歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

明日香村・檜前遺跡群 大壁の遺構が出土

2009年10月31日 | Weblog
 同村教委が30日、檜前(ひのくま)遺跡群で朝鮮半島で多く見られる「大壁」と呼ばれる7世紀前半~半ばの土壁の遺構や7世紀後半の集落跡が出土したと発表した。渡来系氏族、東漢氏(やまとのあやうじ)の氏寺「檜隈寺」の南約200mで、本拠地とされる同遺跡群で大壁建物が初めて確認された。
 公園整備のため約1200㎡を調査。L字形の溝(南北10m、東西7m以上、幅40~70cm)が見つかり、溝の中には、柱の抜き取り穴(直径約20cm)が並んでいた。溝に細い柱を何本も立てて竹などで補強し、土壁で塗り込める技法で造る渡来系の建築工法の大壁とみている。5世紀後半に朝鮮半島の百済地域に現れ、日本でも6世紀後半以降、大津市周辺を中心に、御所市や高取町などで見つかっている。
 出土した土器から大壁は7世紀半ばになくなったらしく、同後半には掘っ立て柱建物(東西6.3m、南北4.2m)に造り替えられていた。
 さらに、この西側で7世紀後半の掘っ立て柱建物が6つ見つかり、集落を作っていたらしい。中には4面のすべてに庇がつく可能性があるものがあった。住居が「渡来」系の大壁建物から「国産」の掘立柱建物へと移り変わっていく様子がうかがえるとする。
 檜隈寺周辺では9月、渡来系の特徴とされ、煙の通る道がL字形になった石組みのかまどがある7世紀前半~半ばの竪穴式住居跡が出土した。
 現地見学会は11月3日午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:朝日新聞、毎日新聞]

渡来人の拠点か、7世紀の「大壁」出土 奈良・明日香村(朝日新聞) - goo ニュース

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 檜前(ひのくま)遺跡群
 檜隈寺
 大壁
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守山市・赤野井浜遺跡 弥生期の漁の痕跡「管状土錘」が県内初出土

2009年10月31日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が30日、赤野井浜遺跡で過去に採取した遺物から、弥生時代の漁網の重り「管状土錘(かんじょうどすい)」が県内で初めて見つかったと発表した。縄文時代の琵琶湖では石錘を使った漁が一般的だったが、弥生前期には土錘を使っていたことが初めてわかった。また、瀬戸内海や日本海沿岸の海水域で広がった網漁が、淡水域の琵琶湖にも到達していたのが明らかになったとしている。
 管状土錘は、遺跡内の河川の跡や小穴から土器の破片などと一緒に計34点が見つかった。素焼きの錘(おもり)で、粘土塊の中心部に網を通すために0.6cmくらいの穴が開いている。素材の土は一緒に出土した土器片のものと似ており、弥生時代前期から中期(紀元前5~3世紀)のものとみられる。34点のうち28点が卵形と紡錘形で、6点が球形。最大は俵形で長さ7・3cm、幅3・9cm、重さ114g。最小は球形で、直径2cmほどで重さ8gだった。
 湖畔に弥生期の集落遺構は多いが、土錘がやっと発見できたというのは、網漁が琵琶湖で伝わらなかったとみられる。弥生期にすでに、より効率的な湖国独特のエリ・やな漁が発達していたとみられる。
 管状土錘は11月3日午前10時~午後4時半、イオンホール(草津市新浜町)で行われる調査成果報告会「びわ湖と川の考古学」で公開する。
[参考:読売新聞、京都新聞、中日新聞、朝日新聞]
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熊本県南阿蘇村、高森町・幅・津留遺跡 県内最古の花弁状住居跡が見つかる

