歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・平城京跡 1989年に出土した土器が、すごろくの一種「樗蒲」の盤と判明

2015年05月23日 | Weblog
 奈良文化財研究所は21日、1989年に奈良市の平城京の二条大路跡から出土した土器に古代日本で普及していた双六(すごろく)の一種「樗蒲(ちょぼ)」(注1)の盤面が刻まれていたことが分かったと発表した。
樗蒲(저포、ちょぼ)は朝鮮半島から日本に伝わったとされ、韓国で現在も遊ばれているゲーム「ユンノリ(윷놀이)」(注2)と関係が深いとされる。
(注1)8世紀前半の素焼きの皿(直径約19cm)。
(注2)樗蒲(저포) 和名・かりうち
(注3)ユンノリ(윷놀이)とはサイコロに代わる木の棒「윷(ユン)」+遊戯「놀이(ノリ)」

 盤面の内側の底に直径約8cmの円状の点と、円の中心に向かう放射状の点が刻まれ、「出」という文字もあった。 これまで用途は不明だった。古代の遊戯の実像や、日本と朝鮮半島の交流を示す資料としている。 土器は下級役人に関わる木簡と一緒に出土しており、当時の下級役人らが金品をかけて遊んだのだろうとみている。

持統天皇3年(689)に(賭け)雙六を禁止する記述があるので、雙六がかなり古くから流行していたことが知れる。
文武天皇2年(698)に博戯を禁ずる記述がある。

『日本書紀』 689持統三年十二月八日丙辰。禁斷雙六。
『続日本紀』 698文武天皇二年七月七日乙丑。禁博戯遊手之徒。其居停主人 亦与居同罪。
『続日本紀』 760天平宝字四年十二月廿二日戊寅。藥師寺僧華達。俗名山村臣伎婆都。与同寺僧範曜。博戯爭道。遂殺範曜。
還俗配陸奥國桃生柵戸。

[参考:共同通信、毎日新聞、日経新聞、朝日新聞]

奈良の都で朝鮮すごろくがブーム? ナゾの皿、記号解明
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久留米市 益生田古墳群 678年の筑紫国地震で倒壊した円墳4基が出土

2015年05月22日 | Weblog
 久留米市は20日、同市田主丸町益生田(ますおだ)の益生田古墳群で、天武天皇7年(678)12月の筑紫地震で倒壊したとみられる円墳4基が出土したと発表した。
 ほぼ真下を震源の水縄(みのう)断層が走り、壊れた土器と地震の年代がほぼ一致したという。断層の長さは、うきは市から久留米市に至る約26kmで、ほぼ東西方向に延びる。
 筑紫国地震は日本書紀に記され、被害状況が記録された国内最古の地震とされる。
          ☆
『日本書紀』巻二九天武天皇七年(678)十二月 是月。筑紫國大地動之。地裂廣二丈。長三千餘丈。百姓舍屋。毎村多仆壌。是時百姓一家有岡上。當于地動夕。以岡崩處遷。然家既全而無破壌。家人不知岡崩家避。但會明後。知以大驚焉。
          ☆
 阪神大震災に匹敵するマグニチュード7・2の規模と推定されている。筑後地方の古代遺跡でも地割れや液状化などの痕跡が多数見つかっているが、被害を受けた古墳の発見は例がないという。
 益生田古墳群は6世紀後半の築造で、耳納山麓に直径10m前後の円墳が100基以上確認されている。1980年から調査が始まり、今回は私有地の造成に伴い、昨年6月から発掘を開始。30m四方の斜面に直径6〜11mの円墳4基が出土し、いずれも横穴式石室の玄室の天井の石組みや石柱が北側に傾き、倒壊していたという。
 このうち1基の入り口では、祭祀に置かれた土器が倒れた石に押し潰すぶされるような状態で見つかった。土器は、形状から筑紫国地震とほぼ同年代に作られたとみられ、円墳の倒壊は同地震が原因の可能性が高いと考えられるという。
[参考:読売新聞、毎日新聞、朝日新聞、NHKニュース]

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南あわじ市松帆地区 弥生時代の古式銅鐸(松帆銅鐸)が7個出土

2015年05月21日 | Weblog
 兵庫県教委と南あわじ市教委が19日、同市(淡路島)松帆地区の砂利加工会社の砂置き場から、弥生時代前期末~中期初頭(紀元前3~同2世紀)のものとみられる銅鐸7個が見つかったと発表した。
銅鐸の出土数としては、
  ① 加茂岩倉遺跡(島根県雲南市、96年)39個
  ② 大岩山(滋賀県野洲市、1881年と1962年)24個
  ③ 桜ケ丘(神戸市灘区、64年)14個
に次ぎ4番目となる。
 今回見つかった銅鐸は、松帆地区の古津路(こつろ)、櫟田(いちだ)など、いろんな場所から砂を買って搬入したもので、銅鐸が埋められた場所は特定できていない。

 見つかった銅鐸はいずれも絵画が描かれていない古い時期のもので、高さは約22〜32cm、重さ1~2kg(一部は不明)。
  つり手(鈕)断面が菱形の「菱環鈕2式」が1個、 本体部分の両脇に飾り板が付いた「外縁付鈕1式」が6個
の2種類。 うち3組6個は、中に小型が入れてある「入れ子」状態で、残り1個は単独で破損した状態で見つかった。

 1、2号銅鐸 入れ子(発見時に分離されていた) 外側1号銅鐸は菱環鈕式2式 舌付属、 内側2号銅鐸は外縁付鈕式1式 舌付属
 3、4号銅鐸 入れ子 外縁付鈕式1式
 5号銅鐸 外縁付鈕式1式 (10片以上に破損) 舌付属
 6,7号銅鐸 入れ子 外縁付鈕式1式

 これらの銅鐸は松帆銅鐸と名付けられた
[参考:時事通信、産経新聞、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、神戸新聞]

【淡路銅鐸】淡路島で銅鐸7個「数十年に一度の大発見」 きっかけは土砂選別作業

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