歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

東京都・新宿歴史博物館 「新宿中村屋に咲いた文化芸術」

2011年03月31日 | Weblog
 今日のよい天気の日に、新宿歴史博物館で開催されている企画展「新宿中村屋に咲いた文化芸術」に出かけてきた。
 周辺の桜は1~2部咲きだが、新宿歴史博物館内の庭園の桜はちょうど満開である。平成元年1月に、当館の落成・開館記念に植樹した高遠町のコヒガン桜であるがためである。 例年はお彼岸の時に咲いているというから、今年は1週間ほど遅い。


 さて、企画展の方は出品点数は少ないものの出展されている内容には満足である。
 エロシェンコ氏を描いた中村彝の「エロシェンコ氏の像」(重要文化財)と鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」が並んで展示されている。 また、中村彝が俊子を描いた「少女」(1914年作)2作品が並んで展示されている。 これだけでも観にきた甲斐があるというものなのだが、萩原守衛の彫刻と絵画が数点展示されているし、おまけに高村光太郎の絵画「自画像」(1913年作)などの作品もある。

過去の関連情報
 2011.2.15 落合文化村 佐伯祐三と中村彝のアトリエ
 2010.4.11 3つの美術館を訪問 萬鉄五郎と中村彝の需要文化財・2作品に興味
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奈良市・春日大社 「赤糸威大鎧(竹虎雀飾)」の保存修理が終了し4月から展示

2011年03月31日 | Weblog
 奈良市の春日大社は30日、源義経が奉納したとの言い伝えもある、所蔵する国宝「赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)竹虎雀飾」(鎌倉時代後期、高さ135.5cm、重さ約30kg)の保存修理が終わったと発表した。
 冑(かぶと)や胸板に竹や雀の透かし彫りが施され、表面は茜染めの絹糸を組紐で編んで仕上げられ、両袖には虎と竹の金色装飾がある。 その豪華さで日本一の鎧といわれる。
 下半身の防御部分の前草摺(くさずり)の糸の劣化などが激しく、昨年5月から東京国立博物館修理室で、270か所を鹿革の紐で補強し、ほこりを落とすなどの修理が施された。
 修理を手がけたのは国選定保存技術保持者(甲冑修理)の小澤正実氏(東京都北区)。
 4月1日~7月31日に境内の宝物殿で特別公開される。
 また、4月16日(日)午後1時から、同修復記念シンポジウムが春日大社・感謝共生の館で行われる。(有料)
[参考:読売新聞、産経新聞、春日大社HP]

春日大社「赤糸威大鎧」修理終了、4月から展示(読売新聞) - goo ニュース
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富山市・富山城址 江戸時代の土塁(高さ7m)を発見

2011年03月29日 | Weblog
 富山市教委埋蔵文化財センターは28日、富山城址公園の整備に合わせて行った調査で、園内の土塁の下から、敵の侵入を防ぐための江戸時代の土塁が見つかったと発表した。江戸時代の土塁の発掘は初めて。
 江戸時代の土塁は公園の南東側、郷土博物館の東側にある現在の土塁の南側の斜面で、地表から15cmほど掘ったところに(黄色い土が)現われた。 長さ約60m、堀からの高さが約7m。土塁の斜面が約40度であったことも分かった。
 資料などから、富山藩の初代藩主前田利次(1617-1674、注1)が寛文元年(1661)、堀を整備した際に出た土を盛ったとみられる。当初は約7mの高さがあったが、明治以降の開発で一部が崩され、昭和29年(1954)には石垣に整備された。
29日午後1時半から、今回の調査で発見された土塁を一般公開する。
[参考:KNB北日本放送、富山新聞、中日新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.10.15 富山城址 大手門石垣を初確認
 2009.7.11 富山城址 戦国期(16世紀中頃)の井戸跡が見つかる

(注1) 前田利次
 父:前田利常(1594-1658)、母:徳川秀忠と江姫の次女・珠姫(1599-1622)
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慶州・四天王寺跡 統一新羅時代の創建関連内容を書いたとみられる事蹟碑の破片を発見

