歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

蔚州・霊鷲寺址 典型的な統一新羅時代の伽藍配置である双塔一金堂式構造を確認

2012年12月31日 | 韓国の遺跡・古墳など
 蔚州・霊鷲寺(영축사)は蔚山広域市蔚州郡青良面粟里(울산 울주군 청량면 율리 822-1)に位置し、1998.10.19に蔚山広域市記念物第24号に指定されている。
 13世紀末に高麗の高僧一然(1206-1289)によって書かれた三国遺事によれば(注1)、新羅第31代神文王3年(683)に宰相・忠元公が建議して建てることになったという。
 (注1) 寺中古記云。新羅眞骨第三十一主神文王代。永淳二年癸未[本文云元年, 誤]。 宰相忠元公。萇山國[卽東萊縣。亦名萊山國](注2)。溫井(注3)沐浴。還城次。到屈井驛桐旨野駐歇。忽見一人放鷹而逐雉。雉飛過金岳。杳無蹤迹。聞鈴尋之。到屈井縣官北井邊。鷹坐樹上。雉在井中。水渾血色。雉開兩翅。抱二雛焉。鷹亦如相惻隱而不敢攫也。公見之惻然有感。卜問此地。云可立寺。歸京啓於王。移其縣於他所。創寺於其地。名靈鷲寺(注4)焉。
 (注2) 萇山國(=長山国、장산국) :釜山広域市東菜(동래)区の昔の地名。朝鮮王朝時代に現在の釜山広域市一帯を管轄する東莱府が置かれた。15世紀末に書かれた東国輿地勝覧(1481年編纂、1487年刊行)に東莱県についての説明があり、東莱温泉のことが触れられている。
 (注3) 温井=温泉。東菜温泉のことと思われる。
 (注4) 靈鷲寺: 「完訳 三国遺事(金思訳)」(1980 六興出版)などでは、慶尚北道迎日郡長鬐(장기)面(現・浦項市長鬐面)に比定しているが、今回の考古学発掘を通じて霊鷲山にあるこの寺址が靈鷲寺址であることが確実となった。

 蔚山博物館は10月15日から、霊鷲寺(영축사)址の学術発掘調査(注5)を行い、その結果、東西に配置した双塔(三層石塔)を中心として、その中心北側辺に金堂を配置したいわゆる双塔一金堂の典型的な統一新羅時代伽藍構造をした寺院と分かった。
 (注5) 霊鷲寺の範囲と規模、伽藍配置などを確認して、現場に崩れたまま放置された石塔を復元整備するための基礎資料確保のための調査
 東塔から西に43m離れた地点で西塔基壇部施設、東西両塔の中心から北(後方)10mに金堂跡を確認した。5間×5間 (16.4×16.4m)の大きさの正方形形状であった。
 東西両塔は、塔の領域を表示する地台石のある塔区が確認され、慶州・感恩寺址(감은사지)三層石塔と千軍里(천군리)三層石塔の様相と似ているとしている。 また、石を整え積み連結する方式などが、新羅地方寺院中でも寺格が高いことが分かるという。
 さらに金堂跡南(前方)約15mのところに、中門跡とみられる正面3間、側面1間(全長12.5m、幅3.8m)の積心施設を確認した。
 中門址積心施設の西の方の地点には、統一新羅時代亀趺(귀부、亀形碑石礎石)が東に頭を置いたまま位置する。 亀趺は慶州成徳王陵鬼趺(성덕왕릉 귀부)ととても似ているという。
 中門跡北側では、ある種の儀式のためにわざと埋めた鎮檀具(土器)2点が確認された。
 他に出土遺物には、8世紀頃の典型的な欧陽詢(注5)体字体を使った「物/般若/宗河」の文字刻んだ碑石片1点と統一新羅~高麗時代の大量の瓦類、統一新羅時代金銅仏像2点、石塔相輪部覆鉢片と宝輪片1点などがある。
 (注5)欧陽詢(おうよう じゅん、557 - 641)は、唐代の儒家、書家。字は信本。
 金銅仏の1点は、金堂跡本尊仏地台石から東に約1.3mの地点で発見され、幅3.2㎝、高さ7.3㎝。頭は素髪で肉髪が大きくて高く表現された。製作時期は9世紀初期とみられる。
 もう一点は東塔跡の北側地台石と下臺面石との空間で発見された。 幅2.3㎝、高さ5.9㎝で、胸などの一部分に金箔が残っていた。 やはり統一新羅時代後期作とみられる。 
 瓦類は、寺の名前「霊鷲」を刻んだものを初めてとして、「大官」、「三寶」、「三巴」のような文字を刻んだものも出土した。
[参考:2012.12.13聨合ニュース、「完訳 三国遺事(金思訳)」(1980 六興出版)]

