歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

東京都目黒区・祐天寺 江姫・崇源院宮殿を初公開/江戸東京博物館

2010年12月27日 | 竹姫(浄岸院)
 
祐天寺の仁王門(左)  阿弥陀堂(右)  ともに竹姫の寄進による。(2011.4.7撮影)

 来年NHK大河ドラマ「江姫たちの戦国」のヒロイン 浅井三姉妹(注1)の三女・江の生涯を紹介する特別展「2011年NHK大河ドラマ特別展 江姫たちの戦国」が1月2日~2月20日、「江戸東京博物館」(東京都墨田区)で開催される。
 今回、江・崇源院の厨子「崇源院宮殿(すうげんいん・くうでん)」が初公開される。

(注1) 浅井長政(あざいながまさ)の三姉妹 母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)
■茶々(淀殿、1569?-1615) 大虞院 豊臣秀吉の側室 墓所は京都市東山区の養源院(浄土真宗)、大阪市北区の太融寺(真言宗)、ただし、遺体が確認されていない。
■初(1570?-1633) 常高院 京極高次の正室 墓所は若狭(小浜市)の常高寺(臨済宗)
■江(1573-1626) 崇源院 徳川秀忠の正室 墓所は芝・増上寺(浄土宗)。霊屋は鎌倉市の建長寺(臨済宗)に移築。高野山奥の院(真言宗)にも墓所がある。

 崇源院宮殿と崇源院の位牌はもともと静岡市の宝台院(浄土宗、徳川秀忠の生母・西郷局の菩提寺)にあり、江戸時代に宮殿は東京都目黒区の祐天寺(浄土宗)に、位牌は芝・増上寺に移された。(注2) 位牌は戦時中の空襲で焼失したとされる。宮殿は徳川家康のもの(注3)と伝えられていたが、08年に祐天寺が修復の際、屋根組みの柱に「寛永五年(1628) ……建立 宗源院様御玉家(おたまや)」の墨書を確認した。 江の息子・徳川忠長が、寛永5年9月に徳川家の菩提寺である芝・増上寺に宛てて書いた手紙に、「(幕府に無断で)駿府に母親の霊廟を造るよう命じたので、(増上寺での)三回忌の法会に参会できなくなった」(読売新聞参照)とあることから、駿府城(静岡市)にいた忠長が造り、後に祐天寺に移されたものであることが分かった。
 宮殿とは、仏像や位牌を安置する厨子の一種。高さ2.38m、幅2.1m、奥行き1.35mで、金箔を使い、極彩色の外観で、内部には極楽をイメージした蓮華や飛天が描かれている。外装には蓮華の文様や逆蓮(ぎゃくれん)の彫刻が施されている。
[参考:読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、共同通信]

(注2) 祐天寺は祐海上人(1682-1760)が祐天上人(1637-1718)の廟所を設けるために下目黒にあった善久院を買い取り、建立したものであり、時期は享保3年(1718)。この時はまだ祐天寺の寺号をつけることが許されず、明顕山善久院祐天寺と呼ぶことが認められたのは享保7年(1722)のこと。
 徳川家から、堂宇、仏像、厨子など多くの寄進があったが、特に、5代綱吉の息女(養女)竹姫(浄岸院 1705-1772)は享保4年(1719)に祐天上人宮殿をはじめとして、その後も阿弥陀如来尊像および阿弥陀堂、仁王像および仁王門、法然上人像などの寄進を重ねた。竹姫は1708年と1716年に2度の婚約が整いながら、相手が早世するということがあり、篤い信仰心が生じたのだろうと推測する。 享保14年(1729)に薩摩藩主島津継豊に入輿し、その後島津家と徳川家との縁戚関係を深め、外様であった薩摩藩の発言力を高めるに至った努力は、後の篤姫(天璋院 1836-1883)と比べても多大な貢献を行っている。 安永元年(1772年)12月5日、江戸の薩摩藩邸で死去した。法名は浄岸院信誉清仁祐光大禅定尼。祐天寺に位牌が納められた。墓所は鹿児島市の島津家墓所・福昌寺(曹洞宗)に葬られた。
 また、竹姫は島津継豊との間に1女として菊姫(眞含院 1733-1808)をもうけた。 菊姫は福岡藩・黒田重政(1737-1762)と結ばれ1男2女を生むが、長女・屋世(黒田治之室)以外は夭折。福岡藩主・黒田継高は一橋徳川家・初代当主・徳川宗尹の五男・治之(1753-1781)を養子に迎え屋世と結婚するが、屋世も11歳で死去。黒田本家の血統は男系女系とも途絶えたとともに、竹姫の血統も途絶えた。 興味深い人物であるので採り上げてみた。

