歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

岡山藩初代藩主・池田光政による「隣女和歌集」の書写本を発見

2017年03月30日 | Weblog
 林原美術館(岡山市北区)と関西大(大阪府吹田市)が29日、岡山藩主・池田光政(1609-1682)と子の綱政(1638~1714)によって書写された「隣女(りんじょ)和歌集」が見つかったと発表した。隣女和歌集は鎌倉時代中後期の歌人・飛鳥井雅有(あすかいまさあり、1241-1301)が詠んだ和歌をまとめた私家集で、原本は残っていない。
 光政筆の写本は、同館の企画展「備前岡山藩の学び」(5月25日~7月2日)で公開される。
[参考:山陽新聞、産経新聞、中国新聞]

過去の関連ニュース・情報
 池田光政


池田光政ら「隣女和歌集」を書写
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宝塚市・万籟山古墳 全長64m、猪名川流域最大級の古墳と判明

2017年03月19日 | Weblog
 大阪大考古学研究室が17日、兵庫県宝塚市切畑字長尾山にある前方後円墳の万籟山(ばんらいさん)古墳(4世紀前半)の初発掘調査で、全長64m、高さ8.7mの規模と分かったと発表した。これまで全長約54mとする見方もあった。
 猪名川と支流の最明寺川の間に位置する長尾山丘陵では、長尾山古墳(全長42mの前方後円墳、4世紀初頭)に続く古墳である。
 古墳時代前期では畿内北西部の猪名川流域で最大級の規模という。
 日本海と瀬戸内海とを結ぶ重要な交易ルートだったことがうかがえるという。
 大量の葺石や円筒埴輪片が見つかった。
[参考:神戸新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
長尾山古墳


キーワード: 万籟山古墳、長尾山古墳、猪名川
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うれしいひなまつり / サトウ ハチロー

2017年03月03日 | Weblog
 朝はテレビ朝日の「グッドモーニング」を見ることが多い。
 最近は、執拗に森友学園を扱い、辟易するほどであるが今朝も見ていたら、林修さんが童謡『うれしいひなまつり』をとり上げていた。
 『うれしいひなまつり』は、昭和10年(1935)前後にサトウハチローが作詞した。
 昭和11年に、レコードが発売された。作曲が、河村光陽ということもあり、その娘・河村順子が歌い大ヒットしたという。
 サトウハチローは、早田中学校の先輩になる。 中学校3年の時に退学し、大正10年卒業(23回生)の中に「推薦校友」として名を連ねている。(注1) 野球部に所属して、戸山ケ原の元近衛騎兵連隊の広場で練習したようである。早稲田中学を中退してからは、京都や宇都宮の中学など7校を転々と移り変わったことで有名であったとか。(注1)
 東京府東京市牛込区市谷薬王寺前町(現、新宿区市谷薬王寺町)に生まれ、本名は佐藤八郎(1903-1973)。
 人生は、波乱万丈のようである。

 一昨日、同じテレビ朝日の「徹子の朝」で佐藤愛子が出演していた。
 私の母(90才)もファンであり、妻も見習って佐藤愛子(93才)の本を読むようになった。最近読んだのは『九十歳。何がめでたい』。 毎日のように弱音を吐く母親に、「佐藤愛子を見習って!」の気持ちで購入した。
 実は佐藤愛子は、サトウハチロウとは異母兄妹であった。

(注1)昭和38年9月5日「東京の高校めぐり あの人もここに学んだ(445) 早稲田高等学校(14)」(日本経済新聞)より 
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明日香村・小山田古墳 新たに石室の通路跡、飛鳥最大級の方墳と判明