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安芸高田市・甲立古墳 第3次確認調査 後円部に埋葬施設の墓壙が見つかる 

2012年12月29日 | Weblog
 見落とししていたが、安芸高田市甲田町上甲立(かみこうたち)の甲立古墳の第3次確認調査が今年9月中旬から実施されており、先月11月27日(火)には確認調査現地説明会が開催された。
 そして一昨日27日には、毎日新聞より『「葬送儀礼の解明に」 国史跡指定の申請へ−』と題して記事が掲載された。
 内容は、「出土した5種類の埴輪の破片などから、4世紀後半の葬送儀礼の解明に役立つ極めてまれな前方後円墳と判明。2、3年後をめどに国史跡指定の申請をする。」というもの。

 調査の結果、古墳の規模などは、墳丘の全長77m、高さ最大約15,3m、後円部の直径は最大56m、高さ7.4m。 後円部3段、前方部2段築成。 2009年時点での墳丘の全長は75m、後円部の直径は最大42mであった。
 墳丘斜面の葺石が当時のまま残っているし、後円部にある埋葬施設も未盗掘で、保存状態は大変よいという。
 特に後円部には長大な墓壙の埋葬施設、家形埴輪を伴い埴輪祭祀がうかがえる石敷遺構、墳頂外周に廻る埴輪列など貴重な遺構が確認された。
 埋葬施設の墓壙(縦8・2m、横2・9m)は、木棺を埋めるために掘ったとしている。 後円部を囲むように並んでいた埴輪の破片31個(注1)も確認された。 家形埴輪の並び方が分かる例は珍しく、当時の葬送儀礼を解き明かす手がかりになるとしている。
(注1)昨年見つかった、円筒埴輪24基と楕円筒埴輪7基のことか。
■出土した埴輪: 円筒埴輪・楕円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪・家形埴輪・蓋形埴輪・短甲形埴輪、2009年には舟形埴輪片が出土している。
[参考:毎日新聞、安芸高田市HP]

過去の関連ニュース・情報
甲立古墳
■2011.11.17甲立古墳 後円上部から4世紀の埴輪列と石敷遺構が出土
 後円部分から、河原石を長方形に並べた石敷遺構と、周辺を囲むように4世紀代の円筒埴輪、楕円筒埴輪の埴輪列の跡が見つかった。石敷付近からは数基の家形埴輪の破片も見つかった
 石敷の下には、竪穴式石室か粘土槨の「墓壙」があると思われるが、今回も確認されていない模様。
■2010.11.20甲立古墳 県内最古の家形埴輪片?が出土
 前方部頂上付近の中心から1辺10~15cm、厚さ1cmの形象埴輪片10点が見つかった。筋状の模様や形から、県内最古の出土例とされる4世紀後半の家形埴輪の屋根の一部と推定。
 埋葬施設として、棺を入れるために掘られた長方形の穴の中に竪穴式石室か粘土槨の「墓壙」があるか確認中。
■2010.10.7甲立古墳 測量と部分発掘調査を実施
■2009.11.22甲立古墳 広島県内で3番目に大きい前方後円墳が見つかる
 全長75m、高さ13m、後円部は最大幅約42m、4世紀後半築造の前方後円墳と確認、地名から「甲立古墳」と命名された。
 埴輪を置くテラス状の段築が2段に築かれ、周辺から円筒や舟形埴輪片約20点が出土。
 未盗掘でほぼ原型のまま残っており、後円部中央に竪穴式石室があると見られる。
 前方後円墳の規模は、東広島市の三ツ城古墳(全長92m、5世紀後半)、神石高原町の辰の口古墳(全長77m、4世紀後半)に次ぎ3番目。

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大和郡山市・平城京南方遺跡 京域が九条までだった可能性を示す溝跡が見つかる

