表記は「みつはのめ」である。
(注2)大久保藤五郎忠行(?-1617)のこと。三河国出身。家康の家臣。家康の江戸入府に際し上水道の開設を命じられ、のちの神田上水のもとになったものを見立てたとされる。その功により代々主水を名乗る。ただし、水が濁らないようにという縁起をかついで「もんと」と称したという。谷中の慈雲山瑞輪寺(日蓮宗)に大久保忠行の立派な墓が建てられている。 瑞輪寺は1591年の創建で、開基大檀越は徳川家康という。 最初は、日本橋馬喰町に建てられたが類焼のために神田に移転(1601)。 その後再び類焼したため、慶安二年(1649)に現在の地、谷中に再建された。したがって、大久保忠行の墓は、瑞輪寺が神田にあった時に、建てられたことにる。


 この神社を訪れたのは、12月20日。 その日に行われた、小日向一・二丁目南遺跡の現地説明会の後、神田川を沿って高田馬場駅まで歩いた。 その途中、まだ黄色く色づいている大きなイチョウの木が見えた。 それが、水神社の境内の生えている夫婦のイチョウの木であった。 樹齢は約300年とか。

 境内の階段を昇り切ると祠に近い小さい社殿がある。 それでも、瓦葺で、内削の千木(女性神)と3本の鰹木(男性神)を備えている。
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茨城県大洗町・磯浜古墳群 車塚と姫塚で発掘調査 23日に現地説明会

2011年12月23日 | Weblog
 大洗町は同町磯浜町2883-1番地ほかにある「磯浜古墳群」の車塚と姫塚の墳丘や周濠の範囲・構造の確認調査を実施しており、その成果報告(現地見学会)を23日に開く。
 磯浜古墳群は1949年に発見され、4世紀頃に造られ日下ケ塚(ひさげづか)(全長約106mの前方後円墳)、車塚(直径95mの円墳)、坊主山(ぼちゃのやま)、姫塚の4つから成る。
 町が2年ほど前、約60年ぶりに測量調査を開始し、車塚と姫塚の両古墳については今年8月から掘削を行い調査している。
 車塚古墳は周溝も含めると全長約120m。今回の調査で埴輪列が三段にわたって飾られていたり、葺石が施されていることがわかった。この地域に相当な有力者が存在したことをうかがわせるという。
 姫塚古墳は全長約30mで古墳時代の始まりごろの墓。今回の調査で、近畿圏由来の底が丸い小型丸底土器1点が破片をつなぎ合わせると完全な形(直径11・5cm、高さ約5cm)になる姿で出土した。古墳の墳頂部分に飾って祭祀を行った土器らしい。同様の出土例は東日本でも報告例が少なく、県内では出土が極めて少ないという。年代は4世紀初頭の可能性という。
 現地説明会は23日(金・祝)、午前10時~、午後2時~ 計2回(小雨決行)に開かれる。
[参考:茨城新聞、東京新聞、大洗町HP]

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東京台東区・聖徳寺 玉川用水開削の玉川兄弟の墓所

2011年12月22日 | Weblog
ようめいさん してんのういん せいとくじ
浄土宗 用明山 四天王院 聖徳寺 増上寺末 (東京都台東区松が谷2-3-3)


 「再校江戸砂子」(菊岡沾凉、明和7年(1770))(参考資料1)によると、
 創建年代は不詳だが、聖徳太子の高弟・聖実清公上人が今の江戸城の西、坪根沢に聖徳太子を開基として一寺を草創し、聖徳太子の像を安置した。 これが本当であれば、飛鳥時代の創建となる。
 享徳2年(1453)に忠蓮社加誉上人良祐和尚(?-1459)が浄土宗寺院として中興した。(注1) 開山・第一世住職となる。 徳川家康の関東入符(天正18年(1590))翌年に坪根沢(局沢、江戸城西、今の吹上御苑辺り)から平河へ移り、その後大船町(本船町、現日本橋室町、日本橋本町)へ、慶長12年(1607)馬喰町への移転を経て、明暦3年(1657)の大火で類焼後、当地松葉町(現、松が谷)へ移転した。

 本尊は阿弥陀如来座像(本堂)。 先の聖徳太子像と同じか否か不明だが、秘仏に聖徳太子作と伝わる聖徳太子立像(長さ2尺7寸(81cm))がある。左右に四天王を脇侍とする。
 末寺に公春院(荒川区南千住)と天然寺(文京区本駒込)がある。
(注1) 参考資料2によると、以前は天台宗寺院であったらしい。聖徳太子信仰に深く関わる由緒ある寺院としている。