2009年10月30日 | Weblog
 県教委は29日、南阿蘇村と高森町にまたがる「幅・津留遺跡」で、弥生時代中期後半(約2000年前)に建てられたとみられる県内最古の花弁状住居跡1棟が見つかったと発表した。
 花弁状住居跡は、竪穴住居の一種で、円形部分の周囲に、長方形に盛り上がった部分が花弁状に広がっているのが特徴。発掘された住居跡は半円状で、半径約3・5m、周りに長方形部分(奥行き約45cm、長さ約3m)が3つあった。
 残りの半円部分は調査区域外のため全体の詳細は不明だが、直径は最大約8mになり、長方形部分は5つほどあり、倉庫や寝床などとして使われていたとみている。
 花弁状住居跡については、佐賀県では弥生中期前半のものが、県南の人吉市や錦町、宮崎、鹿児島県では弥生後期のものが見つかっている。今回、その間の地点で、時代をつなぐような住居跡がみつかったことから、県教委は「北部九州から南九州に約200年かけて花弁状住居が伝わり、そのルート上に幅・津留遺跡があったとみられる。
 また、県内最古となる弥生時代の高床倉庫跡も発掘された。
[参考:読売新聞]

過去のニュース・情報
 2008.11.19 佐賀県・みやき町 西寒水四本柳遺跡 九州北部で初の「花弁状住居」跡
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朝来市池田古墳 墳丘東側の造り出しから第2段目葺石部までを調査中、11月3日に現地説明会

2009年10月30日 | Weblog
墳丘の「造出し」両側の全容解明 水鳥形埴輪、新たに7体出土
 県立考古博物館が29日、池田古墳で墳丘の左右にある「造出し」の全容を大型古墳では初めて両側そろって明らかにできたと、また東造り出しから水鳥形の埴輪7体分が見つかったと発表した。
 「造出し」は円墳と方墳がつながる部分の両脇にあり、祭祀の場とされる。今まで左右対称で同じ形と思われていたが、同古墳では広さや方墳との間の溝に違いがあった。
 また、水鳥型埴輪の破片が一方では見つかり、反対側では壺などを模った小さな土器が出土するなどの違いがあり、それぞれの造出しで行われた祭祀の性格が異なっている可能性が出てきた。
水鳥型埴輪は、すでに同古墳で8体分(注1)出土しており、計15体となった。今回出土した7体は鳥の頭やくちばしなど破片の状態で出土し、祭祀場とされる墳丘東側のくびれ部分にある台状遺構の「造り出し」に約3m間隔で並んで見つかった。既に出土した8体もすべて墳丘の東側で見つかっている。水鳥は死者の魂を来世から現世に迎える役割があったとされている。
 一方、西側の造り出しではアケビのような植物を模った土製品や壺、高坏など12点が出土しており、古墳の東西で異なる祭祀が行われた可能性がある。
[参考:神戸新聞、毎日新聞、山陰新聞]

(注1)2009.2.20 の報道情報では7体の出土であったが、3月1日の現地説明会では8体出土とされている。
2009.2.20 朝日新聞より
 鳥形埴輪は東側の渡土堤と墳丘の裾付近から、いずれも3m間隔で7体(高さ約40~50cm)出土。このうち1体の周囲には子鳥の埴輪が計4体(高さ約10cm)あった。「子持ち水鳥形埴輪」の出土例としては国内最古という。

2009.10.28掲載分
 今年初め、周濠を横断して墳丘に通じる渡土堤の部分から、最古の水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪が計11体出土した池田古墳で発掘調査が行われており、11月3日(火・祝)13:30に現地説明会が開かれる。
 調査では、墳丘東側の第2段目葺石、第1段テラス、第1段葺石と造り出しを検出している。
 造り出しは、墳丘からの張り出しが16m、幅が15m以上の大規模なもので、周囲の斜面は葺石され、上面は敷石されており、造り出し部から葺き石や埴輪が出土している模様。昨年度の調査でも見つかっていた水鳥の埴輪や家形の埴輪も見つかっているらしい。
[参考:兵庫県立考古博物館HP]

過去のニュース・情報
  2009.2.20 池田古墳 水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪出土



