歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

エルビス・プレスリー・ファンのひとり言 3

2008年09月30日 | Weblog
 1963年当時のEPFCJ(エルビス・プレスリー・オブ・ファンクラブ・オブ・ジャパン)の会報を見ていたら、横浜支部長の挨拶文が載せられていた。
当時の横浜支部長とは小泉□□さん。元首相・小泉純一郎さんの実弟で、今は秘書をされているとか。小泉純一郎さんも同様にファンクラブの会員だったらしい。
写真は、当時の試写会の招待はがき。ともに1963年に朝日講堂で行われているが、「GIRLS! GIRLS! GIRLS!」が3月26日、「ヤング・ヤング・パレード」が10月4日と記載されている。やはり、14歳の1963年当時からファンになって観ていたのだった。

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鳥取・梅田萱峯遺跡 弥生期と古墳期の竪穴住居跡新たに10棟

2008年09月30日 | Weblog
 鳥取県埋蔵文化財センターは、梅田萱峯遺跡から、弥生時代中期末(紀元前後)の竪穴住居跡(直径3~8m)4棟と古墳時代中~後期(5世紀後半~6世紀)の竪穴住居跡(4~5m四方)6棟が新たに見つかったと発表した。有力な支配層が治めた集落があったことを示すとしている。
[参考:読売新聞、前出]
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藤原宮跡 宮殿造営の運河跡発見 資材を牛馬で運ぶ跡も

2008年09月29日 | Weblog
現地見学会に900人が訪れたと報道 [参考:9/28読売新聞]

 奈良文化財研究所が24日、持統天皇が開いた藤原京(694-710年)の宮殿南門跡南側で、宮殿造営のために建築資材を運んだ運河跡2本が見つかったことを発表した。貴族や役人が儀式を行う広場「朝庭」で出土した。
 運河跡はこれまで、南北方向に1本が設けられたとされていたが、今回の調査で大規模な運河網があった可能性が高まった。
運河跡からは材木などを運んだとみられる牛や馬の骨も出土し、宮殿造営の様子を示す資料になりそうだ。
 運河跡は、南北方向に長さ約7m、幅約4m、深さ約2mを確認。本流(幅3・5-4m、深さ2m)は、北側4カ所で見つかっている運河跡につながるという。過去に見つかった分を合わせると、運河は南北方向に総延長500m以上に及ぶことが分かった。
 さらに、南北方向の運河から北東へ延びる長さ約10mの2本目の運河も発見された。本流から北東方向に掘られた支流は浅く、輸送以外に運河の水量調整の役割を持っていた可能性がある。
 溝は大極殿などの主要部を建てる際に埋められ、10年ほどしか存在しなかったようだ。
 藤原宮造営時の作業員が詠んだとされる万葉集の歌によると、宮殿の柱などに使われる木材は、滋賀県南部の田上(たなかみ)山の木を伐採し、筏を組み宇治川や木津川などを経て運び込まれ、宮殿内では運河を使ったとみられている。
 現地説明会は27日午後1時半から。問合せは同研究所(0744・24・1122)へ。

発掘調査現地説明会
飛鳥藤原第153次(藤原宮朝堂院朝庭)発掘調査の現地説明会開催
【日 時】 平成20年 9月27日(土) 午後1時30分から1回 ※小雨決行
【場 所】 奈良県橿原市高殿町 「飛鳥藤原第153次(藤原宮朝堂院朝庭)」発掘調査現場
[参考:読売新聞、共同通信、奈良文化財研究所HP]
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鳥取県・梅田萱峯遺跡 現地説明会開催

2008年09月28日 | Weblog
現地説明会は、秋晴れのもと、73名の参加とのことでした。

 県教育委員会埋蔵文化財センターのHPで表題の現地説明会開催予定が発表されています。
梅田萱峯(うめだかやうね)遺跡現地説明会開催
 鳥取県埋蔵文化財センターでは、一般国道9号(東伯中山道路)の改築に伴って、梅田萱峯遺跡の発掘調査を行っています。
 調査の結果、弥生時代や古墳時代の集落跡や古代の鍛冶炉などが見つかりました。
 日時:平成20年9月27日(土)午後1時30分から3時(少雨決行)
 場所:梅田萱峯遺跡(西伯郡大山町八重)
 問合せ先:鳥取県埋蔵文化財センター琴浦調査事務所 電話:080-1914-5729
[参考:鳥取県教育委員会埋蔵文化財センター、前出]
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世界遺産推薦候補 5件追加  文化庁