 興味深い話がある。
 台東区東上野6丁目にある浄土真宗・龍飛山法善寺に安置され、台東区登載文化財に指定されている木造法然上人立像である。
 この法然上人立像は、寛文11年(1671)に制作されたもので、像高73.5cm。像内には、古文書3点と厨子入り小仏(木造阿弥陀如来)1躰が納められていた。古文書のうち、2点は寛文11年7月15日の日付があり、法然上人像の造立に関わった167人の名を記した結縁交名状(けちえんきょうみょうじょう)で、他の1点は、小仏の由来を記したものであった。
 小仏は、像高6.2cm。損傷がはなはだしいが、鎌倉~室町時代に制作された阿弥陀如来立像である。
 像内の古文書、あるいは法善寺に伝わる他の古文書によれば、本像は、寛文11年に聖徳寺十五世満蓮社行誉が中心となり造立したという。元は聖徳寺にあった像であったのだ。
 その後、千住小塚原(現、荒川区南千住付近)栄安寺の什物となり、明治初期に栄安寺が廃寺となったため、同26年(1893)法善寺に納められたという。
[参考:台東区HP→台東区文化財、「法然上人木像の辿った数奇な運命/佐々木美冬」浄土第72巻5号(平成18年6月1日発行)(参考資料2)]

 さて、聖徳寺の山門前には、「水の恩人 玉川兄弟顕彰碑」と書かれた石柱が立ち、その隣には玉川兄弟の説明板が立てられている。
「東京都指定旧跡
玉川庄右衛門および清右衛門墓
所在 東京都台東区松が谷二丁目三番三号 聖徳寺内
指定 昭和十八年五月
 玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水の開削工事の請負者で、江戸の町人と言われてその出身地は明らかではない。玉川上水の開削工事は、四代将軍家綱の承応二年(1653)一月十三日に幕命が下り、二月十一日に着工された。工事費として幕府から七五〇〇両が下賜されたという。羽村から四谷大木戸に至る四十三キロの導水部は、承応三年(1654)六月二十日に完成した。その後給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ四谷・麹町・赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋方面に及んでいる。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術の水準を今日に伝える貴重な文化財である。近世都市江戸の水道施設建設の功績により、兄弟は200石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。また玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。兄の庄右衛門は元禄八年(1695)に弟の清右衛門は翌年の元禄九年に死去した。明治四十四年(1911)政府は、玉川兄弟の功績に対して従五位を追贈した。
  平成三年十月三十一日
                             東京都教育委員会」

 境内に入ると、本堂前左側再び説明板が立てられている。
「玉川庄右衛門と清右衛の門墓 (都指定旧跡)
台東区松が谷二丁目三番三号 聖徳寺
二基の墓石のうち、向かって右側が庄右衛門の墓。笠付きの角石墓塔で、梵寺の下に楷書で[玉川本家先祖代々の墓]とあり、さらに次の戒名が刻んである。
隆宗院殿贈従五位正誉了覚大居士
向かって左側が清右衛門の墓。先の尖った角石墓塔で、梵寺の下に楷書で次の戒名が刻んである。
摂取院殿贈従五位光誉照山大居士
従五位は、明治四十四年(1911) 六月、政府により追贈されたもの。両墓石は大正十二年(1923)の関東大震災で破損したが、昭和十二年(1937)、有志によって修復された。
平成十九年三月
                              台東区教育委員会」

 墓の最上部には、丸に根笹の家紋が刻まれている。 実は、玉川上水の「水番所」が置かれた四谷大木戸のそばにある笹寺と呼ばれる曹洞宗長善寺の屋根の瓦当にも根笹の変り紋が使われており、気になっている。

