歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

仁川市桂陽山城から、一帯の地名を指す「主夫吐」銘文瓦が大量に出土

2009年08月30日 | Weblog
 (財)民族文化遺産研究院は30日、去る5月18日以後、古代城郭の桂陽山城(계양산성)の北門場所と推定される一帯を対象に第4次桂陽山城学術発掘調査を行った結果, 「主夫吐」という銘文瓦(명문기와)100点余りを発掘したことを明らかにした。
 「主夫吐」銘文瓦は去る2005年鮮文大考古研究所が実施した第2次桂陽山城発掘調査でも1,2点が確認されている。
これら銘文瓦はその製作技法や模様などの特徴から、製作時期は統一新羅時代あるいは高麗時代初期とみられる。
 三国史記地理誌によれば「長堤郡」は本来高句麗「主夫吐郡」で、新羅景徳王が変えた名前であり、三国史記編纂当時の高麗中期には「樹州」と言った。樹州は今の仁川桂陽区一帯である。
 それでも統一新羅あるいは高麗初期まで桂陽区一帯を「主夫吐」という高句麗時代地名で相変らず呼んでいたのは地名の強い保守性からと理解される。
 さらに、調査では長さ48㎝に達する統一新羅時代の大型瓦がたくさん発掘された。このような大きさは、土地博物館が南漢山城の統一新羅時代の超大型建物跡で大量に収集した国内最大瓦(長さ64㎝、重さ20㎏)よりは小さいけれど、それに次ぐ大きさである。
[参考:聯合ニュース]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンゴル・ドルリクナルス匈奴墓群 2千年前の匈奴の人骨を発掘

2009年08月29日 | Weblog
 韓国国立中央博物館は27日、韓国とモンゴル共同考古学学術発掘調査計画(MON-SOL PROJECT)一環で、去る6月29日以後8月21日までモンゴル科学アカデミー考古学研究所,モンゴル国立博物館と共同で、モンゴル首都ウランバートル北東側500kmの「ドルリクナルス(도르릭나르스、Dorlic Nars、Duurlignars)匈奴墓群」を発掘調査した成果を発表した。
 2002年に地表調査の結果、198基に達する匈奴時代墓が発見されている。
 今年はその中から、第5号墳をはじめとして、墓の長さ30m、埋葬主体部長さ20mの1号墳周辺に配置された陪葬墓(배장묘)7基中4基を発掘した。

 1号墳周辺で確認された陪葬墓は、土地を掘削して墓壙を設け,その中に木棺のような施設を安置した後、土で覆い、石を撒いた構造であった。調査を完了した陪葬墓4基は基壙形状が長方形あるいは長楕円形であり、深さが130-360cmほどであった。埋葬施設では木槨と木棺を備えたのがあるかと思えば、木棺だけ発見されたのもある。
 「W1陪葬墓」では銅鏡(동경)、鉄で作った丸い器の鐵鍑(철복)、丸玉(환옥)などが出土した。銅鏡は漢代の日光鏡(일광경)として注目される。
 「E1陪葬墓」では壷3点が出土した。
 「E2陪葬墓」では、手足をまっすぐに仰向にして埋葬された、2千年前の匈奴の人骨1体が完全な形態で発掘された。

 5号墳は、上から見た墓壙とそこに通じる墓道が凸字形の構造で、木槨と木棺を備えた墓であった。埋葬主体部(墓壙)は全体規模が長さ10m、北側幅9m,南側幅8mで、地表面から地下7m深さまで、梯子状に計4段を作って、範囲を狭めながら降りて行く方式で造成したことが明らかになった。その南側の中央に設けた墓道は長さ6mで、この地域の他の匈奴墓に比べると短い。
 木棺は木槨南側壁面に近接するように安置した反面、木棺北端壁で木槨からは各種遺物を置く副葬空間に使ったらしい。
 墓はすでに盗掘されているため、出土遺物がそれほど多くはないが,副葬空間から青銅壷、土製灯皿、金製円形装飾,青銅製漆器脚などが収集された。
[参考:2009.8.27聯合ニュース、韓国国立中央博物館HP]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長岡京市・下海印寺遺跡 8世紀末の土馬を含む小型土器が出土

