歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

滋賀県甲賀市・春日北遺跡 緑釉陶器窯が新たに4基見つかる 量産体制の証

2010年04月30日 | Weblog
 県文化財保護協会が29日、昨年に平安時代中期(10世紀後半)の緑釉陶器窯(春日北1号窯)が見つかった春日北遺跡(甲賀市水口町春日)で、新たに同じ時期の緑釉陶器窯4基が見つかったと発表した。
 当時、平安京で流通していた緑釉陶器は近江産がほとんどを占めていたとされ、量産体制ができていたことを示す発見という。
 4基は、先に発見された窯の南側に、東西方向に並ぶようにして造られていた。うち3基は、薪を燃やす燃焼室と陶器を焼いた焼成室に分かれ、その下に火を通す溝があり、既に見つかっている窯と同じ構造。東端の1基だけが2つの焚口を持っており、燃焼室の底に粘土を柱状に立て、その上に焼成室の床を張って陶器を炙り焼きしたとみられる。この構造は、京都府亀岡市の篠窯跡群のものと同じという。
 同遺跡では昨年、灰釉陶器窯と緑釉陶器窯を1基ずつ確認しており、最初の窯(春日北1号窯)の40m東では、愛知県尾張地方に多い灰釉陶器窯1基が県内で初めて見つかった。この窯が年代的には最も古い。一緒に出土した陶器などから、当初は東海地方や京都の影響を受けていたとみられるが、10世紀半ば以降の窯は近江独自の構造を備えており、6つの窯を10世紀前半~後半の60余年間にわたって順次、造り変えながら使っていたとみている。
 遺物は碗と皿がほとんどで、コンテナ100箱分あった。窯からも、形が歪んだり、途中で割れて出荷されなかったとみられる不良品の碗が出土した。
 現地説明会は5月1日午後1時半から開かれる。
[参考:京都新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009-09-19春日北遺跡 平安時代中期の緑釉陶器窯が出土
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姫路市・姫路城下町跡 江戸時代の町屋跡を初確認 地鎮に使われた銅銭の痕が残る礎石も発見

2010年04月29日 | Weblog
 姫路市埋蔵文化財センターは28日、姫路市元塩町の姫路城下町跡で江戸時代の町屋跡を初めて完全な形で確認したと発表した。調査地点は江戸時代の西国街道と中堀(現在の国道2号)に挟まれた地域で、古くから町場が形成された場所という。町屋の商売は不明だが、19世紀に調査地周辺を描いた絵図をみると、当地には商家が軒を連ねており、賑やかな場所であったことがわかり、当時の町屋の構造がわかる貴重な発見としている。
 町屋の範囲は調査区全域にまたがり、西国街道に面した間口は東西9m以上で、奥行き13mの建物には土間や生活空間があった。土間には商売に用いたらしい10カ所の甕跡もあった。建物裏には奥行き28mの敷地があったらしく、井戸やごみ穴、中堀への排水路が見つかった。また、鍛冶に用いたらしい製鉄くずや大量の灰も出土した。
 17世紀前半の礎石の中で1カ所、直径2.3cmの銅銭の形がはっきりと付いた礎石が見つかった。柱を立てる時に、工事の無事などを祈って礎石と木材の間に挟んだらしく、金属の錆で石に形がくっきり残っていた。付近には寛永通宝十数枚があったほか、金属片を置いたらしい礎石2個も見つかった。
 また、「塩町 かざりや」と朱書きされた伊万里焼の皿なども見つかった。
 現地説明会は、5月1日午後1時半から開かれる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、姫路市HP]

町屋跡、完全な形で発見…姫路・城下町遺跡(読売新聞) - goo ニュース
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奈良県田原本町・多遺跡 奈良時代の祭祀用とみられる銅鏡が出土