2011年03月27日 | Weblog
 統一新羅時代の慶州・四天王寺跡で出土した「緑釉塼(녹유전)」は、その正体を巡って学会では、激烈な論争が行われている。 例えば、
 ■ 四天王(사천왕)説: 姜友邦(강우방)・前国立慶州博物館長
 ■ 神将の一種・八部神衆(팔부신중)説: 文明大(문명대)・前東国大教授
 ■ 神王(신왕)説: 林玲愛(임영애)・慶州大教授(美術史学専攻)
などの説がある。

 国立慶州文化財研究所は24日、四天王寺跡の伽藍構造と寺域確認のための発掘調査で、寺跡の南側に位置した一組の亀趺(きふ、귀부)のうち東側亀趺前方の基壇石列から四天王寺事蹟碑の一部とみられる破片1点と螭首(ちしゅ、이수) 破片1点(残存大きさ約16~18㎝) を発見したと発表した。
 石碑破片は花崗岩材質で、横55㎝、縦11㎝、厚さ14㎝程度の大きさ。 碑面に3.5㎝ほどの間隔で横と縦に陰刻線を書いてその中に2~2.5㎝の大きさで文字を刻んでいた。 文字は楷書体で、統一新羅時代石碑で見られる刻字法であるという。
 碑片には15行程度の碑文が確認される。 しかし1行当りの文字は1~3字ずつしかなく、文字は鮮明だが文脈がほとんど連結されず、内容を知ることは難しい。 碑文片で確認された文字は「神将・大王」など30字程度。 碑面には仏法を守護する神の中の一つの「神将」という文字が確認され、木塔跡から出土した緑釉塼に表現された破片の正体と関連して非常な注目を引く。
 螭首の破片は精巧で統一新羅時代の造形性を示しているので、碑片と螭首は同じ碑石の一部分である可能性が大きいとみている。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2009.5.25 韓国・国立慶州博物館特別展「四天王寺」
 2008.12.16 統一新羅初の双塔一金堂式・四天王寺址(慶州)発掘調査で新たな出土
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岩国市・加陽和泉守居館跡 建物の規模が倍(96㎡)に広がる新たな礎石4個を発掘

2011年03月26日 | Weblog
 岩国市教委は24日、中世の豪族が築造したとされる同市川下地区の「加陽和泉守(かやいずみのかみ)居館跡」の追加調査を終了した。
 今回の追加調査で2・4m間隔に並ぶ柱を立てたと見られる礎石4個を新たに発掘。約46㎡(南北9・6m、東西4・8m)と推測された建物の規模が約96㎡に広がった。
 居館跡は最大で南北約160m、東西約140mとみられている。
 加陽和泉守は、戦国武将・毛利元就(1497~1571)に仕えた人物。元就が1555年、現在の岩国市玖珂町にあった鞍掛城を落城させた前後に、館に移り住んだとされる。
[参考:中国新聞、2010.10.1加陽和泉守居館跡 建物跡の礎石(板石)を新たに確認]
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海老名市・常泉院 青山忠俊公終焉の地

2011年03月25日 | Weblog
曹洞宗 金龍山 常泉院 (海老名市上今泉4-3-1)  愛甲郡七沢村(現・厚木市)広沢寺末

 秋葉山古墳群の墳丘(標高84m)を南に下った所に、当院がある。

 参道と山門

 山門の手前に石碑があり、下記が刻まれている。
 「当院は文治年中(鎌倉時代)開基白翁法印より真言宗・今泉山福泉寺を創建す。
 その後廃絶せしを 天文十九年(室町時代、1550) 厚木市七沢曹洞宗広澤寺第3世勇安賢存大和尚により法燈を掲げ 今の山院号 金龍山常泉院(境内深谷中より、清泉常に湧き出ずるをもって) に改められる。
 本尊は虚空蔵菩薩を安置し、元和年中(江戸時代) 青山伯耆守忠俊公を開基として伽藍を建立し、境内に青山家寄附により、十一重の寶経塔及び同家数代の位牌が現存している。
 後方の峰には三ヶ所の塚があり之を秋葉古墳(注1)と称す。」

