歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・新薬師寺跡(旧境内) 創建時の瓦が興福寺の荒池瓦窯で製造

2012年05月31日 | Weblog
 奈良市高畑町の新薬師寺跡(旧境内)で出土した創建時の瓦が、興福寺の荒池瓦窯で造られた可能性の高いことが、3月に発行された「奈良教育大学構内遺跡の埋蔵文化財発掘調査報告書」(奈良教育大学, 2012.3)で明らかにされた。
[参考:奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
2011.10.20 奈良市・荒池瓦窯 東大寺講堂の瓦工房跡か
2009.6.24 新薬師寺旧境内 焼けた瓦が入った溝が見つかる
 興福寺で造営当初(710年)に使われたのと同じ型の軒丸瓦(8世紀)
2009.8.3新薬師寺 奈良三彩の破片が出土
 創建瓦と見られる複弁八弁蓮華文軒丸瓦や均整唐草文軒平瓦が出土
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桜井市・吉備池廃寺跡(吉備池遺跡) 法隆寺若草伽藍や四天王寺と同笵の素弁蓮華文軒丸瓦が出土

2012年05月29日 | Weblog
 桜井市立埋蔵文化財センター(同市芝)で平成23年度発掘調査速報展「50cm下の桜井」が始まっている(4月25日~9月30日まで)。古墳時代から近世までの7遺跡から出土した遺物約150点を紹介している。
 4月26日の奈良新聞では、「吉備池廃寺跡の吉備池遺跡(7世紀)では、伽藍南側の発掘成果を報告。寺に関連するとみられる南北溝から、同寺ではこれまで発見されていない型式の素弁八葉蓮華文軒丸瓦1点が出土した。直径約17・1cm、厚さ約2・5cm。法隆寺若草伽藍や四天王寺で使われたものと同じものと考えられるという…」と発表している。
 昨日の毎日新聞では、「桜井市教委によると、斑鳩寺(斑鳩町)や四天王寺(大阪市)で出土している瓦と同じ型枠で作られた瓦」とし、「斑鳩寺若草伽藍と四天王寺創建時の瓦を作った後で、吉備池に持ち込まれた」、さらに阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしのまろ)が関連している実証につながるのではとしている。
[参考:2012.4.26奈良新聞、2012.5.28毎日新聞]
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三角縁神獣鏡の製作技術とホケノ山古墳の銅鏡

2012年05月27日 | Weblog
 昨日の読売新聞の夕刊に、『「卑弥呼の鏡」コンパスで作った』との記事が掲載されていた。 本日27日に東京・立正大で開かれる日本考古学協会総会で「三次元計測を応用した挽型からみた三角縁神獣鏡の製作技術の研究」と題して発表される中身の一部あるいは簡単なまとめのようである。
 関連する記事が出ていないかとインターネットで探したが、日本考古学協会総会に関するもの以外には見当たらなかった。 ところが、5月18日付けの朝日新聞の「ホケノ山古墳の銅鏡」の記事があり、これにも注目を引いた。
 前者ともに、奈良県立橿原考古学研究所水野敏典総括研究員がなされた研究の成果である。
 前者では、三角縁神獣鏡の製作に、「挽型(ひきがた)」と呼ばれる木型が使われていたとみられるとし、「同じ挽型を使い回していたとみられ、製作工房は比較的小規模で、様々な種類の鏡を短期間にまとめて作っていたのではないか」と話している。
 後者では、特に、「(画文帯神獣)鏡片は10点出土したものが接合して2片となり、最大6・3m離れた鏡片が接合していることから、副葬の時に鏡片であったものをさらに砕き、木槨の蓋の上に撒くような祭祀を行ったことを示している。」と「ホケノ山古墳は墳長80mの前方後円形の墳丘を持ちながら、木槨系の埋葬施設と破砕鏡という弥生時代的な要素を併せ持つ。その築造時期は、調査によって埋葬施設や副葬品が判明している古墳の中で古墳時代最古相とみられる天理市中山大塚古墳よりもさらに古くなる可能性が想定され、何をもって古墳とするかという古墳の定義の問題と古墳時代開始年代について、議論の尽きない古墳である。」の2箇所に関心を持った次第である。 いずれにしても、もっと詳細を知りたい。
[参考:2012.5.26読売新聞、2012.5.18朝日新聞]
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中野市・柳沢遺跡 出土した弥生時代の銅戈8点と銅鐸5点は同じ埋納坑に埋められた? 金属分析結果を発表