 さらに、大きな石碑が建てられ、碑面には下記のように刻まれている。

玉川氏兄弟墓碣復興記念碑
東京市水道玉川上水ノ創設者贈従五位玉川庄右衛門同玉川清右衛門兄弟両氏ハ距今二百八十餘年承應元年幕府ノ命ヲ承ケテ水道開設ノ事ヲ督セル江戸町奉行神尾備前守ノ推挙ニ依リ江戸府中ニ上水導引ノ計晝ヲ命セラルルヤ全力ヲ盡シテ其ノ堪能ナル水理ヲ究明シ鋭意調査ノ結果武州羽村ヨリ多摩川ノ水ヲ取入レ江戸四谷大木戸迄導水スヘキ計ヲ樹テタリ幕府ハ大ニ之ヲ喜ヒ両氏ニ其ノ工事ヲ掌ラシメ翌二年四月四日水路疏鑿ノ工ヲ起シ同年十一月十五日完成ス是レ即チ玉川上水路ナリ而シテ文化未タ進マサリシ當時ニ在リテハ測量器械ナカリシ為路線ノ位置高低等ハ線香ト提燈ノ火光ヲ利用シテ専ラ夜間ニ測定し又工事ハ高井戸村附近近ニ至リ工費ニ不足ヲ來シタルヲ以テ遂ニ家産ヲ投シテ之ヲ続行シタリト云フガ如キ其ノ献身的ノ努力ト犠牲的ノ苦心ハ蓋シ想像ノ及ハサル所ナルヘシ宣ナル哉幕府ハ深ク両氏ノ功ヲ賞シ各禄二百石ト玉川ノ姓ヲ賜ハリ上水役ヲ命シタリ 爾来多摩ノ清水ハ凛々トシテ市中ニ脈流シ五郡八十四箇町村ヲ併合シテ大東京ノ殷賑ヲ見ルニ至リタル今日ニ於テモ尚大部分ノ地域ニ封シ給水能力ヲ発揮スル多摩川水系隨一ノ淵源トシテ依然活用セラレ帝都ノ繁栄ヲ養フテ其ノ惠千載ニ亡ヒス
畏クモ明治四十四年六月一日兄弟ノ勲功ヲ思召サレ特ニ従五位ヲ追贈セラル両氏ノ餘榮亦大ナリト賜フヘシ今茲玉川兄弟墓碑復興後援會ハ塋域ノ改築竝墓碣ノ復興成ルト共ニ墓側ニ記念碑ヲ建テ以テ兄弟両氏ノ功績ヲ不朽ニ傳ヘムトス寔ニ近代ノ美舉ナリ乃チ其ノ請ヲ諾シ略叙スルコト此ノ如シ
 昭和十二年丁丑春三月
                    水道研究會理事長 井上秀二 題額
                    水道研究會理事   大堀佐内 撰書」
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岐阜市・織田信長公居館跡 約3000㎡に及ぶ巨大庭園跡を発見

2011年12月21日 | Weblog
 岐阜市教委は20日、岐阜公園内の「織田信長公居館跡」の第4次発掘調査、池の遺構や建物跡など庭園の全体像が判明したと発表した。池の面積は約120㎡、居館跡一帯が約3000㎡に及ぶ巨大な庭園であったことが確認されたという。
 今回は金華山ロープウェー乗り場の東地点約300㎡を対象に、過去に掘っていない箇所を調査した。15日までの発掘調査で、約120㎡の池の遺構と排水路(幅約30cm、長さ約2m)の跡が確認されたほか、池に隣接して建物の礎石とみられる石や焼けた壁土が見つかった。
 また、池や建物の東側にある谷川沿いでは幅1・8m、長さ20m以上の石敷きの通路も見つかった。通路西側の護岸は石垣ではなく、庭石のようなもので石組みされていた可能性が高い。通路は緩やかなスロープで、付近にあったと推測される信長の居館まで谷川を眺めながら行き来できたとみられる。
 宣教師ルイス・フロイスが残した著書『日本史』の内容と矛盾しないとしている。
 23日午前10時から正午まで、ロープウエー乗り場東側で現地説明会が行われる。
[参考:岐阜新聞、中日新聞、読売新聞、毎日新聞、岐阜市HP]

過去の関連情報・ニュース
 織田信長公居館跡
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東京文京区 小日向神社

2011年12月21日 | Weblog
小日向神社(こびなたじんじゃ) 文京区小日向2-16-6
ご祭神は、建速須佐之男命(氷川大神)、誉田別皇命(八幡大神)。


 氷川神社は、天慶三年(940)春、常陸国大豫の職にあった平貞盛が、この地方を平定し、その報賽として現在の水道2丁目の日輪寺の上の連華山に建立した。
 八幡神社は貞観三年(860)の創立で旧社名を田中八幡宮と称し音羽町九丁目(現、文京区音羽1丁目)に鎮座していた。
 明治2年9月に氷川神社と八幡神社を当地(服部権太夫屋敷跡)に合祀し、同4年に地名を以って小日向神社と改称した。


