歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・平城宮跡 すごろく「ユンノリ」用のさいころとみられる棒が出土

2016年06月29日 | Weblog
 奈良文化財研究所の発掘により、平城宮跡で、朝鮮半島から伝わったすごろく「ユンノリ(윷놀이)」用のさいころとして使われた可能性がある木の棒が見つかったことがわかった。発掘成果を研究所紀要に掲載した。
 見つかったのは、太さ約1cm、長さ5~6cmほどの木の棒2本で、側面の一部を平らに加工して表と裏が作られている。
棒には人名とみられる文字が墨で書かれているため、別の目的で使われた可能性もあるが、木簡が捨てられた場所から見つかったことから、役人が仕事の合間に遊んでいたことも考えられるという。
 平城京跡では、これまでに朝鮮半島から伝わったすごろくに似た遊具「樗蒲」(저포、ちょぼ)の盤面とみられる、文様のある皿が見つかっている。
[参考:共同通信、産経新聞、NHK関西]

関連ニュース・情報
2015.5.23平城京跡 1989年に出土した土器が、すごろくの一種「樗蒲」の盤と判明
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盛岡市 聖寿寺 南部英麿氏の墓参

2016年06月26日 | 盛岡
 
 6月19日(日)に盛岡市内の盛岡藩南部家お殿様の菩提寺・臨済宗妙心寺派 大光山 聖寿禅寺(盛岡市北山2丁目12-15)へ行ってきました。
 そこには、南部英麿氏の墓があります。南部英麿氏は安政3年(1856)9月11日,盛岡にて第40代南部家当主南部利剛の次男として生まれました。兄の利恭氏は第41代南部家当主になりました。
 英麿氏は私の出身校・早稲田中学校の初代校長です。東京専門学校(現、早稲田大学)の初代校長でもあります。
 墓には、「明治43年5月14日歾 齢55」と刻まれています。
 また、墓の左にある手水鉢(右写真)には「奉納 早稲田中學校 早稲田中學校校友會」と刻まれています。

 「早中七十周年記念録」(昭和40年10月)の「早中明治物語」の中で、明治29年4月5日午後1時、早稲田尋常中学校の開校式が東京専門学校の大講堂で行われ、先ず大熊英麿(南部英麿)が壇に立って開校の挨拶を行ったことを記しています。

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春日市・須玖岡本遺跡 国内最大級の甕棺墓が出土、中から銅剣と青銅製柄飾りが出土

2016年06月17日 | Weblog
 福岡県春日市教委は17日、同市の須玖(すぐ)岡本遺跡で、墓穴の大きさが国内最大級となる弥生時代中期前半(紀元前150年ごろ)の甕棺墓が見つかったと発表した。
 墓穴は縦5.2m、横3.9m。長さ約1mの甕を二つ合わせた甕棺から銅剣(約42cm)1点と、青銅製の柄飾り「把頭飾(はとうしょく)」(高さ約4.5cm、幅約5.5cm)1点が見つかった。柄飾りは一緒に見つかった銅剣の柄の先端に取り付けられていたとみられる。遺物周囲の土の表面からは複数種類の布の痕跡が多数確認された。遺物や遺体を布で何重にもくるんだ可能性があるとみている。
 須玖岡本遺跡一帯は魏志倭人伝に出てくる「奴国」の中枢部で、弥生時代有数の青銅器生産遺跡としても知られる。同遺跡では銅鏡30点以上を副葬した「王墓」とされる甕棺墓があり、今回の甕棺墓はこの王墓の時代よりやや古いが、位置は王墓から80mと近い。
[参考:毎日新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 須玖岡本遺跡、須玖

