歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

三春の滝桜

2014年04月20日 | Weblog

撮影:2014年4月19日(土)


樹齢推定1000年を超えるベニシダレザクラ(紅枝垂桜)、バラ目バラ科サクラ属サクラ亜属。
樹高13.5mm、幹周り8.1m、根周り11.3m。
「根尾谷淡墨ザクラ」(岐阜県本巣市)、「山高神代ザクラ」(山梨県北杜市)とともに、日本三大桜のひとつ。国の天然記念物。
所在地: 福島県田村郡三春町大字滝字桜久保。

文献による初見は、「滝佐久良の記」(天保7年(1836)、筆者不明)
『田村郡郷土史』(田村郡教育会編著 明治37年)によると、当時の住所表示は、田村郡中郷村大字瀧であり、滝桜の大きさは、高さ四丈二尺(12.7m)、周囲三丈二尺(9、7m)と記されている。

先日(2014.4.6)、春日大社の「第60次式年造替(しきねんぞうたい)」を記念するシンポジウム「伊勢から春日へ」(奈良県主催)が、東京・渋谷のヒカリエホールで行われ、春日大社宮司花山院弘匡氏も出席し講演された。 私もそれを拝聴した。 同氏は花山院家第37代当主である。 従一位右大臣まで昇った第30代当主花山院家厚氏(1789-1866)が天保6年右大将の時、京に上った三春藩士・草川次榮が見事な様の滝桜を紹介したのに対し、歌を詠んでいる。
  名に高き 三春の里の 瀧桜 そらにもつゝく 花の白波


日本三大桜「三春滝桜」が満開…樹齢1千年以上(読売新聞) - goo ニュース
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霊岩郡・王仁祭り 110万人が訪れる 

2014年04月10日 | 韓国の遺跡・古墳など
 2014.4.8の聨合ニュースで、全南霊岩郡郡西面一帯の100里の桜並木で開かれた「霊岩・王仁文化祭り」(4月4~7日)が桜を楽しもうとする観光客や住民など110万人が訪れて、大盛況で終えたと報道した。
 郡民創作街頭演劇「王仁博士日本へ行く」をはじめ、マダン(庭)劇、フェスティバル、「王仁学灯点灯式」など様々な文化行事が開催された。
 「湖南の小金剛」と呼ばれる全南霊岩月出山の麓では、毎年4月になると周囲100里(約40km)(注1)の道に桜が咲く。霊岩郡鳩林里の道岬寺(注2)と王仁博士遺跡地(注3)を通って犢川里に至る15kmほどの区間である。桜並木の始まる鳩林村は、月出山の麓で最も歴史が深い。ここでは、古代からの現在まで韓•中•日の交易の中心地となった歴史的な故地で、1600年前の百済時代の王仁博士と道岬寺を創建した道詵国師(827∼898)(注4)が生まれた町である。

(注1) 日本での1里は4kmであるが、韓国での1里は0.4km
(注2) 月出山道岬寺(도갑사) 全南霊岩郡郡西面道岬里8番地
新羅末の道詵国師が建てたとされ、高麗後期に大きく発展したと伝えられている。旧は文殊寺という寺があり、国師が幼い時期を過ごしたところだが、道詵が中国から返って来た後、この文殊寺跡に道岬寺を建てたという。その後、朝鮮成宗4年(1473)に再建し、朝鮮戦争の時に大部分の建物が焼けてしまったものを新しく建て直して今日に至っている。
(注3) 王仁博士遺跡地は鳩林村の東にあり、王仁が脚光を浴びたことにより彼に関連する遺跡物を復元した場所である。王仁墓(祠堂)、内三門、外三門、文山斎、養士斎、展示館、王仁像などから成る。王仁博士は百済人として応神天皇の招聘により、日本に渡り典籍を教えたとされている。日本書紀では王仁、古事記では和邇吉師と記されている。
(注4) 第42代興徳王2年(827)に道詵は生まれた。早くに出家して九山禅門の一つである桐裏山禅法門を継承した。彼は唐の南宗禅の祖師である六祖・慧能大師(638-713)の法孫・馬祖と道一から法を受けた西堂の智蔵から禅法を学び、中国南宗禅を会得した。彼の法名は道詵、諡号は了空禅師である。後に光陽郡の白鶏山玉龍寺に長く居たため玉龍子と呼ばれたりもした。彼が高麗太祖の建国と後三国統一を予見し、大きい助力を与えたとされ、大禅師、王師、先覚国師を追封された。
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曹洞宗 宝珠山観泉寺 の 枝垂桜

2014年04月04日 | Weblog


 近くには、真言宗亀頂山三宝寺、真言宗東高野山長命寺、日蓮宗法光山妙正寺などがあるが、今年に限ってみれば曹洞宗宝珠山観泉寺の枝垂桜が見事である。今日見た感じでは、3,4日間くらい見頃であろう。
 
 寺の説明板には、
 「当寺は、宝珠山観泉寺といい、本尊は釈迦如来で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られています。寺伝によれば、慶長二年(1597)今の下井草二丁目付近に開山鉄叟雄鷟大和尚(注1)により創建され、観音寺といわれました。
 正保二年(1645)今川十三代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など三か村(注2)五百石の加増をうけましたので当寺を菩提寺と定め、現在地に移して寺号を観泉寺と改め、祖父氏真を開基とし、信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)(注3)を中興としました。その後万昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬しました。(略)昭和五十四年二月一日杉並区教育委員会」と記されている。
 (注1)中野・成願寺6世・鉄叟雄鷟
 (注2)井草村300石、上鷺宮135石、中村64石
 (注3)大友義親(1597-1617)室。今川範以(1570-1608)の娘、直房の姉または妹。万治元年(1658)没。



[参考]
 中野区・鷺宮八幡神社
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