2009年08月29日 | Weblog
 府埋蔵文化財調査研究センターは27日、下海印寺(しもかいいんじ)遺跡(同市下海印寺西条)の発掘調査で、長岡京期(784~794年)の小型土器や土馬(どば)を出土したと発表した。
 発掘された東西方向の幅約1・6m、長さ約20m、深さ約1mの溝などから、約20個の鍋(直径6cm)や竈を象どった小型の土器、土馬(長さ10cm)などのミニチュア土器が見つかった。
 土馬の足や頭部は人為的に折られた跡があり、これらのミニチュア土器は疫病などから人々を守るための祭事に使われたみている。小泉川を挟んだ対岸の西山田遺跡でも、同様の小型土器が多く出土しており、都の南西隅に当たる2遺跡付近で、祭事が行われていたとみられる。
 現地説明会が29日午前10時から行われる。
[参考:毎日新聞]


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都府八幡市・石清水八幡宮 2012年の国史跡指定を目指し境内の遺跡を調査

2009年08月28日 | Weblog
 石清水八幡宮境内に点在する遺跡を調査するため、学識者でつくる専門委員会が発足し、27日に市文化センターで初会議が開かれた。境内一帯の国史跡指定を目指し、2年間かけて調査報告書をまとめる。
 石清水八幡宮は、江戸時代まで仏堂・仏塔や、社僧が居住していた坊舎などが数多く存在し、「男山四十八坊」とも呼ばれていたが、明治時代に神仏分離令でほとんど破却された。
[参考:京都新聞]

過去のニュース・情報
 岩清水八幡宮
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栃木県那珂川町・那須官衙遺跡 大規模な区画溝を確認、政庁の区画か

2009年08月28日 | Weblog
 27日、町教委が発掘調査を進める国指定史跡・那須官衙遺跡(珂川町小川町)で、これまで未調査の南地区で大規模な区画溝が新たに確認されたことが分かった。4日から国士舘大考古学研究室とともに実施している。
 奈良時代から平安時代にかけての溝が6本見つかった。溝のうち1本は幅約5m、深さ約1・6mの大溝で、同遺跡で見つかった官衙の区画溝をしのぐ大きさである。瓦なども出土している。
 遺跡に隣接する、なす風土記の丘資料館によると、同遺跡では従来四つの区画が確認されていたが、大溝の存在が新たな区画を示す可能性が極めて高いという。
 同遺跡では政庁の場所が特定されていないため、大溝が未発見の政庁を区画するものである可能性があるほか、従来の北向きの区画と方位が異なることから、古墳時代から奈良時代にかけた期間で郡以前の時期の役所跡という可能性もあるという。
 29日午後1時半から現地説明会が行われる。
[参考:下野新聞]

過去の関連ニュース・情報
 那須烏山・さくら市 長者ケ平遺跡と東山道、タツ街道 国史跡に国文化審が答申



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県・犬島貝塚 地竹ノ子島で県内最古の化石

2009年08月27日 | Weblog
 犬島貝塚(東区犬島)の調査保護プロジェクトチームはこのほど、犬島諸島・地竹ノ子島で、県内最古の9400~9700年前とみられるカニやハマグリの化石が見つかったと発表した。
 犬島貝塚は、縄文時代早期(約9900年前)と推定され、瀬戸内海・豊島の礼田崎貝塚(香川県土庄町)と並ぶ西日本最古の貝塚とされている。
 見つかったのはイシガニ科とみられるカニのハサミ部分(約2・3cm)で、体長は推定約6cm。これまでに、県南地域では数点発掘例があるが、今回の化石は約9400年程度前のものとみられ、県内最古という。
 同時に発掘されたハマグリ(推定約3~4cm)の貝殻破片も9700~9600年前のものとみられ、やはり県内では最古。1枚しか見つかっていないことから、貝殻を食器や魚を取るための道具として使っていたのではないかと見ている。
 海産資源のカニやハマグリは貝層の上層で見つかっており、上層には淡水と海水が混じる汽水域に生息するシジミなどの陸産貝類が減っていた。このため、9900年前の貝塚周辺は汽水域のある環境だったが、徐々に海水に覆われたと考えられるという。
 このほか5世紀ごろの古墳から石棺系石室や高杯も出土した。
 9月13日午後1時半、岡山大社会文化科学研究科棟で、調査結果を報告する講演会「犬島貝塚2009」が行われる。
[参考:毎日新聞]
過去のニュース・情報
 犬島貝塚 西日本最古(1万年以上前)か 山形押型文土器を確認
 犬島貝塚 焼成前穿孔土器の一部出土 本州で初、九州との交流示す史料
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国吉林省和龍市・龍頭山古墳群から渤海3代文王と9代簡王の皇后の墓誌が発掘、また金製鳥羽冠が出土

