歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

春日局の手紙、西本願寺13世宗主・良如宛てを発見

2012年11月30日 | Weblog
 浄土真宗本願寺派の本願寺史料研究所(京都市)が30日、徳川家光の乳母・春日局(1579-1643)が部下を思いやる一面が分かる手紙が見つかったと発表した。
 手紙は1640年、春日局が西本願寺13世宗主の良如(1613-1662)に宛てた直筆(縦約36cm、横約54cm)。
[参加:共同通信、時事通信]

春日局の手紙、発見=奉公人気遣う―京都(時事通信) - goo ニュース
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島根県隠岐の島町・隠岐国分寺 金堂跡の柱跡か?

2012年11月30日 | Weblog
 隠岐の島町教育委員会が29日、同町池田の隠岐国分寺境内跡地で出土し塀跡とみられていた柱穴が、その後見つかった柱穴の配置から本尊を安置する金堂跡の可能性があると発表した。
 国分寺は、聖武天皇が741年に出した命令で全国に建てられた官営寺院で、明治期には廃仏毀釈で本堂などが壊され、1950年に再建されたが2007年2月に本堂が火災で焼失した。 そのため、再建に向けて09年9月から跡地を調査していた。
 現地説明会は12月1日午前10~11時に開かれる。(小雨決行)
[参考:朝日新聞、読売新聞]
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明日香村・飛鳥京跡苑池 石組みの地下水路が初めて見つかる

2012年11月29日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所は29日、国史跡・名勝「飛鳥京跡苑池」(7世紀、明日香村岡)の南北2つの池のうち、99年までに南池で見つかっていた噴水装置とみられる一連の石造物について、石造物につながる石組みの地下水路を初めて発見したと発表した。
 地下水路は、南池の南岸付近に約2.5mあった。側面や底面には約30〜40cmの石を使い、長さ約1mの石二つで蓋をされ、土で覆われていたとみられる。
 現地説明会は12月8日午前10時〜午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、毎日新聞]
 
過去の関連ニュース・情報
 飛鳥京苑池
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京都市中京区・平安京右京三条一坊六町跡(藤原良相邸跡) 9世紀後半の墨書土器に平仮名

2012年11月29日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が28日、平安時代の貴族藤原良相(ふじわらのよしみ、813~867年)の邸宅跡で、昨年の調査で池から出土した9世紀後半の墨書土器約90点のうち平仮名が書かれていたもの約20点が見つかったと発表した。 万葉仮名から平仮名への移行を知る上で、貴重な発見。
 最も破片が大きかった土師器皿(直径13.5cm)の底部には、「け乃」など、全面に平仮名などが書かれていた。 「かつらきへ」(葛城へ)など和歌とみられる平仮名が書かれているのも見つかった。 また、9世紀前半の井戸跡で、檜扇(ひおうぎ)と木簡を発見し、それぞれ万葉仮名で「奈尓波(難波津)」などと記されていた。
 出土品は30日~12月16日に京都市考古資料館で展示される。
[参考:時事通信、共同通信、日経新聞、京都新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
2011.12.09 京都市中京区・平安京右京三条一坊六町跡 墨書土器が出土し、右大臣・藤原良相の邸宅跡「百花亭」と判明
 佛教大と京都市埋蔵文化財研究所は(2011.12月)8日、平安京右京三条一坊六町に当たる場所(中京区西ノ京星池町17番地59他)の発掘現場で「三条院釣殿高坏(つりどのたかつき)」と墨書された土器が見つかり、平安前期の右大臣・藤原良相(よしみ、813-867)の邸宅「西三条第(百花亭)」跡と確定したと発表した。
2011.5.27 京都市中京区・平安京右京三条一坊六町跡 「百花亭」建物跡?が出土

平安京右京三条一坊六町跡
 9世紀後半の平仮名が記された墨書土器が多数見つかった遺跡場所は、「平安京右京三条一坊六町跡」と命名されていた。
 佛教大学二条西キャンパス建設予定地として、昨年2011年4月に調査が開始された。 同遺跡の北東部にあたる第3調査区の調査で平安時代後期(9世紀)の池跡と建物跡3棟が検出された。 池跡の規模は東西18m、南北28m、深さ0.8mで中心に中島があり長細い土手状の高まりが南岸に接している。 西岸池底から、9世紀後半に属する土器、陶器、土製品、石製品、木製品、金属製品、銭貨などが大量に出土し、その量は整理箱約200箱という。 墨書土器が出土しており、土師器高杯に「三条院釣殿高杯」、別の物に「政所」と記したものがあった。 今回の平仮名の墨書土器もこの時に見つかった。
 この地は、『拾芥抄』西京図に「西三条」とあり、右大臣藤原良相邸(「西三条第」、通称「百花亭」)と推定されてきたが、出土遺物、遺構よりそれが確認された。藤原良相邸には実姉の皇太后順子(のぶこ、第54代仁明天皇の皇后、文徳天皇の母)が貞観元年(859)から約1年間にわたって滞在した。
 藤原良相は貞観8年(866)に起きた「応天紋の変」以降は衰退し、翌年に亡くなった。
 その後の、当地の消息は伝わっていないが、嘉保二年(1095)に散位従四位下大江公仲(おおえのきんなか)が藤原資俊(すけとし)宅への放火・殺害容疑で配流の際の残した財産処分状に、西三條地壱町在右京三条一坊六町、建三間四面屋一宇(平安遺文第1338号)と記されている。
[参考:(財)京都市埋蔵文化財研究所HP、現地説明会資料ほか]

