歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

大田市・古龍遺跡 石見銀山遺跡の関連港湾で、遺構や中国産などの陶器破片が出土

2013年03月31日 | Weblog
 島根県教委は29日、石見銀山遺跡の中世の港湾とみられている大田市温泉津町湯里の古龍(こりゅう)遺跡で安土桃山時代(16世紀後半)とみられる遺構と中国や朝鮮王朝の陶磁器などの多数の破片が見つかったと発表した。
 文献資料から古龍地域は、16世紀前半には石見銀山開発当初に利用された港湾であったが、16世紀後半頃には漁業を主とした集落へ移り変わったと推測されていた。
 世界遺産室が今年2〜3月に調査し、海から約100m離れた深さ30〜60cmの16世紀後半の地層から建物の基礎とみられる長さ約2・5mの石列と直径約40cmの穴が3カ所見つかった。周辺では、中国・景徳鎮の染付磁器、白磁や朝鮮王朝の陶器、美濃焼など国産陶器のかけらなど75点が出土した。 陶磁器は模様などから16世紀第4四半期のものとみられる。 銀の精錬に使ったとみられる「坩堝(るつぼ)」の破片も見つかった。
 出土遺物は、4月12日から5月27日まで、同市大森町の石見銀山世界遺産センターで展示される。
[参考:中国新聞、毎日新聞、読売新聞、島根県HP]



キーワード: 古龍遺跡

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葛城市・当麻寺 本堂の中将姫坐像は1558年、南都宿院仏師・源三郎の作

2013年03月28日 | Weblog
葛城市・当麻寺 本堂の中将姫坐像は1558年、南都宿院仏師・源三郎の作
 葛城市の当麻寺本堂に安置されている中将姫坐像(高さ73・3cm、木像)が、南都を拠点とした大工出身の仏師集団「宿院仏師」によって室町時代に造られたことが奈良国立博物館の調査で分かった。
 同館の特別展「當麻寺」(4月6日~6月2日)に出展するため調べたところ、中将姫座像の顔面内側に「源三郎」、後頭部内側に「源次」の名前が墨書で書かれていた。ほかに、「南都宿院」、「永禄元年(1558)」などが書かれていた。
 源三郎(げんざぶろう)が中心となって制作したとみられる。 源三郎は二代目源次の息子。 源三郎の名前が単独で記されるのはこれまで1570年代といい、最も古い確認例となる。
 大変優れた出来栄えで、源三郎渾身の作という。
[参考:奈良新聞、奈良国立博物館HP]

 奈良市三棟町の誕生寺は、藤原豊成(704-766)の邸跡とされ、ここで豊成の息女中将姫(747-775)が生まれたと伝えられている。 ここにも、本殿には中将姫自作といわれる本尊「中将姫法如尼坐像」が安置されている。
 室町時代に南都仏師のひとつ宿院仏師の活動拠点であった奈良市宿院町は誕生寺とは近くにあり、源三郎の中将姫に対する思いが作品に込められたのかもしれない。

過去の関連ニュース・情報
 葛城市・当麻寺

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芝丸山古墳~芝東照宮~増上寺

2013年03月24日 | Weblog

①芝丸山古墳~②芝東照宮~③増上寺   (左側が南、右側が北に当る。右手には東京タワーも見える。)


① 芝丸山古墳は写真の左半分以上の長さを占め、左(南)が前方部、右(北)が後円部に当る。下の写真では、手前が前方部、奥が後円部。

(説明板より)
東京都指定史跡
芝丸山古墳
所在地 港区芝公園四丁目 都立芝公園内
指定 昭和54年3月31日
全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどの、都内最大級の規模を持つ前方後円墳である。
標高約16mの台地端に位置し、前方部を南々西に向けている。
江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。
明治31年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。
前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。
 平成二年一二月二七日 再建  
                        東京都教育委員会

『東京の古墳を歩く』(大塚初重鑑修 2010年祥伝社)によると、「戦後の再調査によると、墳丘主軸長は125m(東京都遺跡台帳)とされた。」と記している。

② 芝東照宮は、写真では真ん中より左寄りにある。
 境内の当宮の由来を記した説明板には、下記が記されている。

芝東照宮鎮座由来記
(御祭神)徳川家康公
(創祀沿革)当宮御祭神(御神体)は公の生前自ら駿府城に於いて祭儀をなされた寿像である。元和二年(1616)四月十七日公の薨去の際、公より「像を増上寺に鎮座させ永世国家を守護なさん」と仰せられ翌年三月現在地に社殿(安国殿)が創建された。明治以降神仏分離令により芝東照宮となった。旧社殿は権現造りで国賓になったが先の戦火で焼失し現社殿は昭和四十四年完成する。公の御神徳による東都を鎮護する代表的なお社です。徳川家康公の思想を御遺訓から学び取ると勤勉・慎重・堪忍・自責・簡素・倹約です。以って世の中の安寧、世界の平和を希求する厭離穢土劤求浄土の御旗に託しているのです。
 平成六年四月十七日
芝東照宮社務所

