歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

明日香村・キトラ古墳 朱雀の消えた羽の先端部 赤い顔料が泥に転写

2008年10月31日 | Weblog
 文化庁は31日、奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末-8世紀初め)の石室から昨年2月に剥ぎ取った四神図「朱雀」」(縦約15cm、横約40cm)のはぎ取り部で、表面を覆った泥の裏側に羽の先端部とみられる赤色顔料や墨の線を確認したと発表した。「朱雀」は左羽の半分以上の下地の漆喰が欠け、既に失われたとされていたが、羽の先端部分の絵が泥に転写し残ったようだ。
 左羽の先端に接していた泥の裏側に、長さ1・2cm、幅6mmにわたって鋭角上の図柄が描かれていた。風切羽(かざきりばね)の先端部分とみられる黒い輪郭線の内側に赤色顔料(縦5mm、横2mm)が塗られ、羽の一部と判明。泥の厚さはわずか1mm程度だったという。
 文化庁は今後、泥をはがすかどうかなど保存方法を検討する。
 現在、村内の修理施設で保存されており、2010年の公開が検討されている。
[参考:共同通信、産経新聞、朝日新聞]
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香南市・大崎遺跡 弥生後期の竪穴住居ほか四つの時代が重なり合う

2008年10月31日 | Weblog
 高知県埋蔵文化財センターは30日、香南市徳王子の大崎遺跡から弥生時代前期・後期、中世の遺構及太平洋戦争時に作られたとみられる壕跡が見つかるなど、4つの時代が重なる遺跡と判明したと発表した。
 弥生時代前期の遺構からは、2基の土坑がみつかり、出土土器から前期前半とみられる。土杭はともに1.5×4mの長方形であり、規模からみて住居ではなく簡単な屋根をつけた貯蔵庫の可能性が考えられる。県内の弥生時代開始時の在り方を知る貴重な事例である。
 弥生時代後期の竪穴住居3軒が見つかり集落の一端が明らかとなった。円形、方形、多角形で、いずれも床面にベッド状高まりが造られていた。後期の竪穴住居は、南国安芸道路に係る発掘調査では初めての出土。
 さらに、中世の側溝や、太平洋戦争時に作られたとみられる壕跡(深さ1・8m)が見つかった。壕の規格から、機関銃を設置したと考えられる。
 現地説明会来月1日午後1時半から。少雨決行。問い合わせは、同センター(088・864・0671)。
日 時: 平成20年11月1日(土) 13時30分~15時 (小雨決行)
場 所: 徳王子大崎遺跡発掘調査現場(香南市香我美町徳王子) 
問 合: (財)高知県文化財団埋蔵文化財センター
[参考:毎日新聞、高知県教育委員会]
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福山市 池之坊墳墓群 B地点発掘調査説明会 11/2

2008年10月31日 | Weblog
 福山市教委は、池之坊墳墓群(神辺町東中条)で弥生後期から古墳時代初期の墳墓である石棺墓と木棺墓、土坑墓が見つかったと発表した。3種類が一緒に見つかるのは備後地方では珍しいという。
 市教委はJR福山駅から北へ約11kmの標高約75mの丘陵にある同遺跡群を9月中旬から発掘調査を行っていた。
 2、3世紀に作られたとみられる。墳墓群は溝によって南北2ブロックに分かれ、南側の方が人の配置を意識した作りであることから、北側より新しいようだ。埋葬後も集落を見渡せるように斜面に土坑墓を掘ったのではとみられる。
 市教委は2日、現地説明会を開く。
日 時: 平成20年11月2日(日) 午後1時30分~
場 所: 福山市神辺町大字東中条 池之坊墳墓群 発掘調査現地
      (雨天時は,福山市中条公民館にて説明会を開催)
問合先: 福山市教育委員会 社会教育部 文化課
      福山市埋蔵文化財発掘調査団
[参考:中国新聞、福山市]
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高島市 西万木遺跡 15世紀の屋敷遺構を確認