2012年05月25日 | Weblog
 長野県埋蔵文化財センターは23日、2006年度から3年にわたって発掘調査した柳沢遺跡の報告書をまとめ公表した。
 出土した弥生時代の青銅製祭器の銅戈 8点(長さ約 22~36cm)と銅鐸(釣り鐘形、高さ約21~22cm) 5点が、同じ「埋納坑」(縦約26cm、横約66cm)に埋められていた可能性が高いとする。 また、複数の集団が、同遺跡周辺だけでなく、長野市付近からも埋納坑に青銅を持ち込んだ可能性を指摘している。 銅鐸をまとめて埋める際、大きさをそろえる西日本と同じ傾向が、柳沢遺跡でも見られるという。
 少なくとも長野県までは、西日本と同様に稲作や農耕祭事が行われていた可能性が高まったとしている。
 また、同センターは、青銅製祭器13点全ての金属成分を調べたところ、「近畿型」の銅戈と「九州型」の銅戈とでは、スズの割合が異なることが新たに分かった。 スズは、近畿型の7本など11~15%と割合が高いグループと、九州型の1本など5%以下の低いグループに分かれた。 他の遺跡でも金属成分の分析が進めば、青銅器がどこから来たのかが分かってくるかもしれないとしている。
 出土品の一部は、伊那市の伊那文化会館(7月28日~8月19日)で展示される。
[参考:信濃毎日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
2009.5.14 柳沢遺跡 シカ絵土器が出土
 銅戈、銅鐸とほぼ同時期の、主に千曲川水系に分布している栗林式土器(壺形)にシカの絵。近畿地方との結びつきか。
 昨年度までの発掘で、銅鐸5点と銅戈8点が出土。
2008.12.17柳沢遺跡 昨年出土の礫床木棺墓のひとつが県内最大規模と判明
 77個の管玉を確認。埋葬されたのは青銅器と係わりがある集落のリーダー的な人物か。
2008.9.12 柳沢遺跡 銅鐸計4個に
 新たに弥生中期ごろの銅鐸の破片が少なくとも3個分出土。累計4個以上。
2008.3.1 柳沢遺跡 昨年10月・11月に出土した大阪湾型とみられた銅戈7本のうち1本は九州型と判明
2007年11月1日 銅鐸と銅戈5本、一緒に埋納
 新たに青銅製祭器「銅鐸(推定高さ20cm)の破片2点と銅戈5本が見つかる。銅戈は槍の穂先に似た形で、大阪湾周辺で多く見つかっている「大阪湾型」とみられる。 → このうちの1本は、九州型と判明(H20.2.28)
2007年10月23日 弥生時代の「銅戈」(大阪湾型)2本出土    

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金海市進永邑 三国時代5世紀の舟形土器が出土

2012年05月23日 | 韓国の遺跡・古墳など
 文化財庁は23日、韓国文化財保護財団文化財調査研究団が調査中の慶南金海市進永邑宅地開発地域で、青銅器時代から朝鮮時代までの遺構約250基をはじめとする遺物約1,500点が出土したと発表した。
 また、出土状態が良好で完形に近い三国時代5世紀の舟形土器(주형토기)一点が見つかった。 馬形土器や鴨形土器のように古墳に副葬される異形土器の一つで、死者の魂をあの世まで運ぶ信仰の表現で墓に一緒に埋めた儀式用明器であると考えられている。
 現在出土地が確認されている船形土器は慶州市路東洞の金鈴塚で出土した2点と大邱達城郡求智面坪村里遺跡で出土した1点があるという。
[参考:聨合ニュース]
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高松市・萩前・一本木遺跡 古墳時代後期の豪族の居館跡?を発見

2012年05月23日 | Weblog
 高松市教委は22日、同市仏生山町の萩前・一本木遺跡(はぎのまえ・いっぽんぎいせき)で、古墳時代後期(6世紀末~7世紀初め)に地域を治めていた豪族の長(おさ)の居館とみられる遺構が見つかったと発表した。 香川県内初の発見で、四国でも松山市の樽味四反地遺跡(たるみしたんじいせき)に次いで2例目という。
 遺構を確認したのは同遺跡の北東部。方形に区画したと想定される南辺(約30m)と西辺(約20m)のL字形の溝(幅約2m、深さ約1・7mのV字形)が見つかった。 溝は居館などを囲んでいたとみられる。
 現地説明会が26日(土)午前10時から正午まで開かれる。説明は午前10時から30分ごとの4回を予定。
[参考:四国新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.11.17 萩前・一本木遺跡 古墳時代から奈良時代にかけての大規模集落跡で、煮炊き用かまど跡を多数発見
 2011.8.19 萩前・一本木遺跡 古墳時代から奈良時代にかけての大規模集落跡が見つかる
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慶州皇吾洞 チョクセム地区の新羅古墳で金銅冠飾など遺物多量出土