2012年12月24日 | Weblog
 大和郡山市の平城京南方遺跡で、平城京内を南北に走る「朱雀大路」が、京の南部にある東西方向の大通り「九条大路」で終わり、平城京の範囲(京域)が九条までだった可能性を示す溝跡が奈良県立橿原考古学研究所の発掘で23日までに見つかった。
 京域をめぐっては江戸時代以降、九条までとするのが通説だった。しかし、平成17~19年(2005-2007)の大和郡山市教委と元興寺文化財研究所の調査で、さらに南で「十条」とみられる区画跡が見つかり、朱雀大路とともに十条まで整備されていた可能性が浮上し、論争が起きた。
 朱雀大路を基準として碁盤の目状に整備されていた京域を決定づける重大な発見としている。
[参考:共同通信、産経新聞]

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渋川市・金井東裏遺跡 3人目の新たな人骨が出土

2012年12月23日 | Weblog
 約1500年前に噴火した榛名山二ッ岳火山灰層の下から甲(よろい)を着けた古墳時代(6世紀初め)の成人男性の人骨と乳児の頭骨が出土した、渋川市金井の金井東裏(かないひがしうら)遺跡で20日、新たに人骨1片が見つかった。
 新たな骨は、甲を着けた人骨が出土した溝から西に約19mほど離れた場所で見つかった。 「3人目」の可能性が極めて高いという。
[参考:共同通信、上毛新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2012.12.10金井東裏遺跡 古墳時代の鎧を着けた人骨1体が出土

追記
2013.5.11
 新たに見つかった人骨が首飾りをした推定身長143cmの成人女性のものであることがわかった。 右膝を曲げて右向きに倒れていた。  首や頭の付近には、首飾りや髪飾りとみられる緑色の管玉と青色のガラス玉が残っていた。
[参考:産経新聞]

2013.6.2
 新たに古墳や建物跡、多数の土器が見つかった。今回、4体目となる性別不明の人骨も見つかった。
 古墳は男性の人骨があった場所の北側で見つかり、直径約15m、高さ約2・5mの円形。 建物跡はかまどがあり住居跡とみられる2棟。[参考:共同通信]
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那須烏山市・長者ケ平官衙遺跡 米倉とみられる複数の建物跡が見つかる

2012年12月22日 | Weblog
 那須烏山市は22日、国指定史跡「長者ケ平(ちょうじゃがだいら)官衙(かんが)遺跡附東山道跡」(那須烏山市鴻野山)で、米倉とみられる建物跡が複数確認されたと発表した。
 総柱式の掘立柱建物跡6棟、礎石建物跡5棟を確認した。
  現地説明会が23日(日)午前10~11時に開かれる。
[参考:産経新聞、那須烏山市HP]
 
過去の関連ニュース・情報
 2008.11.22 長者ケ平遺跡と東山道、タツ街道 国史跡に国文化審が答申

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東温市・揚り畑遺跡 1世紀頃の動物形土製品が出土

2012年12月22日 | Weblog
 東温市北方甲2081−1の弥生時代中後期(1~3世紀)の集落跡「揚り畑(あがりはた)遺跡」で、動物の頭部を模ったとみられる動物形土製品(直径2cm)1点が集落の西端に近い直径80cmの穴から出土した。 一緒に出た土器から、弥生時代中期後葉(1世紀)のものとみられる。
 何の動物か「不明」だが、何らかの祭祀に使われたのではないかとしている。 弥生時代の動物型土製品は県内3例目という。
 また、集落の中心に近い場所で、同じ頃の工房跡と見られる直径9・5mの竪穴住居跡が見つかった。
 揚り畑遺跡第7次調査の現地説明会が23日(日)10:30から開かれる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、2012.12.14東温市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2012.11.9 揚り畑遺跡 分銅形土製品を発掘

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京都市上京区 聚楽第跡 本丸の石垣とみられる遺構、東西に32m発見