 家康公の寿像は滅多にお目にかかれないようである。 その代わり、江戸東京博物館に実物大の模型が展示されている。


 この家康寿像について、思い出したことがある。
 一昨年(平成23年)のNHK大河ドラマ「江姫たちの戦国」のヒロイン 浅井三姉妹の三女・江の生涯を紹介する特別展「2011年NHK大河ドラマ特別展 江姫たちの戦国」(平成23年1月2日~2月20日、江戸東京博物館)が開催された。 目玉は、江・崇源院の厨子「崇源院宮殿(すうげんいんくうでん)」の初公開であった。
 この宮殿は、崇源院宮殿と判明されるまでに、家康像が安置されていたため「家康宮殿」と呼ばれていた。 この家康像は、祐天寺で購入した「寺宝で綴るー祐天上人と祐天寺」(平成17年発行)(資料2)には、「徳川家康像」(江戸時代前期)とし、「五代将軍綱吉(1646-1709)が増上寺安国殿の実物像を写し、竹姫(綱吉養女、1705-1772)に贈り、竹姫が祐天寺に納めたとある。」(注1) しかし、同書に掲載されている徳川家康像と江戸東京博物館に実物大の模型とは同じ坐像ではあるが、見てくれがまったく異なる。 不可思議である。 ただ、(注1)の続きに、「観智国師(1544-1620、増上寺12世)より弟子随波上人、その弟子壇通上人から弟子祐天上人へ伝わったとする説もある。」としている
 (注1)の説が正しいとすると、竹姫は3才の時、宝永5年(1708)に綱吉と大典侍の局の養女として江戸城北の丸に迎えられているので、この年もしくは翌年4歳の時のいずれかに、綱吉から「徳川家康像」を贈られたことになる。 『隆光僧正日記』(隆光著、永島福太郎,林亮勝 校訂、続群書類従完成会 1969発行)に「宝永5年(1708) 7月21日 登場、(略)、今日、御養女被遊、清閑寺大納言殿息女也、去四月中御下問、当年四歳、是迄は久姫様と申、今日竹姫様と御改、大助殿姪也。(綱吉妾、清閑寺熙房女)、御仕舞被遊。」とあり、御改名のお祝いに贈られたことも考えられる。 ただ、この「徳川家康像」が江戸前期作としているが、1708年はいくらなんでも江戸中期であろう。

過去の関連ニュース・情報
 2010.12.27 東京都目黒区・祐天寺 江姫・崇源院宮殿を初公開/江戸東京博物館

③増上寺の三解脱門
 芝増上寺・三解脱門前の日比谷通りに面して説明板が立てられ、下記が記されている。

三縁山 広度院 増上寺
 浄土宗の七大本山の一つ。
三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじようじ)が正式の呼称です。
 開山は明徳四年(1393)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明二年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。
 江戸時代初期、増上寺法主第十二世源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依(きえ)を受け、手厚い保護を受けました。
 慶長三年(1598)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。
 その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
 現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活勧のほか文化活勧も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。

 訪れたのは、平成25年3月15日(金)。 お釈迦様が入滅された日に涅槃図を掲げ、遺教経(ゆいきようぎよう)を読誦する涅槃会の日であった。 三解脱門にも「涅槃会」(本堂)の掲示されていた。
 涅槃会が行われる大殿(本堂)にも寄ってきた。 11時から行われるということだが、時間がまだあるので、涅槃図も見せていただいた。
 涅槃図の制作年代、筆者とその成立の由来を知る貴重な文書が見つかっている。 元和10年(1624)2月15日の年記を有する増上寺第十三世正誉廓山自筆の文書。 絵師は狩野隼人佐〈はやとのすけ〉秀信(1588-1672、狩野元俊秀信とも)、施主は清雲院殿心誉光質清信女(家康側室・於奈津、1581-1660)だとわかる。
 増上寺の涅槃図には、涅槃図には滅多に描かれない猫が描かれているので結構と人気があるらしい。