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堺市・ニサンザイ古墳 墳丘を巡る円筒埴輪や葺石が見つかる 全長は300mを超える

2012年11月28日 | Weblog
 宮内庁と堺市が27日、百舌鳥古墳群の前方後円墳であり陵墓参考地に指定されている堺市北区のニサンザイ古墳(5世紀後半)で、巨大な墳丘を巡る円筒埴輪や葺石などが、築造当初を思わせる良好な状態で見つかり、また、墳丘の全長がこれまでの見方より約10m長い300m以上あることが分かったと発表した。
 宮内庁と自治体の同時調査は、2008年の御廟山古墳(堺市)に次いで2例目で、同古墳の墳丘や裾を発掘するのは初めてである。
 発掘調査は、宮内庁が墳丘1段目、堺市が墳丘縁辺部で実施した。 墳丘斜面に施された葺石や円筒埴輪、須恵器などが出土した。 円筒埴輪は、墳丘1段目の平坦面に5~7本程度が築造当時の並んだ状態で見つかった。 墳丘脇に張り出したテラス状の祭祀場「造り出し」では、祭祀用とみられるミニチュア土器や形象埴輪も出土した。
 同古墳は天理市の渋谷向山古墳(景行天皇陵、全長300mの前方後円墳)に次ぐ全国8番目の大きさとされていたが、これを上回る可能性がある。
 埴輪などの分析から、5世紀後半の築造で、国内最大の仁徳天皇陵(堺市堺区、全長486m)の次に築造されたとみられる。
 大和王権の大王クラスの墓や葬送儀礼を考える手掛かりになりそうだ。
 12月1、2両日の午前9時~午後4時に一般公開される。 受付場所は御陵山公園。 一般公開では、宮内庁が管理する墳丘には立ち入れないが、ただし、宮内庁の協力により、一部、調査区を見学することができるとしている。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞、毎日新聞、堺市HP]

キーワード: 土師ニサンザイ古墳
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韓国・益山市王宮里遺跡 百済宮廷後苑の池・水路など発見

2012年11月27日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立扶余文化財研究所は26日、全北益山市史跡第408号王宮里遺跡北側の後苑空間を調査した結果、苑池とみられる水溜りをはじめとして環水溝、曲水路などを見つけたと発表した。
 幅3-4m規模の環水溝は後苑の中心部を取り囲んでいて、西側は池に連結され、池底一部では丸い砂利石と造景用怪石が見つかった。後苑の西側地域で発見された曲水は環水溝より小さく幅が50-60㎝程度。
 王宮里遺跡は百済武王(600-641)時期に造成された王宮城である。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
2010.11.28王宮里遺跡 百済宮廷後苑の水路と北門跡を確認
 王宮里5層石塔の北側丘陵地帯から、半楕円形状の水路に囲まれた後苑(南北約240m、東西71m)を確認。
2009.10.29王宮里遺跡 百済宮廷後苑を発見
 7世紀百済時代の宮城内後苑と曲水路、歩道・石垣施設および建物跡などを確認。
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全南高興郡・野幕古墳 古代日本の古墳と類似の形式を見せていることが判明

2012年11月26日 | 韓国の遺跡・古墳など
 全南道は26日、国立羅州文化財研究所が調査した文化財史料第218号(2001.09.27指定)「高興 野幕里 野幕古墳」(고흥 야막리 야막고분、全南高興郡豊陽面野墓里 461-4)は、古代日本の古墳と類似の形式を見せたことが分かったと発表した。
 野幕古墳は西南海岸一帯の古代沿岸航路で確認されている倭系石室を採用した古墳と同じ形態を見せ、墳丘表面に葺石を敷いていた。
 出土遺物は中国製青銅鏡(注1)、倭系鉄製甲冑(三角板革綴板甲(삼각판혁철판갑)、三角板革綴衝角付冑(삼각판혁철충각부주))、剣、大刀、矛、矢尻などの武器類と広口小壷、管玉と勾玉(注1)など装身具類を含み約150点に達する。
(注1) 青銅鏡は裏面に双頭龍文を配置し、その間に位至三公の文字を刻んだ「双頭龍文鏡(位至三公鏡)」で、3-4世紀中国魏末から西晉時代に落陽を中心に北方地域で主に製作されたと見られる。
 出土品から、築造時期は5世紀前半と見られる。
 27日に発掘現場で説明会が開催される。
[参考:聨合ニュース]