 

 山門を通り過ぎ少し行くと、青山忠俊公の十一重の宝経塔が建っている。 石には文字が刻まれているのだが、残念ながら判読できるほどの状態ではない。
 忠俊公は、最後をこの地(今泉)で過ごし、墓は先の下溝の天応院にあるとされている。

 本堂に飾られている寺紋・家紋は総持寺・五七桐紋と永平寺・久我竜胆紋と丸に正三角形の三鱗紋(後北条氏)であった。三鱗紋は真言宗時代の家紋を踏襲して使用しているらしい。


(注1) 秋葉山古墳群は、3世紀後半から4世紀前半までの5つの古墳から成る。 当院から秋葉山古墳群を見ると、前にある3つの古墳しか見えず第4、5号墳は裏に隠れて見えない。
 写真は第1号墳の前にある説明板に1号墳の写真を重ねてみた。

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相模原市・天応院 北条氏照息女・貞心尼中興 青山忠俊公の墓

2011年03月25日 | Weblog
曹洞宗 龍淵山 天応院 (相模原市南区下溝780-1) 石雲院(静岡県榛原町)の末寺


     西門(左)と山門(右)

 相模原線の原当麻(はらたいま)駅で下車し、東南400mの距離に天応院がある。山門は南にあるが、駅から近い西門から入ると境内に説明板があり、
 「この寺は山号を『龍淵山(りゅうえんざん)』といい、室町時代に季雲(きうん)禅師が開山したといわれ、その後、この地方を所領していた北条氏照の娘貞心(ていしん)尼によって中興開基されたと伝えられています。慶安3年(1650)には寺領として九石七斗の朱印を受けています。墓地内にはこの貞心尼の墓といわれる石塔と、徳川時代にこの土地の領主だった青山忠俊の墓があります。また、武士に切られたと伝えられるお化け石塔もあります。   相模原市 相模原市観光協会」
 と書かれている。


天応院を訪れた当時(2010.11.11)は、本堂、庫裡などを新しくしていた。

1. 栃木県佐野から相模国溝郷へ、創建から中興
 寺伝によると、下野国佐野にあった天応院(天応元年(781)の創建と伝わる)が戦国時代に焼失したため、当時佐野城代であった山中氏を開基として、天叟順孝(てんそうじゅんこう、?-1532)の師、季雲永岳(きうんえいがく、1466?-1526、注1)に請うて、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられる。

(注1) 季雲永岳は武州の出身で、20才の時に出家して石雲院(本寺)で修行して印可を得、その開山・崇芝性岱(そうししょうたい)禅師の7哲の一人といわれる。39才の頃、今川氏の援助をうけて、最初の寺院、円成寺を開いた。
 芝派7哲季雲永嶽、龍門山石雲院(榛原町坂口)に4住。[『龍門山石雲院史』] とある。
 当寺の本寺・龍門山石雲院(静岡県牧之原市)は、康正元年(1455年)に崇芝性岱山禅師を開基として、勝間田氏の菩提寺として開山された。 ただし、平安時代から山岳寺院としてあったとみられ、治承3年(1179)の創建とも伝えられている。

2. 2度目の中興、貞心尼
 5世太陰岱樹(だいいんたいじゅ、?-1577)の時に、北条氏照(油井および大石源三、1540-1590)の娘・貞心尼(?-1588、注2)が寺社領(注3)を寄進し、中興開基として再興したといわれる。貞心尼は下溝「堀の内」に居を構え、その墓が当寺にある。戒名は、霊照院殿中室貞心大姉。