2008年09月26日 | Weblog
 文化庁は26日、新たな世界文化遺産候補として、地方自治体から公募した32件のうち「金と銀の島、佐渡」(新潟県)など5件を選んだ。これにより日本の遺産候補は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の暫定リストに既に掲載されている「平泉の文化遺産」(岩手県)など8件を含め計13件となる。文化庁はこれで自治体公募を打ち切る。
 選ばれた5件は次の通り。
【北海道・北東北の縄文遺跡群】(北海道、青森、岩手、秋田)
 三内丸山遺跡(青森)、大湯環状列石(秋田)
【金と銀の島、佐渡】(新潟)
 西三川砂金山、相川金銀山など16-20世紀の鉱山跡
【百舌鳥・古市古墳群】(大阪)
 大山古墳(伝仁徳天皇陵)など4-6世紀に造られた87の古墳で構成する。
【九州・山口の近代化産業遺産群】(山口、福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島)
 非西洋地域で初の近代工業化の過程を示す19世紀中ごろから20世紀初めまでの遺産。三池炭鉱旧万田坑施設(熊本)、旧集成館機械工場(鹿児島)など
【宗像・沖ノ島と関連遺産群】(福岡)
 沖ノ島を中心に、日本固有の神道の崇拝形態の変遷をうかがわせる祭祀遺跡。沖ノ島、宗像神社などで構成
[参考:共同通信、朝日新聞、時事通信]

沖ノ島など5件追加=世界文化遺産候補-文化庁(時事通信) - goo ニュース
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対馬市・厳原八幡宮 江戸時代前半の新「太宰府天満宮縁起」

2008年09月26日 | Weblog
 「天神さま」として知られる菅原道真(845‐903)の九州にまつわる逸話が数多く描かれた江戸時代の珍しい絵巻が、長崎県対馬市厳原町の八幡宮神社に保管されていることが分かった。道真関連の絵巻は「北野天神縁起絵巻」が有名だが、対馬の絵巻は道真の九州到着、梅ケ枝餅の起こりなど九州での道真の姿を中心にした「太宰府天満宮縁起」ともいえる内容。こうした絵巻の存在が確認されたのは初めてで、研究者たちは「天神縁起研究に一石を投じる貴重な資料」と強い関心を寄せている。
 この絵巻は23日から福岡県太宰府市の九州国立博物館で始まる特別展「国宝 天神さま」で展示される。
 保管されていた絵巻は、上巻(縦28cm、長さ15.5m)、下巻(縦28cm、長さ19.1m)の2巻。特別展準備中に情報が寄せられ、九州国博が調査した。
 全25段からなり、内容は中世以来の「天神縁起」に基づいている。しかし、北野天満宮の霊験譚(たん)や対馬に関する記述などは見られず、道真が博多に上陸した時、住民たちが綱で敷物を作り出迎えたとする「綱敷(つなしき)天神」、清流に顔を映したことにちなむ「水鏡天神」、梅ケ枝餅の起源ともいえる「麹(こうじ)飯のもてなし」などの場面が、的確な構図や品のよい色づかいで描かれている。制作年代などを記した奥書はなく、誰がどこで何のために作成したのか、なぜ対馬の八幡宮に保管されていたのかなどは分かっていない。九州国博は、構図や様式、彩色などから「江戸時代前半(17世紀末‐18世紀前半)のもので、狩野派系絵師による近世絵巻の優れた一例」(金井裕子研究員)としている。
 「天神縁起絵巻」は、中世(鎌倉‐室町時代)に描かれた約30巻のほか、江戸時代のものとしては現在、数巻が知られているにすぎず、近世の天神縁起絵巻自体が珍しい。また、この絵巻は他の天神縁起絵巻には見られない場面や図柄が多いこと、さらに九州という地域色が濃厚な点も特色で、九州国博の松川博一研究員は「九州に特化した現存唯一の天神縁起絵巻として第一級の資料」と話している。[参考:西日本新聞9/14]
備考
厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)
 社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行幸し、山頂に磐境を設け神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀ったといい、白鳳6年、天武天皇の命により清水山の麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのに始まると伝える。
 上県郡のものを上津八幡宮(現 海神神社)、下県郡の当社を下津八幡宮と並び称した。
 戦国時代ごろから府中八幡宮と称されるようになった。
 明治4年(1871年)、和多都美神社に改称し、また対馬国一宮であるとしたが、明治23年(1890年)に元の八幡宮に戻して地名から「厳原八幡宮神社」とした。