(注3) 祐天寺HPに、「享保9年(1724)11月13日、宝台院の前住職である欣説が入寂しました。祐天寺に宮殿を寄進した人物です。」とあり、家康のものと伝えられた宮殿すなわち崇源院宮殿のことか。そうなると、崇源院宮殿は1718~1724年の間に祐天寺に納められていたことになる。[参考:祐天寺HP]
 さらに、祐天寺を訪れた際に、祐天寺発行の「寺宝で綴る*祐天上人と祐天寺」(平成17年発行)を購入。その中に、この宮殿があった。宮殿のことには一言も触れられていなかったが、徳川家康像が納められており、それについての説明が記されていた。 5代綱吉が増上寺安国殿の家康像を写し、竹姫に贈り、竹姫が祐天寺に納めたとある。 また、別説もあるようだが、いずれにしても、この宮殿が家康のものと伝えられてきたために、家康像を納めたか、あるいは、家康像を納めたために家康の宮殿と伝われてきたかと推定される。

2011.1.31追記
 1月28日に「江~姫たちの戦国~」展(江戸東京博物館)を観てきました。金色に輝く宮殿の写真を撮りたかったのですが、残念なことに写真撮影禁止でした。 代わりに図録を購入しました。 上述の文に補足をする内容があり、大変参考になりました。 それは、祐天寺住職・巖谷勝正住職の書かれた「崇源院様の宮殿」です。
 まずは、宝台院の住職であった「欣説」の法号名と読みについてです。実は祐天寺HPに(参考文献 『本堂過去霊名簿』、『浄土宗大辞典』として)も記されていましたが、光蓮社瑞誉上人即到欣説(こうれんじゃずいよじょうにんそくとうごんせつ)大和尚でした。「欣」は、今の時代は「きん」と読むことが多いですが、当時は欣求浄土のように「ごん」と読まれていました。 宝台院十七世欽説の項に「八代将軍(吉宗)の命により崇源院殿の御霊屋を廃し位牌を増上寺内の崇源院殿の宮殿へ安置す」と記録されており、これを裏付ける記録が「増上寺目鑑」享保8年(1723)11月の項に、増上寺に崇源院殿の尊牌が到着し、御霊屋内の宮殿に安置したとあるそうです。 したがって、崇源院宮殿も同じ頃に祐天寺に移されたとみているようです。 さらに、驚くべきは、祐天寺の土地は崇源院の領地であったことでした。 「上、中、下目黒および衾村は入国後徳川氏の直轄地となったが、(略) 他の十数ヵ村とともに (略) 崇源院徳子の化粧料として宛てがわれた」とあるそうです。
 目黒区のHPにも、
■天正18年(1590) 三田村・上目黒村・中目黒村・下目黒村が徳川氏の直轄地に、碑文谷村の一部が旗本神谷氏の知行地となる
■寛永9年(1632) 2代将軍秀忠夫人崇源院の遺領(上目黒村・下目黒村・衾村・碑文谷村の4ヵ村の一部)が、増上寺に寄進される。
■延享3年(1746) 下目黒村・中目黒村の町並地が町奉行支配地となり、下目黒町、中目黒町と唱える。
 と記されていました。
[参考:2011年NHK大河ドラマ特別展「江~姫たちの戦国~」図録、目黒区HP]