(注2) 当院開基貞心尼は北条氏照の娘にして下野佐野城代山中大炊輔妻。 娘(安祥理永大禅定尼、?-1550、注4)も早世して、同じ寺に葬られている。[当寺パンフレットより]
(注3)  『北條氏所領役帳』他国衆(永禄二年)に油井領 (略) 東郡 溝上下、今ハ中山彦四郎 との記載がある。
      中山は山中の間違いではないかとの補注がある。
(注4) 祖父・北条氏照1540年生れからみて、年が合わない。

3. 3度目の中興、青山忠俊公
 その後、徳川家光の傳役であった青山忠俊(1578-1643、注4)により再中興されている。 寺伝では大庫裡を建立したとされる。

(注4) 青山忠俊が徳川家光の勘気に触れ、元和9年(1623)に老中職を罷免の上、岩槻藩4万5千石から上総国大多喜藩2万石に減転封、さらに寛永2年(1625)に改易となった。 上総国網戸~相模国溝郷(注5)~遠江国小林を経て、相模国今泉で蟄居した後、寛永20年(1643)に4月15日死去した。 当寺は溝郷下溝にある。忠俊公は当寺の前に仮居住したといわれる。

 当寺に忠俊公の墓があり、戒名は泰雲院殿前伯州太守春室宗信大居士。 ただし、どの墓にも文字が見えず。
 忠俊公の祖母(青山忠門(1518-1571)室)の位牌もある。戒名は松操院殿天渓貞普大禅定尼(慶長五年九月二日逝去)。
(注5) 1590年当時、約5000石を領した青山忠成(1551-1613)の領地であった。他に、今泉村(海老名市)、小稲葉村(伊勢原市)、城所村(平塚市)などを領した。 1615-23年の間は幕府直轄領になった。 この後、青山忠俊が拝領されたのかはわからない。

 その後、慶安3年(1650)には寺領9石7斗の御朱印地を拝領した。


山門の鬼瓦は、正三角形の三鱗紋(小田原北条氏家紋)、庫裡の鬼瓦には青山氏の家紋・無字銭紋が飾られている。

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港区青山・梅窓院 青山幸成を初代とする郡上藩青山家菩提寺

2011年03月23日 | Weblog
浄土宗 長青山 寶樹寺 梅窓院 (港区南青山2―26−38)

 寛永20年(1643)、青山幸成(よしなり、1586-1643)が逝去した後、下屋敷内に側室・長青院(不明、?-1669)を開基、戴蓮社頂譽上人冠中南龍和尚(?-1670)を開山として建立された。 増上寺十二世・中興普光観智国師(慈昌、1544-1620)を勧請して開山祖としている。
 幸成の法名「梅窓院殿前大府香譽浄薫大禅定門」と、 側室の法名「長青院殿天譽利白大姉」 から寺号を「長青山 寶樹寺 梅窓院」という。


 山門の額「長青山」の文字は本山知恩院弟83世門跡量誉信宏(1888-1979)上人の筆による。 江戸名所図会によると、往時の惣門の額は黄檗悦山(おうばくえっさん、1628-1709)の筆によるものであったという。
 山門の瓦当には、12菊の左右に葉がある青山菊が描かれている。 新しい墓石にも同じ家紋が刻まれていた。


 墓地には、一角に青山幸成(右)と長青院(左)の墓が並んでいる。
 青山幸成の墓には「寛永二十癸未□ 梅窓院前大府香誉浄薫大禅定門 二月十六日 儀」と刻まれている。
 長青院の墓には「干時寛文九天 長青院殿天誉利白大姉 拾月十九日」と刻まれている。

 他には「梅窓院開基 青山宗家累代之墓」としてまとめられ、隣に「青山宗家歴代霊位」として初代から十三代までが刻まれた墓碑が建てられている。

 青山幸成の父は青山忠成(1551-1613)。 兄に青山忠俊(1578-1643)がいる。 幸成は郡上藩青山家初代と称されるが美濃郡上藩主の初代になるのは4代後、青山幸道(1725-1779)の時から。
  金森家の金森頼時の時に郡上藩主になるが、2代藩主金森頼錦(よりかね、1713-1763)の時に改易となった。

