歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

宮城県松島町・瑞巌寺 本堂下の発掘調査で、江戸初期の創建当時、三和士は切石を並べた石敷き

2011年08月31日 | Weblog
 松島町教委は30日、瑞巌寺本堂(国宝)の「平成の大修理」(平成20~30年の予定)に伴い、本堂下の発掘調査現場を報道陣に公開した。
 これまでの調査で、本堂軒下の三和土(たたき)部分は1609年の創建当時、切石(きりいし)を並べた石敷きだったことが判明した。 石敷きは、本堂正面である東側を除く西南北三方で確認した。 軒下に、方形に加工された縦80cm、横30cm、厚さ15cmの切石が丁寧に敷き詰められていた。 西側の三和土は、1650年の屋根の葺き替えで生じたとみられる瓦片が、切石の下に敷き詰められていた。 軒下は明治の大修理(1900~03年)で埋められており、創建当時の様子が分かったのは今回が初めて。
 基礎部分から、建築時に足場を組んだ足場穴が確認され、柱と柱の間に等間隔に掘られているのが多数見つかった。
 本堂の柱の礎石を据えた土中から、中世の供養塔である板碑(いたび)や五輪塔の一部が出土した。中世の石塔類が江戸時代の創建時に倒され、建物の基礎用に埋められたとみられる。
 このほか、調査で部分的に掘り下げた場所からは、瑞巌寺建立以前の鎌倉時代に建っていた円福寺のものとみられる切石も見つかった。
 発掘調査は10月末に終了する。
 町教委は10月1、2の両日、現地説明会を行う。受け付けは往復はがきによる申し込みで先着順。
[参考:河北新報、毎日新聞、松島町HP]

瑞巌寺
臨済宗妙心寺派 松島青龍山瑞巌円福禅寺
創建は天長5年(828)、開基・淳和天皇、開山・円仁と伝わる。
創建当初は、天台宗延福寺。
臨済宗円福寺、臨済宗瑞巌寺と改宗および寺名の変更がある。
慶長14年(1609)に伊達政宗が円福寺を復興し、瑞巌寺に名前を改めた。
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糸満市・摩文仁ハンタ原遺跡 縄文人の高身長(169cmと164cm)の人骨2体を確認 

2011年08月31日 | Weblog
 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム(下関市)松下孝幸名誉館長(形質人類学)の調査で、糸満市の摩文仁(まぶに)ハンタ原遺跡で見つかった縄文時代後期(約4千~3千年前)の人骨85体分の中から、国内最大級となる成人男性右前腕部の尺骨(最大約28cm、中央回り約6cm)1体分が含まれていたことが分かった。
この1体は尺骨から身長約169cmと推定され、当時の男性平均身長158cmと比べ、かなりの高身長となる。
 今回のような大きな尺骨の縄文人骨の発見例は国内でほとんど例がない。
 推定身長約164cmの別の成人男性の尺骨も出土。 高身長はこの2体。 85体の内訳は、成人男性は32体、成人女性は31体、幼児6体、小児9体、不明7体だった。
 摩文仁ハンタ原遺跡では、同ミュージアムと糸満市教委が合同で2007年7月から10年7月まで発掘調査を実施した。
 今回の発見事例も含めた摩文仁ハンタ原遺跡の調査結果は、9月3日に海峡メッセ下関(下関市)で開かれる第17回土井ヶ浜シンポジウムで報告される。
[参考:琉球新聞、毎日新聞]

過去のニュース・情報
 2009.6.25 摩文仁ハンタ原遺跡 縄文後期の人骨27体、貝製品など232点が出土

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橿原市・菖蒲池古墳 墳丘の東西幅が判明、東側から空堀も見つかる

2011年08月31日 | Weblog
 橿原市教委が30日、橿原市にある方墳、菖蒲池古墳(7世紀半ば頃)で、墳丘東側の裾に置かれた石(基底石)や堀の跡が見つかったと発表した。過去の調査では西側の基底石も確認されており、墳丘の東西幅が30・6mに及ぶことが判明した。
 今回は墳丘の南東角付近を調査。見つかった基底石は4個で、長さは最大76センチ。
 墳丘東側では底に10cm大の石が敷かれた南北5.4m分の空堀を確認。底面幅が南側で4.3m、北側で3.5mだった。市教委は「正面である南側から見たとき、遠近感で奥行きを感じさせる効果を意識した可能性もある」としている。
 現地説明会は9月3日(土)午前9時半~11時半に開かれる。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞]