2008年10月31日 | Weblog
 市教委は30日、同市安曇川町の西万木(にしゆるぎ)遺跡から室町時代(15世紀)の屋敷の遺構の一部を確認、外周から花瓶に使ったと見られる中国銅製双耳長頸瓶(そうじちょうけいへい)が出土したと発表した。
 双耳長頸瓶は高さ約19cm、底部約8cm、口径約4cm、渦巻文「雷文」などがある。文様などから元代と推定される。長頸瓶など中国の古銅器をモデルにした銅器は「仿古(ほうこ)銅器」と呼ばれ、室町時代以降に流行し日本に多数輸入されたという。同器は全国で十数個の出土例があるが、長頸瓶の出土は全国4例目。
 当時、地域を治めていた万木氏の居館の可能性があるという。
屋敷跡は縦横約40mで壕を二重に巡らしていた。茶臼や硯、信楽焼や常滑焼などの陶器、籾殻、中国製の青磁、白磁なども出土した。
 現地説明会は2日午後1時半から。JR安曇川駅から徒歩15分。
[参考:10/30京都新聞、11/4産経新聞、(財)滋賀県文化財保護協会]

近江源氏佐々木氏支流万木氏
 治承四年(1180)八月、頼朝が伊豆で挙兵し源平合戦が始まると、佐々木秀義の子・四兄弟は頼朝のもとに馳せ参じ目覚しい活躍をする。頼朝の最初の合戦で伊豆の目代山木兼隆の首をあげたのは佐々木三郎盛綱である。佐々木氏は恩賞を得て近江の旧領地に帰還する。盛綱の兄・定綱以下の系図で、惟綱が万木氏を名乗ったとみられる。
 秀義(1112-1184)→定綱(1142-1205)→広綱(?-1221)→惟綱(万木氏)→範定(万木ニ郎)
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仙台市・若林城跡 政宗の執務所か 最大の御殿建物跡発見

2008年10月30日 | Weblog
 仙台市教委は28日、仙台藩祖伊達政宗が1628年に隠居先として造営した若林城跡(仙台市若林区、現宮城刑務所)の本年度の第9次発掘調査で、これまで発見された中で最大の御殿建物跡が見つかったと発表した。市教委は伊達政宗が藩政を執った重要な施設を司る格式高い建物だったのではないかという。
 発掘調査は刑務所改築に伴い04年から実施しており、今年6月から第9次調査を実施。
 これまでの調査で城の御殿建物跡8棟が見つかっていたが、今回の調査で新たに5棟を確認。
 このうち1棟は、L字型で、若林城跡の中央付近に位置する。面積は約400㎡。母屋部分の東西23.6m、南北12.8mの建物と、北西側に東西8.9m、南北10.8mの建物が接する構造とみられる。建物の西側にあるL字型建物(約320㎡)よりも広いことから、政務を行ったとされる表御殿の一部とみられる。
 また、御殿群の東側には、一片が約7m、深さ約60cmの正方形の石組みの池とみられる遺構や、東西に30m以上延びて北側に約10m曲がる逆L字形の塀跡を発見。板塀か土塀かは分からない。この塀を境に、御殿群は藩政をつかさどる西側の公的な「表」と、武将の家族や女中らが詰める北東側の私的な「奥」のエリアに区画されていたと考えられるという。建物がL字形なのは、下座のさらに下座を設けて政宗への敬意を表していると推測できると話す。
 刑務所の改築に伴い、2004年度に始まった市教委の発掘調査では、若林城の建物が仙台城二の丸などに移築されたことが分かっている。ただ、今回見つかった最大規模の建物が移築されたかどうかは文献などで確認できていない。
 若林城は東西420m、南北350mで、高さ5mの土塁と堀で囲まれていた平城。1636年に政宗が死去すると、遺言によって廃絶され、わずか8年しか使用されなかった。
 所在地は明治時代以降、刑務所として利用されている。
 今年は刑務所内で開かれる「みちのく・みやぎ矯正展」(法務省仙台矯正管区など主催)に合わせ、一般市民に向けた遺跡見学会を行う。
 11月1日午前10―11時、午後1―2時の2回。受け付けは見学開始から30分後まで。
[参考:10/29河北新報、毎日新聞、読売新聞]
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奥尻島・青苗遺跡 1976年出土のヒスイ勾玉は糸魚川産と判明