2012年05月22日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立慶州文化財研究所は21日、慶州市皇吾洞チョクセム地区(경주 쪽샘지구)の新羅古墳発掘調査現場で多量の遺物が発掘されたと発表した。
 古墳は封墳の直径が23mの積石木槨墳である。封墳の周囲を人頭大の川石(護石)で丸く囲み、、埋葬主体部の主槨(長さ5.5m、幅3.3m)と副葬品を埋納した副槨(長さ3.5m、幅4m)を一列に配置した形状で、主槨の底に小砂利をたくさん重ねて敷いて木棺を置き被葬者を安置した。 被葬者の頭側の東側に副葬品を入れた櫃を置いた。
 木槨の上部には川石と同じ積石を厚さ1m前後で覆い、次に、土で封墳を積み上げて墓を仕上げたが、封墳の高さは概略7mに達したとみられる。
 主槨の中央には被葬者が着装したと見られる純金製心葉形細環耳飾と、ガラス玉で作られた胸飾、銀製銙帯のような装身具類と三葉・三累環頭大刀など装飾大刀がいろいろ副葬されていた。
 特に、主人公の枕元に設置された副葬櫃に白樺樹皮製冠帽に金銅装飾が付着していて、ここに鳥翼形の金銅製・銀製の冠飾と頂部立飾と後立飾が全て揃った帽冠は、新羅古墳で初めての出土である。
 このように金銅および銀で飾った帽子形状の冠は、5世紀後半~ 6世紀初め頃新羅社会を代表した王の墓の皇南大塚と天馬塚、金冠塚で出土したのと形状と構造が似ているため、古墳の主人公の社会的身分もこれに相応する新羅の支配階層に該当する人物だったと判断される。
 さらに副葬櫃から100点余りの土器と多数の鉄製品とともに出字形帯冠の姿を集線文で描写した台付長頚壺が出土した。
[参考:ソウルニュース、聨合ニュース]
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久能山東照宮蔵「家康の時計」 歴史的価値 高い

2012年05月22日 | Weblog
 17世紀にスペイン国王から徳川家康に贈られ、久能山東照宮(静岡市駿河区)に保管されていたゼンマイ式西洋時計(高さ21.5cm重さ、2.8kg、1979年に国の重要文化財に指定)を鑑定した大英博物館の時計部門責任者、デービッド・トンプソン氏が17日、同東照宮で記者会見し「16世紀当時として最高の技術でつくられた傑作で、歴史的価値が高い」と発表した。
 時計は1609年にスペイン船が千葉県沖で難破した際、救助された乗組員を家康が手厚くもてなしたことに感謝し、1611年に国王フェリペ3世が贈った。家康亡き後は東照宮に奉納、国内で現存する西洋時計としては最も古いとされる。
 時計は1581年にスペイン国王お抱えのベルギー・フランドル地方の時計職人(注1)が製作した。この時代に同地方でつくられた時計は世界に約20残る。トンプソン氏によると、ほとんどは内部の部品が新しいものに交換されているが、家康の時計は現状は動かないが数カ所を除き製造当時の部品のままで、保管用の革ケース(皮箱)付きで残っているのも非常に珍しいるという。
(注1)「家康の遺産―駿府御分物―」では、スペインのマドリッドでハンス・デ・エバロが製作したと記されている。
[参考:2012.5.17共同通信、産経新聞、毎日新聞、5.18読売新聞、「家康の遺産―駿府御分物―」(徳川美術館 1992年徳川博物館発行)]

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島根県・隠岐諸島・島後島 黒曜石の旧石器や採掘跡を発見

2012年05月19日 | Weblog
 島根県・隠岐の島町教委と広島大が19日、隠岐諸島の島後島(どうごじま)で約2~3万年前(後期旧石器時代)の黒曜石の旧石器や採掘跡が見つかったと発表した。
 遺跡が発見されたのは、近年も採掘している同町久見にある海岸付近で、2007年の豪雨で採掘場所が崩れ、石器が発見された。
 黒曜石の当時の採取跡が良好な状態で残っている遺跡は、国内でも珍しいという。
 その後、08~11年に3カ所を試掘し、地下2・5~4mで黒曜石を採掘した層を確認した。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞]

