歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

桜井市・大福遺跡 発掘の木片が国内最古(2世紀後半ごろ)の木製仮面と判断

2013年05月31日 | Weblog
 桜井市教委は30日、2008〜09年にかけて同市の大福遺跡の溝から出土した木製品が、弥生時代終わり〜古墳時代初期(2世紀後半ごろ)の木製仮面の一部である可能性が高いことが調査で分かったと発表した。 桜井市纒向学研究センターがこのほど刊行した研究紀要に掲載された。
 研究紀要は、2012年4月のセンター発足以来、初めての発刊。 「纒向学研究第1号」のタイトルで、纒向遺跡の発掘調査結果や過去の調査の分析について、新知見や発掘の成果などを報告している。 
 木製品は、材質はコウヤマキ(針葉樹)で長さ23・4cm、最大幅7cm、厚さ約5mm。 仮面の一部とすると全体の半分以上が失われている。 「目」の形状は木の葉形で、紐穴とみられる小穴があるが、線で刻まれた眉はない。
 大福遺跡の北東約3kmの纒向遺跡では以前、農耕儀礼に使われたとみられる古墳時代初期(3世紀前半)の木製仮面が出土しているが、それを遡る国内最古例となる。
  大福遺跡の木製品は、纒向遺跡の仮面と比較すると、仮面にはなかった紐穴とみられる小穴がある。 一方、仮面には線で刻まれた眉があるが、木製品にはない。材質は、仮面がアカガシ(鍬を転用?)であるが、コウヤマキである。
 大福遺跡の衰退した後に纒向遺跡が出現し、弥生時代から古墳時代の転換を考える上で重要な資料としている。
 木製品は31日から9月29日まで、桜井市芝の市立埋蔵文化財センターで公開される。
[参考:共同通信、奈良新聞、産経新聞、日経新聞、毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、NHK]

過去の関連ニュース・情報
2009-03-05 桜井市・大福遺跡 弥生時代の木製よろいが出土
大福遺跡
2010.6.28 「発掘された日本列島2010」を見て
 2007年度に纒向遺跡で出土した木製仮面(3世紀前半)が出展されていた。
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東村山市・下宅部遺跡 縄文時代の漆液容器土器に木の葉の蓋

2013年05月30日 | Weblog

 写真は、ふるさと歴史館(東村山市諏訪町1-6-3)で展示中の、下宅部遺跡の縄文時代後期の水場遺構から発掘した大型加工木材(全長約6.6m、ケヤキ材の丸木舟の未完成製品)


 東京都東村山市教委が30日、同市多摩湖町の「下宅部(しもやけべ)遺跡」の出土品から、使用中の漆が乾いて固まらないように広葉樹の葉で蓋をした縄文時代後期(注1)土器が見つかったと発表した。 木の葉で蓋をした漆液容器の発見としては国内最古となる。
 (注1)産経新聞では縄文後期(約3200年前)とし、朝日新聞では縄文後期中頃(約4000~3600年前)としている。
 見つかった蓋付きの容器(直径約10cm、高さ3cmの浅いお碗形)は、最初に赤色塗用、後に黒漆塗り用の容器(パレット)として使用されていたことがわかった。
 これまで、縄文時代の野地遺跡(新潟県胎内市)で漆液容器の外側に葉の断片が付着している土器があり、蓋の可能性が指摘されていた。 今回の資料はそれよりもさらに古い。
  漆液容器は6月23日まで八国山たいけんの里(東村山市野口町3丁目48−1)で展示されている。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュースおよび情報
2012.3.22 松江市・西川津遺跡 漆の原木と漆を貯蔵した土器片が出土 集落で栽培から製品作りまで一連作業
 これまでに縄文時代に漆の栽培・採取、製品作りまでの一連作業を実施していたのは下宅部遺跡(東村山市)で見つかっているが、弥生時代では見つかっていなかった。
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本庄市・薬師堂東遺跡 全国初のガラス小玉鋳型完形品が出土 