(注2)記事では、「環玉」と「曲玉」としている。



キーワード:고흥 야막 고분 현장 설명
コメント (2)
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奈良県広陵町・新木山古墳 朝顔形埴輪、蓋形埴輪、円筒埴輪の破片が大量に出土

2012年11月26日 | Weblog
 奈良県広陵町の新木山(にきやま)古墳(全長200mの前方後円墳、5世紀初め)で、築造途中に埋めたとみられる大量の埴輪片が出土していたことが25日、同庁書陵部への共同通信社の取材で分かった。
 同古墳は、大和王権を支えた有力者の墓とみられ、「三吉(みつよし)陵墓参考地」として宮内庁が管理している。
 2010年に書陵部が外柵工事に伴い墳丘外周を調査した時に、くびれ部の左右に張り出した「造り出し」の祭祀用土壇の片方から、朝顔形埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪、円筒埴輪の破片約130点が出土した。
 埴輪は本来、墳丘上や周囲に立て並べる葬送具で、土中から見つかるのは異例であり、用途は謎だ。
 3種の埴輪片はそれぞれ異なる深さに埋まっており、ここで3回の祭祀をした可能性があるという説が出ている。
[参考:共同通信、日経新聞、奈良新聞、前出]

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.12広陵町・新木山古墳(三吉陵墓参考地)を公開 襟付き短甲形埴輪片が出土



キーワード: 新木山古墳、蓋形埴輪
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岐阜市・織田信長公居館跡 戦国時代の日本庭園の池跡が見つかる

2012年11月22日 | Weblog
 岐阜市教委が16日、金華山の麓、岐阜公園で発掘中の織田信長公居館跡で、戦国時代の日本庭園の池跡が見つかったと発表した。
 池跡はロープウエー乗り場の南側、明治大帝像の移設跡地付近、地中50cmから掘り出された。南北7.5m、東西6.1m、深さ35cmの楕円形で、長良川の河原で採れる拳大の丸い石が池の底に敷き詰められていた。館の礎石とみられる直径30mの石二つが、池の隣に埋まっていた。
 ポルトガル人宣教師ルイス・フロイス(1532-97)は著作「日本史」で、永禄十二年(1569)に信長の館に招かれ、「きわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、(略)、幾つかには1パルモ(約20cm)の深さの池があり、その底には入念に選ばれた清らかな小石や目にも眩しい白砂があり、その中には泳いでいる各種の美しい魚が多数いた。」と記しており、この記述と一致する。
 発掘現場の一般公開と説明会が24日午前10時~正午に開かれる。
[参考:岐阜新聞、共同通信、読売新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 織田信長公居館跡
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羽曳野市・茶山遺跡 応神天皇陵の東側そば、誉田中学校校庭から大量の埴輪片が出土

2012年11月22日 | Weblog
茶山遺跡
 応神天皇陵(誉田御廟山古墳、全長425mの前方後円墳、5世紀前半築造)の東側そばの市立誉田中学校校庭(羽曳野市誉田6-5)で、市教委の発掘調査により古墳時代中期(5世紀前半)の水鳥や家、椅子、冠、馬、甲冑などを模った埴輪片、円筒埴輪など数百点に上り見つかった。円筒埴輪をモデルにした棺(長さ約1m、直径約50cm)や鉄斧なども出土した。
 室町時代(14世紀)頃に整地された土とともに出土したため、埴輪を立て並べた古墳があった可能性が高いという。
 現地見学会が23日(金)日午前10時~午後2時に開かれる。
[参考:産経新聞]

 羽曳野市HPを見ると、茶山遺跡(羽曳野市誉田6・7丁目)の一角となるようだ。
 古墳時代中期に古市古墳群の形成が始まり、埴輪を製作した職人集団(土師氏)が住んでいたと考えられている。
 12~16世紀にかけても、引き続き生活域であることが確認されている。 特に、14~16世紀には、園池状遺構や風炉、花入れ、輸入陶磁器なども見つかり、一般集落とは異なる様相を示し、これらは、文献史料に表れる誉田城(こんだじょう)と関わりのあるものと考えられているという。
 誉田城は誉田付近にあり、南北朝時代には河内の守護代の城であったとされ、応仁の乱(1467~1477)が起こった室町時代中期以後には、河内の守護、畠山氏の内部抗争の舞台として、高屋城(たかやじょう)とともに誉田城の名がしばしば登場する。
 今回、室町時代(14世紀)頃に整地されたことが確認されているので、古墳は南北朝初期の頃に破壊されたのかもしれない。楠木正行(?-1348)がここを戦場として争っている。