2011.9.2追記
 橿原市教委は、3日に予定していた現地説明会を、台風12号の影響で中止すると発表した。
[参考:毎日新聞、橿原市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.26菖蒲池古墳 2段構造の方墳と判明
 2010.3.30菖蒲池古墳 墳丘本体を初めて発掘調査、墳丘裾で石列が出土
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湖西市・神座古墳群 5号墳の周りの溝から6世紀の須恵器片が出土

2011年08月30日 | Weblog
 駒沢大文学部考古学研究室は29日、湖西市神座(かんざ)の神座古墳群で進めていた発掘調査で、5号墳の周りの溝から6世紀に作られたとみられる須恵器の破片などが出土したと発表した。 これまで7世紀ごろと推定されていた同古墳群の築造時期が遡る可能性がある。
 4号墳では、長さ3.3m、幅1.1mの石室を確認した。4、5号墳ともに直径10~15mの円墳とみられる。
 現地説明会が31日午前10時から開かれる。
[参考:中日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.8.17 神座古墳群 駒澤大による発掘調査
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雲南市・粟目I遺跡 7~8世紀の製鉄炉跡を発見

2011年08月29日 | Weblog
 島根県教委は29日、雲南市吉田町吉田の粟目(あわめ)I遺跡で、7~8世紀の製鉄炉の地下構造を発見したと発表した。
 幅約90㎝、長さ約230㎝で、地下構造中央付近には落ち込んだと見られる炉壁や鉄滓が見つかった。
 雲南、奥出雲地区での古代以前の製鉄炉の発見は掛合町羽森第3遺跡((6世紀後半~7世紀)がある。
 江戸時代に最盛期を迎えた「たたら製鉄」の原初的な構造を解明する上で貴重という。
 「出雲国風土記」(733年)飯石郡の条に「鉄あり」の記述(注1)があり、これを裏付ける発見。
 また、同時に発掘調査を行っている粟目Ⅱ遺跡では、弥生時代後期~古墳時代後期の一辺3mの平面が四角形の住居跡が確認され、ほかにも竪穴住居の存在がみられることがあることから集落跡があったとみられる。
 現地説明会が、9月3日(土) 10:00~12:00に開かれる。
[参考:山陰中央新報、中国新聞、島根県埋蔵文化財調査センターHP]

(注1)
 粟目I遺跡は旧飯石郡内にあり、出雲国風土記の飯石郡条、(四) 山野・河川 に、
  飯石の小川。源は郡家の正東一十二里なる佐久礼山より出で、北へ流れて三屋川に入る。鉄有り。
とあり、「鉄」は砂鉄であり、「たたら製鉄」のルーツとみているとしている。

過去の関連ニュース・情報
 2008.7.12 出雲・たたら製鉄遺跡 室町時代の製鉄炉遺構発見

追記 2011.9.3
9月3日(土)の現地説明会は、台風により中止と発表されました。

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韓国江原襄陽郡・鰲山里遺跡 隆起文土器 21年ぶりの帰郷

2011年08月29日 | Weblog
 襄陽郡は26日、これまでソウル大学校博物館と国立中央博物館が保管した隆起文土器(덧무늬 토기)2点を鰲山里先史遺跡博物館(오산리선사유적박물관、2007.7開館)に移して展示を始めたと発表した。 21年ぶりの帰郷。
 1990年ソウル大博物館調査団によって鰲山里遺跡(オサンニ遺跡、오산리 유적)で発見された新石器時代の遺物の隆起文土器は、壺形で表面には三角集線文が鮮明に描かれていて、底には木の葉跡が残る完全な姿で、特異な姿をしている。
[参考:聨合ニュース]

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香南市・庭ケ渕遺跡 縄文から弥生への移行期の住居跡と他地域と交流を示す土器(九州、北陸産)が出土

2011年08月28日 | Weblog
 香南市文化財センターは26日、同市香我美町上分の香宗川支流の山南川そばの段丘で、縄文時代から弥生時代への移行期(約3200年~2500年前)の住居跡とみられる遺跡や約8000点に及ぶ土器片や石器などを発見したと発表した。庭ケ渕遺跡(にわがふちいせき)と名付けられた。
 今年7月から本格的に調べ始めた。約8千点の土器片や石器などが見つかっている。
 縄文時代晩期後半の遺物とされる「孔列文(こうれつもん)土器」2点が見つかった。県内では3例目の出土。ほかに弥生時代前期の「遠賀川式土器」も出土した。 ともに、九州で多く出土する。
 また、北陸地方の「長竹式土器」と西日本各地で出土する「刻目突帯文(きざみめとったいもん)土器」発見され、他地域と交流があったことがうかがえる。
 一般向けの現地説明会が、28日(日)午前10時半~同11時半に開かれる。
[参考:読売新聞、朝日新聞]