2013年05月30日 | Weblog
 本庄市教委は28日、同市立本庄東中学校内の薬師堂東遺跡(同市日の出)で、7世紀前半の飛鳥時代とみられる装飾品のガラスの小玉を作る際に使われた「ガラス小玉鋳型」が出土したと発表した。
 出土した鋳型は破片を含めると110点になり、 1遺跡での出土点数はこれまで舟橋遺跡(大阪府柏原市)の23点が最多だったが、これを上回り、過去最多の出土数という。
 鋳型は上質の粘土を焼いたもので直径14cmの円形で、厚さ1cm。 表面に直径3~5mmの型孔161個が開いており、この型孔にガラス粉を入れて加熱し、ガラス小玉を作る。 型孔の中心には、ガラス小玉の紐通し孔を確保するための小さな芯立て孔が開いている。 
 同種の鋳型は九州、近畿、中部、関東地方などの4世紀から8世紀にかけての遺跡で発見されている。
 同遺跡の発掘調査は昨年7月2日から今年3月末まで実施し、古墳時代から奈良・平安時代の住居跡約300軒も見つかった。
 出土品の一部が、6月4日から本庄市立歴史民俗資料館(同市中央1丁目)で公開される。
[参考:埼玉新聞、朝日新聞]
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黒田如水(官兵衛) 晩年(慶長9年(1604))に有馬温泉で湯治中の書状が見つかる

2013年05月29日 | Weblog
 黒田如水(官兵衛、1546-1604)が亡くなる(注1)4か月前に、福岡藩初代藩主の長男・長政(1568-1623)に自らの病状を語った書状が見つかり21日、福岡市博物館(同市早良区)で初公開された。 湯治をしていた有馬温泉(神戸市)から福岡に送ったもの。如水の最晩年の状況が具体的にわかる貴重な史料で、家臣らを気遣う人となりもうかがえる内容という。
如水軒(号)、円清(法名)の後に、自筆の花押があり、宛先は「黒田筑前守」(長政)。11月18日付で、内容からら慶長8年(1603)のものとみられる。
 7月7日まで公開される。
[参考:読売新聞、毎日新聞]

(注1) 慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。 59歳。 

過去の関連ニュース・情報
  渋谷区広尾・瑞泉山祥雲寺 江戸の黒田家菩提寺
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安芸高田市 弥生時代後期(3世紀)の四隅突出型墳丘墓1基が出土 市内初

2013年05月28日 | Weblog
 安芸高田市教委は27日、 同市吉田町下入江の赤柴山の中腹(標高285m地点)で、弥生時代後期(3世紀)のものとみられる「四隅突出型墳丘墓」1基が見つかったと発表した。 「四隅突出型墳丘墓」は広島、島根、鳥取、北陸地方などで約100基が確認されており、広島県内では江の川流域を中心に三次市、庄原市、北広島町で17基の出土例がある。山の中腹で見つかるのは珍しいという。
 市教委によると、「四隅」は南北方向に広がり、2カ所の突出部が見つかっている。突出部を含めて縦13m、横10m、高さ1.5m。 2~3段の階段状に積み上げた大小の貼石(はりいし)が表面を覆っており、下部には石が敷かれていることも分かった。
 また、突出部の約15m北で縦2m、横1mの箱形の石棺も見つかった。約30個の平たい石で覆ってあり、石棺の内部を調査する。
 現地説明会は6月8日午前11時から開かれる。
[参考:5.24中国新聞、5.28読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 安芸高田市・甲立古墳(全長77mの前方後円墳、4世紀後半築造)
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奈良県斑鳩町・中宮寺跡 7世紀の平瓦片に「難波津の歌」の一部が万葉仮名でヘラ書

2013年05月28日 | Weblog
 斑鳩町教委は27日、2010年度の調査で国史跡・中宮寺跡で出土した7世紀中頃~後半の瓦片に、平安時代の「古今和歌集」の仮名序で手習いの手本として引用した「難波津の歌」の一部が刻まれていることがわかったと発表した。 木簡や土器に書かれたものは30数例出土しているが、瓦からの出土は山田寺跡(桜井市)の7世紀後半のもの(注1)に続き2例目で、難波津の歌が古くから広まっていたことを示す例としている。
 平瓦の破片(長さ12cm、幅10.2cm、厚さ1.6cm)の側面に、長さ約9cmにわたって「ツ尓佐久移己(つにさくやこ)」(注2)とヘラで刻まれていた。仁徳天皇の治世の繁栄を願って詠んだ「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」という「難波津の歌」を、万葉仮名で表記した一部という。
 工事の職人や監督者が、手近な瓦で字の練習をしていたのでは、あるいは屋根瓦に書くことで火よけなど呪術的な願いを込めたのではないかとみている。
 中宮寺は聖徳太子の建立とされ、これまでの調査で、創建は7世紀前半と推定されている。
 瓦片は、6月25日まで斑鳩文化財センター(同町法隆寺西1丁目)で開催中の春季企画展で展示される。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞]