2008年10月30日 | Weblog
 北海道奥尻町青苗遺跡から1976年に出土したヒスイ(翡翠)製の大きな勾玉が、新潟県糸魚川産のヒスイで作られたものであることが、町教委が実施した科学分析で分かった。
 勾玉は長さは5cmで「頭部」にある三本の切り込みが特徴的な「丁字頭(ちょうじがしら)勾玉」と呼ばれるもので、青苗遺跡で見つかった墓から副葬品として鉄剣やガラス玉などとともに出土した。道内の出土例は奥尻だけであり、長さ5cmの大きさは珍しいという。
 ヒスイ製丁字頭勾玉は古墳時代前期から中期にかけて多く作られるが、古墳時代後期に現れる「切子玉」も一緒に出土しているため、奥尻島に持ち込まれた時期は同時期以降であると考えられる。奥尻は、当時オホーツク文化南限の地であり、その後擦文文化が重なり合いながら入れ替わることになる。古墳時代に作られた勾玉が、青森県八戸市丹後平古墳群(7世紀後半~8世紀前半)など東北北部にもたらせるようになるので、恐らくは青苗遺跡も同様な時期と考えられる。
[参考:10/28北海道新聞]

奥尻島の名が資料に現れるのは「日本書紀」の斉明天皇六年(660)の条
 この年3月に阿倍臣(比羅夫)に粛慎(みしはせ)の国を討伐させた。(略)粛慎は弊賂弁嶋(へろべのしま)に帰った。しばらくして、粛慎が講和を願ったものの、阿倍臣は許さなかった。弊賂弁(へろべ)は、渡島の一部である。粛慎は自分の柵(砦)で戦った。(略)
(原文)◆三月。遣阿倍臣。率船師二百艘、伐粛慎国。阿倍臣以陸奥蝦夷、令乗己船、到大河側。於是渡嶋蝦夷一千余、屯聚海畔。向河而営。々中二人進而急叫曰。粛慎船師多来将殺我等之故。願欲済河而仕官矣。阿倍臣遣船喚至両箇蝦夷。問賊隠所与其船数。両箇蝦夷便指隠所曰。船二十余艘。即遣使喚。而不肯来。阿倍臣乃積綵帛。兵・鉄等於海畔、而令貪嗜。粛慎乃陳船師。繋羽於木。挙而為旗。斉棹近来、停於浅処。従一船裏、出二老翁。廻行、熟視所積綵帛等物。便換著単衫。各提布一端。乗船還去。俄而老翁更来、脱置換衫。并置提布。乗船而退。阿倍臣遣数船使喚。不肯来。復於弊賂弁嶋。食頃乞和。遂不肯聴。〈弊賂弁。度嶋之別也。〉拠己柵戦。于時能登臣馬身竜為敵被殺。猶戦未倦之間。賊破殺己妻子。

 ここで、弊賂弁嶋(へろべのしま)が最近では奥尻島に比定されているようだ。(岩波文庫「日本書紀」では未詳になっている。)
 この時期が7世紀後半であることも、興味深い。
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福山市 二子塚古墳 地積調査を開始

2008年10月29日 | Weblog
 福山市教委は、国史跡指定を目指す福山市駅家町の前方後円墳「二子塚古墳」の地積調査を始めた。
 二子塚古墳は古墳時代後期に造られた西日本でも数少ない前方後円墳全長約70mで、前方部と後円部にそれぞれ横穴式の石室がある。後円部石室は、石積みの側壁がある墓道を含めると全長22.3mで全国最長級となる。
 墓道や石室からは、土器や鉄製品、馬具などが出土。太刀の柄を飾る金具である双竜環頭柄頭(そうりゅうかんとうつかがしら、長径7.7㎝)のデザインは、向かい合った2頭の竜が各々玉を口にくわえており、国内では他に出土例がない。(国産か舶来かは不明)
[参考:中国新聞]
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福岡市 元岡・桑原遺跡群 弥生時代中期のシカ、建物などが描かれた琴の側板が出土