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松江市・東淵寺古墳 6世紀後半築造の出雲東部最大級の前方後円墳

2012年11月15日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは14日、松江市大庭町の東淵寺(とうえんじ)古墳が古墳時代後期の6世紀後半の有力首長の墓だった可能性が高いと発表した。
 平成23年度からの調査で、古墳の周囲に幅約5・5m、深さ1・3mの周溝が巡らされていたことが判明。周溝からは、円筒埴輪、出雲型子持壺と呼ばれる須恵器が多数出土し、古墳の築造年代を特定した。
 古墳は丘陵を削って下段を整形し、その上に削った土を盛って墳丘を造成させている。葺石は下段にはない。古墳周囲が建物や畑で削られているため、当時の正確な規模は不明だが、墳丘の裾がややカーブしていることから、全長約62mの前方後円墳の可能性が高いという。
 現地説明会は17日(土)午前10~11時に開かれる。集合場所は近くの大庭公民館。
[参考:山陰中央新報、産経新聞、読売新聞、島根県HP]

過去の関連ニュース・情報
 2012.7.27 松江市・魚見塚古墳 6世紀後半築造か 出雲型子持壺の破片が出土



キーワード: 東淵寺古墳
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福井市・一乗谷朝倉氏遺跡 出土した坩堝に金製錬裏付ける粒子確認

2012年11月14日 | Weblog
 福井県教委は13日、国特別史跡・一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)で出土した16世紀半ばの土器三点に、金を製錬した証拠が確認されたと発表した。金鉱石から製錬した跡は、甲斐武田氏に次ぐ確認例となる。
[参考:福井新聞、中日新聞、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、毎日新聞]
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京畿道高陽市・ミョクチョルサン遺跡 漢城百済時代4世紀頃の土城

2012年11月14日 | 韓国の遺跡・古墳など
 高陽市と中央文化財研究院は、漢江北岸ほとりにある高陽市一山西区大化洞(二山浦IC付近)の高陽ミョクチョルサン遺跡(고양 멱절산유적)1次発掘調査により、漢城百済時期の土城を立証する跡と遺構を確認したと発表した。
 発掘調査では土城の城壁一部や、住居跡、大型竪穴遺構ほか、漢城百済時代典型的な打捺文土器などを発見した。
 時期は4世紀頃程度、規模は城壁総周囲200m程度のソウル、オリンピック公園内夢村土城の縮小版と推測されている。
[参考:京仁日報、聨合ニュース]
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多賀城市・山王遺跡 古墳時代中期の豪族の居館跡を発掘

2012年11月11日 | Weblog
 宮城県教委は8日、多賀城市南宮の山王遺跡八幡地区で、古墳時代中期(5世紀)の豪族の居館跡を発掘したと発表した。
 居館跡を囲む幅約4mの堀跡と推定高さ3mの材木塀跡が南北約70mにわたって確認された。居館内では現在まで、住居や工房など28軒に上る建物跡が見つかっている。
[参考:朝日新聞、毎日新聞]

関連ニュース・情報
 多賀城市・山王遺跡
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福島市・高森古墳群 7世紀の大刀の装飾金具に銀象嵌

2012年11月09日 | Weblog
福島市・高森古墳群 7世紀の大刀の装飾金具に銀象嵌
 福島県立博物館は7日、福島市山口の高森古墳群から見つかった大刀の金具に、銀象嵌で文様が施されていたと発表した。 金具は7世紀の古墳時代後期に作られ、当時の中央政権が福島の豪族に贈ったとみられる。
 高森古墳群で昭和10年までに大刀が出土したが、その後の過程で刀身などが不明となり、現在は柄頭(つかがしら)と鍔(つば)しか残っていないという。(注1) この金具は現在、同館で所蔵している。
 特に柄頭の「変形亀甲繋文(へんけいきっこうつなぎもん)」は全国でも5例目(注2)の確認という珍しい模様という。
 展示は13日から来年3月3日まで会津若松市の県立博物館で公開される。 今月24日(土)午後1時半からは関連した講演会も開かれる。
[参考:福島民報、福島民友新聞]

(注1) =研究論考=福島県内出土古墳時代象嵌資料の研究復元制作 [4]福島県内出土の象嵌資料・森幸彦の中で、
 「高森古墳群は(略)小円墳群で6基が確認されている。 『福島市史第6巻』に「そのうち1基から出土した鉄製の円頭の柄頭及び鉄製鐔には銀の象嵌があった」という若干の記載がある。現在実物資料の所在は不明で、文様等詳細はわからない。」としているが、これが今回の柄頭と鍔(=鐔)とみられる。
(注2) 不明

過去の関連ニュース・情報
 象嵌
 大阪府河南町シシヨツカ古墳・銀象眼大刀柄頭
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