(注1)「奈尓皮」とヘラ書き
(注2)「佐久移」と書かれた木簡が石神遺跡(飛17)で出土している。 ・奈尓皮・□(止?)佐久移
(注3)古今和歌集真名序に「至如難波津之什献天皇、富緒川之篇報太子」(訳: 難波津の什(じふ)を天皇に献じ、富緒川(とみのをがは)の篇を太子に報ぜし)と書かれている。「難波津之什」とは前述の「難波津の歌」であり、「富緒川之篇」とは聖徳太子と片岡山の飢人との問答歌「いかるがや富緒川の絶えばこそ我が大君の御名を忘れめ」(拾遺集巻二十ならびに日本霊異記第四. 聖徳太子の異(くす)しき表(しるし)を示したまひし縁 1.聖徳太子と病める乞食)と考えられている。 「難波津の歌」が「いかるが(斑鳩)」の聖徳太子あるいは母・穴穂部間人皇后が建立した中宮寺の瓦にヘラ書きされていたとは奇遇である。
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天理市・内山永久寺金剛乗院(廃寺) 鎌倉時代筆の幻の扁額「金剛乗院」発見

2013年05月27日 | Weblog
 平安時代末期・永久年間(1113-1118)に、鳥羽天皇(1103-1156)の勅願で創建し、江戸時代には大和国屈指の寺院として栄えながら、明治の廃仏毀釈で廃寺となった「内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)」(奈良県天理市杣之内(そまのうち)町)の扁額が天理市内の民家で見つかった。 奈良文化財研究所(奈良市)が調査した結果、鎌倉時代の書家・藤原教家(のりいえ、1194-1255)が1247年に書き、同寺の真言堂に掲げられたものと結論付けた。
 扁額は長さ約84cm、幅約43cmで、寺の院号「金剛乗院」と書かれている。
・ 南北朝時代の編纂とされる「扁額集」に、藤原教家が宝治元年(1247)に書いたとの記述があり、字体が酷似していた。 
・ 鎌倉時代後期の「内山永久寺置文」にも、真言堂の額は教家書と記されていた。
・ 額の木材の年輪調査で木の伐採は1248年前後と推測された。
 藤原教家は、国宝「平治物語絵巻」(東京国立博物館所蔵)で絵を説明する「詞書(ことばがき)」(『平治物語絵詞』)を書いたことなどで知られる。
[参考:毎日新聞]
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等伯に始まる長谷川派の下絵など数千点規模が京都市内で現存

2013年05月25日 | Weblog
 
 「長谷川等伯ふるさと調査」の第2次調査で、長谷川等伯に始まる長谷川派の絵師らが描いたとみられる数千点規模の下絵や絵画の模写が京都市内に現存していることが分かった。
 調査団は今後、継続して分析を進め、全容解明を目指す。
[参考:北國新聞]
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岡山市・鹿田遺跡 奈良時代の「猿駒曳」絵馬が出土

2013年05月24日 | Weblog
 岡山大埋蔵文化財調査研究センターは23日、同大鹿田キャンパスの医学部構内にある鹿田遺跡(岡山市北区鹿田町)で、奈良時代(8世紀後半)の井戸跡から、猿が馬を引く「猿駒曳(さるこまひき)」の絵馬と「牛」の絵が描かれた絵馬が素焼きの土器と共に出土したと発表した。 絵馬は4月中旬、井戸跡から2枚重なった状態で見つかった。 どちらも国内最古の例。
 猿駒曳の絵馬は縦12cm、横23cmの長方形で、鞍を着けた馬を小さな猿が手綱で引く姿が描かれている。木板に墨で描かれていたらしいが、本来は顔料などで彩色されていた可能性もあるという。
 儀式的な用途で井戸の中に絵馬と土器を納めたとみており、猿が馬を守護するという伝承が奈良時代まで遡る可能性が出てきた。
 「猿駒曳」の現存最古の例は、鎌倉時代(13世紀末)の戯画(注1)で、今回の例は約500年遡る。
 「牛」の絵馬は横21・5cm、縦12・3cm。 これまでの最古の例は、静岡県で出土した9世紀のもの。
 絵馬は寺社に生きた馬を奉納する代わりに始まったとされ、奈良・平城京跡出土の8世紀前半例が最古である。
 同遺跡は、藤原摂関家の荘園「鹿田荘(しかたのしょう)」跡として知られ、絵馬は、都との関係が非常に強い荘園だったことを示す資料になるとしている。
[参考:時事通信、日経新聞、山陽新聞]