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桜井茶臼山古墳 韓国発ニュース

2009年10月29日 | Weblog
 韓国のニュースで、日本の発掘調査情報を採り上げるのは非常に稀であるので、29日に聨合ニュースで採り上げていた「茶臼山古墳(차오스야마고분)」を紹介してみる。
 ニュースのタイトルが「독극물 황화수은으로 범벅한 일본 고분」。訳すと「毒劇物硫化水銀でまぜこぜにした日本古墳」。「まぜこぜにした(범벅한)」の表現はあまりよろしからぬ。
 「朱砂あるいは辰砂と称する硫化水銀(HgS)を何と200㎏も注ぎ込んだ西暦300年頃古代日本の古墳が発見された。」と始まる。前方後円墳、竪穴式石室、木棺についての説明がなされ、重点はやはり、硫化水銀のこと。
 「墓に硫化水銀を振りまく理由は死体の腐敗防止のためだという主張が通説だ。だがこのような埋葬方式は日本ではもちろんのこと、黄南大塚と天馬塚をはじめとする新羅時代積石木槨墳と中国でもたまに確認されており、しかも硫化水銀が道教神学では永遠を保障する仙薬の中でも薬効が最も優れた薬品に選ばれたという点で道教の濃厚な影響力をみせる証拠とする見解もある。」と結んでいる。
 石室の天井石を上から写した写真7枚と石室の底の写真1枚を公開している。鮮明にアップで撮ったものがあり参考になる。
[参考:聨合ニュース]

過去のニュース・情報
 桜井茶臼山古墳
 ベニバナ
 
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韓国益山市・帝釈寺址 伽藍配置が百済泗ビ時代寺院と同じで、規模が大きいことを確認

2009年10月29日 | Weblog
 文化財庁国立扶余文化財研究所は、王宮里遺跡(왕궁리 유적)から東に1.4km離れた帝釈寺址(제석사지、史跡 第405号)に対する2次調査の状況を明らかにした。

 伽藍配置が基本的に百済泗沘時代(538~660年)の寺院と同一で、その規模が非常に大きかった。
 すでに確認された木塔跡、金堂跡、講堂跡以外に回廊跡、中門跡、東西建物跡が確認された。
 木塔跡中心から東に42m離れた地点で確認された東回廊跡は幅7.8mで、幅6.8mの弥勒寺跡回廊と比べて百済寺院回廊の中で最も広い。
 木塔跡と金堂跡の間の西側で、木塔と規模・築造手法が同じ方形建物の基礎部(東西21.5m、南北20.8m)が新しく確認され、帝釈寺の造成および変遷様相を明らかにするのに新しい糸口ができた。建物基礎部は現在の地表下に130㎝の厚みが残っていて、緻密で精巧な地固め跡があった。この方形建物は木塔と規模・築造手法が同一だという点で木塔と類似の性格の建物であると推定される。
[参考:聨合ニュース]

過去のニュース・情報
 2008.7.10帝釈寺址 百済三重基壇木塔跡の構造の解明に
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韓国・益山市王宮里遺跡 百済宮廷後苑を発見

2009年10月29日 | Weblog
 韓国国立扶余文化財研究所は今年、1989年以発掘調査中である全北益山・王宮里遺跡跡(왕궁리 유적、史跡 第408号)の北方丘陵地を調査した結果、7世紀百済時代の宮城内後苑(후원)と曲水路(물길)、歩道施設、石垣施設および建物跡などを確認したと29日発表した。
 くねくねとした曲線形状の二筋の水路が確認され,その中間には水を溜めて量を調節するための四角形の集水施設が現れた。
 曲水路は幅80~140㎝、断面はU字型で現在まで総長さは228mが確認された。
中国や日本の古代庭園と比べると、水路の底や側壁に砂利石や板石などの石材を使った跡が発見されていない。さらに水路内部では遺物がほとんど出土せず、周辺で百済時代瓦などが少量出土した。
 これほど丘陵全体を利用した大規模の水路は今までにないという。
[参考:聨合ニュース]
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高島市・池の沢遺跡 新たに州浜を確認 池の規模判明