2010年04月29日 | Weblog
 田原本町教委が1~3月に実施した田原本町多(おお)の多遺跡の調査で、奈良時代のものとみられる銅鏡1枚が見つかった。一帯は古事記を編纂した太安万侶を輩出した多氏の根拠地で、多氏ゆかりの多神社の信仰にかかわる貴重な資料の可能性があるとしている。
 見つかった銅鏡は直径5・1cm、厚さは2mm。中国・唐で盛んに作られ、国内に持ち込まれた海獣葡萄鏡を模造したもので、表面は鋳放しのまま研磨されていなかった。鈕もあったが、穴は塞がったままであり、実用として用いられた形跡はないとしている。
 奈良時代の鏡は、寺院の地鎮のために埋められたり、祭祀に使われていたことから、今回の銅鏡も祭祀用に作られたとみられる。多神社は、平安時代に編纂された律令の施行細則「延喜式」に名前が残る大きな神社だった。しかし、これまで古代祭祀にかかわる遺物は確認されていなかった。
 銅鏡は、唐古・鍵考古学ミュージアム(同町阪手)前で開催中の「発掘速報展」で5月23日まで展示される。
[参考:毎日新聞、唐古・鍵考古学ミュージアムHP]
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京都市中京区・織田信長の京都での邸宅 二条御新造跡地から蒸し風呂の遺構が出土

2010年04月28日 | Weblog
 市埋蔵文化財研究所が28日、織田信長の京都での邸宅「二条御新造(ごしんぞう)」の跡地(同市中京区龍池町)で、蒸し風呂の遺構が見つかったと発表した。
 出土した陶器片などから信長が造営した桃山時代(16世紀後半)の遺構と判断。居室部分から離れていたとみられ、日常的に使ったのではなく、信長が風呂と庭を茶の湯のもてなしに利用したのではないかとみている。当時は入浴後の茶の湯が上流階層で流行し、サウナ形式の蒸し風呂が一般的だったとされる。
 遺構は敷地の南端に位置し、東西約7m、南北約6mの範囲で見つかったが、さらに広がっており、浴室全体の規模は分かっていない。
遺構の内側から、約50cm掘り下げたU字形の竈跡(幅1.1m、奥行き1.7m)と、それを囲む礎石(東西1.5m、南北1.8m)が出土した。竈は炭が覆っていた。蒸し風呂は礎石の配置から小屋状で、竈の上にすのこを張り、湯を沸かして蒸す仕組みとみられ、足し湯を沸かす別の竈や井戸も見つかった。
 北約50mの場所で以前、庭園の池の跡が見つかっており、庭を望む形で建てられていたと考えられる。
 豊臣秀吉の聚楽第を移築したとされる現存最古の浴室「黄鶴台(おうかくだい)」(安土桃山時代、同市下京区の西本願寺)とほぼ同じ構造という。
 二条御新造は公家の二条家邸宅の庭園を気に入った信長が1576年に建造。6年後の本能寺の変で長男信忠がこの地で討ち死にし、焼失した。遺構の約50m北で02年、洛中洛外図屏風にも描かれた龍躍池(りゅうやくち)跡が見つかっているが、邸宅の遺構の発見は初めて。
 5月1日から京都市考古資料館(同市上京区)で出土品を展示する。
[参考:共同通信、毎日新聞]
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東京都北区・田端西台通遺跡 奈良・平安時代の掘っ立て柱建物跡8棟が出土 駅家郷の高床式倉庫跡か

2010年04月27日 | Weblog
 北区田端の「田端西台通遺跡」で都埋蔵文化財センター(多摩市)の調査により、奈良・平安時代の掘っ立て柱建物跡8棟が出土した。
 この遺跡周辺は奈良時代、武蔵国豊嶋郡に7つあった「郷」(注1) の一つで、「駅家郷(うまやごう)」と考えられており、掘っ立て柱建物跡は、当時の税である米を保管する高床式倉庫とみられる。ただし、「荒墓郷(あらはかごう)」だという説も残っている。
 このほか、弥生時代の方形周溝墓4基、弥生後期の竪穴建物跡4棟、奈良・平安時代の竪穴建物跡33基などの遺構や土器、陶器など、幅広い時代の遺跡が数多く出土した。この付近は江戸時代の開墾を免れたので、遺構や遺物が崩されなかったためとしている。
 田端西台通遺跡は、これまでも遺構や遺物が数多く出土。1966年には都内で珍しい鉄剣がほぼ完全な形で出土し、北区文化財に指定されている。
[参考:東京新聞]

(注1) 平安時代の承平年間 (931-938)に源順(みなもとのしたごう)が編纂した「和名類聚抄」に、武蔵国豊嶋郡は日頭、占方(白方)、荒墓、湯島、広岡、余戸、駅家の7郷を管轄したとある。

過去の関連ニュース・情報
 2009.8.4北区・中里峡上遺跡 平安時代の竪穴住居跡から扉が国内初出土
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滋賀県東近江市・下羽田遺跡 古墳中期の竈付竪穴住居跡2棟を発見