お江の位牌納めた「宮殿」、東京・祐天寺で確認(読売新聞) - goo ニュース

関連情報
 2011.1.28千駄ヶ谷村・霊山寺領 崇源院(江姫)の寄進によるもの
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白河市・大塚遺跡 前方後円墳から埴輪棺が出土、県内2例目

2010年12月27日 | Weblog
 福島県白河市板橋の大塚遺跡で、今年10月から12月21日までの発掘調査で前方後円墳1基、円墳2基と竪穴住居跡を確認した。
 前方後円墳の円墳部分の周溝から長さ30cmの円筒埴輪を組み合わせた埴輪棺が2対出土した。県内では本宮市の天王壇古墳(てんのうだんこふん)に次ぎ二例目となった。前方後円墳が造られた時代は円筒埴輪の形状などから古墳時代後期(6世紀前半)と推定され、調査で明らかになった古墳としては白河地方で最古のものという。
[参考:2010.10.26福島民法、KFB福島放送]

過去の関連ニュース・情報
 2008.8.20 本宮市 庚申壇古墳 発掘調査現地説明会
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宇治市・平等院鳳凰堂 本尊の台座から見つかったガラス玉3個が正倉院宝物と同じ成分組成

2010年12月26日 | Weblog
 今月24日に、平等院鳳凰堂の本尊・阿弥陀如来坐像(平安時代)の台座の中から、正倉院の宝物(奈良時代)と同じタイプのガラス玉3個が見つかったと発表されたが、その後26日、産経新聞では大量に見つかった平安時代のガラス玉に焦点を当てて報じている。
 この24日および26日の記事を合わせてまとめると下記のようになろう。

 ガラス玉は2004年の平成大修理の際、台座下から単体や装飾片など約450個発見された。244個は単体で、残りが瓔珞(ようらく)(紐などでつなげた垂れ飾り)の一部とみられている。 単体で見つかった244個のうち調査可能な186個を、東京理科大で蛍光X線分析などで化学組成を調査した。
 その結果、約90%にあたる167個が、酸化鉛を50~55%含む「カリ鉛ガラス」と呼ばれる平安時代のガラス玉であることがわかった。 青や緑色をしており、中国・宋代に考案された製造法によって作られたとみられる。これまで日本でカリ鉛ガラスが出現するのは12世紀以降と考えられており、見つかったガラス玉が鳳凰堂創建時(1053年)のものとすれば、カリ鉛ガラスの最も古い例になるという。 しかし、中国製なのか、国産なのかはさらに詳しい調査が必要という。
 19個は正倉院に納められた奈良時代の国産ガラス玉と同じく酸化鉛を70%以上含み、カリウムの組成を持つことが判明した。様式を調べたところ、花弁形で緑色の「ねじり玉」2個と、球状で黒っぽい色に白のラインが入った「トンボ玉」1個が正倉院の宝物に類似していた。 いずれも直径1・5cm前後で中央に穴があいている。大きさも正倉院のガラス玉とほぼ同じで、正倉院のガラス玉と同じ官営工房でつくられた可能性があるとみている。
[参考:2010.12.26産経新聞、2010.12.24共同通信、京都新聞、産経新聞、2010.12.25読売新聞、毎日新聞]

■2010.12.24掲載分
 京都府宇治市の平等院が24日、平等院鳳凰堂の本尊・阿弥陀如来坐像(国宝、平安時代)の台座の中から、正倉院の宝物(奈良時代)と同じタイプのガラス玉3個が見つかったと発表した。
 2004年の平成大修理の際に台座から見つかったガラス玉約450個のうち186個を蛍光X線などで調査した。すべて中国で発明された鉛ガラスで、多数が宋から平安時代に新技法として伝来したガラス玉だったが、19個は正倉院に納められた奈良時代の国産ガラス玉と同じく酸化鉛を70%以上含み、ほかにカリウムの組成を持つことが判明した。様式を調べたところ、花弁形で緑色の「ねじり玉」2個と、球状で黒っぽい色に白のラインが入った「トンボ玉」1個が宝物に類似していた。 いずれも直径1・5cm前後で中央に穴があいている。大きさも正倉院のガラス球とほぼ同じで、正倉院のガラス玉と同じ官営工房でつくられた可能性があるとみている。
 聖武天皇の妻・光明皇后(701-760)は藤原不比等の娘であり、これらのガラス玉は藤原家代々の宝で光明皇后の遺品の可能性もあるという。1053年に藤原頼通が平等院鳳凰堂を創建した際に納められたのではないかとみている。
 見つかったガラス玉は25日から平等院境内のミュージアム鳳翔館で公開される。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞]

