歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

高崎市・高崎城遺跡 東日本最大級の石製模造品の原石が出土

2017年12月27日 | Weblog
 高崎市教委は25日、2016年度の高崎城遺跡(同市高松町)の発掘調査で出土した滑石(縦23cm、横34cm、厚さ8cm、重量約6kg)が、石製模造品の原石で東日本最大級だと発表した。
 同遺跡から多数の原石が見つかっており、鏑川流域で採れた滑石を加工する大きな工房があった可能性があるとしている。
[参考:上毛新聞]

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 高崎城遺跡


東日本最大級の道具原石 高崎城遺跡で出土
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鳥取市・青谷上寺地遺跡 近畿型銅戈が中国地方以西で初出土

2017年12月26日 | Weblog
 鳥取県埋蔵文化財センターは25日、弥生時代の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取市青谷町)から武器形の祭器「銅戈」の破片1個が出土したと発表した。
破片は長さ3.4cm、幅2.3cm、厚さ4mmで、弥生時代終末期(3世紀前半)の遺跡の中心域の地層から出土した。紀元前2~1世紀に作られた銅戈の柄に取り付く基部「胡(こ)」の一部とみられる。
 大阪湾を中心に出土例のある「近畿型」銅戈とみられ、中国地方以西では初めてとしている。
 再利用を目的とした素材だった可能性があるという。
[参考:共同通信、産経新聞]

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 銅戈
 青谷上寺地遺跡
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慶山河陽・陽地里遺跡 原三国時代の首長級木棺墓が見つかる

2017年12月21日 | 韓国の遺跡・古墳など
1か月前のニュースです。

 聖林文化財研究院は11月23日、慶山郡河陽邑陽地里の宅地開発予定地区から、約2千年前の原三国時代の首長級木棺墓を6基発見したと発表した。このうち6号木棺墓と命名された墓は東西方向に置かれ、丸太(クヌギ材)に死体を安置した、丸太木棺墓(통나무 목관묘)である。
 副葬品は青銅剣、鉄剣、中国製青銅鏡、青銅馬、銅戈、青銅製腕輪、板狀鉄斧、轡、虎形青銅帯鉤、扇(부채)、土器などと共に被葬者の人骨も見つかった。
特に目を引く遺物は3点の扇だ。 1点は死体の顔の上、ほか2点は腰のそばから発見された。両手に1点ずつ握り、残りの1点は腹の上に置かれたとみられている。
 また、被葬者は古代押督國の王の可能性が高いとみている模様。 
[参考:聯合ニュース、東亜日報ほか]

過去の関連ニュース・情報
 昌原・茶戸里遺跡 木棺墓に雲母や扇
 慶州 皇南洞古墳 新羅墓から雲母が出土
 鳥取市・高住牛輪谷遺跡 団扇形木製品が出土
 慶州平野内・塔洞 2千年前新羅建国勢力首長の木棺墓から漆器扇が出土
 福岡市・元岡遺跡群 弥生時代中期末の翳形木製品が出土


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東松島市・赤井遺跡 「牡鹿柵」の塀や溝の跡

2017年12月20日 | Weblog
 宮城県東松島市教委が16日、古代牡鹿郡を統括していた役所跡とされる東松島市の赤井遺跡で、大和朝廷の軍事施設である「牡鹿柵(おしかのさく)」とみられる塀や溝の跡が見つかったと発表した。
「続日本」に記述される牡鹿柵(注1)の存在が裏付けられたとする。
 市教委によると、遺跡南東の外周部から、直径20cm前後の丸木を並べた材木塀跡(高さは推定2~3m)と塀に沿った溝跡が、それぞれ東西に120m確認された。蝦夷(えみし)の反乱に備えた城柵の外郭施設に当たるという。
 続日本紀には、古代牡鹿郡には役所の「牡鹿郡家(ぐうけ)」と軍事施設の「牡鹿柵」が設置されたとの記載があるが、牡鹿柵跡はこれまで発見されていなかった。
 赤井遺跡は東西約1.7km、南北約1kmの範囲に及び。飛鳥時代末期から平安時代初めまで営まれ、現在の石巻地方を統括する「牡鹿郡家(ぐうけ)」と、東北地方有数の豪族・道嶋氏の豪族居宅の推定地とされる。
[参考:河北新報、毎日新聞、朝日新聞]