 厳原八幡宮神社宝物殿には、「高蒔絵三十六歌仙額」(対馬市指定文化財)が奉納されている。
 対馬藩2代藩主、宗義成(1604~1657)が正保2年(1645)に奉納したという。
 制作者は、「柴垣蔦蒔絵硯箱(しばがきつたまきえすずりばこ)」(重文)と同じ幕府お抱え蒔絵師古満休意(こまきゅうい、?-1663))との説がある。
 今回見つかった絵巻は、これより約50~70年後位のもの。

 大宰府から10kmしか離れていないところに、対馬藩領田代(飛び領、現在の鳥栖市東部、高尾、基山)1万3千石があった。何か関係があるかも。

写真は「梅ヶ枝餅」(かさの家)
 大宰府天満宮の門前で、この「梅ヶ枝餅」を販売している店は、かさの家、寺田屋、きくち、三宅商店、やす武、中村屋などあるそうですが、起源を遡ると平安時代になるそうです。ですから、本家はとっくに無くなっていて、どの店でも扱える物なのですね。餅に入れる梅の刻印を、それぞれの店ごとに変えています。
さて、かさの家さんの「梅ヶ枝餅」由来より、
 菅原の道真の太宰府配流にあたり、太政官は「食・馬を給することなかれ」の命令を発したため、役人たちは、道真に食物を与えることはおろか、口をきくことも禁じたという。道真は罪人同様の生活を強いられ、謫居の太宰府南館は老巧化して雨漏りもひどく、床は朽ち緑も落ちている廃屋状態。食事にも事欠くという悲惨な暮らしぶりを見かねた近くの老婆(浄妙尼)が、お好きだった餅を梅の枝にさして差し上げた。道真の死後、この老婆が道真臨終の地に浄妙尼寺を建立(榎寺、明治の廃仏棄釈後は榎社)し道真の菩提を弔ったという。天神様人気の高まりで、道真の墓所のある太宰府天満宮の参道には門前町が形成され、さいふ参りの土産としてこの伝説を基にした梅ヶ枝餅が名物になった。生地はもち米とうるちで中に小豆あんを入れて焼き上げたもの。
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明日香村・檜前遺跡群 7世紀後半~8世紀前半の大規模な建物群跡が見つかる

2008年09月26日 | Weblog
 村教委は25日、飛鳥時代(7世紀)の渡来系氏族、東漢氏(やまとのあやうじ)の拠点とされる檜前(ひのくま)遺跡群(奈良県明日香村)で、7世紀後半~8世紀前半の大規模な建物群跡が見つかったことを発表した。
 東漢氏の氏寺される檜隈(ひのくま)寺跡に近く、同氏の居宅跡の可能性が高いという。東漢氏は、当時権力をふるった蘇我氏と密接な関係があったとされるが、日本書紀などでの記載は乏しく、今回の発見は一族の実態を知る上で貴重な資料となりそうだ。
 建物跡は、檜隈寺跡の南約200mの見晴らしのよい尾根上に、5棟がほぼ1列に並んだ状態で見つかった。最大の建物は南北3・6m、東西10・5mの床張り構造で、すぐ南側には北側に庇の付いた建物跡(南北3・6m以上、東西5・4m)、中央部で間仕切り用の柱のある建物跡(東西7・5m、南北3m)などが見つかった。
東漢氏は、大陸の最先端技術を日本にもたらし、外交や軍事面で権力を築いたが、大化の改新(645年)による蘇我氏滅亡とともに衰退。677年には天武天皇に「七つの大罪を犯した」と指弾されたが、存続を許されて再び力をつけた。今回の建物群跡は、東漢氏の再興期に建てられた可能性が高く、一族の復興のシンボルとなる寺の造営や維持管理に携わった人が住んだのではないかとみている。約100年の間に3時期に分けられ、数回建て替えられたとみられる。東漢氏が飛鳥の都近くを拠点に暮らしていたことを裏付けた。
 現地見学会が27日午前10時~午後3時から開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、前出]