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京都市左京区・西寺跡 方形周溝墓が2基分出土

2016年06月14日 | Weblog
 平安京への遷都(794年)直後、羅城門の西に建てられた国営寺院「西寺(さいじ)」。金堂、講堂、五重塔など堂塔が並ぶ主要区域の北側に隣接するように約240m四方あったとされる太衆院(だいしゅういん、寺の管理施設)の想定地を京都市埋蔵文化財研究所による調査で、下記のことが分かった。
①創建時に規則通りの道路を通さず、寺の施設を設けていた。寺に裁量をまかせていた可能性がある。
②庇付き掘っ立て柱の建物跡など2棟分が出土した。いずれも直径約20mという細い柱の太さから僧坊に入り切れない僧らの宿泊などに使った建物とみられる。一緒に出てきた土器や瓦から9世紀に建てられ、10世紀には廃絶したようだ。
③下層からは、弥生時代中期(紀元前1~2世紀)ごろの方形周溝墓が2基分出土した。うち1基の周溝の一辺は約11m。墓の上部が削られていたため、埋葬施設は確認できなかった。溝の近くに掘られた大きな穴からは、全体的に朱に彩られたものと、塗られていない普通の壺形の土器がほほ完形で1個ずつ並べられたように出土した。
④この周辺は古墳時代の遺構である唐橋遺跡とも呼ばれていたが、この遺跡で弥生人のの生活が初めて確認されたとしていいる。
[参考:産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 京都市埋蔵文化財研究所によれば、唐橋遺跡およびその北側にある衣田町遺跡などは、弥生時代の遺跡があるとしている。


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法華宗陣門流総本山本成寺別院 徳栄山 総持院 本妙寺

2016年06月03日 | Weblog
法華宗陣門流総本山本成寺(注1)別院 徳栄山 総持院 本妙寺  東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号

本妙寺HPによる沿革を見ると
 三州岡崎(現在の愛知県岡崎市の近郊に法華宗の海雲山長福寺(注2)という古刹がある。 長福寺の檀徒で徳川家に仕えた久世広宣、大久保忠勝、大久保康忠、大久保忠俊、阿部忠政等が、元亀二年(1571)徳川家康が岡崎から遠州曳馬(現在の浜松市)への入城に際し、智存院日慶上人にお願いして駿府に創立された寺院である。
 天正18年(1590)家康が関東奉行として江戸入城に際して、当寺も久世家、大久保家等と共に江戸へ移転した。当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、城域拡張に伴い飯田町、牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと移動させられている。 寛永13年(1636)出火のため全焼した。
 その後、久世大和守広之の尽力により本郷丸山(注3)に替地をうけ、約6000坪の境内に九間四面の本堂や千仏堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、山門等完備し、塔頭寺院も十二と七堂伽藍の整った大寺院として復興した。
 ところが僅か数年後の明暦三年(1657)正月十八日、明暦の大火によって悉く焼失した。(注4)
 しかし、大火から3年後に、客殿、庫裏を、6年後には本堂を復興した。 明治43年(1910)現在地へ移転した。

(注1)長久山本成寺(ほんじょうじ)は、新潟県三条市西本成寺にある、法華宗陣門流の総本山。開山の日印聖人は日朗聖人(六老僧)の高弟で宗祖日蓮大聖人の法孫に当る。永仁5年(1297)、日印聖人が庵を開き、この地の領主、山吉定明、長久父子が共に日印聖人に帰仰し、青蓮華寺としたのがはじまり。正和3年(1314)、日印が鎌倉の日朗聖人(六老僧)を訪ね、山号、寺号の授与と初祖承認を願い出て、初祖日朗聖人、開山日印聖人とし、長久山本成寺と改名した。
(注2) 海雲山弘誓院長福寺 (岡崎市竜泉寺町字前田9番地) 本山は長久山本成寺。以前、この寺は鳳来寺の末寺として天台宗であったが、日蓮の弟子日印が京都に上る途中、当寺に立ち寄り法華宗に改宗させた。天文16年(1547)、大久保家初代宇都忠茂が長福寺に葬られ、大久保家の菩提寺となる。
(注3)現在もある曹洞宗祝峯山長泉寺(文京区本郷5-6-1)とは、当時東隣にあり、長泉寺の縁起には、「本妙寺の前を西行すること數十歩。北に當りて山門を認む。」と記されている。山門の「祝峯山」の題額は東梟心越の筆だそうである。
(注4) 実は明暦大火(振袖火事)は6代目日浄上人の時で、本妙寺が火元であったと伝えられている。ところが、真説は異なり、本妙寺火元引き受け説も語られている。 また、享保年間にも火災をおこし、一山全焼しているらしい。

史跡として下記が上げられている。
□明暦の大火供養塔 (振袖火事)
明暦三年(1657)1月18日未刻(午後2時頃)に出火し、折からの強風に煽られて、江戸城本丸・二の丸をはじめ江戸市中の6割余りを焼きつくし、死者約十万人に達した大火が「明暦の大火」です。
そして火元となったのが本妙寺で、原因は本妙寺の檀家の娘の供養のために燎火に投じた振り袖が舞い上がって本堂の屋根に飛火したことによるものとされ、俗に「振袖火事」といわれています。 しかしこれは伝説で、火元が本妙寺であるということに関しても不審が多く、「本妙寺火元引き受け説」も語られています。 
□関宿藩主 久世大和守歴代の墓
関東の交通の要衝、下総関宿城主  初代久世広之(ひろゆき)~七代久世広周(ひろちか)の墓
□江戸後期の北町奉行 遠山金四郎左衛門尉景元(注5)の墓