2009年08月26日 | Weblog
 吉林省和龍市龍海村にある渤海時代古墳群遺跡の龍頭山(룽터우산)古墳群(8C後半~9C前半)で、渤海3代文王(문왕、?-793)夫人の孝懿皇后(효의황후)と9代簡王(간왕、?-818)夫人の順穆皇后(순목황후)の墓誌が発掘された。
 これは、去る2004-2005年龍頭山古墳群のうち渤海時代古墳14基を発掘した吉林省文物考古研究所と延辺朝鮮族自治州文物管理委員会弁公室が、中国社会科学院考古研究所が発刊する雑誌「考古」(2009年第6期)を通して,その発掘成果を最近公開した。「吉林和龍市渤海王室墓葬発掘簡報」という報告を通して孝懿皇后と順穆皇后の墓誌が各々大型石室墓のM12とM3号墓から出土したことを明らかにした。墓誌実物写真と正確な碑文内容はまだ検討中という理由から公開されなかった。
 ただし,報告書によれば紅褐色砂岩を材料とした順穆皇后墓誌は幅34.5㎝、高さ55㎝、厚さ13㎝で、墓誌文には縦9行に、計141字が刻まれた。碑文には「渤海国順穆皇后は、簡王の皇后で泰氏(태씨)だ。(渤海國順穆皇后為簡王的皇后泰氏)」等の内容が記録されているという。
 さらに、盗掘に会わなかった夫婦合葬墓(부부합장묘)とみられるM13、M14墓では高句麗の鳥羽冠(조우관. 鳥の羽毛を象った冠)の伝統を受ける金製冠飾が、渤海墓では初めて発見されたと報告書は紹介している。新しい翼をイメージに三本つの植物の葉のように図案化した金製冠飾は高句麗鳥羽冠の伝統が渤海まで継承されたことを示す資料とする。この墓は、一つの土の墓中にレンガで槨を作って,その中には木棺を2個安置して、土の墓上には建物を建てた痕跡も発見された。
 女性が埋められたとみられるM13墓では金製腕輪と簪(カンザシ)などが、M14墓では金製冠飾とともに金で支えのある玉帯なども出土した。
 龍頭山古墳群では、1980年渤海3代文王の四番目娘の貞孝公主 (정효공주、757-792)墓が発掘されている。
[参考:聯合ニュース]

備考:鳥羽冠にまつわる話
 1998年11月にNHK・BS2で放送された「あなたの知らない法隆寺」の録画ビデオを久しぶりに観ていたら、金堂 西の間の阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)の台座の下座(飛鳥時代)に描かれている人物像が発見された時(1992..8)の映像が映っていた。台座の下座の底板(ヒノキ)に、墨による落書きの画で、鳥の羽根を付けた冠を戴く人物が書かれていた。鼻が高く、鳥の羽がついたような冠を被り、高句麗からの使節とみられている。
 乾陵陪葬墓群章懷太子(654-684)墓壁画《客使団》に描かれている朝鮮使節に似ているとしていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若狭町・糠塚古墳 全長約60mの前方後円墳と判明