2008年10月29日 | Weblog
 福岡市教委が29日、福岡市西区の元岡・桑原遺跡群で、シカ、太陽、建物、トリが一緒に描かれた弥生時代中期末(約2千年前)の木製の琴が出土したと発表した。4種類の絵がそろっている木製品が見つかったのは全国で初めて。画題はすべて稲作の祭りに関係し、弥生時代の農耕祭祀を知る貴重な資料となりそうだ。
 出土した木製品は、箱型の琴の側板で、長さ89cm、幅19cm、厚さ1cmのスギ材の板。
 音を共鳴させるために開けられた円形の穴は太陽を表現しており、それをはさんで、左側に2頭のシカ、1頭のシカの脚が彫り込まれている。穴の右側に大小二つの高床式の建物、さらにその右に鳥の胴と足の部分が彫り込まれている。
 市教委によると、穴は太陽を象徴し、シカは穀物の化身、鳥は稲穂を運ぶ使いとされている。建物は穀物を収めた高床式とみられる倉庫で、寄せ棟造りの珍しいものだ。これらの組み合わせで、弥生時代の農耕儀礼の様子を表しているという。
弥生時代の琴は100例ほど出土しているが、絵があるのは数例しかなく、4種類も絵があるものはこれまで発見されていない。
 同遺跡は、「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の一部とされる。祭祀用とされる丹塗(にぬ)りの土器などが大量に出土しており、琴も祭祀の儀式に使われたとみられる。
 出土品は11月1~9日、福岡市博多区の市埋蔵文化財センター(博多区)で一般公開する。
[参考:10/29朝日新聞、時事通信、西日本新聞]
福岡市西区・元岡遺跡群から出土 弥生中期末 赤い翳形木製品 「伊都国」の先進性示す(西日本新聞) - goo ニュース

[前出]


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源氏物語「梅枝」の写本に、原作に近い別本を発見 勝海舟の蔵書印も

2008年10月29日 | Weblog
 甲南女子大学(神戸市)の図書館で保存されている源氏物語第32巻「梅枝(うめがえ)」の写本が、鎌倉時代中期に書かれた「別本」と呼ばれるものだったことが29日、同大文学部の米田明美教授(日本文学)の調査で分かった。現存する「梅枝」の写本では「保坂本」と呼ばれるものと並び最古級という。
 源氏物語の代表的な写本の藤原定家編纂「青表紙本」とは異なる独自の文があり、「光源氏」と「紫の上」の会話の中などにこれまでにない描写が多数あり、米田教授は「紫式部が書いた原作に近い可能性もある」としている。
 米田教授は「これだけ古い別本が出てくることは、今後ほとんどないでしょう」と話す。同大が1973年に京都の古書店で購入した「梅枝の巻」の写本は、主流である「河内本」とされていたため、長年図書館の保管庫に保存され顧みられることはなかった。が、千年紀を機に再読していた米田教授はこれまでの写本と異なる記述があることに気づいた。
 光源氏が紫の上を「あなたの書は素晴らしい」とほめる場面。他の写本ではこれに対する紫の上のせりふはないが、この写本では「いたうなすかし給そ(ご冗談をおっしゃいますな)」と答えていた。
 これまで寡黙とされていた紫の上と、光源氏との仲むつまじさが伝わってくる記述で、米田教授は「まさか別本では」と胸が高鳴ったという。
 写本には「勝安芳」の蔵書印があり、江戸時代末期から明治にかけて活躍した勝海舟が、元号が明治に変わってから名乗っていた名前とみられ、軍艦奉行を罷免され、閉居していたときに読んでいたと推測される。米田教授は「『女が読むもの』と思われがちな源氏物語を、軍事の専門家が読んでいた。維新後、気持ちに余裕ができた海舟が恋物語を手に取ったのかななどと思いをめぐらせるだけでも楽しい」と話す。
 勝の半生を描いた「それからの海舟」の著者である作家、半藤一利さんは「面白い。でも勝は女性的なのが嫌いだから、本当に読めたのかなあ」と笑いながら話した。
 関西大の田中登教授(日本文学)に鑑定を依頼したところ、線が太く力強い書風や「斐紙(ひし)」と呼ばれる紙に書かれているなどのことから現存する「梅枝」の巻の写本では最も古い年代で、鎌倉時代中期の1240-80年ごろに書き写されたものと鑑定した。 
 54巻から成る源氏物語は作者紫式部が書いた原本はなく、書き写しで伝えられてきた。鎌倉時代初期に藤原定家が書写した青表紙本で現存するのは4巻だけとされ、梅枝は含まれていない。
[参考:10/29時事通信、共同通信、毎日新聞、産経新聞、読売新聞]
源氏物語の最古級写本 「梅枝」の巻、鎌倉中期 (共同通信) - goo ニュース
源氏物語に新描写の別本=鎌倉中期の写本、原作に近い?第32巻、甲南女子大所蔵(時事通信) - goo ニュース

[参考:2008.7.22前出]

