ようめいさん してんのういん せいとくじ
浄土宗 用明山 四天王院 聖徳寺 増上寺末 (東京都台東区松が谷2-3-3)
「再校江戸砂子」(菊岡沾凉、明和7年(1770))(参考資料1)によると、
創建年代は不詳だが、聖徳太子の高弟・聖実清公上人が今の江戸城の西、坪根沢に聖徳太子を開基として一寺を草創し、聖徳太子の像を安置した。 これが本当であれば、飛鳥時代の創建となる。
享徳2年(1453)に忠蓮社加誉上人良祐和尚(?-1459)が浄土宗寺院として中興した。(注1) 開山・第一世住職となる。 徳川家康の関東入符(天正18年(1590))翌年に坪根沢(局沢、江戸城西、今の吹上御苑辺り)から平河へ移り、その後大船町(本船町、現日本橋室町、日本橋本町)へ、慶長12年(1607)馬喰町への移転を経て、明暦3年(1657)の大火で類焼後、当地松葉町(現、松が谷)へ移転した。
本尊は阿弥陀如来座像(本堂)。 先の聖徳太子像と同じか否か不明だが、秘仏に聖徳太子作と伝わる聖徳太子立像(長さ2尺7寸(81cm))がある。左右に四天王を脇侍とする。
末寺に公春院(荒川区南千住)と天然寺(文京区本駒込)がある。
(注1) 参考資料2によると、以前は天台宗寺院であったらしい。聖徳太子信仰に深く関わる由緒ある寺院としている。
興味深い話がある。
台東区東上野6丁目にある浄土真宗・龍飛山法善寺に安置され、台東区登載文化財に指定されている木造法然上人立像である。
この法然上人立像は、寛文11年(1671)に制作されたもので、像高73.5cm。像内には、古文書3点と厨子入り小仏(木造阿弥陀如来)1躰が納められていた。古文書のうち、2点は寛文11年7月15日の日付があり、法然上人像の造立に関わった167人の名を記した結縁交名状(けちえんきょうみょうじょう)で、他の1点は、小仏の由来を記したものであった。
小仏は、像高6.2cm。損傷がはなはだしいが、鎌倉~室町時代に制作された阿弥陀如来立像である。
像内の古文書、あるいは法善寺に伝わる他の古文書によれば、本像は、寛文11年に聖徳寺十五世満蓮社行誉が中心となり造立したという。元は聖徳寺にあった像であったのだ。
その後、千住小塚原(現、荒川区南千住付近)栄安寺の什物となり、明治初期に栄安寺が廃寺となったため、同26年(1893)法善寺に納められたという。
[参考:台東区HP→台東区文化財、「法然上人木像の辿った数奇な運命/佐々木美冬」浄土第72巻5号(平成18年6月1日発行)(参考資料2)]
さて、聖徳寺の山門前には、「水の恩人 玉川兄弟顕彰碑」と書かれた石柱が立ち、その隣には玉川兄弟の
説明板が立てられている。
「東京都指定旧跡
玉川庄右衛門および清右衛門墓
所在 東京都台東区松が谷二丁目三番三号 聖徳寺内
指定 昭和十八年五月
玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水の開削工事の請負者で、江戸の町人と言われてその出身地は明らかではない。玉川上水の開削工事は、四代将軍家綱の承応二年(1653)一月十三日に幕命が下り、二月十一日に着工された。工事費として幕府から七五〇〇両が下賜されたという。羽村から四谷大木戸に至る四十三キロの導水部は、承応三年(1654)六月二十日に完成した。その後給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ四谷・麹町・赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋方面に及んでいる。