宮城県東松島市教委が16日、古代牡鹿郡を統括していた役所跡とされる東松島市の赤井遺跡で、大和朝廷の軍事施設である「牡鹿柵(おしかのさく)」とみられる塀や溝の跡が見つかったと発表した。
「続日本」に記述される牡鹿柵(注1)の存在が裏付けられたとする。
市教委によると、遺跡南東の外周部から、直径20cm前後の丸木を並べた材木塀跡(高さは推定2~3m)と塀に沿った溝跡が、それぞれ東西に120m確認された。蝦夷(えみし)の反乱に備えた城柵の外郭施設に当たるという。
続日本紀には、古代牡鹿郡には役所の「牡鹿郡家(ぐうけ)」と軍事施設の「牡鹿柵」が設置されたとの記載があるが、牡鹿柵跡はこれまで発見されていなかった。
赤井遺跡は東西約1.7km、南北約1kmの範囲に及び。飛鳥時代末期から平安時代初めまで営まれ、現在の石巻地方を統括する「牡鹿郡家(ぐうけ)」と、東北地方有数の豪族・道嶋氏の豪族居宅の推定地とされる。
[参考:河北新報、毎日新聞、朝日新聞]
(注1)続日本紀 天平九年四月十四日戊午。 遣陸奧持節大使從三位藤原朝臣麻呂等言。以去二月十九日到陸奧多賀柵。与鎭守將軍從四位上大野朝臣東人共平章。且追常陸。上総。下総。武藏。上野。下野等六國騎兵惣一千人。開山海兩道。夷狄等咸懷疑懼。仍差田夷遠田郡領外從七位上遠田君雄人。遣海道。差歸服狄和我君計安壘。遣山道。並以使旨慰喩鎭撫之。仍抽勇健一百九十六人委將軍東人。四百五十九人分配玉造等五柵。麻呂等帥所餘三百卌五人鎭多賀柵。遣副使從五位上坂本朝臣宇頭麻佐鎭玉造柵。判官正六位上大伴宿祢美濃麻呂鎭新田柵。國大掾正七位下日下部宿祢大麻呂鎭牡鹿柵。自餘諸柵依舊鎭守。
東松島・赤井遺跡に大和朝廷軍事施設「牡鹿柵」の塀や溝の跡 史書「続日本紀」裏付け