2009年08月25日 | Weblog
 小浜市教育委員会と若狭町文化財室は21日、両市町の共同発掘調査で、若狭町脇袋の「糠塚(ぬかづか)古墳」と小浜市羽賀の「丸山城址古墳」が前方後円墳だったことを確認したと発表した。大陸との交易を背景に、若狭地方の豪族が勢力を保っていたことを裏付ける資料として注目を集めそうだ。
 糠塚古墳は、国指定の4~5世紀の若狭の王クラスの前方後円墳3基(注)が点在する「脇袋古墳群」内に位置する。これまで円墳に見えていたが、今回の調査で東側の畑約20㎡を発掘したところ、前方部の側面にあたる葺き石の列を確認した。全長は約60mと推定。堀が巡らされていることなど、他の若狭の王クラスの古墳と同じ特徴を持つ。また、周辺から出土した埴輪の形状などから、築造時期は5世紀末とみられるという。
 脇袋古墳群は、かつて7つの塚(古墳)が存在したと記録があるが、現在わかっているのは4基。そのすべてが、前方後円墳となった。糠塚古墳が、主軸方向が東西であるのに対してほかの3基は主軸をほぼ南北にしている。
(注)上之塚古墳: 全長90m、築造時期4世紀末から5世紀前葉
   中塚古墳: 全長70m、築造時期5世紀前葉
   西塚古墳: 全長74m、築造時期5世紀後葉
 このほか、小浜市羽賀の「丸山城址古墳」も測量調査し、5紀末~6世紀初頭の前方後円墳(全長約30m、幅約17m)であることを確認した。若狭地方ではこれまで1例しかない、前と後の両方に石室がある墳形とわかった。海を臨む山の尾根にあり、規模から、脇袋古墳群の王に仕え、現在の小浜市国富地区を中心にした地域首長の墓と考えられるという。
[参考:中日新聞、読売新聞、若桜町HP]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐野市・唐沢山城跡 隼人屋敷跡から高さ1mの石積みが見つかる

2009年08月24日 | Weblog
 市教委は23日までに、麓の隼人屋敷跡より下の斜面中段から高さ約1mの石積みが見つかったと発表した。
 昨年度の調査では、隼人屋敷跡から高さ約2mの石垣が発掘されており、唐沢山城が、麓にまで石垣や石積みを造り丁寧かつ強固に築造されていたことがあらためて明らかになった。
[参考:下野新聞]

過去のニュース・情報
 佐野市・唐沢山城跡 麓の隼人屋敷跡から新たに石垣が出土
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜井市・纒向遺跡 新たな柱穴発見、棟持ち柱の可能性

2009年08月23日 | Weblog
 22日、講演で長野市を訪れた桜井市教委の橋本主査が終了後の共同通信の取材で、纒向遺跡で既に確認されている3世紀前半の建物跡で建物を支える三つの柱穴の近くから、新たに柱の穴が見つかり、壁の外から棟木を支える「棟持ち柱」の跡の可能性が高いことを明らかにした。
 同遺跡で棟持ち柱の穴とみられる遺構の発見は初めてで、同時代に棟持ち柱を持つ建物は、神殿などであることが多いという。
 市教委は9月からの調査でさらに詳しく調べる。
[参考:共同通信]

過去のニュース・情報
 2009.3.5桜井市・纒向遺跡 卑弥呼時代の建物群と柵が出土
 2009.1.31「邪馬台国」解明へ 桜井市・纒向遺跡を本格調査
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高砂市・竜山1号墳 古墳時代終末期の古墳と判明 22日現地説明会

2009年08月22日 | Weblog
 県指定史跡「石の宝殿」の南東約50mにあり、生石(おうしこ)神社(高砂市阿弥陀町)の境内駐車場奥に横たわる石棺は、竜山1号墳の墳丘や石室が破壊され流出されたもの。その竜山1号墳は7基ある竜山古墳群のひとつで、市教委の調査で古墳時代終末期(7世紀)の単独墳であることがわかった。
 石棺をつくっていた最後の時代の古墳で、竜山石の石工集団および石宝殿造営との関連性が注目されるという。
 墳丘の形は特定できなかったが、岩盤を削った平坦地の上に竜山石による石組みの刳抜式横穴式石室(幅約1m、長さ約1・5m)を築き、家形石棺(長さ約1・2m)を設置したらしい。
 奈良にある同時期の古墳と構造が似ているという。
 22日午前10時から現地説明会を開く。
[参考:朝日新聞、大手前大学史学研究所オープン・リサーチ・センターHP]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇都宮市・岡本城跡 二の堀を確認