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術の水準を今日に伝える貴重な文化財である。近世都市江戸の水道施設建設の功績により、兄弟は200石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。また玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。兄の庄右衛門は元禄八年(1695)に弟の清右衛門は翌年の元禄九年に死去した。明治四十四年(1911)政府は、玉川兄弟の功績に対して従五位を追贈した。
平成三年十月三十一日
東京都教育委員会」
境内に入ると、本堂前左側再び
説明板が立てられている。
「玉川庄右衛門と清右衛の門墓 (都指定旧跡)
台東区松が谷二丁目三番三号 聖徳寺
二基の墓石のうち、向かって右側が庄右衛門の墓。笠付きの角石墓塔で、梵寺の下に楷書で[
玉川本家先祖代々の墓]とあり、さらに
次の戒名が刻んである。
隆宗院殿贈従五位正誉了覚大居士
向かって左側が清右衛門の墓。先の尖った角石墓塔で、梵寺の下に楷書で次の戒名が刻んである。
摂取院殿贈従五位光誉照山大居士
従五位は、明治四十四年(1911) 六月、政府により追贈されたもの。両墓石は大正十二年(1923)の関東大震災で破損したが、昭和十二年(1937)、有志によって修復された。
平成十九年三月
台東区教育委員会」
墓の最上部には、
丸に根笹の家紋が刻まれている。 実は、玉川上水の「水番所」が置かれた四谷大木戸のそばにある笹寺と呼ばれる
曹洞宗長善寺の屋根の瓦当にも根笹の変り紋が使われており、気になっている。
さらに、大きな石碑が建てられ、碑面には下記のように刻まれている。
「
玉川氏兄弟墓碣復興記念碑
東京市水道玉川上水ノ創設者贈従五位玉川庄右衛門同玉川清右衛門兄弟両氏ハ距今二百八十餘年承應元年幕府ノ命ヲ承ケテ水道開設ノ事ヲ督セル江戸町奉行神尾備前守ノ推挙ニ依リ江戸府中ニ上水導引ノ計晝ヲ命セラルルヤ全力ヲ盡シテ其ノ堪能ナル水理ヲ究明シ鋭意調査ノ結果武州羽村ヨリ多摩川ノ水ヲ取入レ江戸四谷大木戸迄導水スヘキ計ヲ樹テタリ幕府ハ大ニ之ヲ喜ヒ両氏ニ其ノ工事ヲ掌ラシメ翌二年四月四日水路疏鑿ノ工ヲ起シ同年十一月十五日完成ス是レ即チ玉川上水路ナリ而シテ文化未タ進マサリシ當時ニ在リテハ測量器械ナカリシ為路線ノ位置高低等ハ線香ト提燈ノ火光ヲ利用シテ専ラ夜間ニ測定し又工事ハ高井戸村附近近ニ至リ工費ニ不足ヲ來シタルヲ以テ遂ニ家産ヲ投シテ之ヲ続行シタリト云フガ如キ其ノ献身的ノ努力ト犠牲的ノ苦心ハ蓋シ想像ノ及ハサル所ナルヘシ宣ナル哉幕府ハ深ク両氏ノ功ヲ賞シ各禄二百石ト玉川ノ姓ヲ賜ハリ上水役ヲ命シタリ 爾来多摩ノ清水ハ凛々トシテ市中ニ脈流シ五郡八十四箇町村ヲ併合シテ大東京ノ殷賑ヲ見ルニ至リタル今日ニ於テモ尚大部分ノ地域ニ封シ給水能力ヲ発揮スル多摩川水系隨一ノ淵源トシテ依然活用セラレ帝都ノ繁栄ヲ養フテ其ノ惠千載ニ亡ヒス
畏クモ明治四十四年六月一日兄弟ノ勲功ヲ思召サレ特ニ従五位ヲ追贈セラル両氏ノ餘榮亦大ナリト賜フヘシ今茲玉川兄弟墓碑復興後援會ハ塋域ノ改築竝墓碣ノ復興成ルト共ニ墓側ニ記念碑ヲ建テ以テ兄弟両氏ノ功績ヲ不朽ニ傳ヘムトス寔ニ近代ノ美舉ナリ乃チ其ノ請ヲ諾シ略叙スルコト此ノ如シ
昭和十二年丁丑春三月
水道研究會理事長 井上秀二 題額
水道研究會理事 大堀佐内 撰書」