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福井県若狭町・ユリ遺跡 4500~3500年前の住居跡が見つかる

2011年08月27日 | Weblog
 若狭町の若狭三方縄文博物館は26日、縄文時代の丸木舟9隻が出土しているユリ遺跡(同町鳥浜)で、縄文時代中期から後期(4,500~3,500年前)の住居跡が発見されたと発表した。 住居跡は丸木舟の発掘地点から約20m北側に位置する。
 住居跡は、直径6mの円形の平地住居とみられ、柱の跡が8個あり、中央付近には炉の跡とみられる直径約1mのくぼみがあった。 そばに別の住居の柱跡も見つかっており、複数の住居があった可能性がある。
 住居跡は丸木舟の発掘地点から約20m北側に位置し、漁網の重りとして使用する石錘(せきすい)や矢尻、木の実をすりつぶす石器も複数出土した。
一般向け現地説明会が9月3日(土)午前10時から開かれる。
[参考:福井新聞、中日新聞]

2011.9.3追記
「ユリ遺跡発掘調査現地説明会」延期について
 9月3日(土)の現地説明会は、台風12号の接近が予想されるため、9月10日に延期された。 集合場所■若狭三方縄文博物館
[参考:若狭三方縄文博物館HP]

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日田市・永山城跡 初の本格調査で本丸御殿跡から礎石や虎口の石垣などが見つかる

2011年08月27日 | Weblog
 日田市丸山2丁目の月隈山・月隈公園にある江戸時代初頭の永山城跡の本丸御殿跡から、等間隔で並ぶ礎石や虎口の石垣、搦手(からめて)門の隅石、櫓門(大手門)の石垣などが発見された。
 永山城は豊臣家大名の小川壱岐守光氏(みつうじ、?-1610)が関ケ原の戦い翌年の慶長6年(1601)から3年かけて築いた平山城。当時の名称は丸山城。元和2年(161)年に石川忠総が美濃大垣城から移封され、永山城に改称した。寛永16年(1639)、城下町に永山布政所(日田陣屋、日田代官所)が置かれ、廃城になった。
 市教委から委託を受けた別府大が調査した結果、山頂部(約1000㎡)から本丸御殿の遺構を見つけ、当時の規格6尺5寸(195cm)間隔で並ぶ礎石の一部5基(各直径30cm)を含む計10基を発見した。 北隅の土坑(ごみ捨て場)から茶器の菓子皿とみられる古唐津片や備前焼のすり鉢、中国製の壺が出土した。 古唐津は16世紀末から17世紀初頭に焼かれ、築城年代と合致する。
 櫓門北側から延べ23mの石垣跡が確認され、一部残存する石垣と合わせ、本丸を1周していたようだ。
 現地説明会が28日(日)午前10時~正午に開かれる。 集合場所は城跡近くの月隈神社前。
[参考:大分合同新聞、西日本新聞、毎日新聞、NHK]

備考
小川光氏
 戦国武将小川祐忠の子と云われる。
 小川氏は宇多源氏佐々木義秀あるいは藤原系下河辺氏の末裔といわれ、近江国神埼郡小川村に住んで小川と名乗った。
 応仁の乱(1467-77)後、江南の佐々木六角氏が江北の京極氏と対立し、六角氏の重臣であった小川左近太夫を佐和山城主として置いたのが、小川氏の歴史初登場である。 主君を六角氏、織田信長、明智光秀、柴田勝豊、豊臣秀吉と変えていき、関が原の戦いでは、最初西軍に属していたが、後に東軍に寝返るなどして戦国時代を送った。 戦後、東軍につきながら通款(内通)を明らかにしなかったとの理由により改易となった。
 祐忠の娘が一柳直高の正室であったことから、一柳氏の奔走もあり、嗣子・光氏が豊後国日田において二万石を与えられ大名に復活したとされる。

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南あわじ市・里丸山古墳群 古墳時代後期の古墳9基を新たに確認

2011年08月26日 | Weblog
 南あわじ市教委は25日、湊地区を見渡す丘陵地に位置する里丸山古墳群(さとまるやまこふんぐん、同市湊里)から古墳時代後期(6世紀末~7世紀後半)の横穴式石室などを持つ古墳9基を新たに確認したと発表した。昨年度の発掘調査で古墳2基(1、2号墳)が見つかっており、計11基が確認された。
 