過去のニュース・情報
 2011.11.3 鳥取県大山町・豊成叶林遺跡 旧石器時代の石器製作の跡や炉跡が出土
  隠岐で採れる黒曜石製のナイフ形石器(長さ3・3cm)が1点出土
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亀岡市・余部遺跡 5世紀後半の墳丘のない埋葬施設から懸垂鏡1面が出土

2012年05月19日 | Weblog
 亀岡市教委は18日、同市余部町の余部(あまるべ)遺跡から、古墳時代中期~後期(5世紀後半)の墳丘のない埋葬施設が1基見つかり、中から「懸垂鏡」1面と多数の玉類が出土したと発表した。
 埋葬施設は、縦3・75m、横1・85m(最大)。 1段下がった場所に板を組み合わせ木棺跡(縦2m、横55cm)が見つかった。 木棺外の埋葬者の頭側と思われる場所から勾玉や臼玉など玉類計50個のほか、直径6・7cmの懸垂鏡1面が出土した。
 現地説明会が20日午前10時から開かれる。
[参考:京都新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.7.1 余部遺跡 弥生時代の竪穴住居の貯蔵穴から土錘28点が出土
 2008.7.29 余部遺跡 古墳時代5世紀の方墳1基を発見

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全南霊岩郡ソントゥルボン土城 5世紀頃の築造と判明

2012年05月18日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は17日、全南霊岩郡始終面内東里にあるソントゥルボン土城(성틀봉토성)(注1)
が、栄山江流域の5世紀頃古代甕棺古墳築造勢力と関連する城郭であることを初めて確認したと発表した。
 同研究所は先月9日から25日まで試掘調査を行った。 この城壁は築造当時の地表面を整えた後、その上部に磨砂土と粘性土を交互に固めた版築技法で土塁(城壁)を作った後、土塁にさらに黄色砂質粘土で覆って築造された。
 特に土塁を積み上げる時、木柱を打ち込んだ溝施設を確認した。城壁の全周は約190m、高さ約1.7m、幅約10mであった。
 城の築造時期は、土塁内部から5世紀始めから中頃と判断される甕棺片が出土して、城壁の版築手法と規模が百済城より古式であり、規模が小さい点、また、この土城周辺に靈岩内洞里双墳と靈岩沃野里方台形古墳をはじめとする多数の5世紀頃甕棺古墳群が散在することから、5世紀の築造とみられる。
[参考:聨合ニュース]

(注1)성틀봉の漢字表記が見当たらない。城の形をした峰というような意味か?

過去の関連ニュース・情報
 2010.10.25 全南霊岩・沃野里方台形古墳 4本の木柱を立てて石室壁を築造した横口式石室墓を発見、埴輪も出土
 2010.4.18 栄山江流域 全南霊岩郡・長洞方台形古墳 2次調査着手
 2009.9.28 韓国・高敞鳳徳里古墳群1号墳 5世紀の百済金銅製履物出土
 2009.4.3 韓国全南羅州市 永洞里古墳群 蜂の巣型古墳を確認
 2008.7.25 百済時代 地方木簡 羅州伏岩里古墳群で初めて出土 製鉄所も発見
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京都府大山崎町・白味才西古墳 古墳時代末期の横穴式石室が出土

2012年05月17日 | Weblog
 大山崎町教委は16日、同町大山崎白味才(しろみさい)で共同住宅の建築に伴い2月中旬から行っている発掘調査中、古墳時代末期にあたる7世紀中頃の横穴式石室が出土したと発表した。「白味才西古墳」と命名した。
 残っていた石室は全長5・7mあり、玄室は幅1・2m、長さ2.3m、高さ1・1mで、羨道は幅0・8m、長さ3.4m、高さ1・15m。石室の規模や溝から古墳は一辺10mほどの方墳とみられる。
 玄室には人骨や棺はなかったが、副葬品の須恵器や鉄製の刀子など数点が見つかった。
 現地公開が19日午前10時~午後3時まで行われる。
[参考:京都新聞、KBS京都放送、大山崎町HP] 
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京都府京丹波町・蒲生野古墳群 約1600年前の碧玉製石釧が出土

