「天神さま」として知られる菅原道真(845‐903)の九州にまつわる逸話が数多く描かれた江戸時代の珍しい絵巻が、長崎県対馬市厳原町の八幡宮神社に保管されていることが分かった。道真関連の絵巻は「北野天神縁起絵巻」が有名だが、対馬の絵巻は道真の九州到着、梅ケ枝餅の起こりなど九州での道真の姿を中心にした「太宰府天満宮縁起」ともいえる内容。こうした絵巻の存在が確認されたのは初めてで、研究者たちは「天神縁起研究に一石を投じる貴重な資料」と強い関心を寄せている。
この絵巻は23日から福岡県太宰府市の九州国立博物館で始まる
特別展「国宝 天神さま」で展示される。
保管されていた絵巻は、上巻(縦28cm、長さ15.5m)、下巻(縦28cm、長さ19.1m)の2巻。特別展準備中に情報が寄せられ、九州国博が調査した。
全25段からなり、内容は中世以来の「天神縁起」に基づいている。しかし、北野天満宮の霊験譚(たん)や対馬に関する記述などは見られず、道真が博多に上陸した時、住民たちが綱で敷物を作り出迎えたとする「綱敷(つなしき)天神」、清流に顔を映したことにちなむ「水鏡天神」、梅ケ枝餅の起源ともいえる「麹(こうじ)飯のもてなし」などの場面が、的確な構図や品のよい色づかいで描かれている。制作年代などを記した奥書はなく、誰がどこで何のために作成したのか、なぜ対馬の八幡宮に保管されていたのかなどは分かっていない。九州国博は、構図や様式、彩色などから「江戸時代前半(17世紀末‐18世紀前半)のもので、狩野派系絵師による近世絵巻の優れた一例」(金井裕子研究員)としている。
「天神縁起絵巻」は、中世(鎌倉‐室町時代)に描かれた約30巻のほか、江戸時代のものとしては現在、数巻が知られているにすぎず、近世の天神縁起絵巻自体が珍しい。また、この絵巻は他の天神縁起絵巻には見られない場面や図柄が多いこと、さらに九州という地域色が濃厚な点も特色で、九州国博の松川博一研究員は「九州に特化した現存唯一の天神縁起絵巻として第一級の資料」と話している。[参考:西日本新聞9/14]
備考
厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行幸し、山頂に磐境を設け神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀ったといい、白鳳6年、天武天皇の命により清水山の麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのに始まると伝える。
上県郡のものを上津八幡宮(現 海神神社)、下県郡の当社を下津八幡宮と並び称した。
戦国時代ごろから府中八幡宮と称されるようになった。
明治4年(1871年)、和多都美神社に改称し、また対馬国一宮であるとしたが、明治23年(1890年)に元の八幡宮に戻して地名から「厳原八幡宮神社」とした。
厳原八幡宮神社宝物殿には、「高蒔絵三十六歌仙額」(対馬市指定文化財)が奉納されている。
対馬藩2代藩主、宗義成(1604~1657)が正保2年(1645)に奉納したという。
制作者は、「柴垣蔦蒔絵硯箱(しばがきつたまきえすずりばこ)」(重文)と同じ幕府お抱え蒔絵師古満休意(こまきゅうい、?-1663))との説がある。
今回見つかった絵巻は、これより約50~70年後位のもの。
大宰府から10kmしか離れていないところに、対馬藩領田代(飛び領、現在の鳥栖市東部、高尾、基山)1万3千石があった。何か関係があるかも。
写真は「梅ヶ枝餅」(かさの家)
大宰府天満宮の門前で、この「梅ヶ枝餅」を販売している店は、かさの家、寺田屋、きくち、三宅商店、やす武、中村屋などあるそうですが、起源を遡ると平安時代になるそうです。ですから、本家はとっくに無くなっていて、どの店でも扱える物なのですね。餅に入れる梅の刻印を、それぞれの店ごとに変えています。
さて、かさの家さんの「梅ヶ枝餅」由来より、
菅原の道真の太宰府配流にあたり、太政官は「食・馬を給することなかれ」の命令を発したため、役人たちは、道真に食物を与えることはおろか、口をきくことも禁じたという。道真は罪人同様の生活を強いられ、謫居の太宰府南館は老巧化して雨漏りもひどく、床は朽ち緑も落ちている廃屋状態。食事にも事欠くという悲惨な暮らしぶりを見かねた近くの老婆(浄妙尼)が、お好きだった餅を梅の枝にさして差し上げた。道真の死後、この老婆が道真臨終の地に浄妙尼寺を建立(榎寺、明治の廃仏棄釈後は榎社)し道真の菩提を弔ったという。天神様人気の高まりで、道真の墓所のある太宰府天満宮の参道には門前町が形成され、さいふ参りの土産としてこの伝説を基にした梅ヶ枝餅が名物になった。生地はもち米とうるちで中に小豆あんを入れて焼き上げたもの。