 9基の古墳の規模は直径4、5m~11m。 古墳の形状は、開墾などで地表部が削られており、3号墳(直径6mの円墳)以外、判別できなかった。
 時代が最も新しいのは6号墳で、この古墳だけ竪穴式石室(幅50~60cm、長さ90~95cm)が2つ残っていた。 被葬者の遺骨だけを埋葬した可能性が高いという。 他の8基は石を積み上げて「コの字形」の壁をつくる横穴式石室だった。
 中でも、最大の7号墳(直径11m)は長さ3・5m、幅1・2mの横穴式石室を持ち、唯一、床面に石が敷き詰められていた。石室から銅製の耳環やガラス玉、鉄器、須恵器などの副葬品が出土した。土器の形状から6世紀末に築造した後、7世紀中ごろと同後半に追葬したとみられる。
現地説明会が27日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:毎日新聞、朝日新聞、読売新聞]
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福井県越前町・劔神社 神宮寺があった領域で参道の遺構が見つかる

2011年08月25日 | Weblog
 越前町教育委員会は24日、同町織田の劔(つるぎ)神社境内で二度目の発掘調査をした結果、社務所南西の2.3mの地点、神宮寺「劔御子寺」があったとみられる領域内で、奈良時代ごろの参道とみられる遺構が見つかったと発表した。 神宮寺成立初期の中心的な参道だった可能性が高いという。
 遺構は道幅3.9m、深さ0.3mの平皿状で、両端が二段テラス状に整えられていた。
 遺構を覆う地層からは9世紀頃の須恵器なども出土した。 奈良後期-平安初期に整地したとみられる跡があった。 地層の形状から、町教委は770年に天皇から梵鐘(国宝)が奉納された際に整地された可能性があるとみている。
[参考:中日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.6.8 真言宗法楽寺 織田信長の祖先にあたる津田親真?を示す「親眞」の銘が入った石造が見つかる
 2010.9.4 劔神社 神仏習合の源流か 境内を分割する水路と神宮寺が770年に存在したことを裏付け
 2010.7.15劔神社 神宮寺遺構の発掘調査を開始
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金海市・大成洞古墳群 第6次発掘現場を一般市民に公開

2011年08月25日 | Weblog
 慶南・金海市大成洞古墳博物館(대성동고분박물관)は23日、金海大成洞古墳群(대성동고분군、史跡 第341号)の第6次発掘現場を一般市民に公開すると発表した。
 現在、伽耶時代の石槨墓1基をはじめとして木槨墓、甕棺墓など10余基の墓が確認されている。
 毎週水・金曜日、午前10時と午後3時の2回にかけて30分間発掘現場を説明する予定。
 伽耶史(가야사)研究の底辺を拡大して埋蔵文化財に関する理解を高める目的。
[参考:聯合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2011.4.14 大成洞68号墳 100年を遡る4世紀中葉の銀製品(鞍金具用銀製環2点)が出土
 2009.11.12 大成洞古墳群 4世紀後半の伽耶時代箭筒が出土
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御所市・秋津遺跡 4世紀前半の独立棟持柱を持つ掘立柱建物跡を確認

2011年08月24日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が23日、長大な塀で囲われた4世紀前半の方形区画群が見つかった御所市の秋津遺跡で、方形区画群の南側で同時期の竪穴住居跡が20棟、方形区画内からやはり同時期の掘立柱建物跡8棟が出土したと発表した。
 新たに見つかった竪穴住居跡は最大で約80㎡あり、数回の建て替えが行われ50~100年存続したとみられる。
 方形区画内の掘立柱建物跡のうち8棟が、屋根を支える柱を別に持つ「独立棟持(むなもち)柱」を持つことがわかった。長方形で30㎡ほどのものが多いが、最大のものは70㎡を超えるという。 祭祀施設あるいは倉庫の可能性がある。
 竪穴住居跡と方形区画群の間には幅2mの溝があり、居住と祭儀の空間が機能的かつ明確に分けられていたとしている。
 現地説明会は27日(土)午前10時~午後3時に行われる。
[参考:共同通信、産経新聞、日経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.27 秋津遺跡 塀の部材? 先端が尖った杭が出土
 2010.11.24 秋津遺跡 4世紀前半最大級の施設群が見つかる
 2010.1.20 秋津遺跡 4世紀前半の巨大祭祀施設の塀跡が出土
 2011.7.13 秋津遺跡 縄文時代晩期後半の翡翠の管玉が出土
 2011.5.24 秋津遺跡 縄文時代のノコギリクワガタがほぼ完全な形で出土


キーワード: 独立棟持柱
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京都市・松尾大社の摂社・末社から平安・鎌倉期の神像17体発見 1体に「康治二年」「(秦)頼親」の文字