(注1)続日本紀 天平九年四月十四日戊午。 遣陸奧持節大使從三位藤原朝臣麻呂等言。以去二月十九日到陸奧多賀柵。与鎭守將軍從四位上大野朝臣東人共平章。且追常陸。上総。下総。武藏。上野。下野等六國騎兵惣一千人。開山海兩道。夷狄等咸懷疑懼。仍差田夷遠田郡領外從七位上遠田君雄人。遣海道。差歸服狄和我君計安壘。遣山道。並以使旨慰喩鎭撫之。仍抽勇健一百九十六人委將軍東人。四百五十九人分配玉造等五柵。麻呂等帥所餘三百卌五人鎭多賀柵。遣副使從五位上坂本朝臣宇頭麻佐鎭玉造柵。判官正六位上大伴宿祢美濃麻呂鎭新田柵。國大掾正七位下日下部宿祢大麻呂鎭牡鹿柵。自餘諸柵依舊鎭守。


東松島・赤井遺跡に大和朝廷軍事施設「牡鹿柵」の塀や溝の跡 史書「続日本紀」裏付け
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奈良市・平城京左京五条五坊十三坪跡 7世紀後半出土の軒平瓦片が和田廃寺跡(橿原市)出土瓦と同笵

2017年12月14日 | Weblog
 平城京左京五条五坊十三坪跡(奈良市西木辻町)で平成5年に見つかった7世紀後半の軒平瓦片が、和田廃寺跡(橿原市和田町、7~8世紀)から出土した瓦と同笵だったことが、奈良市埋蔵文化財調査センターの調査で分かった。
 文献史料から、出土地の東側には「葛木寺」があったと推定され、和田廃寺跡を聖徳太子創建七カ寺の一つ「葛木尼寺」とする説を裏付ける成果としている。
[2017.12.9参考:奈良新聞]

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 葛木寺は、平城京の時代には左京五条六坊に移ったようである。五条大路に面し、東隣は空海が上京したときに滞在した、佐伯今毛人(いまえみし、719-790)の氏寺・佐伯院であった。
 続日本紀 宝亀十一年(780)正月庚辰【十四】の条に 
  大雷。災於京中数寺。其新薬師寺西塔。葛城寺塔并金堂等。皆焼尽焉。
と記される。
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壱岐市・原の辻遺跡 中国の遼東系銅釧が初出土

2017年12月06日 | Weblog
 長崎県埋蔵文化財センターは27日、壱岐市の「原(はる)の辻遺跡」で2007年度に発掘した青銅製品(長さ約4cm、幅約1cm、 厚さ2.5mm、重量3.7gで外面に幅1.5mm程度の凹線が4条刻まれている)が、紀元1世紀ごろの銅釧(腕輪)の一部と判明したと発表した。年代は倭の奴国が後漢に朝貢し、金印を授けられたとされる時期(AD57年)に近いという。
 出土品は。中国の遼寧省周辺(遼東郡)で使用された「遼東系銅釧」で、13年に国の重要文化財に指定された。同地域の銅釧が国内で出土したのは初めて。
 出土品が、遼東郡の羊草荘漢墓(ようそうしょうかんぼ)で報告された67点の銅釧と形状やサイズがほぼ一致したことなどから遼東系の銅釧と判明した。
 これまで中国系の文物は、楽浪郡を経由して日本に流入したと考えられてきたが、同種の銅釧は楽浪郡では出土しておらず、一支国(いきこく、壱岐)と遼東郡との交流があったと想定できるものとしている。
[参照:2017.11.27長崎県HP、2017.11.28長崎新聞、朝日新聞、2017.12.1壱岐新聞、2017.12.6読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 原の辻遺跡


原の辻で国内初の腕輪出土

弥生集落から中国・遼東の腕輪 魏志倭人伝の「一支国」
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