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伊達市・宮脇遺跡 室町期の霊山寺跡 発掘調査現地説明会開催案内

2008年10月29日 | Weblog
 表題の現地説明会が予定されています。
 2006年に室町時代の寺院跡とみられる礎石や瓦、ほかに青磁、古瀬戸などが発見されました。1401年に大石地区に再興されたと伝えられる「霊山寺」の有力な候補になるとされ、このうち菊の文様が配された軒平瓦は、同市梁川町の伊達家が建立した筆頭寺院格である東昌寺跡でも発見されているため、伊達家の関与が示唆されました。
 2007年には、新たな礎石建物跡1棟と掘立建物跡1棟が発見され、霊山寺跡とほぼ断定されました。
 礎石建物跡には火災で倒壊した可能性があり、大量の瓦が出土していることから、当時では珍しい総瓦葺きの建物だったと推定されています。
 今年度は、新たに室町時代の建物跡が見つかりました。礎石が確認され、茶碗や茶壺の一部が見つかり、寺院の生活関連施設とみられます。

発掘調査現地説明会
 日 時: 2008年11月1日(土)午後1時30分~
 場 所: 宮脇遺跡(伊達市霊山町大石字宮脇)
 主 催: 伊達市教育委員会

[参考:福島民法、福島県文化財センター「まほろん」、10/29毎日新聞]

霊山寺概要: 福島県伊達市霊山町・相馬市
 2500から3000万年前の火山活動で生まれた霊山は奇岩がそそりたち、高山植物の宝庫、紅葉の名所として、国の史跡、名勝に指定されている。
 霊山城址に立てられている説明板には、下記が記されている。
 霊山(りょうぜん)は貞観元年(859)、比叡山延暦寺の座主円仁(慈覚大師)によって開山されたといわれ、釈迦が修行したというインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に因み霊山と命名され、山号を南岳山山王院霊山寺と称した。往時は伊達・宇多・刈田を寺領とし、南奥における宗教・文化の中心地として栄えた。
 下って延元2年(1337)正月、陸奥の守北畠顕家は後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて霊山に拠り、南朝再興を策してここに国府を開いたが、貞和3年(1347)北朝方の勢力に抗しきれずついに落城し、山中の堂宇はことごとく消失した。今霊山山中には数多くの遺跡群が埋もれており、往時の栄華を今に伝えている。
 このような悠久の歴史を秘め、四季折々に山容を変える霊山は、玄武岩質の火山角礫岩によって構成されており、長い年月にわたる風化侵食作用によって出来た奇岩怪岩と、岩間に映える新緑、紅葉はすばらしく天下の景勝地として広く知られているところである。
          昭和60年12月     文化庁、霊山町教育委員会

 霊山寺は天台宗の東北中心として隆盛を極め、以来500年平泉の北奥文化に対し霊山は南奥文化として栄華を極めたといわれるが、その性格は全く異なる。最大標高825mの霊山、その標高約760mのところに霊山寺は建立され、3600坊の大伽藍を誇る東北山岳仏教文化の中心であった。
 現在、霊山に登るには「霊山こどもの村」の直ぐ上、標高約530mのところに駐車場があり、そこを利用すると便利である。直ぐに登山口がある。駐車場脇に説明板があり、下記が記されている。
 この山は元は不忘山と言ったが、貞観元年(859) 滋覚大師円仁が南岳山山王院霊山寺を創建し、霊山と改めた。以後天台修験の霊場となった。
 南北朝の争いで焼失後、伊達氏が再興し(注)霊山寺を中心に衆徒12坊があった。会津藩となって寺領を失い、堂宇破壊され現位置に移った。
 大正13年中腹の霊山寺跡が発掘調査され、千手観音堂を根本中堂とした僧坊3600と称された霊山寺の規模が明らかになった。
 霊山寺跡の隣の日吉神社は山王権現を祀ったものである。尚北麓の霊山神社は、明治14年南朝正統論の立場から創建されたもの。

