平成20年度に校庭が芝生化されました。 (写真は、2010年11月撮影)
新宿歴史博物館で開催されている「新宿区立小学校―受け継がれた学び舎の宝―」(2月18日~4月15日)を見てきました。
残念ながら、思っていたような内容と出展数、図録ではなかったです。
私は、四谷第六小学校の卒業生。 もっと、たくさんの内容と写真があるかと思っていましたが、予想以上に少なかったです。
図録も、校歌が1番までしかないのでは尻切れトンボ。 校歌は3番まであります。 四谷第六小学校のホームペジにきちんと載っていますので割愛します。 私の持っている約50年前の卒業文集と漢字の部分もまったく同じです。(ただし、元は漢字の部分がたくさんあったようです。)
校歌の作詞は関房司氏、作曲は長谷山峻彦氏です。 長谷山峻彦氏は、第4代校長。また初代新宿区立西戸山小学校初代校長で、同校校歌の作曲もしているようです。音楽家かつ教育者です。 関氏は5代目校長。教育者で、「小学校 道徳指導の計画と展開」(1958)、「新そろばん物語」(1947)の著書があります。
さて、四谷第六小学校のお宝が1点飾られていました。 状態はあまりよくありませんが、第29代内閣総理大臣を務めた犬養毅(1855-1932)の扁額で「業精干勤」(注1)と記されていました。 いつ頃、どのような形で四谷第六小学校に収蔵されたかは説明がありませんでした。
(注1) 唐の韓愈の『韓昌黎文集』《進學解》より「業精干勤荒干嬉 行成干思毀干隋」の一部。
(訳)学業は、努力すれば精しく、遊び楽しめば荒(すさ)む。 行ないは、思慮すれば成り、気ままにすれば失敗をする。
(原文)
唐・韓愈(768-824) 『韓昌黎文集』 第十一巻 《進學解》
國子先生。(略)誨之曰。
業精于勤、荒于嬉。行成于思、毁于随。方今聖賢相逢、治具畢張、拔去兇邪、登崇良。占小善者率以録、名一安藝者無不庸。爬羅剔抉、刮垢磨光。盖有幸而獲選、孰云多而不掲。諸生業患不能精、無患有司之不明。行患不能成、無患有司之不公。(略)
犬養毅の邸宅が、同じ学区内(新宿区南元町)にあったようだ。現在、上智大学明泉寮となっている。
2018.8.5追記
阿川佐和子さんは後輩であった
土曜日の「サワコの朝」は好きな番組で、録画をしておいて後から見ている。
最近、阿川佐和子(1953-)さんが四谷第六小学校の同窓生(後輩)であることがわかった。 彼女は5才下だから、私が小学校6年生の時は1年生。 しかし4年生の時(1966)に中野区鷺宮(注1)から転校してきたというから、同時期に通うことはなかったようだ。 鷺宮時代は中野区白鷺1丁目の団地に住んでいたという。「めぐみ幼稚園」(阿佐ヶ谷北)、若宮小学校(白鷺)に通っていたようだ。
同じ鷺宮に住んでいた小泉八雲の三男坊・清(1900-1962、画家)が自殺した年は、同じ町に住んでいたことになる。 私も、平成12年から平成22年まで、鷺宮に住んだ。
2018.9.20追記
<四谷第六小学校沿革 (一部、西戸山小学校に関する沿革を併記)>
大正15年4月1日 「東京市四谷第六尋常小学校」として開校
昭和22年4月1日 「四谷第六小学校」と改称、第4代校長 長谷山峻彦氏就任
昭和25年5月 校歌制定
昭和26年8月 西戸山小学校 初代校長 長谷山峻彦氏が就任
昭和26年8月 第5代校長 関房司氏就任(~昭和32年3月)
昭和26年9月 「四谷第六青空保育園」を併設 初代園長 関房司氏が兼任
昭和27年2月17日 西戸山小学校校歌制定(作詞・校歌作成委員会、作曲・長谷山峻彦氏)
昭和32年4月 西戸山小学校 第2代校長 関房司が就任
昭和32年4月 第6代校長 本木栄一氏就任
昭和33年4月 第7代校長 樋口賢氏就任
昭和36年4月 「新宿区立四谷第六幼稚園」開園 初代園長 樋口賢氏
私は、"よつろく"の校歌を作詞した関房司の孫にあたるものです。
祖父は四谷第六と西戸山の校長を歴任しまして、その名残で私も幼少期は新宿区柏木に住んでおりました。
今だに祖父の残した校歌が歌われていると言うのは大変感慨深い思いがあります。
作曲された長谷山先生も、よく家に遊びにいらしていたので、存じ上げております。
祖父は1993年に91歳で他界いたしましたが、よつろく時代の話をよく聞かされたことを覚えております。
久しぶりに祖父を思い起こさせて頂いた事を大変嬉しく思います。
不躾なコメント、大変失礼致しました。
今後の益々のご健勝を祈念致しております。
コメントをありがとうございます。
再度、調べてみましたら、私も関校長(園長)時代に四谷第六小学校および同青空保育園に在籍しています。
昭和28年5月、保育園時の遠足の写真が残っていました。多分、関園長が右横に写っています。(この時は眼鏡なし)。 小学校校長時代は眼鏡をかけておられました。