2010年04月27日 | Weblog
 県文化財保護協会が26日、東近江市上平木町の下羽田(しもはねだ)遺跡(注1)で、古墳時代中期(5世紀後半)の竈(かまど)付竪穴住居2棟(14・44㎡と20・25㎡)の遺構が見つかったと発表した。1基は竈の大きさが長さ1・3m、幅1mで、燃焼部を囲む両袖、土器を支えた石が確認された。県内では同時期のかまど付き住居は数例確認されている程度で八日市地区では初。
 他に、3世紀後半から4世紀の炉付き住居も確認された。
 4世紀までは竪穴住居の中央付近に、炉が設置されたが、5世紀後半からは調理機能を高めた竈が住居の壁際に設置され始めたという。竈の周辺からは須恵器類が発掘されることが多いが、本遺跡では炉が使われていた頃の土師器しか出土しておらず、炉から竈へと新しい文化が導入される経過を示す貴重な発見としている。
 竈は須恵器などとともに朝鮮半島から伝来した。県内の竈導入期の遺跡からは、須恵器の甑(こしき)が出土することもあり、地域や集落によっては、竈の導入経過が異なることを示しているとする。
 現地説明会が29日午後1時半から開かれる。 (雨天決行)
[参考:読売新聞、中日新聞]

(注1) 下羽田遺跡は、雪野山丘陵の東側の平野部に立地している。地名の「羽田」は、672年壬申の乱で大海人皇子の将軍として活躍した「羽田公矢国(はだのきみやくに)」と関係があるとされている。
 これまでの発掘調査では、縄文時代晩期(約3000年前)の住居や墓の跡の他、古墳時代初期(約1800年前)から7世紀後半まで続く集落の跡が見つかっている。[参考:滋賀県HP→教育委員会]



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坂本龍馬ゆかりの「いろは丸」 オランダでなくポルトガル人から購入

2010年04月25日 | Weblog
 伊予大洲藩から坂本龍馬らが借りて航海していて沈んだ幕末の蒸気船「いろは丸」(注1)が、これまで通説とされていたオランダ人から購入したものではなく、長崎のポルトガル領事から購入していたことが、大洲市が進めていた購入契約書の翻訳でわかった。
 1862年、イギリスのバーミンガムで造られた「いろは丸」は、大洲藩が購入して土佐藩に貸し出し、1867年、龍馬が率いる海援隊の操船で長崎から大阪へ向かう途中、紀州藩の「明光丸」と衝突して沈没した。龍馬が巧みな交渉で、紀州藩から多額の賠償金を勝ち取った「日本初の海難審判」としても知られる。
 購入契約書は二つ折りで縦32.5cm、横20.5cm。昨年12月、東京都内の個人宅で見つかり、大洲市が市役所近くの大洲歴史探訪館で、複写を公開していた。包み紙に当時の大洲藩主らの名があるが、中身はポルトガル語で書かれていたため、同市は東大史料編纂所の岡美穂子助教(近世初期対外関係史)に翻訳を依頼していた。
 翻訳結果は、いろは丸が沈んだ日(慶応3年4月23日。西暦では1867年5月26日)にあたる23日、岡助教や同市の清水市長らが同市で記者会見して発表した。
 1866年9月22日に在長崎ポルトガル領事館事務局で契約が交わされ、売り主は在長崎ポルトガル領事のジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロ、買い主は大洲藩主代理人の郡奉行国島六左衛門で、代金は4万メキシコ・ドル(約1万両)などと記されていた。契約後に記された藩主・加藤泰秋の署名もあった。
 これまで、いろは丸は、大洲藩がオランダ人から購入したとされるなど、購入の経緯がはっきりしておらず、岡助教は「当時、各藩の外国船購入は長崎奉行の許可を得て行わなければならなかったはずで、虚偽の届け出が行われた可能性もあるのでは」と推測している。
また、衝突時に大洲藩の代金の支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも判明した。
[参考:共同通信、愛媛新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、NHK]

(注1)これまで、「いろは丸」は坂本龍馬が命名したとされていたが、国島六左衛門が命名?