(注) ここで、「伊達氏が再興し・・・」とあるが、再興した場所は霊山でなく、宮脇遺跡(標高約130m)ということになる。

[関連年表]
 貞観元年(859) 第3代天台座主円仁(慈覚大師)によって開山される
 元弘3年(1333) 後醍醐天皇は奥州政府開府のため、義良親王(後の後村上天皇)と陸奥国司・北畠顕家を多賀の国府へ下した。
 建武2年(1335) 顕家らは数万の奥州兵を率いて、京都の足利尊氏軍を追い払うのに成功し、凱旋帰国したが、まもなく足利方によって多賀城が危うくなる。
 建武4年(1337) 義良親王と顕家は霊山寺の勢力と南朝の有力武将であった伊達氏7代当主の行朝(行宗)、結城宗広入道を頼り、霊山寺に移った。国府を多賀城から移し、社寺仏閣を霊山城として利用した。
 建武5年(1338) 顕家が討死にし、北朝方に攻め込まれ堂宇のほとんどが焼失した。
 正平2年(1347)足利尊氏軍によりついに落城し寺院や城は消失。伊達氏は北朝に降った。
 応永8年(1401)頃 伊達氏宗(1371~1412)が宮脇遺跡の地に再建する。(衆徒21坊が存在)
 寛永17年(1641) 霊山寺跡から約6km北の場所である場所に移し、現在の霊山寺を再建した。
[参考: 宮脇遺跡第2次調査現地説明会資料(伊達市教育委員会)、「霊山寺縁起」]

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茅ケ崎市・下寺尾七堂伽藍跡 伽藍跡遺構見つかる

2008年10月25日 | Weblog

下寺尾官衙遺跡群出土瓦類と懸仏。 2011.6.14「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて撮影。

 奈良時代から平安時代の遺跡とされる茅ケ崎市の下寺尾七堂伽藍跡から寺院の主要建物と見られる遺構が見つかった。
 同伽藍跡は78年の第1回確認調査で古代の寺院跡と分かった。今回の調査では、一辺8m以上の寺院の主要建物の一つらしい基礎の造成部分が地中60~70cmで見つかった。主要建物はお堂や塔などが考えられるが、はっきりしていないという。また、寺院の中心を囲んでいた溝も確認された。

下寺尾七堂伽藍跡 第13次確認調査 現地説明
 日 時: 平成20年10月26日(日) 第1回 午前10:00~、 第2回 午後13:00~ ※小雨決行
 場 所: 下寺尾七堂伽藍跡 現地 (茅ヶ崎市下寺尾151)
【下寺尾七堂伽藍跡について】
 昭和53年に行われた第1回確認調査で、寺院跡であることが確認された。
その後、出土した瓦の研究などから、国分寺より古い相模国における初期寺院であることが指摘されている。また、近接の県立茅ヶ崎北陵高校校地内から、同じ古代の役所跡である「高座郡衙」が発見され、役所と寺院とが近接する事例として全国的にも注目されている。
【保存整備に伴う発掘調査成果】
 保存整備のため平成12年度より12回の確認調査が実施されている。
その結果、伽藍を区画する遺構が確認され、遺跡の状況から、奈良時代初期(7世紀末)の創建期と9世紀頃の改修期があることが判明。
寺院に関連する遺物が出土しており、寺院になる前には古墳時代の集落が営まれていたことがわかった。また、寺院が廃絶された後の中世において土地改変を受けていたなどの成果が上がっている。
[参考:10/25毎日新聞、茅ヶ崎市教育委員会]

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武蔵府中熊野神社古墳 上円下方墳で初めての、1段目に「前庭部」

2008年10月25日 | Weblog
上円下方墳で初めての、1段目に「前庭部」
 府中市は24日、復元工事を進めていた武蔵府中熊野神社古墳(西府町2)で、石室の入り口に続く前庭部を発見したと発表した。上円下方墳でこのような遺構が見つかるのは初めてで、古代の多摩地域と畿内との強い結びつきを示すとみる。
 遺構は熊野神社本殿の真下で、今まで手つかずであったが、今回の復元工事のために本殿を西側に移動し20~30cmほど盛り土を取り除いたところ、奥行き約4.5m、横幅約2mのシルト岩を並べた縁石が露出した。
 縁石は3段構造の古墳の1段目に「ハ」の字を描くようにして前庭部を形成していた。上円下方墳では、2段目にだけ前庭部を持つのが一般的。
 今回見つかった遺構は埋め戻されるが、市は来春までに保存工事を終え、古墳を一般に公開する。
[参考:毎日新聞]

