土佐山内家宝物資料館などが28日、四国八十八カ所霊場の三十一番札所、真言宗智山派 五台山竹林寺(高知市五台山)の「木造阿弥陀如来立像」の内部をX線透過撮影したところ、徳川家康を供養する内容の文字が朱書きされていることがわかったと発表した。
仏像は竹林寺の位牌堂に安置され、ヒノキ材の寄せ木造りで高さ83cm。鎌倉時代の作とみられるという。 内部の胸から足元までの広範囲にわたり、1文字約1cm程度の大きさの裏書きが多数あることが判明。 胸には家康の官位で、戒名の一部でもある「大相国一品(だいしょうこくいっぽん)」(注1)。 脚に「元八 戌松平土佐守忠義」(注2)の文字が読み取れた。
竹林寺には、家康没後の元和8年(1622)に家康の養女で土佐藩2代藩主山内忠義の妻・阿姫(くまひめ、1595-1632)の側近が当時の住職にあてて、「阿姫が家康の菩提を弔い山内家の繁栄を祈るため、如来様にその気持ちを裏書きして寄進したいと言っている」と伝えた書状が残り、今回の発見はこれを裏付けるものという。
(注1)徳川家康の戒名「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」か?
(注2)徳川家康は元和2年(1616)に亡くなっている。 阿姫は元和9年(1623)、娘喜代姫と次男忠直とともに江戸へ移った。 「元八 戌」 とは、元和8年壬戌のことであろう。 阿姫は、家康(母は於大の方)の父親違いの弟(松平定勝)の次女で家康の養女となり、慶長10年(1650)に土佐藩2代藩主山内忠義と結婚して土佐へ移り、元和9年まで過ごした。
阿姫は、徳川、山内両家の末永い繁栄を祈る気持ちで書いたのではないかとしているが、江戸に下向する前年にそれを果たしたのであろう。
土佐藩初代藩主山内一豊は、初め先祖からの宗旨である日蓮宗を菩提寺としていたが、遠江国掛川の領主であった頃、曹洞宗の僧・在川(ざいせん)に帰依し、土佐入封に伴い在川を開山として伽藍を建立し、後に山内家の菩提寺とした。 一方、阿姫は徳川将軍家と同じ浄土宗であったため、また江戸で亡くなったため、霊巌島の浄土宗道本山東海院霊巌寺に葬られている。
[参考:高知新聞、NHKニュース、読売新聞、朝日新聞]
仏像は竹林寺の位牌堂に安置され、ヒノキ材の寄せ木造りで高さ83cm。鎌倉時代の作とみられるという。 内部の胸から足元までの広範囲にわたり、1文字約1cm程度の大きさの裏書きが多数あることが判明。 胸には家康の官位で、戒名の一部でもある「大相国一品(だいしょうこくいっぽん)」(注1)。 脚に「元八 戌松平土佐守忠義」(注2)の文字が読み取れた。
竹林寺には、家康没後の元和8年(1622)に家康の養女で土佐藩2代藩主山内忠義の妻・阿姫(くまひめ、1595-1632)の側近が当時の住職にあてて、「阿姫が家康の菩提を弔い山内家の繁栄を祈るため、如来様にその気持ちを裏書きして寄進したいと言っている」と伝えた書状が残り、今回の発見はこれを裏付けるものという。
(注1)徳川家康の戒名「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」か?
(注2)徳川家康は元和2年(1616)に亡くなっている。 阿姫は元和9年(1623)、娘喜代姫と次男忠直とともに江戸へ移った。 「元八 戌」 とは、元和8年壬戌のことであろう。 阿姫は、家康(母は於大の方)の父親違いの弟(松平定勝)の次女で家康の養女となり、慶長10年(1650)に土佐藩2代藩主山内忠義と結婚して土佐へ移り、元和9年まで過ごした。
阿姫は、徳川、山内両家の末永い繁栄を祈る気持ちで書いたのではないかとしているが、江戸に下向する前年にそれを果たしたのであろう。
土佐藩初代藩主山内一豊は、初め先祖からの宗旨である日蓮宗を菩提寺としていたが、遠江国掛川の領主であった頃、曹洞宗の僧・在川(ざいせん)に帰依し、土佐入封に伴い在川を開山として伽藍を建立し、後に山内家の菩提寺とした。 一方、阿姫は徳川将軍家と同じ浄土宗であったため、また江戸で亡くなったため、霊巌島の浄土宗道本山東海院霊巌寺に葬られている。
[参考:高知新聞、NHKニュース、読売新聞、朝日新聞]
祖母か聞いた父の話しはらうる覚えですが、父の祖母から聞いた話しが徳川家の血筋の娘さんが四国のお寺の住職に嫁いぎ祖母が産まれたとまでで…
父はそのお寺で祖母に育てられたと。
そのお寺に嫁いだかたが徳川家の血筋の女性で祖母が産まれだと、そこまでしか判っておらず。
何故か私は阿弥陀如来像を祀っており…
勘違いかもしれませんが、浄土宗道本山東海院霊巌寺を探してみます。