□剣豪 千葉周作の墓
江戸後期の剣豪、北辰一刀流開祖、神田お玉ヶ池、千葉道場(玄武館)主 千葉周作の墓
安政二年二月二十九日没   明院勇譽智底敬寅居士
 
□森山多吉郎の墓
「日本最初の英語教師」 ラナルド・マクドナルドから学んだ、日本最初の通詞(通訳)。 ペリー浦賀来航のときも通詞をつとめた。
ペリーは森山の語学力と共にその人柄も高く評価し、『日本遠征記』にその人柄を称えている。 文久元年(1861)の遣欧使節団には福沢諭吉や福地源一が随行したが、両人の語学力に不安を感じた当時の駐日イギリス総領事オールコックの強い要請により森山が加えられた。  明治四年三月十六日没  清心院茶山日勇居士
□天野宗歩の墓
江戸末期の将棋の名人で棋聖位に着く。安政六年五月十三日没  玉用院名宗日歩居士 墓石が将棋の駒の形をしている。
□囲碁 本因坊歴代(注6)の墓
徳川家康がことに碁を好み、京都にいた初代の本因坊算砂日海を江戸へ呼び寄せた。
三世の道悦までは没後京都の寂光寺に葬ったが四世の道策から 二十一世の秀哉までの歴代本因坊は当山に葬られている。
 
[参考:本妙寺HP]

(注5) 遠山景元は、江戸時代後期の幕臣で寛政5年(1793)遠山景普の子として生まれた。 文化6年(1809)金四郎と改名し、文政12年(1829)家督を相続、天保7年(1836)左衛門尉を許され、作事奉行、勘定奉行を経て天保11年(1840)3月町奉行(北)に任ぜられた。翌年から老中水野忠邦による天保改革が始まったが、その進行中の天保14年(1843)町奉行を罷免され、大目付に異動させられた。弘化2年(1845)町奉行(南)に復帰し、嘉永5年(1852)3月まで7年間にわたり勤役した。下情に通じた江戸時代屈指の名奉行といわれ、遠山の金さんとして様々な伝説がある。江戸歌舞伎三座取りつぶし策を、浅草の外れに移転させて存続させたのも遠山町奉行といわれている。隠居後は剃髪して帰雲と号し、市井に身をひそめて悠々自適の生活を送ったが安政2年(1855)2月29日61歳で病死した。法名帰雲院殿従五位下前金吾校遷日享大居士。明暦の大火(1657)の火元となったことでも知られる、本郷丸山の徳栄山本妙寺に葬られたが、本妙寺が明治44年この地に移転した時に改葬された。(東京都教育委員会掲示より)
景元が建立した「遠山氏先塋 (せんえい) 之碑」がある。もともと遠山家の墓所は下谷の本光寺にあったが、嘉永2年 (1849)、景元の息子景纂 (かげつぐ) が本妙寺に改葬した。

(注6)歴代本因坊の中に、新宿区にある日蓮宗妙典山戒行寺の中興開基・宮重作兵衛信秀の子孫がいる。
 信秀5男・八郎左衛門信利→信勝→信武→信義→信量→4男・信利(11世元丈)→岩之介(13世丈策)、策全


関連情報
 妙典山戒行寺 長谷川平蔵の墓
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明日香村・飛鳥寺 塔跡から出土のガラス玉にメソポタミア-中央アジア産が判明

2016年06月02日 | Weblog
 奈良文化財研究所が、明日香村の飛鳥寺(6世紀末)の塔跡から60年前の調査で出土したガラス玉に中東のメソポタミアから中央アジアにかけての地域で作られたものがあることが分かったと発表した。
 中国・北周や百済の遺跡で類似品が確認されており、百済から持ち込まれた可能性があると推察している。
 同研究所埋蔵文化財センターが、出土した約3千点のガラス玉のうち約1800点の成分を蛍光エックス線で分析した結果、 ナトリウムやカリウムなどの濃度からメソポタミア-中央アジア産以外にも、南インド産や東南アジア産があることが分かった。
[参考:共同通信] 

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 ローマガラス(ローマン・グラス)

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