龍馬が乗った「いろは丸」オランダ購入説覆る(読売新聞) - goo ニュース
海援隊の「いろは丸」、実はポルトガルから購入(朝日新聞) - goo ニュース
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福岡県みやこ町・呰見大塚古墳 6世紀末の装飾古墳 石室に赤い幾何学模様

2010年04月24日 | Weblog
 県教委文化財保護課は23日、京都郡みやこ町呰見(あざみ)の呰見大塚古墳で古墳時代後期(6世紀後半)のものとみられる赤い文様が描かれた石室を発見したと発表した。京築地域で2例目となる彩色の装飾古墳となる。
 東九州自動車道の建設工事に伴い、昨年5月から同町呰見、下原一帯の約2000㎡を対象に発掘調査を開始した。
 古墳は直径25mの円墳で、前室と後室がある横穴式石室(縦約7m、横約3m、高さ約1・8m)の内側の側壁など計14カ所に赤い彩色があった。彩色は、鏡や太陽、竜や蛇のうろこなどを示すとされる円文や三角文など4種類あり、埋葬者を守る魔よけの役割を果たしているという。副葬品の耳飾りや首飾りの数から、2~3人が埋葬されたとみられ、金銅製の単鳳環頭太刀や祭事に用いる土器も出土しており、京築地域の有力者が埋葬されたとみられる。
 装飾古墳は、九州では約400基見つかっており、呰見大塚古墳は県内で82例目にあたる。京築地区では、約40年前に旧・大平村(現・上毛町)の百留横穴墓群から彩色の装飾古墳が見つかっている。
 現地説明会が25日午前10時-正午に開かれる。
[参考:西日本新聞、読売新聞]

備考:呰見大塚古墳から1km西には豊前国分寺がある。




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福井市一乗谷朝倉氏遺跡 16世紀のガラス玉と工房跡が出土

2010年04月23日 | Weblog
 県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館は22日、国の特別史跡・一乗谷朝倉氏遺跡(福井市城戸ノ内町)で、16世紀(室町時代後期)のガラス工房跡と、ガラス玉など計156点が出土したと発表した。
 室町時代の遺跡から工房跡やガラス玉、製造途中の「溶解ガラス」が大量に見つかったのは国内で初めて。
 工房跡は城下町南側の上級武家屋敷の敷地内で、新たな柱の礎石が見つかったことから判明した。この建物跡は間口約9m、奥行き3.6m。ガラス玉90点と、加工途中で鉛と混ざった状態の溶解ガラス65点が同時に出土。原材料の石英や加工に使う鉛、ガラスを磨く砥石、ほかに炉跡(直径約40cm)、鞴(ふいご)の「羽口」とみられる土製品、ガラスを巻き付けて玉に加工した際に使ったとみられる細い鉄製器具も見つかった。
 ガラス玉は直径2・5~4・5mmで中心に穴があいており、水色、緑、紺、白などが多く、色が混在するものもあった。
 礎石の間隔から建物の規模は縦約10m、横約7mだったとみられる。工房内の北東付近には直径約40cmの炉跡のくぼみがあり、中には炭が残っていた。材料を溶かす皿状の土器「坩堝(るつぼ)」は見つかっておらず、原材料の由来も分かっていない。
 国内のガラス製造は飛鳥時代(6~7世紀)に確認されているが、平安時代以降は衰退。室町時代の遺跡では過去に首里城跡(沖縄県)、浪岡城遺跡(青森県)で溶解ガラスが確認されたことがあるが、工房跡は見つかっていない。室町時代に仏像の首飾りや仏具に使われたガラスは、大陸からの輸入品だったと考えられていた。中世の日本のガラス製造は「空白期間」だったとする通説を覆す発見としている。
 今回、工房跡とガラス玉が同時に出土したことから、金工などの高い工芸技術を持っていた朝倉氏の下に製造拠点があった可能性が高いという。
[参考:共同通信、福井新聞、産経新聞、読売新聞]
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正倉院宝物「椰子実」に丹念な表現と墨書文字、国内か中国で加工