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 2010.10.6 平等院 幻の本堂の本尊「大日如来像」の一部か
 2010.5.25 平等院鳳凰堂 平安時代中期頃の地層からサルスベリの花粉を発見 通説を遡る時代に植栽?
 2010.3.25 平等院鳳凰堂 国宝壁画「仏後壁」に描かれた舞楽は延喜楽と判明
 2009.1.24 平等院鳳凰堂・仏後壁(国宝) 極楽浄土図の全容が明らかに 藤原頼通も描かれる?
 2008.12.29 平等院 浄土院地蔵菩薩半跏像 南北朝期の作と判明
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トルコ・ビュクリュカレ遺跡 ヒッタイト時代のガラス容器が出土

2010年12月25日 | Weblog
 中近東文化センター(東京都三鷹市)は、トルコ・アナトリア高原のヒッタイト帝国時代(紀元前1400~1200年頃)のビュクリュカレ遺跡の紀元前14世紀の宮殿とみられる建物の床の上で、当時ガラス製作の先端地域だったメソポタミアに匹敵する技術で作られたガラス容器の壺
 直径約4cmの細長い首と、同約10cmの洋梨形の胴部を持ち、残存高さ約15cm(全長は推定約25cm)
 不透明な白地に、白や濃紺の細いガラスひもを、ねじったり、波形にしたりして張り付けた、精巧な装飾が施されている
を発見した。
 ガラス容器の生産は、紀元前16世紀にメソポタミアで始まったとされる。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.23 ヒッタイト帝国の遺跡ビュクリュカレ ヒッタイト文字が刻まれた粘土板を発見
 2009.3.26 トルコ・カマン・カレホユック遺跡 世界最古の鉄器を発見

ヒッタイト時代の精巧ガラス、トルコで出土(読売新聞) - goo ニュース
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出雲市・山持遺跡 紀元前1世紀~紀元後1世紀にかけての楽浪土器が出土

2010年12月23日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターが22日、出雲市西林木町の山持(ざんもち)遺跡で、朝鮮半島北部の楽浪郡で作られた完全な形の壺が見つかったと発表した。 平成21年度調査で砂礫層から出土したもので、今年度報告書作成整理中に判明した。
 出土した楽浪土器は口縁部等の一部を欠くが、高さ約17㎝のほぼ完形の壺である。外面には轆轤によるナデで仕上げ、下半にヘラで削った痕跡が認められ、中国漢代の楽浪郡(現在の平壌付近、存続時期がBC108年からAD313年)で製作された土器とみられる。 出土した地層などから、紀元前1世紀~紀元後1世紀にかけての土器とみられる。
 楽浪土器は北部九州では比較的多く見つかっているが、関門海峡以東では極めて稀で、現状では山持遺跡と松江市鹿島町海揚がり土器しか知られていない。 山持遺跡では、過去の調査でも楽浪土器の破片8点をはじめ、朝鮮半島南部の無文土器である勒島式土器や三韓土器等が出土している。弥生時代の対外交渉における出雲の位置づけを考える上で重要な発見という。
[参考:山陰中央新報、毎日新聞、島根県埋蔵文化財調査センターHP]

過去の関連ユース・情報
 2010.8.28山持遺跡 弥生後期の布堀建物跡、柱に沈下防止の礎盤
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出雲市・高浜Ⅰ遺跡 日本最古(室町時代)の将棋盤が出土