非常に興味深い発見である。
■ 絵馬は、本物の馬に代えて奉納することになったのが平安時代からとしていたが、奈良時代まで遡ることになった。 続日本紀の大宝二年(702)の条に下記記載が見られ、当時、神馬が献上されていたことがわかる。
  続日本紀大宝二年四月八日乙巳。飛騨國獻神馬。
■ (注1)鎌倉時代(正中年間1324~1326)に成立した石山寺縁起絵巻には、厩につながれた猿が描かれている。
■後白河法皇(1127-1192)が治承年間(1177-1181)頃に編纂した歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に
  353 御馬屋の隅なる飼猿は 絆離れてさぞ遊ぶ 木に登り 常磐の山の楢柴は 風の吹くにぞ ちうとろ揺るぎて裏返る
 と詠まれており、「厩猿信仰」の一端が描かれている。
■猿は山王権現の使いという民間信仰より、古いもの。
■馬曳き猿を河童の変形とする話についても影響か。

猿が馬引く絵馬出土=岡山(時事通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
2009.9.13 福岡県上毛町・ハカノ本遺跡 奈良~平安の居館跡などを確認
 鎌倉時代の武士か豪農とみられる住居跡の溝から、表に馬、裏に牛が描かれた絵馬も見つかった。

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福島県広野町・桜田Ⅳ遺跡  奈良時代の「駅家」跡か

2013年05月22日 | Weblog
 広野町下浅見川桜田の災害公営住宅の建設予定地から、奈良時代に街道沿いに整備された施設である「駅家(うまや)」とみられる建物の跡が見つかった。
 昨年9月に、試掘で発見された。 町教委は桜田Ⅳ遺跡と名付け、今年1月に調査を開始した。
 遺跡から掘立柱建物跡11棟と竪穴住居跡6棟とともに奈良時代の土師器と須恵器が見つかった。 このうち2間×3間の掘立柱建物跡5棟が一直線に並んでおり古代の役所の一部とみられ、また、近くの遺跡で海道跡がみつかっていることから、「駅家」の可能性が高いという。
 平安時代に編纂された「続日本紀」養老三年(719) 閏七月廿一日丁丑の条には、
   石城國始置驛家一十處。
と記され、岩城(いわき)国(現在の浜通り)の当時の街道沿いにおよそ16kmごとに「駅家」が設けられていたとみられる。 これまで、遺跡は確認されていなかった。
 広野町は、津波で家を失った住民のために48世帯分の災害公営住宅を町の中心部に建設する計画だが、予定地から奈良時代のものとみられる建物の跡や土器が見つかったため、建設予定だった住宅を敷地内の別の場所に移し、遺跡の一部を保存することを決めた。 緑地公園としての活用などを検討している。
[参考:2013.5.11福島県文化財センターHP、5.11NHK、5.14福島民友新聞、5.17河北新報、5.19福島民法、5.21毎日新聞]

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八幡市・美濃山瓦窯跡群 4号窯跡から「西寺」と押印の瓦が出土

2013年05月21日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが20日、八幡市の美濃山瓦窯跡(注1)で「西寺」と押印のある平安時代の瓦が1点見つかったと発表した。
 西寺(さいじ)は平安時代初めに、朱雀大路を挟み東寺と対称の位置に建立された官寺。弘仁14年(823)、嵯峨天皇から空海に東寺が、守敏(しゅんびん)に西寺が与えられた。
 西寺と押印された瓦は縦約15cm、幅約17cm、厚さ1・3cmで、4号窯跡の土台から発掘された。破損するなど(不良品?と)して、土台の修復用に使われたとみられる。
 西寺跡(京都市南区)から出土した瓦片の押印と同じで、約15km離れた西寺のために作っていたとみられる。
 美濃山瓦窯は5つあり大量の瓦が出土している。昨年8月から11月までの調査で、4号窯跡は、焼成室のみが残存する平窯で、窯壁には平瓦や丸瓦が塗り込まれていた。
 「西寺」の押印がある瓦は、官営工房とされる坂瓦窯(大阪府枚方市)でも作られていたが、今回出土したものとは書体が違う。
 5月25日(土)午後1時40分~4時40分に八幡市文化センター(八幡市八幡高畑5番地3)小ホールで、第124回埋蔵文化財セミナー(京都府埋蔵文化財調査研究センター)『今明かされる古代寺院美濃山廃寺の姿』が開催される。 出土品も併せて展示される。
[参考:共同通信、京都新聞、産経新聞、京都府埋蔵文化財調査研究センターHP]
 