2009年10月29日 | Weblog
 高島市教委は28日、鎌倉時代初期(13世紀初頭)の庭園跡とされる「池の沢遺跡」(同市朽木村井)で、新たに州浜などを確認したと発表した。池には平安時代の特徴が色濃く見られることから、日本の庭園の歴史を考える上で貴重な資料という。
 同遺跡は、安曇川上流部の川沿いの小高い丘の上にあり、高島市教育委員会が、平成18年から国の名勝指定に向けた確認調査を行なっており、遺跡は都の有力貴族の山荘だったと推定されている。
 これまでの調査で、園池の構成要素である中島、水口、池尻、荒磯風石組みなどが出土しており、新たに州浜が確認されて池の規模が判明した。州浜は池北側の大きな石を組み合わせた荒磯風石組みと向き合う位置にあり、池底を特に浅くし玉石などを敷き詰めており、水位の昇降に応じて玉石が現れるようにする仕組みを作り、緩やかな曲線を描くなぎさを模っていた。
 池尻の形状や州浜の傾斜角度から、池の水深は約40cm、池の大きさは東西約40m、南北50m以上だったと判明した。
 さらに、13世紀以降に州浜を埋めて池の南岸に石積を造り、水の流れを重視した小川のような「流れ池」(全長約50m、幅約2~3m)に造り替えていたことも分かった。
 市教委によると、遺跡周辺は藤原氏の荘園だったと記す文献があり、また後一条天皇の皇子が隠棲したとする伝承が残る。平安時代以降も「朽木の杣(そま)」などと多くの和歌に詠まれた。
 現地説明会が31日午前10時から開かれる。
[参考:京都新聞、びわ湖放送、読売新聞、滋賀県埋蔵文化財センター「滋賀埋文ニュース第342号」]

過去のニュース・情報
 2008.12.10 池の沢遺跡 平安貴族の山荘庭園跡


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京都市西京区・革嶋館 南西部から堀や土塁跡が見つかる

2009年10月28日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が中世の土豪・革嶋(かわしま)氏の館跡(同市西京区川島玉頭町)で行った発掘調査で、9月に東南側で見つかった堀跡に続いて、南西側で堀や土塁が27日までに見つかった。
 見つかったのは、堀跡(幅5m、深さ1・4m)と土塁跡で、室町時代から江戸時代にかけてのものとみられる。江戸中期の元禄15年(1702)頃の館跡の絵図「革嶋家文書」(重文)と位置が一致する。
 堀跡の5m西側からは、堀に水を引き入れる役割を果たしていたとみられる水路跡も見つかった。館跡は、水路やほかの用水路に囲まれるように位置しており、水路に合わせて館の場所が決められた可能性がある。
[参考:京都新聞]

■過去のニュース・情報
2009.9.25 京都市西京区・革嶋館 南西部から堀や土塁跡が見つかる 江戸中期の絵図を裏付け
 京都市埋蔵文化財研究所が8月末からの発掘調査で、中世の土豪・革嶋氏の居館跡とみられる堀跡が24日までに見つかった。江戸中期に描かれた絵図とほぼ同じ場所にあり、内側にも絵図にはない新たな堀が見つかった。
 堀跡は7m間隔で2本見つかり、いずれも深さ2mで室町時代に掘られたとみられる。西側(幅5m、内堀?)は空堀で室町後期に埋められていた。コーナーの逆L字形を検出した東側(幅4・5m以上)は水堀で、江戸中期まで存続していた。調査地の西で昨年行われた試掘調査でも、堀跡が見つかっており、今回の調査と合わせ、居館の東西幅が47mと判明した。(注:現地公開資料の平面図の館跡の図から、南北幅は約75mと推測される)
 革嶋氏は、鎌倉初期に移り住み、近衛家の代官(下司)として荘園管理を請負い、次第に土豪として勢力を広げた。江戸中期の革嶋城の様子は重要文化財の「革嶋家文書」の絵図に残る。今回、見つかった東側の堀は絵図の東南角とみられる。
 市埋文研は、2つの堀が同時に存在したかは不明だが、応仁の乱の舞台になった地域でもあり、防御を固めていたとみている。
 現地見学会が26日午前10時から行われる。(実施済み、約500名が参加)
 ■革嶋氏
 清和源氏・佐竹氏の子孫。各種の代官を請負い有力な在地領主となる。本能寺の変で明智光秀に味方し、一時所領を失うが、江戸期に旧地に戻る。現在も医家として存続している。鎌倉-江戸時代の文書2459点は重要文化財に指定されている。
[参考:2009.9.25京都新聞、2009.10.26京都市埋蔵文化財研究所発行・革嶋館跡現地公開資料]