2011年08月23日 | Weblog
 京都市西京区の松尾大社は23日、同神社周辺の摂社、末社にまつられていた平安時代後期から鎌倉時代の神像17体(いずれも高さ約30cm~50cmの木像)が発見されたと発表した。
 男神像、女神像のほか僧形像などがあった。 櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ、西京区)に祀られていた女神像1体の底には、墨書で制作年とみられる康治二年(1143)の文字があり、当時の松尾大社神主だった「秦頼親(はたよりちか)」の名も記されていた。
 大宝元年(701)創建の松尾大社には、一木彫りでは国内最古級とされる平安時代前期の神像3体(重要文化財)がある。
[参考:京都新聞、共同通信、産経新聞]

備考
A. 櫟谷宗像神社
 櫟谷神社(祭神:奥津島姫命)、宗像神社(祭神:市杵島姫命)とも、往時は嵐山にそれぞれに独立した社殿があった。 櫟谷神社は『延喜式』神名帳に『松尾末社』と注を付される由緒ある式内社である。 奈良時代大宝年間(701-704)から鎮座されているという。
古文献に、
『続日本後記』 嘉祥元年(848)11月 「奉授山城國無位櫟谷神從五位下」
『三代実録』 貞観十年(868)閏12月10日 「授山城國從五位下櫟谷神正五位下」
『三代実録』 貞観十二年(870)11月17日 戸近於葛野鑄錢所宗像。櫟谷。清水。堰。小社五神。奉鑄錢所新鑄錢。
『百錬抄』 仁治二年(1241))8月7日 櫟谷宗形両社焼亡。
と記されている。

B. 松尾社一切経
 本門法華宗大本山妙蓮寺(京都市上京区)には、平安時代後期に松尾大社で書写された3500巻余りの『松尾社一切経』が所蔵されている。 松尾大社の神主であった秦親任・頼親父子等発願により、永久3年(1115)から康治2年(1138)にかけて書写されたものである。

2011.12.1追記
 京都市西京区の松尾大社で、平安時代後期から鎌倉時代にかけて制作された神像全18体(男神8体、女神7体をはじめ、僧をかたどった像など)を展示する「秋の特別展」が開かれている。4日まで。[参考:産経新聞]
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山形県大石田町・駒籠楯跡 水駅「野後駅」の可能性がさらに高まる、1辺1mの柱穴の大型建物跡を確認

2011年08月23日 | Weblog
 平安時代の伝令制度で、最上川を利用した水駅(すいえき)「野後(のじり)駅」の跡と推測されている大石田町の「駒籠楯跡」で21日、発掘調査説明会が開かれた。(地元住民ら約50人が参加。)
 駒籠楯跡は中世の城館跡として知られ、1998年に大石田町教委が平安時代の遺構を発見。都からの使者の中継地で、馬と船が置かれた川の「水駅」(船が停泊する水路の宿場)の可能性が指摘された。県教委は2007年度から調査を実施し、これまで竪穴建物跡や掘っ立て柱建物跡、塀跡など多くの遺構を確認し、「野後駅」である公算が大きいとされてきた。
 本年度の調査(8月31日まで)は今月8日から遺跡の西側で行い、6カ所すべてで新たに柱跡や溝跡などが見つかった。中でも、南側に庇を持つと思われる大型の建物跡を確認した。柱間約2m、柱穴は1辺が約1mであることから、これまで発見された建物の中で一番大きく、格調も高い、施設の中心的な建物があったと考えられるという。 このことから、遺跡が「野後駅」跡である可能性がさらに高くなったと報告された。
[参考:山形新聞]

過去の関連ニュース・情報
2008.2.25 山形県大石田町駒籠の遺跡平安時代の水駅「野後駅」か
 掘立柱建物跡2基(8世紀)、掘立柱建物跡と思われる複数の遺構(9世紀)、竪穴住居跡2基、土器片が約90点出土。
[参考:山形新聞]

備考
延喜式によると、
出羽国駅馬 最上十五疋。 村山。野後各十疋。 避翼十二疋。 佐芸四疋。船十隻。 遊佐十疋。 蚶方。由理各十二疋。 白谷七疋。 飽海。秋田各十疋。 伝馬 最上五疋。 野後三疋。船五隻。 由理六疋。 避翼一疋。船六隻。 白谷三疋。船五隻。
と記され、出羽国には船を持つ駅が佐芸(さけ)、野後(のじり)、避翼(さばね、あるいは、さるはね)、白谷(しらや)の4駅あり、野後駅には船5隻があったとしている。

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