2010年04月22日 | Weblog
 宮内庁正倉院事務所が21日、ココヤシの実に人面を描いた正倉院宝物「椰子実(やしのみ)」から、丹念な顔の表現や、「白目是」とみられる墨書が確認されたと発表した。これまでは容器と考えられていたが、人面は落書き程度ではなく、丁寧に作られており、お面や像のように鑑賞目的だった可能性も考えられるという。
 椰子実は、直径11・8cm、高さ10・6cm、重さ170gの容器。発芽孔を直径3cmに丸く切り開き口にし、子房跡2カ所を目に見立て、八の字の眉や瞳を描き加えていることは以前から肉眼で確認されていた。
 今回赤外線カメラで撮影したところ、目の部分は天然のくぼみを少し削って中心に瞳を描き、周囲に白色顔料を塗って白目を表現。表面のひだを鼻に見立てて小鼻や鼻腔を墨線で描き、口の両脇には皺をなぞって、ひげのような複数の短い線があったことが分かった。さらに成分分析で全体から水銀が検出され、かつて朱色の顔料が塗られていた可能性が出てきた。
 底部に「是 白 目」と読める3文字が確認されたが、意味は不明。
 白色顔料に鉛が含まれていたことから、ヤシの原産地ではなく、中国か日本で加工されたとみられる。
 正倉院の宝庫に納められた経緯は不明だが、鎌倉時代の宝物の点検記録(注1)に記載があり、それ以前に宝庫に納められたとされる。
 調査結果は正倉院紀要32号に掲載されている。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞]

(注1) 建久四年(1193)の宝庫の開検目録に「海髑子」の記載がある。「海髑子」は『和名類聚抄』ではヤシと読み、海底に住む貝の類で、神霊を含み、髑髏(どくろ)に似て鼻や目があり、人をみると海中に没すると説いている。[参考:奈良国立博物館HP]

過去のニュース・情報
 2009.4.24 守山市・下之郷遺跡 正倉院の宝物「椰子実」そっくりのココヤシ製人面付き容器

正倉院宝物「椰子実」、鼻やひげがあった(読売新聞) - goo ニュース
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平泉町・無量光院跡 池跡に水張り 庭園を再現

2010年04月22日 | Weblog
(写真は水を張る前の無量光院跡)
 世界遺産登録を目指す「平泉」の構成資産の一つ、特別史跡無量光院跡は20日、池跡に水をたたえ、かつての浄土庭園の雰囲気が再現された。
 無量光院は奥州藤原氏三代秀衡が宇治の平等院をモデルに建立し、スケールの大きい浄土庭園として知られる。水を張ったのは中島と本堂跡を取り囲む約1・5ヘクタール。深さは約20cmで当時とほぼ同じとされる。水が入ったことにより、地面とは異なり庭石が引き立った。水面に背景にある金鶏山などが映り、往時の一端をしのばせている。
 ユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)の現地調査の際、池跡に水を張って説明した方が分かりやすいと、町が今月16日から試験的に池跡に農業用水を引き入れ、試験的に取り組んだ。25日まで池の状態を維持する。
[参考:河北新報、岩手日報、朝日新聞、IBC岩手放送]

過去の関連ニュース・情報
 2008.10.4 平泉・無量光院跡 古い溝跡 導水路か

無量光院跡 水張り実験 イコモス調査へ景観再現 平泉(河北新報) - goo ニュース
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茨城県美浦村 信太入子ノ台遺跡 「佛」「冨」「志太」などと書かれた墨書土器が出土

2010年04月22日 | Weblog
 美浦村教委は21日、同村信太で実施している信太入子ノ台遺跡(しだいりこのだいいせき)の調査結果を発表した。
 同遺跡は、JRAトレーニングセンターの乗馬苑移設に伴う発掘調査で、昨年10月から始まった。
 調査の結果、遺跡からは縄文時代から平安時代までの竪穴住居跡33件が見つかったほか、縄文時代前期後半の土器や弥生時代後期の土製紡錘車などが出土した。
 平安時代のものとみられる「佛」「冨」「志太」などと書かれた墨書土器が見つかった。火葬した骨を納めた「蔵骨器」や「鉄鉢形土器」が出土したほか、掘立柱建物跡も見つかっていることから、村落内寺院があったのではないかとしている。
 また、村内では2例目という「志太」と書かれた墨書土器が出土していることから、旧信太郡(現在の牛久市、阿見町、旧江戸崎町の一部)につながる当時の志太郡の中心地だった可能性があるとみている。
 現地説明会が4月25日(日)午前10時〜正午に開催される。(雨天中止) 場所 信太入子ノ台遺跡 (トレセン美駒寮横)
[参考:産経新聞、美浦村・広報みほ 平成22年4月号]