2012年05月13日 | Weblog
 京丹波町教委が11日、蒲生野(こもの)古墳群(古墳時代後期、8基の古墳群)で、弥生時代中期(約2000年前)の遺構と古墳時代前期末(約1600年前)の遺構が見つかり、古墳時代前期末の遺構から腕輪を模した副葬品「碧玉製石釧(いしくしろ)」(直径11・6cm)が出土したと発表した。内周に沿って放射線状の櫛歯(くしば)模様、外周は三角形の鋸歯(ぎょし)模様の彫刻が施されていた。 西日本で発見された中で最大級という。
 石釧で最大のものは、七廻塚(ななまわりづか)古墳(千葉市)から出土した直径16・4cm(滑石製)。

 弥生時代中期の遺構では、木棺跡からは管玉やガラス玉の副葬品を出土した。ガラス玉の副葬品は畿内でも最古の事例ではないかという。 この時期のガラス製品は丹後地域での生産が知られていることから、丹後地方の影響をうけていたものと推測されるとしている。
 古墳時代前期末の遺構では、割竹形木棺(長さ6.5m)の遺構から石製の腕輪(石釧)3点、銅鏡2面、ガラス玉約100点、管玉7点、鉄斧2点、ヤリガンナ(槍鉋).2点等の副葬品が出土した。木棺には2名の被葬者があったものとみられる。
[参考:読売新聞、京丹波町教委HP]


キーワード:蒲生野古墳群 七廻塚古墳、槍鉋、やりがんな、ヤリガンナ
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伊勢原市 西富岡・向畑遺跡 21,000年前旧石器時代の調査成果などの現地見学会(5/12)が開かれる

2012年05月11日 | Weblog
 西富岡・向畑遺跡(伊勢原市西富岡)は富岡丘陵の西側から南北約2kmに広がる遺跡で、2007年4月より発掘調査を開始し、これまでに旧石器時代、縄文時代、古墳時代~奈良・平安時代、中世の集落などが発見された。
 今回の調査では、およそ21,000年前の旧石器時代の遺構から約800点の石器・礫などが出土し、縄文時代の水場遺構からは木組が見つかった。
 12日(土) 10:00~11:30と13:30~15:00に、現地見学会が開催される。(雨天の場合翌日に順延)
[参考:2012.5.11毎日新聞、2012.5.3 読売新聞、2012.2.24、かながわ考古学財団HP]

過去の関連ニュース・情報
 2011.9.28西富岡・向畑遺跡 大豆の出納に関する古代木簡が出土
  奈良から平安時代の木簡が出土
 2010.2.19西富岡・向畑遺跡 4000年前の漆塗り土器が出土 2/20現場見学会
  縄文時代4000年前の水場遺構から赤と黒に塗り分けた壺型の漆塗り土器が出土
 2008.8.10西富岡・向畑遺跡 粘土の塊や板を帯状に並べた特殊な遺構発見
  縄文後期の層から粘土の塊や板を帯状に並べた特殊な遺構を発見
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太田市・笠松遺跡 上野国新田郡衙の溝や幹線道路の一部を発見

2012年05月11日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団は10日、太田市にある国指定史跡「上野国新田(にった)郡庁跡」近くの「笠松遺跡」(太田市新田小金井町)で、郡衙の溝や、陸奥国府(多賀城市)と平城京を結ぶ幹線道路の一部を発見したと発表した。
 溝は深さ1・1m、上幅3m、下幅1・3mと大きく、L字型だったことから、以前に県道の南側で検出された溝とつながって方形となり、郡衙の施設を囲っていたものと見られる。 幹線道路の一部と見られる道路の幅は約12mある。
 現地説明会が13日(日)午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:読売新聞、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]

過去の関連ニュース・情報
2009.7.25 笠松遺跡は国指定史跡「上野国新田郡庁跡」から約600m西に位置している。 すぐ北には東山道駅路が通っていると推定されている。 先月末までに古墳時代から奈良・平安時代までの住居、溝、谷、掘立柱建物などが見つかった。
 溝に区画された中に多数の掘立柱建物が見つかり、1号掘立柱建物は3間×5間の大型建物であり、役所などの公的な施設に用いられる建物と想定される。他にも10棟以上掘立柱建物があることが確認されている。[参考:群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]

 2009.1.14 上野国新田郡庁跡 正殿跡と石敷き通路が発見
 2008.12.4 太田市 上強戸遺跡群 奈良時代の大型車輪部材が東日本で初出土
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