2012年12月22日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは21日、豊臣秀吉が造った聚楽第跡(京都市上京区)で、本丸南端の石垣遺構を長さ32mにわたって確認したと発表した。
 聚楽第は、関白になった豊臣秀吉が政務を執るため平安宮・大内裏跡に1586年造営し、翌年完成した。 跡継ぎとなった甥の秀次に譲り渡されたが、その後秀次は謀反の疑いをかけられ切腹し、聚楽第は95年に徹底的に破壊され、遺構は残っていないと考えられていた。
 調査では、工事現場の地下6mから自然石を積み上げた東西方向の石垣を確認。 南堀の一部とみられ、石は約70個あり、一辺0.7~1.5mの花崗岩の自然石を使用し、見栄えを意識して、石垣表面は約55度の緩い傾斜で東に向かうにつれて大きな石を積んでいた。 最も大きなものは重さ1.8トン。 高さは4段に積んだところも残っており、最大で約2.3m。 ただ、石垣の上部は破壊されているため、石垣全体の高さは不明。 当時、城郭の門に接する石垣は巨石を用いることがあり、近くに本丸正面の門があったとみられる。
 まだ遺構の多くが残っている可能性があるという。
 今月24日(月・振休)10時~15時に現地で一般公開される。
[参考:京都新聞、読売新聞、産経新聞、NHKニュース、京都府埋蔵文化財調査研究センター]

秀吉の聚楽第、本丸の石垣とみられる遺構発見(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 聚楽第

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葛城市・当麻寺 菩薩面の1点が建保3年(1215)に制作されたことを確認

2012年12月22日 | Weblog
 葛城市歴史博物館が21日、当麻寺(葛城市)に伝わる中将姫伝説を再現する寺の「練供養会式(ねりくようえしき)」で以前使われた菩薩面の1点が、鎌倉時代の建保3(1215)年に制作されたことが分かったと発表した。
 鎌倉制作と伝わる1点について、空洞になっている面の頭髪部の内側に記されていた墨書銘文を専門家に依頼した結果、「建はう三年」「範忠(のりただ)ツクル」などの文字が解読され、制作年が「建保3年」、作者が「範忠」などと確認された。
 当麻寺の伝承によれば、天平宝宇7年(763)に中将姫により当麻曼荼羅図が織り上げられたと伝わる。 奈良時代の中将姫伝説が、鎌倉時代には信仰として定着していた歴史を知る貴重な手がかりになるとしている。
 当麻曼荼羅完成1250年を記念し、特別陳列展「当麻寺菩薩面と古代の匠のプロフィール」が葛城市歴史博物館にて22日から来年1月20日まで開催される。平成16年まで練供養会式で使用された菩薩面28点などが展示される。
[参考:産経新聞]
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草津市・中沢遺跡 集落跡から全国2例目となる「鍬形石」が出土

2012年12月21日 | Weblog
 滋賀県草津市教委が20日、古墳時代前~中期(4~5世紀)のものとみられる腕輪形の石製品「鍬形石」が草津、栗東両市にまたがる集落遺跡「中沢遺跡」の川跡からから出土したと発表した。 出土地点は、同市西渋川2丁目の県立短大跡地。
 出土した鍬形石は、縦8・9cm、横8・7cm、厚さ1・9cmで、下部が欠けていた。 表面の特徴から、北陸産の緑色凝灰岩で作られた可能性が高いという。 同じ石材の鍬形石は奈良県と岐阜県に集中している。 水辺での祭祀に使われたのではみている。
 鍬形石の集落跡からの出土は、天理市の平等坊・岩室遺跡に次ぎ全国2例目となる。
 草津宿街道交流館(草津市草津3丁目)で来年1月5~14日(7日は休館)に公開される。
[参考:産経新聞、京都新聞、朝日新聞、NHK滋賀]

過去の関連ニュース・情報
 2012.8.25中沢遺跡 祭祀用の子持勾玉が出土

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大野城市・古野遺跡 地中に設置した石室から12世紀前半の経筒が見つかる、内部に経巻10巻

2012年12月20日 | Weblog
 大野城市教委と九州歴史資料館(小郡市)は18日、同市乙金の古野遺跡で見つかった銅製の経筒(高さ約25cm、直径約10cm)の中から、仏教の経典を書き写したとみられる経巻10巻を、X線CTスキャナーで確認したと発表した。
 古野遺跡は日本屈指の経塚群がある四王寺山の麓に位置している。
 今年5月、未盗掘の経塚を発見し、地中に設置された石室から経筒を見つけた。経筒は筒に竹のような節がある「四王寺型」で蓋があり、底には銅鏡がはめ込まれていた。蓋と筒が錆びて接着しており開封できなかったため、同資料館がCTで内部を調査したところ、経巻10巻が経筒内部に残っていることを確認した。
 調査成果の発表が18日、九州歴史資料館で行われた。
 19日から来年1月10日まで、大野城市役所の歴史資料展示室で経筒や調査時のパネルを公開する。
[参考:共同通信、西日本新聞、産経新聞、朝日新聞、読売新聞、2012.12.12福岡県HP]