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福井県若狭町・鳥浜貝塚 縄文前期の竪櫛漆片に「象眼」

2010年04月21日 | Weblog
 若狭町の鳥浜貝塚で出土した縄文前期(約5300年前)の竪櫛の一部とみられる漆片に、装飾物を嵌め込んだ「象眼」に似た技法の痕跡があることが、漆器文化財科学研究所(石川県穴水町)の調査でわかった。
 県は2005年度から5年間、国の補助を受けて鳥浜貝塚出土品の保存修理を実施。象眼技法の痕跡は、修理の際に行われた調査過程でサンプルとして提供された漆膜の小片から確認された。
 小片は縦約3・5cm、横約3cm。竹の繊維の跡があり、櫛の歯に当たる細い竹の棒を植物繊維などで束ねる「結歯(けっし)式竪櫛」の持ち手の一部とみられる。表面には円形のくぼみ(直径4mm、深さ訳2mm)が4個並んだ場所があり、櫛の表面を彫った後、木の実などを嵌め込んで装飾していたとみられる。
 縄文の竪櫛は結歯式のほか、1975年に鳥浜貝塚で見つかった1本の木から削り出す「刻歯(こくし)式」の2種類がある。鳥浜には2系統の櫛が存在したことも今回明らかになった。
 象嵌は、正倉院宝物にある奈良時代の刀剣にみられるのが国内で確認された最も古い例で、その約4千年前に技法が存在したことになる。
[参考:福井新聞、読売新聞]
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牧之原市・白百合遺跡 榛原庁舎で土器(壺)棺、長頸瓶、山茶碗など出土品を展示中

2010年04月21日 | Weblog
 しずおかKさんから「牧之原市・白百合遺跡」のトラックバックをいただいた。
 牧之原市というとピントこない。それもそのはず、筆者が知っているのは相良町の時代。2005年に榛原町と合併して牧之原市になった。
 相良町の頃には、150号線沿いの手打ちそばや「はしもと」でよく昼食を摂った。特に、大根おろしがたくさん入った「おろしそば」が好物だった。今頃の時期は新芽の出た茶畑が鮮やかだし、6月になると「大鐘家」(国重要文化財)のあじさいがきれいである。 (写真は大鐘家の裏山に咲くあじさいから片浜海岸を観た方向にかけて)
 さて、白百合遺跡の出土展は牧之原市長・西原しげき氏もブログで書いている。市には専門の調査員が一人しかいないと。朝日新聞では、市教委の学芸員・松下善和とフルネームで紹介している。

 新聞記事を総合すると、
 牧之原市静波地区の弥生時代~中世の複合遺跡「白百合遺跡」から出土した土器など30点が、16日から榛原庁舎の2階ラウンジで公開されている。(5月20日まで) 弥生時代に作られたとみられ、乳幼児の遺体を入れたらしい高さ約70cm、直径50cmの大型の珍しい土器(壺)棺も展示している。
 同遺跡は市内を流れる勝間田川下流部の東岸にあり、東に標高87.1mの龍眼山、西に標高64.5mの牧ノ原台地から延びる秋葉山丘陵に挟まれた標高3m程の海浜平野の砂堤(さてい)列上に形成されている。市道建設工事で2008年度に約2千㎡の砂地部分を調査し、遺構が見つかった。
 弥生時代後期(3世紀)とみられる遺構では、倉庫と考えられる掘っ立て柱建物を中心に4カ所の竪穴住居跡を確認。土器(壺)棺は、同中期の方形周溝墓といわれる墓の周辺部から見つかった。
[参考:静岡新聞、中日新聞、朝日新聞]

次は、牧之原市のホームページ「白百合遺跡の発掘調査報告」を参考にすると、
 弥生時代の土器は、東遠江系の形態を示す土器が大半であるが、一部には駿河系の土器も出土している。登呂遺跡に代表される駿河地方の影響を受けた集落であることが伺われるとしている。
 奈良時代の竪穴住居跡内からは、8世紀代の土師器壺・甕や須恵器坏蓋・長頸壺が出土している。
 中世の遺構では、平安時代末から鎌倉時代までの集落にかかわる掘立柱建物跡や井戸、溝などを確認した。山茶碗と呼ばれる青灰色の器(碗、皿)が出土した。これらは勝間田川上流勝間田城(注1)跡の南斜面に所在した土器谷古窯(どきやこよう)で焼かれた製品が多く見られた。この山茶碗から、当時の人々の勝間田荘園内での生産と消費による物流の一端を伺い知れるとしている。
[参考:、牧之原市のホームページ「白百合遺跡の発掘調査報告」]