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奥州市 長者ヶ原廃寺に北門跡確認

2008年09月26日 | Weblog
 世界遺産登録を目指す「平泉の文化遺産」の構成資産の一つ、「長者ヶ原廃寺跡」(奥州市衣川区)の第11次発掘調査が終わり、24日、報道関係者らを対象に現地説明会が行われた。
 今回の調査で、未確認となっていた北門跡が確認できた。
 同廃寺跡は、奥州藤原氏が平泉一帯を統治する100年前に建てられたとされる寺院の跡。同市世界遺産登録推進室によると、1972年の第2次調査で見つかった土塁外側の堀跡が約4・7mにわたって途切れていることが確認された。さらに、その近くにある敷地区画用の築地塀跡もほぼ真ん中あたりが途切れていたことがわかり、この途切れた部分を人々が往来していたと推測される。
 また、堀の途切れた部分には、柱を立てたとみられる大きな穴の跡が2か所見つかり、北門の柱を据えたものと思われる。かなりの格式の寺だったことが推測されるという。
 同推進室は「北門跡の発見により、格式の高い寺だったことがわかった。世界遺産登録に向けての弾みになることを期待している」と話している。
 一般向けの説明会は28日に行われる。

長者ヶ原廃寺跡第11次発掘調査の現地説明会を下記の要領で開催します。
期 日: 平成20年9月28日(日) 13時30分より
会 場: 史跡長者ヶ原廃寺跡(奥州市衣川区田中西)
      ※国道4号から長者ヶ原廃寺跡への案内看板が出ています。
内 容: 北門跡の調査、東辺築地跡の検出

長者ケ原廃寺跡
 平安時代中期、AD1000年頃に建てられた寺院の跡で、1辺100mの築地塀で囲まれている。
 中には3棟の礎石建物、すなわち本堂(5間×5間)、西建物(3間×3間)、南中央に南門(3間×2間)があったとみられている。
 本堂(金堂)跡と南門跡の中軸線は南北方向であり、さらに南に延長すると中尊寺が鎮座する関山(かんざん)に到達する。
この寺院を建立したのは奥州藤原氏の祖先である安倍氏ではないかと考えられている。
 中尊寺も嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁が関山弘台寿院として開山したといわれているが、確かな史料や発掘調査の結果はみられていない。
[参考:読売新聞、奥州市商工観光部商業観光課HP/おうしゅう旅浪漫]
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松山市・樽味四反地遺跡 大型袋状鉄斧など出土

2008年09月25日 | Weblog
 松山市教育委員会と市埋蔵文化財センターは25日、同市樽味4丁目の樽味四反地遺跡20次調査で、古墳時代中期以前のものとしては西日本有数の大きさを誇る同時期の袋状鉄斧(てっぷ)や、弥生時代末の竪穴建物跡1棟などが見つかったと発表した。
 同遺跡では弥生時代末―古墳時代前期の権力者のものとみられる大型建物跡3棟が発見され、全国的に注目されている。7月1日に始まった20次調査は大型建物跡の東約90mのエリア約418㎡で、10月31日まで続く予定。
 袋状鉄斧は長さ約18・5cm、最大幅約8cm、重さ約1キロで完全に近い状態。当時、鉄は貴重で、副葬品以外として建物跡などから出土する例は少ない。 
[参考:愛媛新聞社]

「樽味四反地遺跡20次調査」現地説明会について
下記の要領で、発掘調査現地説明会を開催します。事前申し込み等は不要。
[日時]:平成20年9月27日(土)午前10時~(雨天決行)
[場所]:松山市樽味四丁目2番地
松山市教育委員会事務局 文化財課 埋蔵文化財担当
TEL:089-948-6605 FAX:089-931-6248

  2006年3月に3世紀後半(古墳時代初め)の高床式大型建物跡が確認された愛媛県松山市の遺跡。南北10.6m、東西9.6mの総柱建物で館や祭殿などとの見方もある。付近からはこれまでに、100㎡以上の同じ様な大型建物跡2棟が見つかっている。
 昨年度に確認調査をおこなった西側(19次調査)では、弥生時代前期の溝や弥生時代後期後半の竪穴式住居址、弥生時代終末の土坑、古墳時代後期(6世紀)および飛鳥時代(7世紀後半ころ)の竪穴式住居址、古墳時代終末から奈良時代にかけての掘立柱建物跡などがみつかっています。また、平安時代と室町時代の地鎮に関連すると考えられる遺構などもみつかっています。
[参考:財団法人松山市生涯学習振興財団 埋蔵文化財センター]
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伊賀市・上野城趾 筒井定次時代の土塁発見