過去の関連ニュース・情報
 2011.12.16 古野遺跡 丘陵から24基の小規模方墳と円墳(群集墳)を発掘、四禽文鏡も出土

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大阪市・難波京/北河堀町所在遺跡 7~8世紀の大規模建物跡が見つかる

2012年12月19日 | Weblog
 大阪文化財研究所が19日、大阪市天王寺区の難波京跡(北河堀町所在遺跡)(注2)で、7〜8世紀の大規模な建物跡5棟が見つかったと発表した。 (注2)四天王寺から南へ500m、JR天王寺駅から北へ250mの場所。
 格式の高い1棟(南北約18m、東西約10m)(注2)を囲むように他の4棟が東西南北を軸に規則的に配置され、2500㎡以上の広大な敷地を有していた。位の高い貴族の邸宅か役所だったとみられる。
(注2)6間×3間で、全周に庇付き
 現地説明会が、22日(土)13時00分から開かれる。
[参考:共同通信、毎日新聞、大阪市HP]

過去の関連ニュース・情報
 難波京

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京畿義王市・円通寺は世宗妃・昭憲王后の願刹

2012年12月19日 | 韓国の遺跡・古墳など
 京畿道義王市(注1)清渓洞清渓山の中腹に跡だけが残った円通寺(원통사)という寺(注2)は、朝鮮第4代世宗(1397-1450)の昭憲王后沈氏(1395-1446)が発願して重創した朝鮮王室の願刹であった。
(注1)2007年に儀旺市から義王市に改称
(注2)ソウルの南にあり、漢江を越えて約15kmの距離。清渓山(標高618m)の中腹、南西斜面にある。
 水原大博物館は11日、義王文化院の依頼で行った円通寺址の調査過程で、このような事実を裏付ける決定的な文献記録と考古学遺物を同時に発見したと発表した。
 文献記録は、朝鮮前期代の文臣であり世祖時代の高僧・慧覚尊者信眉(1403-1480)の弟である金守温(1409-1481)文集の『拭疣集』で、昭憲王后が発願して重創し、それを再び彼女の末の息子・永膺大君(1434-67)がより一層大きく重創した事実を記録した『円通菴重創記』である。
 この重創期によれば、円通寺は昭憲王后が君主世宗の萬壽無彊(ばんじゅむきょう)を祈願して内需司に命を下して、洪煕乙巳(注3)、すなわち、世宗7年(1425)に僧侶海幢を代表に選んで重創したという。 この時、南向の仏殿(注4)を中心にその両側(東西)に禅堂と僧堂を建てた。
(注3)洪熙(こうき)の年号は、明朝第4代洪熙皇帝(1378-1425)の在位期間1424-1425に当るもの。
(注4)1425年に重創する前の建物はこの仏堂があるが、他には不明。
 その後、世宗11年(1429)に応真殿を建てたこと、さらに、昭憲王后死後には世宗と王后の間の8番目息子であり首陽大君世祖(1417-1468)の弟である永膺大君(1434-1467)が、龍門寺住持出身である大禅師戒眼を招聘して寺刹容貌を大々的に一新して世祖8年(1462) 8月には落成式を記念して大規模法会を開いたことなどが記されている。 これからみて、円通寺は昭憲王后の願刹に間違いないとしている。

 考古遺物としては、「洪煕」という年代を刻んだ瓦が発見された。「洪熙」は1425年の1年だけ使用された中国明国年号であり、この年はまさに金守溫の円通庵重創記で記している昭憲王后が円通庵を創建し始めたその年である。 2001年に世宗大博物館が円通寺址の地表調査を実施したことがあり、この時、「洪○」という銘文瓦が収集されたが、今回の調査で「洪煕」という字だったことが確認された。

 王室願刹として繁栄した円通庵が朝鮮中期以後に編纂された『新東国輿地勝覧』(1530編纂)では円通寺の名前が見られないことから、これ以前のある時期に廃寺になったとみられると推定される。
[参考:: 聨合ニュースほか]
 備考:記事の内容に腑に落ちない部分もあり、また、円通菴重創記の原文がわからないので、推定をまじえてまとめてみた。

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佐世保市・福井洞窟 旧石器時代終末の地層から炉跡が見つかる