 「江戸名所図会」(注1)の恵日山金剛寺(注2)の図会を見ると、金剛寺の左に本法寺、さらに左に日輪寺が見え、日輪寺の上には氷川明神社(神社)が鎮座している。日輪寺と氷川神社は階段で繋がれており一体であったようだ。その氷川明神社(祠)については、「慈照山日輪寺といへる禅林にあり。祭神は当国一宮に同じ。(略)中古太田道灌の再興にして、小日向の鎮守なり。(略)」と記されている。明治の初年に神仏混淆を禁じられたため、氷川神社は前述の服部権太夫屋敷跡に移ることになったわけである。
 日輪寺を訪問すると、本堂内の左に氷川神社と書かれた提灯が飾られていた。日輪寺と金剛寺はともに曹洞宗寺院で駒込吉祥寺の末寺であった。
(注1)「 江戸名所図会」(斎藤長秋、莞斎、・月岑の著、天保年間(1830-184)に斎藤月岑が刊行)
(注2)昭和25年に中野区上高田に移転した。
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臼杵市・下藤地区共有墓地遺跡 十字架を刻んだ石造物を発見

2011年12月20日 | Weblog
 臼杵市教委は19日、同市野津町原の「下藤地区共有墓地遺跡」内にある安土桃山時代から江戸時代初期(16~17世紀)の国内最大級のキリシタン墓地で、十字架を刻んだ屋根型石造物を発見したと発表した。墓地内で、ほぼ完全な形の十字架が初めて見つかり、キリシタン墓地であることが裏付けられた。
十字架を刻んだ墓標の石組み遺構がこれまでに37基だったものが、新たに17基見つかった。 54基の墓標は後世の破壊をほとんど受けていない。
 十字架を刻んだ遺構は板状の石(80cm×90cm、厚さ15cm)。 十字架はキリストがはりつけになった十字架を表す漢字の「干」に形が似た「罪標付き十字架」で、縦15cm、横10cm。
 キリシタン墓地以前に現地にあった仏教施設の石造物の部材を転用したらしい。
[参考:大分合同新聞、西日本新聞、毎日新聞、読売新聞]


過去の関連ニュース・情報
  2011-05-21 臼杵市・下藤地区共有墓地遺跡 16世紀後半から17世紀初めのキリシタン墓地が完全な形で発掘
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関市・笠屋石塚遺跡 奈良時代の鍛冶作業跡と住居跡が見つかり、「美濃国」と刻印された須恵器が出土

2011年12月17日 | Weblog
 関市教委は、同市鋳物師屋(いもじや)笠屋の笠屋石塚遺跡から、奈良時代の鍛冶の作業場跡1基(南北2・8m、東西3・2m)と竪穴住居跡14軒分などが見つかり、「美濃国」と刻印された須恵器などが出土したと発表した。
 鍛冶遺構は、重竹遺跡(下有知)に続いて同市では2例目という。
 刻印された須恵器は小破片で、「○濃国」とあった。岐阜市の老洞古窯跡(おいぼらこようせき)で作られたと考えられる。
 現地説明会が18日(日)午後1時半から開かれる。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.2.26 岐阜市・岩田西遺跡 「美濃国」と刻印された奈良時代(8世紀)の須恵器の破片2点が出土
  老洞・朝倉須恵器窯跡(岐阜市芥見)で生産
 2010.1.21 佐久市・西近津遺跡群 「美濃国」刻印の須恵器が出土
  老洞古窯跡(岐阜市芥見)で生産

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大野城市・古野遺跡 丘陵から24基の小規模方墳と円墳(群集墳)を発掘、四禽文鏡も出土

2011年12月16日 | Weblog
 大野城市教委は15日、同市乙金2、3丁目の古野遺跡の丘陵から24基の小規模方墳と円墳(群集墳)を発掘し、1基からは県内3例目の銅鏡「四禽文鏡(しきんもんきょう)」や県内4例目の青銅製鈴などが見つかったと発表した。
 丘陵の最も高い所にある2基のみが方墳で、石棺系竪穴式石室を持つ。5世紀後半の須恵器が出土し、ここから一帯の古墳築造が始まったとみられる。
 竪穴系横口式石室をもつ6基の円墳は、方墳築造後間もなくして造られた。
 横穴式石室をもつ4基(直径4~7m)の円墳は、6世紀末前後に造られたらしい。子供用とみられる、他のものより半分程度の石室もある。
 8号墳は、東西2m、南北0・9mの竪穴系横口式石室があり、直径7cmの四禽文(しきんもん)鏡が被葬者の胸の辺りから、100点以上のガラス玉が顔の付近から見つかった。 腰付近にはまだ音が出る直径2・3cmの鈴があった。 ほかに鉄剣、鉄鏃、鉄鎌、鋤先、須恵器の壺なども埋葬されていた。 小地域を治める中小クラスの有力者の墓と考えられるという。
 付近は乙金古墳群でこれまで100基超の古墳が出土しているが、今回発掘した群集墳がその先駆けだった可能性もあるという。
 現地説明会が7日午前10時~正午、乙金天満宮先で開かれる。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]