(注1) 勝間田城跡: 勝間田城は、応永年間(1394年~1428年)に勝間田定長が築城したとされ、平安時代末期より室町時代中期にかけてこの地方を治めた豪族、勝間田氏の本拠地であったとされる。
 『保元物語・上/主上三条殿に行幸の事』に、「(源)義朝に相随手勢の者は、(略)、遠江には横路(横地)、勝間田、井の八郎、(略)を始として、(略)、2百5十余騎にて馳向かう。」とある。この、横地氏は一説に、源義家と相良庄の藤原光頼(相良太郎)の女との間に出来た庶子が横地と名乗り、その一族から勝間田荘を領する勝間田氏が輩出されたとしている。
 続いて、『吾妻鏡・寿永二年(1183)二月十七日』に「安田三郎義定相率義盛。(略)、遠江國住人横地太郎長重。勝(間)田平三成長等。(略)」と記され、さらに『同・文治二年(1186)四月大廿一日戊辰』に、遠江守義定朝臣自彼國參上。(略)。二品仰云。遠江國有何事哉。義定朝臣申云。勝(間)田三郎成長去六日任玄番助。是一勝事也。(略)」と出てくる。吾妻鏡に出自するときには、横地氏、勝間田氏とも源頼朝の御家人になっていたようである。
 すなわち、白百合遺跡の地は平安時代末頃には、勝間田荘園が開墾され、豪族勝田氏がそこを支配していたと考えられる。

 さて、しずおかKさんのブログを拝見させていただくと、榛原庁舎に行かれたようで、白百合遺跡・出土展で撮られた土器の写真などがUPされている。なるほど、山茶碗は無釉の陶器であることがわかるし、牧之原の地でも生産されていたことを知った。
 そして、須恵器の長頸壺(古墳時代)は三鷹市・天文台構内古墳(7世紀後半)の副葬品として出土したフラスコ形長頸瓶(下の写真)と形状が似ている。この長頸瓶は、三鷹市教育委員会の方より、浜名湖の西岸に分布する湖西古窯跡群の産であることをご教示いただいている。
     
同じ、須恵器は東京国立博物館でも見ている。市ヶ尾横穴群(横浜市青葉区)から出土した7世紀のもので、緑色と茶色が混ざったような色の自然釉がいくつも流れていて美術品のごとく見事な美しさであった。さて、白百合遺跡出土品のものは、いつ頃、どこで生産されたのか非常に興味のあるところ。

過去の関連ニュース・情報
 2009.1.28白百合遺跡 区画された竪穴住居跡 所有地を区分か?
 2008.8.28白百合遺跡 弥生時代後期の海浜集落跡現れる 
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君津市・岩田寺 力士像の裏に墨書、作者は初代「波の伊八」と判明 

2010年04月21日 | Weblog
 君津市大坂の岩室山圓明院岩田寺の本堂屋根にある2体の力士像が、房州長狭郡打墨村(現、鴨川市打墨)出身で「波の伊八」として有名な江戸時代の彫物大工、初代伊八「武志伊八郎信由」(1752~1824)の作であることが分かり、19日、同寺で地元住民への報告会が開かれた。
 岩田寺は奈良時代創建とされ、本堂は江戸時代に建て直された。以前から南側の力士像の背中に作者の墨書きがあることが知られており、今年1月に地元関係者でつくる「岩田寺本堂木彫調査会」が本格的な調査を実施。その結果、「安永三年(1774)六月、房州長狭郡打墨村、伊八作」と墨書きがあり、伊八の直筆だと分かった。
 伊八は、安房・上総地域を中心に相模や江戸でも主に寺院の欄間彫刻を制作した。躍動感ある波の表現から、現在では「波の伊八」の愛称で親しまれている。葛飾北斎の「富嶽三十六景」などに強い影響を与えたといわれる。
 伊八作と分かった力士像はいずれも高さ約90cm、幅約65cmで、本堂屋根の北側と南側に1体ずつ設置。隆々とした筋肉は赤、髪は黒の塗料が使われ、目には銅板がはめ込まれた迫力のある彫刻だ。
[参考:千葉日報、房総時事新聞、毎日新聞、東京新聞]

2011.1.11 追記
 初代伊八の作品を集めた「伊八新発見」展が、鴨川市郷土資料館で開かれ、ここ数年の伊八に関する調査研究で、新たに発見された作品や資料など28点が展示されている。30日まで(月曜休館)。[参考:東京新聞]

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