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伊予市・上三谷篠田・鶴吉遺跡 古墳時代の机天板が出土

2013年03月24日 | Weblog
 愛媛県埋蔵文化財センターは21日、「上三谷篠田・鶴吉遺跡(仮称)」(伊予市上三谷〜松前町鶴吉)の発掘調査で、古墳時代中期(5世紀頃)の高など多数の須恵器や韓式系軟質土器、木製の机が見つかったと発表した。また、当時のムラの存在を示す竪穴建物・掘立柱建物や用水路などの遺構も確認された。
 古墳時代の建物跡の近くで井戸跡が見つかり、さらに井戸枠に再利用された机の天板が見つかった。机の天板は、大きさが長さ58cm、幅30cm、横58cm、厚さ最大3~4cmで、横長にすると左右2ヶ所に溝が掘られている。
 近くの川の跡からは、同時代の高坏や碗などの須恵器や土器が出土。 朝鮮半島の様式で作られた土器もあった。 須恵器には陶邑系の物以外に、同市市場の「市場南組窯跡」で焼かれたとみられるものもある。
 現地説明会は24日午後1時から開かれる。 会場は同遺跡発掘調査事務所(伊予市上三谷)。
[参考:2013.3.24読売新聞、2013.3.23毎日新聞、2012.3.15愛媛県埋蔵文化財センターHP]

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大和郡山市・筒井城 直径2.5mの巨大井戸跡

2013年03月22日 | Weblog
 戦国武将・筒井順慶(1549-1584)の居城だった筒井城跡(大和郡山市筒井町)で、直径が2・5mに及ぶ巨大な井戸跡が見つかった。 発掘調査で見つかった井戸としては全国最大規模という。
 井戸は直径約5mの円形の穴を掘り込み、直径約2・5m、深さ約2mの井戸枠を整えていた。
 天正8年(1580)に城主の順慶が織田信長から命じられ、破城の具体的な姿を示す貴重な成果。
 現地説明会が23日午前11時から開かれる。
[参考:毎日新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 筒井城
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奈良市・唐招提寺 7~8世紀の大型多尊せん仏の破片が出土

2013年03月22日 | Weblog
 唐招提寺と橿原考古学研究所は21日、鑑真和上坐像が安置されていた唐招提寺旧開山堂(奈良市五条町)の解体修理に伴う地下調査で7~8世紀とみられる大型多尊塼仏の破片1点が出土したと発表した。 創建時の同寺には塼仏多数が飾られていたらしい。
 出土した塼仏片は縦約12cm、幅8cm、厚さ4.5cm。眷属(けんぞく=仏の従者)などが刻んであった。 表面には漆が残り、一部金箔も確認された。 製作当時は焼き固めた粘土に漆を塗り、さらに金箔を張っていたとみられる。
 同寺に伝わる阿弥陀如来と従者を表現した同じ図柄の塼仏片(昭和4年に国重要文化財、縦約28㎝、幅約16㎝、厚さ約6.6㎝)と焼け具合が異なり、同じ型で制作した別個体とみられる。
 唐招提寺は天武天皇の子、新田部親王(?-735)の邸宅跡に759年に創建された。 同研究所は、塼仏は、もとは新田部親王の念持仏ではと推察している。
 出土した塼仏は、3月23日(土)~4月7日(日)の期間中、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館無料ゾーン(橿原市畝傍町50-2、で展示される。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞、「史跡唐招提寺旧境内(旧開山堂)発掘調査の概要(資料1)」(平成25年3月21日唐招提寺・奈良県立橿原考古学研究所)]

唐招提寺で「せん仏」片見つかる 天武天皇の子・新田部親王所有か(産経新聞) - goo ニュース

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 今回出土した大型多尊塼仏片は、(資料1)では参考とする下図に二光寺廃寺(御所市西北窪、7世紀後半)で出土した大型多尊塼仏を使用している。
 二光寺廃寺出土の大型多尊塼仏は、2006年6月に江戸東京博物館で開催された「発掘された日本列島 2006年」で出展されていた。今回の出土品とは顔の部分がダブル。二光寺廃寺出土品には年号銘があり、694年製作の可能性が指摘された。 また、遣唐使らが中国から持ち帰った仏像がもとになっているのではとみられている。

過去の関連ニュース・情報
2011.7.7 唐招提寺 寺創建以前の、新田部親王の邸宅時の築地塀が出土
 新田部親王の邸宅だった時代に造られた高さ約4mの築地塀が出土
2009.10.14 唐招提寺金堂 堂内の構成部材94%が創建当初のもの 修理終え11月に落慶法要
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茨木市・千提寺西遺跡 フランシスコ・ザビエルの肖像画が発見された地でキリシタン墓が見つかる

2013年03月20日 | Weblog
 大阪府教委は19日、「隠れキリシタンの里」として知られる茨木市千提寺(せんだいじ)で16世紀末~17世紀にキリシタンを埋葬したとみられる11基の墓が見つかったと発表した。
 新名神高速道路の建設に伴い、府教委が昨年1月から調査、中世から近世の墓を約90基確認した。発掘調査を実施し、墓を発見したのは初めて。 現場を千提寺西遺跡と命名。
 このうち長方形の2基(長さ2・1m、幅0・7mと0・8m)は、伸展葬の墓で、穴の上部には墓標とみられる十数個の石組みがあった。
 伸展葬や石組みはキリシタン墓特有の様式で、徳川幕府が禁教令を出した1614年頃までに造られた墓の可能性が高いという。ほかにも同じ様式とみられる墓が9基(長さ1~2m、幅0・7m)出土した。
 中世から近世にかけては、屈葬が主流で、墓は円形や方形が多い。
 一帯はキリシタン大名・高山右近(1552-1615)の旧領地で、古民家などに、キリスト教を日本に伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルの肖像画(重文)やマリア像、キリシタン墓碑などが伝わる。
 近畿でのキリシタン墓は、高槻城跡(高槻市)に次いで2例目であり、ほかに大分や長崎など全国でも5カ所ほどしかないという。
 現地説明会は23日(土)午後0時15分~3時に開かれる。
[参考:共同通信、読売新聞、大阪府文化財センターHP]

キリシタンを埋葬か?高山右近の旧領で墓を発見(読売新聞) - goo ニュース


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慶北漆谷郡・観湖山城 6~7世紀に築造された石城を確認

2013年03月19日 | 韓国の遺跡・古墳など
 漆谷郡は14日、(財)ハンビット(한빛)文化財研究院に慶北漆谷郡若木面観湖里にある観湖山城(칠곡군 관호산성)の学術調査を依頼した結果、今回の調査で地表面真下に石で作った城壁が現れ、これまで土城と呼ばれていたが、6~7世紀に築造された石城と確認されたと発表した。
 観湖山城は、洛東江そばの丘にあり、全周1.8km、城壁一部を自然丘陵と絶壁を利用して作ったピーナッツ形状の城である。
 ほぼ同じ時期に作られた城は京畿 華城の党頂城(唐城、화성 당항성)、忠北忠州の南山城(충주 남산성)などがあり、また、同じ特徴を持った城は忠南公州の公山城(공주 공산성)、扶余の扶蘇山城(부여 부소산성)がある。
 専門家はこの城が、新羅が三国統一のために北進した時期に拠点とした治所城の役割をしたとみている。
[参考:2013.3.14 聯合ニュース]
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観音寺市・角塚古墳 一辺50mの四角錘の方墳を確認

2013年03月17日 | Weblog
 観音寺市教委は16日、7世紀前半の「角塚古墳」(同市大野原町)の発掘調査結果について現地説明会を開き、古墳の形状がピラミッドのような一辺50mの四角錐の方墳であることが確実になったことなどを発表した。
[参考:読売新聞]

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 「香川県指定史跡椀貸塚、角塚及び平塚古墳 保存活用検討委員会報告書(別冊)」(2010.3観音寺市教育委員会発行)には、角塚古墳は7世紀中葉の一辺43mの方墳?と記載されていた。
 3月10日から観音寺市郷土資料館展示館(観音寺市有明町3番35号)で「大野原古墳群(注1)発掘調査写真展」が開催されている。(5月26日まで)
 
(注1)大野原古墳群
 古墳時代後期、6世紀から7世紀初頭にかけて相次いで造られた巨大な横穴式石室の古墳(椀貸塚古墳、平塚古墳、角塚古墳)などにより構成される。

過去の関連ニュース・情報
2011.11.2 観音寺市・椀貸塚古墳 墳丘に2重周濠と周堤を確認
2011.3.10 平塚古墳 石室や墳丘規模が明らかに 13日に発掘調査現地説明会
 椀貸塚古墳は、石室全長14・7m、玄室空間容積約70㎥であることを確認し、石室全長では四国最大規模であることなどが分かったとしている。
2009.9.25 椀貸塚古墳 横穴式石室の羨道の一部を確認
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東かがわ市・白鳥廃寺の講堂跡か/雨落ち溝の痕跡確認

2013年03月15日 | Weblog
 東かがわ市教委が白鳥廃寺跡(同市湊)の北側で、講堂とみられる遺構を確認したことが分かった。
 今回は試掘調査で、柱穴や礎石などは見つかっていないが、建物の周囲に巡る雨落ち溝(幅1m程度)の痕跡を数カ所で確認しており、溝内の出土物からも寺関連の建物跡(南北5m、東西11m)と断定した。
 これまでの調査から、白鳥廃寺跡の総面積は約4700㎡と推定されている。 これまでに、塔、金堂、僧坊3棟分が見つかっており、今回の発見で想定される主な建物がそろったとみており、法起寺式の伽藍配置(一塔一金堂式)の可能性が高いという。
 現地説明会が20日(水)午後1時半から開かれる。
[参考:四国新聞]

過去の関連ニュース・情報
2013.2.15 東かがわ市・山下岡前遺跡および湊山下古墳 発掘調査説明会が16日に行われる
 四国で初めて仏像の螺髪(直径約4cmの粘土製、9世紀)が見つかった山下岡前遺跡は、白鳥廃寺跡(奈良~平安時代)の関連施設の可能性が高いという。
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奈良県上牧町・久渡5号墳 6世紀末~7世紀初め築造、直径18mの円墳と判明

2013年03月14日 | Weblog
 上牧町教委の調査で、昨年、画文帯環状乳神獣鏡が出土した久渡(くど)3号墳の南に位置する5号墳は、6世紀末~7世紀初め築造の直径18mの円墳で、埋葬施設が二つあることがわかった。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
2012.8.2 久渡3号墳 画文帯環状乳神獣鏡が出土
久渡(くど)古墳群
 標高約70mの丘陵地に、古墳時代前期初頭から終末期の古墳7基がある。
 3号墳(1辺15mの方墳、3世紀後半)から、後漢時代の中国鏡「画文帯環状乳神獣鏡」が見つかった。和泉黄金塚古墳(和泉市)で出土した鏡と同型鏡。
 また、前年末5月末に3号墳の南側で、久渡2号墳(直径約16mの円墳、7世紀)が確認された。2号墳は高市皇子の墓の可能性もあるとしている。


キーワード
久渡古墳群、久渡2号墳、久渡3号墳、久渡5号墳
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奈良県高取町・薩摩遺跡 3世紀前半の鏡型土製品が出土

2013年03月11日 | Weblog
 奈良県高取町教委は8日、高取町の薩摩遺跡で、銅鏡を模したとみられる3世紀前半(弥生時代末期-古墳時代初期)の鏡型土製品(直径2.9cm、厚さ0.8cm、重さ7g)が遺跡内の穴(直径1・8m)から出土したと発表した。表裏に赤色の顔料が塗られた跡も確認された。 被葬者の副葬品か祭祀に利用されたとみている。 08年度の発掘調査で出土したという。
 鏡型土製品は、県内では纒向遺跡(桜井市)に次いで2例目で、全国的にも出土例は少ない。
 高取町内の発掘調査で出土した遺物を展示する特別展「高取の考古学」が9日から17日まで、町歴史研修センター(同町田井庄)で開催され、12遺跡の約200点とともに展示される。
 与楽鑵子塚(ようらくかんすづか)(6世紀後半)、与楽カンジョ(6世紀末)、寺崎白壁塚(7世紀前半)の3古墳から出土した馬具などの遺物も、初めて一括公開される。
[参考:奈良新聞、産経新聞、読売新聞、毎日新聞、NHK]

過去の関連ニュース・情報
 与楽鑵子塚古墳、与楽カンジョ古墳、寺崎白壁塚古墳
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金海市・大成洞91号墳 韓国最古4世紀前半の「ローマン・グラス」が出土

2013年03月10日 | 韓国の遺跡・古墳など
 金海市は8日、4世紀前半(西暦340年前後)に築造された金官伽耶王級墓である大成洞91号墳(대성동91호분)で、長さ約5㎝のガラス瓶の破片(注1)が出土したと発表した。 大成洞古墳群7次学術発掘調査時(平成24年6月4日~9月26日)に出土した。
 これまで、国内で最も古いローマン・グラスは5世紀前半慶州月城路 カ-13号墳(경주 월성로 가13호분)で出土(注2)したものだった。 大成洞91号古墳出土品はこれより70年ほど遡る。
 発掘した金海市大成洞古墳博物館は、出土したこのガラスの破片を国立金海博物館の協力を受けて国立中央博物館保存科学チームでガラスの成分を分析した。
 その結果ガラス破片の化学組成がローマン・グラス(로만 글라스)とほとんど一致することが判った。
 博物館発掘チームはローマン・グラスが金銅製遺物らと共に中国の前燕を経て入ってきたと推定している。
[参考:聯合ニュース]

(注1) 鳳首瓶?の取っ手の部分
(注2) 「ローマ文化王国―新羅」(由水常雄著、新潮社2005年5月改訂新版)に書かれている波状文杯(復元推定:波高12.5cm、口径11.8cm、5世紀)と思われるが、金冠塚の波状文台付き杯(5世紀)や皇南洞第98号南墳の波状文網目文杯(4世紀末~世紀前半)と共通する技法と意匠感覚によって作られた作品であるが、製作年代は、それらよりもやや降るであろうとしている。

過去の関連ニュース・情報
2012.9.16 大成洞古墳群88号墳と91号墳のその後
 91号墳墓は4世紀第2四半期築造と見られ、龍文金銅辻金具、金銅鈴など慕容鮮卑系の遺物が出土した。
2012.8.9大成洞古墳群 4世紀の木槨墓2基を発見 うち1基は鮮卑族との交流を示す遺物が出土

2012.9.8 三次市・松ヶ迫矢谷遺跡 3世紀前半の方形周溝墓から出土したガラス玉はローマ帝国産か
2012.6.22 長岡京市・宇津久志1号墳 副葬品として出土していた重層ガラス玉が古代ローマ製

キーワード
로만 글라스 ローマン・グラス ローマガラス Roman Glass 
유리 琉璃 ガラス 
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福岡県糸島市・三雲・井原遺跡 国内最古級の「模倣鏡」出土  

2013年03月10日 | Weblog
 福岡県糸島市教委は8日、同市三雲の三雲・井原遺跡で、弥生時代後期初頭(1世紀半ば)とみられる国内最古級の小形仿製(ぼうせい)鏡が出土したと発表した。
 鏡(復元推定直径約5cm)の一部が古墳時代前期後半(4世紀後半)の地層の水路の遺構から5点の破片として出土した。 つなぎ合わせると全体のほぼ4分の1に当たる。 出土品は石製鋳型で鋳造され、不鮮明だが、蕨(わらび)文様が描かれている。 鏡の縁は幅3mmと狭く、縁部の櫛歯文帯(くしはもんたい)が欠如している。 文様帯や縁の形状から、弥生時代後期初頭(1世紀半ば)のものと推定される。
 小形彷製鏡は、中国から持ち込まれた銅鏡を模して、弥生時代に日本で作られた直径10cm未満の銅鏡。 国内で数百面が見つかっている。 同遺跡から出土した小形彷製鏡は3例目である。
 今回、国産初期段階とみられる鏡が見つかったことで銅鏡の国産化の過程を知る上で、貴重な史料としている。
 現地説明会が16日(土)午前10時から開かれる。
[参考:西日本新聞、読売新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
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浜松市・松東遺跡 8~9世紀前半の銅印が出土

2013年03月08日 | Weblog
 
 浜松市は5日、松東(まつひがし)遺跡(同市東区天竜川町)から、8~9世紀前半のものとみられる古代の銅印が出土したと発表した。古代の銅印は県内で静岡市、袋井市など4例出土しているが、市内では初めて。 印面に人名とみられる「吉人(よしひと)」と書かれており、遠江国の長上郡(ながかみのこおり)の郡司の私印ではないかと推定されている。
 銅印は青銅製(高さは2・9cm)で、印面が2・7cm四方の正方形。重さ30グラム。 奈良時代から平安時代にかけての土地を区画する溝から出土した。 銅印の形態や一緒に出土した土器の特徴、人名から約1200年前のものとみられる。
 松東遺跡はJR天竜川駅北側に位置し、市は昨年6月~今月22日の予定で発掘調査している。 周囲には建物の柱穴や鍛冶の痕跡があり、古代の集落跡があったとみられる。
 松東遺跡周辺は和田遺跡群と総称される古代の遺跡が集中する一帯で、この中に長上郡家(ながかみぐうけ)が存在したと想定されている。
 浜松市博物館(中区蜆塚)で、3月6日から4月7日まで銅印を展示する。
[参考:静岡新聞、毎日新聞、浜松の元気HP]

過去の関連ニュース・情報
 2012.9.13 松東遺跡 銅鐸破片が出土
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