2008年09月25日 | Weblog
 三重県伊賀市上野丸之内の上野城跡(国史跡)の第16次発掘調査を進めている同市教委は24日、藤堂高虎以前の伊賀藩主・筒井定次が16世紀後半に築いたとみられる土塁を発掘したことを発表した。筒井氏時代の遺構が見つかったのは初めてで、土塁の工法は同時代のものでは全国でも珍しいという。
 筒井時代の土塁は、昭和初期に天守閣が再建された伊賀上野城の東側で、上野城跡の南西部にある高虎時代の石垣から、2・7m~1・5m内側で発掘された。大きさは幅7・3m、高さ2・4mで、三段に積んだ「腰巻(こしまき)石垣」の上に、粘土と砂を交互に叩き固めた「版築」と呼ばれる工法で壁状に土を積み上げ、外壁にあたる部分には泥炭と呼ばれる装飾を厚さ60cmにわたって重ねた跡があった。その表面には、漆喰で「化粧」が施されたと推察されるという。
 腰巻石垣は南北に築かれ、長さ7・3m、幅1・6m、高さ90cm。藤堂藩時代の17世紀前半に再構築された石垣の1・5~2・7m東側で見つかり、壊されず、土で埋められていた。使用されている石は藤堂時代のものと比べて小さく、技術も未熟さがうかがえる。しかし、南端の石は角に置くことを意識したことが分かり、すき間に小石を詰めて強度を保つ工夫もみられる。
 筒井氏は天正13(1585)年に大和郡山(奈良県)から伊賀に移封した武将。この時代の築城は、土塁を積み上げた上に塀を立てる工法が一般的とされ、同市教委によると、今回のように石垣から丁寧に塀部分を工作したのは全国でも珍しいという。
 上野城跡の発掘調査は平成12年度から着手。城代家老屋敷跡の調査などに取り組んでおり、昨年度から屋敷北西部にある今回の石垣を発掘調査している。
現地説明会は9月28日、午前10~11時に現地で実施される。問合せは市教委生涯学習課(0595・22・9681)。
[参考:産経新聞、毎日新聞、朝日新聞]

上野城
 平山城跡で、別名白鳳城、伊賀上野城。武庫と永倉が現存する。
 天正13年(1585年)、大和郡山から移ってきて伊賀を拝領した筒井定次により、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡に築城された。天守は三層であったといわれるが、史料は残っていない。
 慶長13年(1608年)、徳川家康の命により改易されられた。その後伊予・宇和島から藤堂高虎の持ち城(本拠地は伊勢国・津城)となり、城の大改修が行われた。
 改修は豊臣討伐に備えて濠を深く、石垣も高くした(約30m)。南には二ノ丸も構築し、天守の位置は西側に移動し、層塔型の五層天守を建設したが、竣工をひかえた慶長17年(1612年)に嵐のため天守は倒壊。その後再建されることはなかった。
 文政8年(1825)藤堂高猷が最後の城主となり、1871年に廃城となる。

筒井定次(1562~1615)
 慈明寺順国の嫡男として生まれる。筒井順慶に子が無かったため養嗣子となる。
 筒井氏は大神神社の神官・大神氏の一族と言われている。
 織田信長の死後(1582)は羽柴秀吉の家臣となり、大坂城へ人質として赴いた。天正12年(1584)、順慶の死により家督を相続。そして同年の小牧・長久手の戦いをはじめ、四国征伐、九州征伐、朝鮮出兵など秀吉が行なった戦いに従った。しかしながら、減封され伊賀上野に移封された。このことは秀吉から信用されなかったためにとられた左遷ではないかと考えられるようになった。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後、徳川家康から所領を安堵された。しかし慶長13年(1608年)、幕命により突如として改易され、ここに大名としての筒井氏は滅亡した。
 改易の理由については、領国における悪政、酒色に耽溺した、キリシタンであったあるいは便宜を加えたなど、数々の理由が挙げられているが、最近では筒井氏も豊臣氏恩顧の大名であり、さらに伊賀という大坂近郊の要地を支配していたために危険視した幕府による陰謀ではないかとされている。
 定次は改易された後、その身柄は鳥居忠政のもとに預けられることとなるが、慶長20年(1615年)大坂の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、自害を命じられた。定次の子・筒井順定も自害した。
 その後、順慶の養子になっていた定慶が跡を継ぎ、大和郡山1万石を与えられたが、大坂夏の陣で城を攻められ切腹したため、大名としての筒井氏は滅亡した。
 定次流以外の他の筒井氏一族は東大寺住職や奉行や旗本などとして存続した。
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高知県いの町・天神溝田遺跡 律令制から荘園制への変換がたどれる遺跡