“ウィキペディア”によると、「武蔵府中熊野神社古墳の主体部は複室構造の横穴式石室で、八の字に開く前庭部と呼ばれる墓前域、そして入り口側から前室、後室、玄室という3室があり、一段目墳丘上に造営されている。』と書かれている。
しからば、「1段目に前庭部は初」とは何を示すのか、写真あるいは詳細な情報を待ちたい。

[9/30掲載分]
 標題のニュースが9月に入り、読売新聞、朝日新聞、日経新聞などで取上げられている。要約すると、
 埋葬施設の横穴式石室を埋め戻し、当時と同様に版築工法を用いて墳丘を再現する。壁面は玉石を積み重ねた石張りにする。完成時の高さは6.5m。その工事が始まった。墳丘のあった場所に建っている現在の神社本殿、山車小屋など建物は可能な範囲で移設する。来春公開する予定。
ということである。

《最古・最大規模》
上記記事の共通のキーワードとしては、「最大、上円下方墳、国史跡、(横穴式)石室、来春までに復元」であるが、気になるワードとして「最古」と書いているものがある。もちろん、上円下方墳としての中でのことであるが。
文化庁は、平成17年5月20日付けの文化審議会答申「史跡等の指定等について」で熊野神社古墳の年代について「古墳の築造時期は横穴式石室や鞘尻金具の特徴から、7世紀中頃から後半と考えられる。本古墳は、調査で確認された上円下方墳としては、史跡石のカラト古墳(京都府・奈良県)、清水柳北1号墳(静岡県)に次いで3例目であり、このうちで最も大きく、かつ古くなる可能性が高い。」と記している。
すなわち、三鷹市の天文台構内古墳が昨年12月に上円下方墳と確認され、さらに今年になって須恵器の壺が出土し、そこから7世紀の中頃と時代が判明するまでは最古と言えたが、今は熊野神社古墳が最古とは言えない。ところが、今月6、7日に行われた天文台構内古墳の現地説明会の資料では、「天文台構内古墳を上円下方墳のひとつの類型とし、熊野神社古墳を典型的な上円下方墳」と記しているのが気になる。
備考:
上円下方墳と確認されたもの
 ①武蔵府中熊野神社古墳(府中市、7C中~後半) ②石のカラト古墳(奈良と京都の県境、7C末~8C初頭) ③清水柳北一号墳(沼津市、8C初頭)
上円下方墳の可能性があるもの
 ①宮塚古墳(熊谷市) ②山王塚古墳(川越市) 

 三鷹市天文台構内古墳(三鷹市)はどちらに入るのであろうか。一般的には確認されたとみるが、専門的には確定ではないのかも?
 山王塚古墳は、川越市教育委員会(現地案内板)によると、市指定史跡であり、方形部63m、円形部径47m、高さ4.5mの東日本最大の上円下方墳だろうと記している。もし、この古墳が発掘調査の上、上円下方墳ということになれば最大規模となる。

《北緯35度40分上の3古墳》
 北緯35度40分ライン上の、多摩川の西側に北大谷古墳(八王子市)、東側に熊野神社古墳がある。古墳形状が違うものの築造の特徴が似ており、さらには同じライン上に同じような特徴の古墳があるのではと推測されていたらしい。天文台構内古墳が発掘される毎に、それがはっきりと当てはまるようになってきた。
 北大谷古墳は円墳ないし方墳であり、熊野神社古墳および天文台構内古墳は上円下方墳である。周辺の他の古墳を凌駕する規模である、中軸は角度の差があるもの南北方向である、版築工法を使用する、シルト岩を利用している、複室構造胴張り形横穴式石室を持つ、玄室床面に敷石を置く、埴輪がない、周溝(または周濠)がある、築造時期は7世紀である、などの共通点がある。多摩川周辺の有力者の連合の現われか興味のあるところ。
[天文台構内古墳 前出1 前出2 前出3]
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羽曳野市・峯ヶ塚古墳 周濠南側内堤に土塊を用いた盛土