 なお、新本堂棟は隈研吾(くまけんご)氏の設計により平成15年(2003)に完成し、翌年11月に落慶式が執り行われた。

関連情報
 青山忠俊

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港区青山・玉窓寺 青山忠成息女で川口長三郎近次室が開基の曹洞宗寺院

2011年03月23日 | Weblog
曹洞宗・崑崙山 玉窓寺 (港区南青山2-7-8)

 青山忠成(1551-1613)の息女(玉窓秀珍大姉、?-1601、川口長三郎近次室)死去後、母・忠成内室(天方通興女?)が、その菩提を弔うため青山家下屋敷に、玉窓秀珍大姉を開基、青松寺(港区)八世頭室伊天(とうしついてん、普光禅師、1523-1600)を開山として慶長6年(1601)に建立した。 二世は青松寺九世一峯麟曹(いっぽうりんそう)大和尚。


 山門はビルに囲まれながらも、閑静さを感じる。 山門には鬼瓦とともに獅子あるいは狛犬の飾り瓦がありちょっとユーモラスである。


 歴代住職の墓が立ち並び、写真左の真中には当寺開山・普光禅師、2世・一峰麟曹(いっぽうりんそう、1567-1623)、3世・渓翁玄岳の名が刻まれている。
  当寺開山 勅特賜普光禅師、 二世 一峯麟曹大和尚、 三世 中興 渓翁玄岳大和尚


 歴代住職の墓の左手前に建つ宝篋印塔は、川口長三郎近次(注1)とその室であり当寺開基・玉窓秀珍大姉の名が並んで刻まれている。
  元和五巳未□ 六月十二日 天翁了雪居士、 慶長六辛丑天 六月十六日 玉窓秀珍大姉

(注1)川口長三郎については、新訂寛政重修諸家譜9に詳しい。
 「左馬充長三郎、実は松下右近将監高信が男。母は松下源太郎安秀が女。 高信遠江国頭陀寺城没落の時近次わずかに2歳。乳母に抱かれて川口合左衛門某が許に至り、後これが養子となる。」としている。 松下家は、宇多源氏(祖:源雅信)の流れを汲み、高長を祖として、遠江・浜松庄で活躍している。高長→長信→国長と続き、国長の長男・国綱の系統はその後徳川時代に大名を輩出するようになる。 国長の三男・長範の系統が為雲(注2)、高信そして長三郎となる。
 長三郎を養子にした川口合左衛門某は、遠江新居関所の初代関所奉行になった江馬一成の配下であるとしている。 その後の、長三郎については、
 「天正14年召れて東照宮につかへたてまつる。時に33才。のち小田原の役に属従し、文禄元年相模国のうちにおいて、采地200石をたまひ、二年下総国のうちにて100石の新恩あり、3年御使番となり、5年関原の役に供奉す。7年上総国のうちにをいて700石を加えられ、すべて千石を知行す。
 のち、台徳院殿に勤仕し、元和元年大阪の役にしたがひたてまつる。五年六月十二日死す。年四十六歳。法名了雪。青山の玉窓寺に葬る 。のち代々葬地とす。 妻は青山忠成が女。」
 と記されている。
 長三郎近次の後は正武(左門長三郎、1595-1640、法名宗見) → 正信(1616-1684、法名政信) → 政平(?-1693、長三郎、法名幼枝)と続いていく。
 正信は、正保4年(1647) 奉行として千住大橋(小塚原橋)の架け替えを行っている。
 政平室は青山忠俊(1578-1643)の息女である。

(注2)松下為雲(藤六郎)
 [「紹巴富士見道記の世界」内藤佐登子著 2002 続群書類従完成会発行]に、戦国時代の連歌師紹巴は、為雲とは十年も京にいた旧友と書いている。 さらに、為雲の子・高信には秀綱という弟がいて、後に都築雅楽助秀景の養子になる。通称惣左衛門。遠江国では今川氏真に仕え、秀景の死と今川氏衰退の後、徳川家康の配下となるとしている。