2008年09月25日 | Weblog
 高知県埋蔵文化財センターは24日、いの町天神の天神溝田遺跡で、県内では例が少ない古代末から中世(8世紀末~12世紀)にかけての遺構や遺物が連続して出土したと発表した。
 8世紀後半~9世紀の律令制から、12~13世紀になると開墾農地の私有を認める荘園制への土地の変遷をたどれる、県内では数少ない貴重な資料」としている。
 遺跡周辺は、律令期は奈良・東大寺が管理して「大野郷」と呼ばれ、土地の区画は北から西へ16度振った区割りがされていた。しかし、荘園制が始まり、「吾川庄」と呼ばれるようなる12世紀には、さらに西側に11度傾いた区割りへと変化し、大幅な再区画整備がなされていたことがわかった。
 約3000点の出土品からは、9世紀後半から10世紀前半に作られた京都産の内側を黒く着色した黒色土器や陶器に上薬を塗った緑釉(りょくゆう)皿が見つかり、東大寺とのつながりがうかがえるものもあった。
周辺には弥生時代の遺跡も多く、今後も歴史的解明につながる新たな発見が期待される。
 現地説明会は、27日午前10時30分から。

天神溝田遺跡     
 天神溝田遺跡(高知県吾川郡いの町天神地区)は、仁淀川に合流する宇治川河口付近に位置する。昭和41年に土取り工事中に弥生時代の中広銅戈1本・中細銅剣1本(いの町の有形文化財)が発見された。
 今回は平成20年7月15日より調査を開始した。バーガ森トンネル北側登り口の沖田橋付近の調査区は音竹城跡の山裾部分であり、南北朝期の遺構・遺物が試掘調査からも確認され、土師器、須恵器、黒色土器等が出土した。また、1点だけ弥生時代中期頃のものと思われる石包丁が山からの流れ込みと考えられる堆積層から出土しており、現調査区の位置から音竹城跡の北側斜面部に弥生時代に関する遺構の存在が考えられる。周辺には、「バーガ森北斜面遺跡」があり、弥生時代中期の高地性集落跡の広がりが考えられる。
 8月28日にバーガ森トンネル北側登り口の沖田橋付近のⅠ区の調査が終了した。
 I区は古代(奈良時代~平安時代)が中心となっており、検出された主な遺構はピット316基、溝3条、土坑15基(内、炉跡2基)。遺物では、土師器、須恵器、緑釉陶器、黒色土器、鉄滓等が出土した。中でも、8世紀末~9世紀初頭にかけての須恵器杯蓋が完形で確認された。これまで、いの町の古代の遺構・遺物の出土例は少なく,古代律令期のいの町の「郡郷」の配置~荘園制の広がり(高知県では12世紀末頃の鎌倉時代からが始まり)の様相を知る上で、貴重な資料を得ることが出来た。
 現在は,I区から西側に位置するII区の遺構検出を行っている。検出された主な遺構にはピット、土坑、畝状遺構等がある。
 東側では,土師器・東播系須恵器(片口鉢)、常滑焼、瓦質土器(鍋・すり鉢)などが出土している。音竹城が機能していた頃の広がりの様相を知る手掛かりとなりそう。
[参考:読売新聞、高知県文化財団埋蔵文化財センターHP]
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益田市・堂ノ上遺跡 焼失建物跡に弥生土器 鎮火にまつわる祭祀か

2008年09月25日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは24日、益田市久城町の堂ノ上(どうのうえ)遺跡で、弥生時代後期(約1900年前)の焼失した竪穴住居跡に、鎮火後に置かれたと見られる弥生土器などが見つかったことを発表した。
 竪穴住居跡は2か所見つかり、いずれも円形で敷地内の土が焼けこげており、焼失したものとみられる。一つは直径約7.2~7.8m、もう一つは直径約6.6~6.9m。大きい方の焼失住居跡の中央の穴から、直径約30cm、高さ約60cmの甕形土器4個分の破片が出土。うち一つは完全な形に近かった。
 土器は焼けた土のすぐ上にあり、住居の焼失後に意図的に置かれたものと見られる。こうした形で土器が出土するのは県内では初。「鎮火にまつわる祭祀を行ったのでは。当時の生活を知る手がかりになる」と宮本正保同センター企画員。
 現地説明会は27日午前10時から。同町の旧益田工業高前庭に集合。(汚れてもよい履物を用意、小雨決行)。問合せは同センター現地事務所(0856・31・1453)へ。