2008年10月25日 | Weblog
 22日、羽曳野市教委は、百舌鳥・古市古墳群・峯ヶ塚(みねがづか)古墳(5世紀末~6世紀初め)で、周濠南側の(内)堤が、質の違う土塊を用いた盛土によって構築されていたと発表した。
北側は2重の周濠が巡るが、南側についてはわかっていなかった。今回、堤(内堤)の所在を確認できた。
 今回出土した堤(幅9m、高さ2m)の断面から、ラグビーボール大の粘土質土の塊を約1m間隔で盛り上げ、その透き間を黄色い砂質土で埋め、固く締まるようにしていたことが判明した。形状から粘土質土は鋤、砂質土は運搬道具のもっこで運んだらしい。
 市教委は「当時としては高度な土木技術。陵墓指定されている巨大古墳は発掘できず、同様の工法がとられていたことが推測できる」としている。強固にするための工夫で、巨大古墳の築造技術の解明につながる手がかりになりそうだ。
現地説明会は、25日午前10時~午後2時に行われる
場 所: 羽曳野市軽里所在峰塚公園内 峯ヶ塚古墳調査現場
最寄駅: 近鉄南大阪線古市駅下車徒歩西へ約1km
[参考:読売新聞、羽曳野市教育委員会社会教育課]

峯ヶ塚古墳 (羽曳野市軽里2丁目)
周辺には仁賢陵古墳や白鳥陵古墳の大型前後円墳が多く築かれている。
墳丘長96m、後円部径56m、前方部幅74mの前方後円墳。二重の周濠と堤をもつ。昭和49年に国の史跡に指定。
5世紀末から6世紀初頭に築かれた、大王陵クラスの古墳とみられる。
これまで9回の発掘調査が行われ、なかでも第4次調査では後円部の主体部が調査され、幅広の竪穴式石室か竪穴系横口式石室の一部と豪華な副葬品が発見された。阿蘇産凝灰岩の石棺が納められていたとみられ、石室内部には金銅製の魚形の飾りを付けた太刀15本以上や挂甲・馬具・ガラス玉や管玉など3,000点を越える副葬品が発見された。
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宮城県 多賀城跡 政庁創建時の西辺の石垣発見

2008年10月25日 | Weblog
 県多賀城跡調査研究所は23日、多賀城政庁跡外側から、8世紀前半の政庁を創建する際に造成した整地層の南辺と西辺の石垣の一部を発見したと発表した。
 石垣は政庁跡南側に続く政庁南面地区から見つかり、石垣は高さ1―2m、長さは南辺が約2m、西辺が約4mの規模。
 外郭南門周辺の田屋場地区では、外郭南門跡の南に延びる「南北大路跡」(幅約18―25m)を確認。さらに南側で既に発見され場所と一直線上につながることが分かった。
 現地説明会が25日(土)午前10時から行われる。
◆会場:多賀城跡第80次発掘調査現場(多賀城市市川字田屋場・城前地内)
[参考:河北新報、宮城県宮城県教育庁文化財保護課 ]
多賀城跡 政庁創建時の石垣発見 県調査研 (河北新報) - goo ニュース
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宮城県亘理町 三十三間堂官衙遺跡現地説明会予定

2008年10月25日 | Weblog
 宮城県教育庁文化財保護課より、11月1日に行われる現地見学会の新たな情報が発表されました。
 郡庁院(役所の中心施設)の東部から新たに役所に関連する建物跡とは宿泊施設である「館(たち)」と考えられようです。
[宮城県教育庁文化財保護課]

[10/7掲載分]
 三十三間堂官衙遺跡は、宮城県の南部、阿武隈川が太平洋に注ぐ河口に位置し後背は阿武隈高地の北端となる亘理町にあり、平安時代の郡衙を中心とする遺跡で、宮城県内の官衙遺跡でも最南にある。遺跡には礎石群が10箇所以上あり、郡(こおり)という地名と規模の大きさから郡衙跡と推定され、奥州藤原氏の始祖である亘理権大夫・藤原経清(?~1062)の居城地としての関連が有力視され平成4年、国の史跡に指定された。
 調査から9世紀前半から10世紀前半にかけて存在した陸奥国亘理郡衙の施設であることが明らかになっている。
 これまでに、郡庁跡と見られる「コの字」型に並ぶ掘建柱建物跡や礎石式倉庫跡などが発見されている。

 三十三間堂官衙遺跡(平安時代前半の郡役所跡)では、9月から今年度の発掘調査を実施しており、郡庁院(役所の中心施設)の東部から新たに役所に関連する建物跡や溝跡などが発見された。
 調査成果説明会開催が予定されている。
  日時:11月1日(土曜日) 午後1時30分から午後3時
  場所:三十三間堂官衙遺跡 (逢隈下郡椿山・JR逢隈駅西部)
[参考:亘理町HP]
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