2017.5.8追記 
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」に登場する松下常慶について
国長の子、長男・国綱、三男・長範の間に二男・連長がいる。
連長→(安秀)→連昌→四男・安綱と続く。
安綱が「二諦坊」の主こと修験者・松下常慶(1558-1624)である。
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慶北順興面・台庄里古墳群 大型新羅古墳から金銅冠・金銅帯金具などの副葬品が出土

2011年03月22日 | Weblog
 世宗文化財研究院は22日、慶北順興面(순흥면)の台庄里古墳群(태장리 고분군)で三国時代の石室墓4基を確認したと発表した。
 特に、1号墳石室は東西方向を軸とし、規模が東西長さ8.7m、南北幅2.3mで、大きな盗掘をされているが、出字形金銅冠破片と金銅製帯金具破片、金銅耳飾などが収集された。
 埋葬された人は順興地域最高首長層とみられ、当時高句麗に近い新羅の辺境地域として順興の地理的・戦略的重要性と位置を再確認する重要な発掘としている。
[参考:聨合ニュース]

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 写真から見る金銅冠は、3段出字形の立飾りが3つと、左右には樹木形の立飾りがある。梁山・金鳥塚出土品(6世紀)に近い形式である。

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岡山市・造山古墳 盾形周濠が全周に渡っていたことを確認

2011年03月20日 | Weblog
 岡山大考古学研究室は17日、岡山市北区新庄下の造山(つくりやま)古墳(墳長350mの前方後円墳、5世紀前半)の第3次発掘調査で、前年度に後円部東側と前方部南側の2カ所から周濠が初めて確認されていたのに引き続いて、前方部東側から周濠跡を新たに確認したと発表した。 人工的に掘りくぼめた濠跡が出土し、現存する深さは約40cmで、推定幅は約30mになるという。 近畿地方の大王墓と同じ「盾形」だったことも判明した。
 19日午後1時から同4時まで、現地説明会が開かれ、約200人が参加した。
[参考:岡山日日新聞、山陽新聞、岡山大学文学部考古学研究室HP→造山古墳第3次発掘調査速報]

過去の関連ニュース・情報
 2010.3.17 造山古墳 周濠を確認 ミサンザイ古墳(堺市)と似た築造方法だった
 2009.3.22 造山古墳 ミサンザイ古墳より築造時期が古い可能性も




キーワード: 岡山市・造山古墳
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京都市南区・東寺 創建以来位置が変わらず

2011年03月20日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所(上京区)による東寺(教王護国寺、京都市南区)の調査で、境内を囲う築地塀のうち、大宮通に並行している寺の東側の築地塀が、平安京遷都(794)から現在まで位置に変化がないことが確認できたという。 東寺は延暦15年(796)の創建以来、位置が変わっていないとされてきた。
 また、平安前期から江戸時代まで、版築層が幾重にも確認され、各時代で塀を造り替える際、同じ場所を守って塀を作ったとみられるとしている。
[参考:京都新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.6.24 京都市南区・東寺 平安時代の緑釉瓦片が出土 27日に現地説明会
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鳥取市・本高弓ノ木遺跡 国内最古、4世紀の土嚢が出土

2011年03月19日 | Weblog
 鳥取県教育文化財団が18日、本高弓ノ木(もとだかゆみのき)遺跡(鳥取市本高)で、古墳時代前期(4世紀)の「土嚢(どのう)」が出土したと発表した。
南北に離れた2カ所で、約10個が斜面に積み上げられる形で発見された。 イネ科植物をむしろのように編み、中に土を入れてひもで縛っていたらしい。 最大のもので長さ75cm、幅35~40cm、厚さ6~8cm。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 本高弓ノ木遺跡
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渋谷区広尾・瑞泉山香林院 奥殿藩初代・松平真次の菩提寺