2009年08月21日 | Weblog
 市教委が初めて調査を行っている市指定史跡「岡本城跡」(宇都宮市中岡本町)で、本丸を囲む一の堀の深さが6m以上と現状より3m以上も深く、防御性に優れていたことが判明し、また一の堀の周囲に二の堀があることが確認された。調査は8月31日までの予定。
 北側の崖下で堀と土塁が、一の堀を囲むように西側では幅約10m、深さ約1・5mの二の堀が確認された。本丸への入り口の虎口と二の堀内からは、16世紀の素焼きの土器「かわらけ」が出土した。
 岡本城は、宇都宮氏の北の守りとして岡本(芳賀)富高が南北朝期に築いたとされ、中世の鬼怒川流域の肥えた農地を治めていた平山城。1597(慶長2)年の宇都宮国綱の改易とともに、廃城になった。  
 現地説明会は22日午後1時半~同3時から行なわれる。(雨天決行)
[参考:下野新聞]
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安時代後期の神殿の部材(懸魚、欄干など)が出土

2009年08月20日 | Weblog
 県教委は20日、塩津港遺跡(西浅井町、平安時代後期)の調査で、小型の神殿の部材15点を確認したと発表した。
 県立安土城考古博物館が調査し、多数の建築部材などが出土した。欄干の下部の部材は長さ84cm、組み立てた状態の高さは推定10cm程度。屋根の破風に取り付ける装飾の懸魚(げぎょ)は、高さ13.5cm、幅12.4cmで五角形の木製板で通常より小さい。ほかに金銅製垂木先金具などが出土した。いずれも本殿に使用されるものより小さく装飾性が高いため、県教委は本殿とは別の小型神殿の部材と推定。一辺約70cmの方形の祠(ほこら)の可能性が高いとしている。
 神社建築研究の第一級の資料になるとする。
 出土した遺物は23日、県立安土城考古博物館で一般公開される。 
[参考:時事通信、毎日新聞、産経新聞]

過去のニュース・情報
 塩津港遺跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清須市・清洲城下町遺跡 全面金箔の瓦が県内初出土

2009年08月20日 | Weblog
 清須市は19日、清洲城下町遺跡(愛知県清須市一場)から全面に金箔が施された鬼瓦が出土したと発表した。
 金箔瓦は、昨年11月から12月にかけて行われた清洲小学校体育館新築工事に伴う発掘調査で、学校敷地内の体育館建設地から見つかった。
 金箔瓦は、縦14cm、横18cm、厚さ7cmの家紋の一種「桐紋」で、外縁上面と側面、中央のに金箔が施してある。安土・桃山時代末から江戸時代初めにかけてのものとみられる。同遺跡からこれまで出土した鬼瓦はいずれも、一部にしか金箔がついていなかった。
 清洲城が当時、尾張地方の中心となる城であることが改めて確認されたとする。
 金箔瓦は、同市の県清洲貝殻山貝塚資料館の埋蔵文化財展(9月19日~10月25日)で展示される。
[参考: 読売新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木津川市・馬場南遺跡 万葉集木簡の裏面に「越中守」?

2009年08月16日 | Weblog
 府埋蔵文化財調査研究センターが15日、向日市で開いた「埋蔵文化財セミナー」で馬場南遺跡から出土した奈良時代の万葉集歌木簡の裏面に、「越中守」と書かれていた可能性があることを発表した。
 出土当時、歌木簡の裏面は文字がかすれて判読できなかったが、その後、奈良文化財研究所との共同研究で赤外線を使って調べたところ、文字の一部が分かった。上部から二文字目は「中」で、次いで「守」と読めることから、「越中守」と書かれている可能性が高いという。下部には馬の字が4カ所読み取れた。裏面は何度か削って文字を書き直した跡があり、手習いなどに使ったようで、「越中守」は表の歌より後の時期に書かれたとみられる。
 木簡の年代は、一緒に出土した遺物の詳しい調査結果から、万葉集の成立とほぼ同時期の740~770年と見られる。天平18年(746)に、大伴家持が越中守に任ぜられており、関連性の指摘もある。
[参考:京都新聞、共同通信]

過去のニュース・情報
 馬場南遺跡 万葉歌記された木簡が出土 奈良中・後期 3例目か
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする