①芝丸山古墳~②芝東照宮~③増上寺 (左側が南、右側が北に当る。右手には東京タワーも見える。)
① 芝丸山古墳は写真の左半分以上の長さを占め、左(南)が前方部、右(北)が後円部に当る。下の写真では、手前が前方部、奥が後円部。
(説明板より)
東京都指定史跡
芝丸山古墳
所在地 港区芝公園四丁目 都立芝公園内
指定 昭和54年3月31日
全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどの、都内最大級の規模を持つ前方後円墳である。
標高約16mの台地端に位置し、前方部を南々西に向けている。
江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。
明治31年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。
前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。
平成二年一二月二七日 再建
東京都教育委員会
『東京の古墳を歩く』(大塚初重鑑修 2010年祥伝社)によると、「戦後の再調査によると、墳丘主軸長は125m(東京都遺跡台帳)とされた。」と記している。
② 芝東照宮は、写真では真ん中より左寄りにある。
境内の当宮の由来を記した説明板には、下記が記されている。
芝東照宮鎮座由来記
(御祭神)徳川家康公
(創祀沿革)当宮御祭神(御神体)は公の生前自ら駿府城に於いて祭儀をなされた寿像である。元和二年(1616)四月十七日公の薨去の際、公より「像を増上寺に鎮座させ永世国家を守護なさん」と仰せられ翌年三月現在地に社殿(安国殿)が創建された。明治以降神仏分離令により芝東照宮となった。旧社殿は権現造りで国賓になったが先の戦火で焼失し現社殿は昭和四十四年完成する。公の御神徳による東都を鎮護する代表的なお社です。徳川家康公の思想を御遺訓から学び取ると勤勉・慎重・堪忍・自責・簡素・倹約です。以って世の中の安寧、世界の平和を希求する厭離穢土劤求浄土の御旗に託しているのです。
平成六年四月十七日
芝東照宮社務所
家康公の寿像は滅多にお目にかかれないようである。 その代わり、江戸東京博物館に実物大の模型が展示されている。
この家康寿像について、思い出したことがある。
一昨年(平成23年)のNHK大河ドラマ「江姫たちの戦国」のヒロイン 浅井三姉妹の三女・江の生涯を紹介する特別展「2011年NHK大河ドラマ特別展 江姫たちの戦国」(平成23年1月2日~2月20日、江戸東京博物館)が開催された。 目玉は、江・崇源院の厨子「崇源院宮殿(すうげんいんくうでん)」の初公開であった。
この宮殿は、崇源院宮殿と判明されるまでに、家康像が安置されていたため「家康宮殿」と呼ばれていた。 この家康像は、祐天寺で購入した「寺宝で綴るー祐天上人と祐天寺」(平成17年発行)(資料2)には、「徳川家康像」(江戸時代前期)とし、「五代将軍綱吉(1646-1709)が増上寺安国殿の実物像を写し、竹姫(綱吉養女、1705-1772)に贈り、竹姫が祐天寺に納めたとある。」(注1) しかし、同書に掲載されている徳川家康像と江戸東京博物館に実物大の模型とは同じ坐像ではあるが、見てくれがまったく異なる。 不可思議である。 ただ、(注1)の続きに、「観智国師(1544-1620、増上寺12世)より弟子随波上人、その弟子壇通上人から弟子祐天上人へ伝わったとする説もある。」としている
(注1)の説が正しいとすると、竹姫は3才の時、宝永5年(1708)に綱吉と大典侍の局の養女として江戸城北の丸に迎えられているので、この年もしくは翌年4歳の時のいずれかに、綱吉から「徳川家康像」を贈られたことになる。 『隆光僧正日記』(隆光著、永島福太郎,林亮勝 校訂、続群書類従完成会 1969発行)に「宝永5年(1708) 7月21日 登場、(略)、今日、御養女被遊、清閑寺大納言殿息女也、去四月中御下問、当年四歳、是迄は久姫様と申、今日竹姫様と御改、大助殿姪也。(綱吉妾、清閑寺熙房女)、御仕舞被遊。」とあり、御改名のお祝いに贈られたことも考えられる。 ただ、この「徳川家康像」が江戸前期作としているが、1708年はいくらなんでも江戸中期であろう。
過去の関連ニュース・情報
2010.12.27 東京都目黒区・祐天寺 江姫・崇源院宮殿を初公開/江戸東京博物館
③増上寺の三解脱門
芝増上寺・三解脱門前の日比谷通りに面して説明板が立てられ、下記が記されている。
三縁山 広度院 増上寺
浄土宗の七大本山の一つ。
三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじようじ)が正式の呼称です。
開山は明徳四年(1393)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明二年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。
江戸時代初期、増上寺法主第十二世源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依(きえ)を受け、手厚い保護を受けました。
慶長三年(1598)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。
その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活勧のほか文化活勧も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。
訪れたのは、平成25年3月15日(金)。 お釈迦様が入滅された日に涅槃図を掲げ、遺教経(ゆいきようぎよう)を読誦する涅槃会の日であった。 三解脱門にも「涅槃会」(本堂)の掲示されていた。
涅槃会が行われる大殿(本堂)にも寄ってきた。 11時から行われるということだが、時間がまだあるので、涅槃図も見せていただいた。
涅槃図の制作年代、筆者とその成立の由来を知る貴重な文書が見つかっている。 元和10年(1624)2月15日の年記を有する増上寺第十三世正誉廓山自筆の文書。 絵師は狩野隼人佐〈はやとのすけ〉秀信(1588-1672、狩野元俊秀信とも)、施主は清雲院殿心誉光質清信女(家康側室・於奈津、1581-1660)だとわかる。
増上寺の涅槃図には、涅槃図には滅多に描かれない猫が描かれているので結構と人気があるらしい。