2012年12月19日 | Weblog
 佐世保市教委は18日、同市吉井町福井の国指定史跡「福井洞窟」で、同じ洞窟を旧石器~縄文の複数の時代で生活の場として繰り返し利用した様子がうかがえる痕跡を発見したと発表した。
 洞窟開口部付近で地表から深さ4mの旧石器時代終末(約1万8千~1万6千年前)より古い地層から、1・5m×2mの範囲で人為的に並べられたとみられる砂岩の大小の石が敷き詰められた「石敷き」が見つかった。
 旧石器時代終末の地層(地表から深さ2〜3・5m)からは、細石刃や石核などの石器や炉の跡が出土した。 石器を製作していたとみられる。 炉の跡は3基見つかり、最大で約75cm×約67cm。 最も古いとみられる1カ所は直径約50cmの円形で、焦げたり赤く変色した土や石が残っていた。 近くから、炭化物や石器を製作した際の細かい破片も多数見つかった。
 縄文時代草創期(約1万6千~1万4千年前)の石器や土器、同早期(約9千~7千年前)の黒曜石の剥片も見つかった。
 一般向けの現地説明会が22日(土)開かれる。
[参考:共同通信、西日本新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.10.13 佐世保市・直谷岩陰遺跡 土器と細石器を同時発見 

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韓国江原道寧越郡・興教寺(世達寺)址 弓裔が出家した地、統一新羅末の瓦類が多量に出土

2012年12月16日 | 韓国の遺跡・古墳など
 中部考古学研究所は14日、興教寺(흥교사)場所に対する発掘調査を実施した結果、寺刹関連建物跡約10棟をはじめとする統一新羅時代から高麗時代瓦の破片と鴟尾(望瓦)、青磁片などの遺物を多量に収集したと発表した。
 興教寺は三国史記弓裔列伝によれば、王の側室の子として生まれた弓裔(궁예、857/861?-918)は、王の殺害命令を受けたが、乳母の助けで慶州を脱出し、この地域の実力者、箕萱(기훤)に寄託する前まで僧侶として生活した寺刹である。 興教寺は高麗時代の名前であり弓裔当時には世達寺(세달사)といった。
 世達寺あるいは興教寺は、その正確な位置が分からなかったが2004年文化遺跡分布地図を作成する過程で初めてその場所が分かり始めた。 特に今年5月26日にはその区域中で「興教」という字が書かれた高麗末あるいは朝鮮初期瓦が発見され、位置が事実上確定した。
 調査団は、統一新羅末期あるいは高麗初期に寺勢が大きかったことが窺える建物跡と遺物を確認し、さらに朝鮮時代建物跡も確認することによって興教寺が朝鮮時代に重修された可能性があるとしている。
[参考:聨合ニュース]
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韓国江原道江陵市・崛山寺址 僧房と茶室跡や「天慶」銘文瓦が見つかる

2012年12月15日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立中原文化財研究所は12日、江原道江陵市の崛山寺址(굴산사서、史跡448号)に対する発掘調査結果、僧房と茶室跡や、遼国(916-1125)の年号の一つである「天慶三年」(1113)が刻まれた銘文瓦を発見したと発表した。
 江原地域の伝統的な暖房施設である大型コクル(코클、ペチカの一種)とみられる下部構造が見つかった。
 一角から、竈(かまど)、小型鉄製釜、青銅鉢、青磁片などが出土し、茶室あるいは茶道と関連した施設と推定される。
 「天慶」は遼国最後の皇帝である天祚帝(てんそてい,1075-1128)が1111~1120年まで使った年号だ。この年号の銘文瓦は崛山寺近隣の襄陽・陳田寺(양양 진전사)で発見されたことがあり、二つの寺刹が同じ1113年に重修されたことを知らせる資料となった。
 また、遼国年号を使った遺物が発見されることにより、高麗と遼国間の活発な交流関係などが今一度現れた。
[参考:聯合ニュース]

 西暦1113年、中国の北宋では政和三年、遼は高麗と北宋の間の土地を分断する形で領有していた。この時代、高麗は遼に服属していたことがうかがえる。また、襄陽・陳田寺では「天徳」以外に「大徳」、「成化三年」の銘文瓦が出土しており、「大徳」は中国元代の1297-1307の年号、「成化三年」は中国明代1467の年号である。

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