 堂ノ上遺跡は日本海にほど近い益田川右岸に位置し、益田平野を望む標高30m前後の台地上にある。昨年度は、弥生時代後期(約1,900年前)の竪穴住居跡1、加工段5などを確認した。
 今年度は、焼失住居跡(何らかの原因で焼け落ちた住居跡)2棟のほか、掘立柱建物跡2棟、加工段2を発見した。焼失住居跡はいずれも弥生時代後期(約1,900年前)の竪穴住居跡で、当該期としては大形のものである。
 同遺跡は、弥生時代後期の集落構造を考える上での好例である。住居跡の規模が大きく、隣接する専光寺脇墳墓群で弥生時代の首長墓が確認されたことも考えあわせると、堂ノ上遺跡はこの地域の中核的な集落であった可能性が高い。
[参考:読売新聞、島根県HP→行事・催し一覧]
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関市・池尻大塚古墳 7世紀前期の方墳を確認

2008年09月23日 | Weblog
 5月からから発掘調査が進められている関市池尻の池尻大塚古墳で21日、現地説明会が開かれた。
 同古墳は大型の石室が特徴。これまで全体の規模と造られた時期が特定できていなかったが、今回の調査で一辺26mの方墳であることが確認された。7世紀前期にこの地方で方墳が多く採用されていたことから、7世紀前期のものである可能性が高まった。
 同古墳周辺には、日本書紀にも登場する美濃の古代豪族・ムゲツ(身毛津、牟義都、牟下津とも)氏の氏寺として1959年に国の指定を受けた弥勒寺跡を中心にした「弥勒寺官衙遺跡群」がある。市は、今後は同古墳がこの遺跡群の一部であることを証明し、国からの追加指定に向け、準備を進めていきたいとしている。
[参考:中日新聞]
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甲賀市・紫香楽宮跡 宮町遺跡 和歌語句の「伊毛」と「乃古」文字確認

2008年09月23日 | Weblog
 滋賀県甲賀市教委は22日、聖武天皇造営の紫香楽宮(742~745年)跡とされる宮町遺跡(同市信楽町)から出土した8世紀中ごろの須恵器の皿(直径23cm、高さ2cmと推定)に、和歌で女性を示す「伊毛(いも)」(妹)と、男性を意味する語句の一部「乃古(のこ)」(おのこ、男)の文字があるのを奈良文化財研究所が赤外線撮影し確認したと発表した。
 04年に中枢施設「朝堂」跡の南端付近から破片が出土。裏面には「歌一首」と墨書きされていた。役人が私的に書いたとみられる。「歌」の字は何度もなぞられていた。
 本遺跡では日本最古の歌集・万葉集の収録歌が書かれた「歌木簡」が見つかっており、歌が盛んに詠まれていたことを改めて裏付けた。
 紫香楽宮は「仏都」と性格づけられてきたが、大阪市立大の栄原永遠男教授(日本古代史)は「貴族文化の栄える都としての側面も強まった」としている。
 須恵器は24~29日の午前9時~午後4時半、同町宮町の紫香楽宮跡関連遺跡調査事務所Tel:0748(83)1919で一般公開される。
[参考:毎日新聞、共同通信、京都新聞、 読売新聞、前出]
土器に“男女”と墨書 滋賀の紫香楽宮は和歌の都?(共同通信) - goo ニュース
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アフガン国境トルクメニスタン・ムルガーブ川流域で新たな石窟確認-龍谷大

2008年09月22日 | Weblog
 アフガニスタン国境付近で、新たな仏教遺跡とみられる石窟を確認したと、龍谷大の入沢崇教授(仏教文化学)らの学術調査隊が22日、発表した。
 インドから仏教が伝わった最西端とされるトルクメンのメルブと、アフガンのバーミヤンに挟まれており、バーミヤンからムルガーブ川を通り、メルブに仏教が伝わった可能性が強いとしている。
[参考:時事通信]
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