2011年03月19日 | 瑞泉山祥雲寺


 臨済宗大徳寺派寺院のひとつである。 右写真は大給恒氏墓。

 寛文五年(1665)、大給藩主・松平乗次(のりつぐ、1632-1687)が父・真次(さねつぐ、1577-1646)の菩提を弔うため、絶山宗信和尚を開山として建立した。 真次の法名から寺号を香林院とした。
 初め麻布小山にあったが、江戸の大火により寛文五年(1668)現在地に移ったとする。
 大給(おぎゅう)藩(現豊田市)は、乗次、乗成、乗真と続き、乗真の時に藩庁を奥殿(現岡崎市)に移し奥殿藩とし、盈乗、乗穏、乗友、乗尹、乗羨、乗利、乗謨(恒)と続き、乗謨(のりかた、1839-1910)の時に藩庁を信濃佐久郡田野口村に移し田野口藩とした。乗謨は西洋式築城法による龍岡城五稜郭を作り、慶応3年(1867)に完成を見るが、大政奉還を迎えた。翌年、龍岡藩と改名するが、明治4年(1871)には廃藩となった。 明治2年(1869)7月に名前を大給恒(ゆずる)と改名している。

龍岡城五稜郭跡にある説明板

 香林院の墓は、瑞泉山祥雲寺の墓地にあり、大給松平家の藩主で香林院に墓があるのは大給恒氏だけらしい。
 ただし、岡崎市立中央図書館のホームページに、「松平乗友 文政7年(1824)10月4日に65歳で没した。法号は観誉玄圃呑海蓬瀛院。葬地は江戸祥雲寺塔頭香林院」と記されていた。

大給松平家の家紋
 「太輪に蔦」が大給松平家の家紋である。 香林院の本堂、院門にそれが見える。
院門の蔦紋の鬼瓦は「奥殿陣屋」にも見当たらないような大きさを誇る。香林院の格式の高さがうかがえる。
 龍岡城五稜郭跡に行った時に、近くにある新海三社神社に寄ってみた。
 神社の参道脇と境内に手水鉢があり、ひとつは「松平兵部少輔乗友」(下写真右上)、もうひとつには「天保六年(1835)八月 石見守 乗利」と刻まれ、ともに大きな蔦紋が陽刻されていた。

 左写真中央奥には、三重塔、手前には東本殿が並んで建てられている。ともに、重要文化財である。 右の写真は新海三社神社の前に立つ説明板。

 岡崎市奥殿町にある「奥殿陣屋」には2度ほど行ったことがある。 残念ながら、当時は残すべき写真の撮り方分からず、今欲しい写真が残っていない。 パンフレットだけは大事に手元に残っている。 庭に大輪の花が咲くバラがあり、季節になると、その場でバラの花を長い枝ごと切って販売してくれた。

関連情報
 瑞泉山祥雲寺

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行橋市・福原長者原遺跡 8世紀の官衙跡の一部が出土

2011年03月17日 | Weblog
 福岡県教委は16日、行橋市南泉の福原長者原遺跡から、奈良時代(8世紀頃)の官衙跡の一部が出土したと発表した。 官衙の敷地は約120m四方(約1万4千㎡)と推定され、大ノ瀬官衙遺跡(だいのせかんがいせき、上毛町)の約2万2300㎡に次ぐ京築地区で2番目の規模で、国府か、郡衙だった可能性が高いとしている。 9~10世紀の「豊前国府跡」(みやこ町)の政庁跡(南北105m、東西79m)より大きい。
 出土したのは官衙の南側部分で、約3千㎡。 大型の掘っ立て柱建物の柱穴群が西側隅で1カ所、東側隅で2カ所、ともに、東西に規則正しく配置されて見つかった。 柱穴からみて、建物の大きさは2棟が縦約12m、幅約5m、1棟が縦17m以上、幅約5mと推測される。 周辺からは8世紀ごろの須恵器などが出土し、回廊跡の一部約30mも見つかった。
 現地説明会が19日(土)午前10時から開かれる。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]
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