奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が1日、方墳の濠(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、新たに石室の通路(羨道)跡が見つかったと発表した。一辺約70mと推測され、飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定した。研究所は遺跡名を小山田古墳と改めた。
橿考研は出土した瓦片などから640年ごろの築造とみられるとし、被葬者は当時の最高権力者の舒明天皇か大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷に絞られたとみている。
橿考研は昨年12月から溝の南約60mの地点を発掘していた。
調査の結果、東西に幅約2.6mの間隔を空けて、東西約1.5m、南北1m以上の巨石2個が抜き取られた跡を発見。両石の間には幅約20cm、深さ約30cmの石組み溝が確認された。二つの巨石は横穴式石室の玄室と外部をつなぐ通路(羨道)の両壁の基底石で、溝は通路床下の排水溝とみられる。さらに北に約10m離れた場所にも抜き取り跡が見つかり、通路が北に延びていることも分かった。 羨道は方墳の中軸線とし、これまでの調査で推定される北西隅との位置関係から、墳丘の大きさは1辺約70mと推定した。
また、墳丘の下層で6世紀後半の集落跡を、古墳の盛り土からは、630年前後と考えられる軒丸瓦の破片が出土。過去の調査で堀の堆積土から7世紀後半の土器が出土しており、「7世紀前半以降に集落を潰して築造し、7世紀後半に廃絶した」と考えている模様。 墳丘斜面の階段状の石積み方法は舒明天皇が643年に改葬された段ノ塚古墳(奈良県桜井市)と似ている点と併せ、橿考研は小山田古墳の築造時期を640年ごろとした。。石溝を埋めた土中に含まれる土器の年代から古墳は7世紀後半には廃絶したとみている。
現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
[参考:毎日新聞、共同通信、産経新聞、ABCニュース、日経新聞]
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2015.1.16 小山田遺跡 7世紀中頃の未知の古墳か
約50mにわたって石材を張り付けた巨大な掘割が見つかった。橿考研は、未知の古墳の掘割(濠)とみて、墳丘裾部は蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50m)を上回る一辺50~80m程度の方形だったと推定している。 墳丘はすでに失われているが、板石が裾部の表面を飾った可能性が高いとみている。橿考研は、規模や立地、特異な構造から、舒明天皇(593~641)が最初に葬られた滑谷岡(なめはざまのおか)陵とみている。
ほかに、一帯が蘇我氏の本拠地のため、蘇我蝦夷の墓、あるいは古墳ではなく、皇族の居館や苑池(えんち)の可能性を指摘する識者もいる。
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【奈良】飛鳥最大級・・・小山田古墳から石室跡
キーワード: 明日香村小山田遺跡、小山田古墳