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柏原市・鳥坂寺跡 国史跡指定へ向けて再調査 金堂階段などが再び姿を現す

2009年10月27日 | Weblog
 大阪府柏原市教委は、7世紀中頃に建立された鳥坂(とさか)寺跡(同市高井田)の国史跡化を目指して、再調査を始めた。
 半世紀前の発掘調査後に埋め戻された、金堂基壇北面の階段などが再び姿を現した。階段は昭和36~37年に行われた府教委や奈良文化財研究所の発掘調査で見つかった。4段分が現存しているが、基壇面との位置関係から、さらに上に2~3段が存在していたと考えられている。
 府教委と奈文研による調査では階段を含めた基壇の一部のほか、講堂、塔の礎石を検出。基壇は凝灰岩の切石を組み合わせた貴重な遺構で、奈良の平城宮大極殿の復元などの際に資料に使われている。いずれも調査後に埋め戻されていた。
 市教委では国史跡指定の申請に向けた準備を進めており、再調査で掘り起こした基壇の位置などを正確に測るほか、航空測量を行いって各建物の位置関係を正確に記録した測量図を作成する予定。
 鳥坂寺は「続日本紀」にも記録が残る寺(注1)で、聖武天皇や孝謙天皇とゆかりが深い、河内地方にあった「河内六寺」の一つ。
 大正14年から昭和元年にかけて行われた近鉄大阪線の敷設で遺跡が見つかり、昭和58年の調査では井戸から「鳥坂寺」と書かれた土器が見つかっている。
 注1: 続日本紀 天平勝宝八年(756) 2月25日 天皇幸智識。山下。大里。三宅。家原。鳥坂等六寺礼佛。
[参考:産経新聞]




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京都府大山崎町・大山崎瓦窯跡 新たに一基を発見 31日に現地説明会

2009年10月27日 | Weblog
 町教委は26日、平安宮の瓦を生産した国史跡「大山崎瓦窯跡」の北側で、新たに窯跡1基が見つかったと発表した。
 同瓦窯跡は平安時代初期に平安宮の大極殿へ瓦を供給したとされ、昨年までに7基が確認されていた。
 町教委は今年9月末から史跡の範囲確認調査を実施。最北の7号窯からさらに北約6mの崖で瓦窯の燃焼室の焚口を見つけた。崖の下に焼成室が続くと想定し、8号窯と名付けた。大きさは他の窯と同じ全長3・9m、最大幅2mとみられる。7号窯との間隔も2~6号窯と同じ。いずれも焚き口は東向きで南北一直線に並んでおり、計画的に建設された大規模な官営工房であるとみられる。
 現地説明会が31日午前10時半から開かれる。
[参考:京都新聞]
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京都市・上里遺跡 大分県姫島産?の黒曜石が出土

2009年10月26日 | Weblog
 縄文時代晩期(約3000年前)の集落があった上里遺跡(同市西京区大原野)から、九州や北陸地方のものとみられる黒曜石やヒスイ(翡翠)などが相次いで出土し、全国各地と幅広い物産の交流があったことを示している。
 本年度の市埋蔵文化財研究所の調査で、石器をつくる際の破片とみられる黒曜石が出土した。通常の黒曜石に比べ、全体に乳白色がかっており、大分県姫島から産出される石の特徴があるという。
 また、新潟県糸魚川市で産出されたとみられるヒスイの飾りも2年前に続いて出土したり、近畿地方の縄文遺跡からよく見つかる土製の腕輪とともに石川県など北陸地方で出土例が多い、「有孔球状土製器」も同時に見つかった。
[参考:京都新聞]