(注1) 美濃山瓦窯跡(群)の築造時期は、最も古い2号窯が8世紀前半、4号窯(平窯)は8世紀後半とみられている。 2、3号窯は当初窖窯であったが、2号窯は平窯に造り替えられた。 4、5号窯は最初から平窯で2、3号窯より築造時期が新しい。 窯構造が変化する背景は、供給先の広がりと関係していると考えられるとされていた。 [参考:平成24年11月3日 美濃山瓦窯跡群現地説明会資料(京都府埋蔵文化財調査研究センター)]

過去の関連ニュース・情報
 2012.12.3 美濃山瓦窯跡群 奈良時代8世紀の瓦窯跡4基が見つかる 1基は窖窯から平窯に改修
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高松市・太田原高州遺跡 近畿地方と交流?長方形の周溝墓6基を発見

2013年05月18日 | Weblog
 香川県埋蔵文化センターが発掘を進めている「太田原高州遺跡」(高松市太田上町)から、溝跡で区切られた長方形の周溝墓6基が見つかった。また、周辺からは建物4棟分に当たる計22の柱穴跡も見つかった。
 現地説明会は18日(土)午後1~3時から開かれる。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2012.2.3 高松市・太田原高州遺跡 弥生中期の周溝墓の棺の中から水晶玉7個が出土、四国初
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気仙沼市・波怒棄館遺跡 縄文前期後葉の石器が刺さった状態のマグロの背骨が出土

2013年05月16日 | Weblog
 気仙沼市は15日、防災集団移転促進事業に伴い発掘(2012.10~2013.6)が進められている波怒棄館遺跡(はぬきだていせき、気仙沼市唐桑町荒谷前5)で、縄文時代前期後葉(約5500年前)の貝塚から石器が刺さった状態のマグロの背骨が出土したと発表した。 マグロを解体した際に刃が欠けたとみられるという。
 遺跡北西側にある急斜面の貝塚では、大量のマグロの骨が確認され、同じ層から刃物状の粘板岩製石器も多く出土した。
 遺跡からはほかに、土器や板状土偶、釣り針などの骨角器、魚骨や貝殻でできた装飾品、石製の鏃や匙などの遺物が多数出土している。
 現地説明会が18日午後1時半~3時に開かれる。
[参考:河北新報、気仙沼復興協会HP]

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大野城市・王城山遺跡 6~7世紀の新羅土器が出土

2013年05月16日 | Weblog
  大野城市教委は15日、同市乙金の王城山遺跡(おうぎやまいせき)の横穴式石室を持つ直径12~13mの円墳の入り口付近から、6世紀後半から末頃の「瓶」(高さ15cm)と、7世紀前半から中頃の「壺」(高さ17cm)各1点が見つかったと発表した。 ともに、円形や三角形の印花文が施された「新羅土器」で人為的に割られたような状態で出土した。 王城山古墳群で既に6点の新羅土器が見つかっている。
[参考:共同通信、西日本新聞、読売新聞]
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神田明神・神幸祭 相馬野馬追神事の騎馬武者行列

2013年05月12日 | Weblog
 昨日は、日本橋三越前の奈良まほろば館で、現在橿原考古学研究所附属博物館(橿原市)で開催されている『春季特別展 5世紀のヤマト~まほろばの世界~』の同博物館・坂靖(ばん・やすし)さんによる展示解説を聞いて来ました。

 当日は、神田明神の神田祭の祭礼行列「神幸祭」が行われ、当館の前にもその行列が通るというので楽しみにしていました。しかしながら、あいにくの雨で行列の参加者にはお気の毒でした。
 
 当夜、日経新聞のインターネット記事で、福島県の伝統行事「相馬野馬追」の騎馬武者行列が登場(4年ぶりに)と書かれていました。
 また、読売新聞のインターネット記事に『「三越」神輿 雨の中、233年ぶり日本橋渡御』と出ていました。
 安政9年(1780)に三井越後屋の三井八郎右衛門が、藤岡市の諏訪神社(藤岡諏訪神社とも、現在、藤岡市藤岡495)に御神輿を奉納しました。 その御神輿が5月13日に「神幸祭」に参加し、日本橋三越本店前を巡行しました。




(左)福島県原町市・相馬野馬追神事の騎馬武者 2013.5.11 16:48 日本橋三越側にて撮影 
(右)藤岡諏訪神社の御神輿が日本橋三越前を巡行 2013.5.11 16:07 日本橋三越側にて撮影
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