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全南霊岩・チャラボン古墳 周溝から祭祀木器が出土

2011年12月16日 | 韓国の遺跡・古墳など
 霊岩郡は始終面泰澗里のチャラボン古墳(영암 자라봉고분)の20年ぶりの発掘調査を大韓文化遺産研究センターに依頼して、6世紀初めの築造が確認された。 さらに引き続いて周溝の発掘調査が行われており、霊岩郡は14日、100点余りの円筒形土器(원통형 토기、注1)とともに祭祀木器が完全な状態で出土したと発表した。
 発掘した祭祀木器には、笠型木製埴輪(개형 분주목기)、長さが520cmに及ぶ幡竿形木器(깃대형 목기)、両刃形木器(양날형 목기)があり、韓国では初めての出土例という。
 これら祭祀木器は単に古墳周溝に廃棄されたわけでなく、周溝内部に設けられた木造構造物に意図的に貢献したとみられるとしている。
 このような祭祀木器の出土は、前方後円墳築造と関連して進行された葬制の一面と考えられる。
[参考:聨合ニュースほか]

(注1) 円筒形土器: 円筒埴輪のことか。
 辞書にない語句がいくつかあり、同じ物を表す語句が韓国語と日本語で違う、そして写真が公開されているのに、写っている木器が何なのか説明がないために、正確に内容を把握することができない。したがって、内容に間違いがあるかもしれないので、そのつもりでお読みいただきたい。

関連ニュース・情報
 2011.11.23 全南霊岩・チャラボン古墳 20年ぶりに再発掘し、6世紀初めの築造を確認
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光州市・新昌洞遺跡 初期鉄器時代から高麗時代まで持続して活用された生活の場

2011年12月16日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立光州博物館は14日、7月29日から初期鉄器時代から三国時代の農耕複合遺跡の新昌洞遺跡(광주 신창동 유적、史跡375号)を発掘調査した結果、新たに紀元前2世紀後半-1世紀頃の円形土壙6ヶ所と4-5世紀の三国時代住居跡10基が見つかり、さらに、高麗時代以後の方形土壙まで発見され、この一帯が紀元前2世紀後半以後高麗時代まで持続して人間生活の主要空間として活用されたことがわかったと発表した。
 特に、新昌洞半月村北西の丘陵南側斜面で三国時代住居跡が密集分布するとことがわかり、これら住居跡は空中から見下ろすと全て方形であり、四柱式が中心をなしていることが明らかになった。
 これら住居跡から、かまど枠、鋳造鉄斧(農工具用)、打捺文土器、灰青色硬質土器、砥石、防錘車などが出土した。
[参考:聨合ニュース]
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宮城県松島町・瑞巌寺本堂の発掘調査で、前身・円福寺の僧堂と発堂の遺構が出土

2011年12月16日 | Weblog
 宮城県教委と松島町教委は14日、瑞巌寺本堂の発掘調査で出土した遺構から判断して、瑞巌寺と同じ場所に中世寺院の「円福寺」(13世紀中頃創建)が建っていたことが確定したと発表した。
 本堂南側から僧堂とみられる、東西18m、南北7.3mにわたって約45cm四方の石を敷き詰めた「四半敷(しはんじき)」の床が出土した。 東西30m、南北40mの大きさで建てられたとみられる。
 また、本堂中央部では法堂(はっとう)とみられる18m(5間)四方の建物跡が見つかった。
 伊達政宗が創建した瑞巌寺が、円福寺の遺構上に同じ方向に建てられていたことがわかった。
[参考:河北新報、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.10.2瑞巌寺 前身の円福寺の基壇発見 東北初「四半敷」舗装
  「円福寺」跡から、禅寺特有の「四半敷」で舗装された基壇と、大型建物の柱の礎石(直径約1m)1個と、礎石を抜いたとみられる穴数カ所を確認した。
 2011.8.31瑞巌寺 本堂下の発掘調査で、江戸初期の創建当時、三和士は切石を並べた石敷き
  部分的に掘り下げた場所から、瑞巌寺建立以前の鎌倉時代に建っていた円福寺のものとみられる切石が見つかる。
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