2017年03月01日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が1日、方墳の濠(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、新たに石室の通路(羨道)跡が見つかったと発表した。一辺約70mと推測され、飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定した。研究所は遺跡名を小山田古墳と改めた。
橿考研は出土した瓦片などから640年ごろの築造とみられるとし、被葬者は当時の最高権力者の舒明天皇か大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷に絞られたとみている。
橿考研は昨年12月から溝の南約60mの地点を発掘していた。
 調査の結果、東西に幅約2.6mの間隔を空けて、東西約1.5m、南北1m以上の巨石2個が抜き取られた跡を発見。両石の間には幅約20cm、深さ約30cmの石組み溝が確認された。二つの巨石は横穴式石室の玄室と外部をつなぐ通路(羨道)の両壁の基底石で、溝は通路床下の排水溝とみられる。さらに北に約10m離れた場所にも抜き取り跡が見つかり、通路が北に延びていることも分かった。 羨道は方墳の中軸線とし、これまでの調査で推定される北西隅との位置関係から、墳丘の大きさは1辺約70mと推定した。
 また、墳丘の下層で6世紀後半の集落跡を、古墳の盛り土からは、630年前後と考えられる軒丸瓦の破片が出土。過去の調査で堀の堆積土から7世紀後半の土器が出土しており、「7世紀前半以降に集落を潰して築造し、7世紀後半に廃絶した」と考えている模様。 墳丘斜面の階段状の石積み方法は舒明天皇が643年に改葬された段ノ塚古墳(奈良県桜井市)と似ている点と併せ、橿考研は小山田古墳の築造時期を640年ごろとした。。石溝を埋めた土中に含まれる土器の年代から古墳は7世紀後半には廃絶したとみている。
 現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
[参考:毎日新聞、共同通信、産経新聞、ABCニュース、日経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2015.1.16 小山田遺跡 7世紀中頃の未知の古墳か
 約50mにわたって石材を張り付けた巨大な掘割が見つかった。橿考研は、未知の古墳の掘割(濠)とみて、墳丘裾部は蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50m)を上回る一辺50~80m程度の方形だったと推定している。 墳丘はすでに失われているが、板石が裾部の表面を飾った可能性が高いとみている。橿考研は、規模や立地、特異な構造から、舒明天皇(593~641)が最初に葬られた滑谷岡(なめはざまのおか)陵とみている。
ほかに、一帯が蘇我氏の本拠地のため、蘇我蝦夷の墓、あるいは古墳ではなく、皇族の居館や苑池(えんち)の可能性を指摘する識者もいる。

全国最大級の一辺約70メートルの巨大方墳と確認 640年ごろ築造か 「舒明天皇の初葬墓の可能性強まる」樫考研
【奈良】飛鳥最大級・・・小山田古墳から石室跡


キーワード: 明日香村小山田遺跡、小山田古墳
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大野城市・水城跡 大宰府に続く古代官道の側溝跡が見つかる

2017年03月01日 | Weblog
 福岡県大野城市教委が28日、国特別史跡・水城跡(同市)で、古代律令国家の機関・大宰府に続く9世紀ごろの官道の側溝跡が見つかったと発表した。
 側溝跡は排水用とみられ、大宰府の防衛施設である土塁・水城の西門跡の外側で出土した。幅は最も広い所が7.5m以上、底の幅は約2.5~3m、深さは50~60cmで、これまでの調査結果と合わせ、約60m続いていたことが確認できた。
 官道は、大宰府中枢部から博多湾側へ真っすぐに延び、「鴻臚館」まで約13km続いていたとされ、道幅は推定10~12m。
 ほかに、西門付近で敵の侵攻を防ぐ外堀の役割を果たしていたとみられる、水城の土塁と並行して掘られた3本の溝跡を発見した。水城は全長1.2kmあり、過去の調査で、東門付近には幅約60mの広い外堀が確認されていた。堀の構造が東西の門で異なっていた可能性が高まったとしている。
  水城跡は、白村江の戦い(663年)で唐・新羅の連合軍に敗れた倭国(日本)が、翌年に侵攻に備えて築造したとされる、大野城市と太宰府市、春日市にまたがる古代の防衛施設。東門から西門までの土塁と外濠など約1.2km。
 現地説明会は3月4日午後1~3時に開かれる。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.8.7 大宰府から3km南の地点 立明寺地区遺跡 古代官道を発掘
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天理市・行燈山古墳/崇神天皇陵 立ち入り調査

2017年03月01日 | Weblog
 宮内庁が崇神天皇陵として管理する奈良県天理市の行燈山(あんどんやま)古墳(4世紀前半)で24日、約2時間かけて日本考古学協会など15学会の研究者らによる立ち入り調査が行われ、墳丘の段数や形状などを確認された。
同古墳は3段築成の全長約240mの前方後円墳。第10代崇神天皇は、実在する最初の天皇とされる。
その後、市内の会館で検討会を実施し、古墳の北側は残りがいいが、南側は状態がかなり悪い。墳丘には4段目があるかもしれない、テラスには石敷きがないようだ、などと感想を述べ合った。
[参考:共同通信、日経新聞、奈良新聞、読売新聞]



キーワード: 行燈山古墳
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