過去のニュース
  2009.7.17上里遺跡 弥生前期の竪穴住居跡を発掘
  2009.10.2上里遺跡 新たな遺構を確認 大規模な集落か
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相模原市・小保戸遺跡 2万3千年前の旧石器時代、最古級の生活跡の遺構が出土

2009年10月26日 | Weblog
 小保戸(こほと)遺跡(同市城山町小倉)から、約2万3千年前の旧石器時代の住居跡とみられる遺構が4基検出された。
 直径2・5~3・5mの円状に礫(河原石)が並べられ、内部からは炭化物片や石器が多数見つかった。
 調査を担当する(財)かながわ考古学財団は、年代的にも最古級と話す。
 遺跡は相模野台地上の関東ローム層にあり、放射性炭素による年代測定で2万3千年前とわかった。
 住居状遺構では、日本最古とされる約2万年前の遺構が発見された田名向原遺跡(同市田名塩田)がある。同遺跡の住居状遺構は炭素測定値で約1万7600年前、暦年較正値で約2万0500年前とされている。
[参考:産経新聞、神奈川新聞]
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京都市上京区・北野天満宮 直江兼続が屋根修理に天皇の倍額を寄付

2009年10月25日 | Weblog
 安土桃山から江戸初期にかけての武将直江兼続(1560~1619)が、菅原道真を祭った北野天満宮の屋根修理費として、記載された人の中では最高額で、天皇の寄付額の倍に当たる米100石を寄付したことを示す古文書が同天満宮に残っていたことが24日、分かった。
 古文書は北野天満宮が所蔵する天正16年(1588)の「北野檜皮葺奉加帳」で、修理費用を負担した人の名前と金額が筆書きされ、最初のページには身分の高い7人が掲載されていた。
 6人目に直江兼続を示す「越後 直江山城守殿」と書かれ、寄付額は「米百石」だった。 兼続は、故郷の越後国の一部が室町時代に北野天満宮の領地だったため寄付したとも考えられるという。
 当時の換算では約20両で、黄金2枚分に相当。同じページには「位御所様 黄金壱枚」などの記載もあり、後陽成天皇(1571-1617)と、正親町天皇だった正親町院(おおぎまちいん、1517-1593)がそれぞれ黄金1枚を寄進したことを示している。
 また豊臣秀吉の妻ねねは「黄金壱枚 政所殿様」とあり、後陽成天皇や正親町院と同額だった。ねねの次の行には「黄金弐枚 密々」と記され、秀吉の名前を伏せて、黄金2枚の寄付額だけを記載した可能性があるという。
[参考:共同通信]

過去のニュース
 奈良市・春日大社 直江兼続が釣り燈籠を奉納
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薩摩川内市・天辰寺前遺跡 イモガイ製腕輪をした女性の人骨が出土

2009年10月24日 | Weblog
 市教委は23日、同市天辰町の天辰寺前(あまたつてらまえ)遺跡で、貝製腕輪をした女性の人骨1体と銅鏡など副葬品が出土したと発表した。出土した場所は、1600年前の古墳時代の円墳(直径約28m、高さ約3m)とみられ、昨年7月発見され今年8月から頂上部分にある深さ約1・5mの石室内部を調査した。腕輪をした人骨が出土したのは県内初という。
 出土した人骨は頭と腕、ろっ骨など。イモガイという貝で出来た腕輪が左腕に13個、右腕に1個あった。骨格が華奢で、歯の成長状態から20歳代の女性とみられ、この付近の支配者であったと推定される。
 副葬品として、国内製の銅鏡(直径10cm、重さ148g)と刀子(とうす、長さ10cm、重さ19g)1個が出土した。
 現地説明会が25日に開催される。
[参考:毎日新聞]
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