2010年12月23日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターが22日、出雲市高岡町の高浜I遺跡で、15世紀半ば~16世紀初め(室町時代)の将棋盤の一部が出土したと発表した。現存する将棋盤では最古とみられる。
 出土したのは盤の両端部分で、4分の1ほどにあたるスギ板2枚で、大きさは長さ37.6cm幅5.7cm、厚さ0.9cmと長さ38.1cm、幅8.8cm、厚さ1cm。いずれも盤に赤外線を当てると表面に約4.2cm四方のマス目が9つ確認できた。 現在の一般的なサイズ(約3.3cm)より大きい。側面にくぎを打った跡があり、脚や台座付きだった可能性が高い。表面には刃物による傷跡もあり、まな板などに再利用されたとみられる。
 大規模な建物跡近くのゴミ捨て場とみられる穴から漆器や木簡などと見つかり、木簡に書かれた「永正3年(1506)」の文字から年代を特定した。放射性炭素を分析する年代測定でも15世紀半ばを示した。
 また、別の柱穴からは五角形の駒2枚(いずれも高さ3.5cm、幅2.5cm、厚さ0.5cm)が別々に出土したが、文字は判読できなかった。こちらは、中将棋(12マス四方のマス目で使用)の駒の可能性があるという。
 将棋盤は東京都の溜池遺跡(千代田区永田町、港区赤坂)で発見した18世紀(江戸時代)のものしか残っておらず、出土はまれ。将棋の記述がある最古の文献資料には藤原行成の「麒麟抄(きりんしょう)」(11世紀初め)だが、形状などの実態はほとんど分かっていなかったという。
 将棋盤と駒は、県立古代出雲歴史博物館(出雲市大社町)で23日~1月10日まで、出雲弥生の森博物館の「新発見!とっとり・しまね発掘速報展」で1月15日から2月13日まで展示される。
[参考:時事通信、共同通信、中国新聞、山陰中央新報、日本海新聞、産経新聞、読売新聞、島根県埋蔵文化財調査センターHP]

国内最古、室町時代後半の将棋盤出土…出雲(読売新聞) - goo ニュース
日本最古の将棋盤が出土=15世紀中ごろか―島根・高浜遺跡(時事通信) - goo ニュース
日本最古の将棋盤が出土 出雲の遺跡から、室町期(共同通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース情報
 2009.3.13 徳島市・川西遺跡 13世紀の将棋の駒「本横」(奔王)が出土
 2008.3.27 甘粛省 西夏文字の象棋の駒「士」を発見


2011.1.23追記
 第37期女流名人位戦5番勝負第1局が本日(1月23日)出雲市浜町の出雲文化伝承館で行われるのを前に22日、タイトル防衛に臨む里見香奈女流3冠 (出雲市出身)と挑戦者の清水市代女流6段(東村山市出身)が、出雲弥生の森博物館(出雲市大津町)を訪れ、昨年出雲市内の遺跡から出土した国内で最古の将棋盤を見学した。
[参考:NHKニュース、読売新聞]
 第一局は先手里見香奈女流3冠の勝ちとなった。

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八幡市・柿谷古墳 6世紀中期の方墳を確認

2010年12月22日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは21日、八幡市内里柿谷の柿谷古墳が古墳時代後期(6世紀中期)に築造された一辺約12mの方墳と発表した。
 中央部に長さ4m×幅2mの墓壙があり、下層に東西を軸とする木棺跡(3m×1m)、その上部に平行の位置で約20年後に埋葬された別の棺跡が北寄りに重なっていた。親族が2世代にわたり葬られたとみられる。
 棺内から須恵器の壺や高杯や、刀、馬具などの鉄製品が出土した。また、上部の棺跡から、鉄地金銅張の胡籙(やなぐい)の破片が見つかった。
 また、墳丘の東側斜面からは、子供用と見られる甕棺(直径45cm)も出土した。
 南側約200mには府内最大の集団墓地「女谷・荒坂横穴群」(6世紀後半~7世紀前半)があり、この地域で横穴が流行する前の最後の古墳である可能性もあるとしている。同古墳でも、鉄製馬具や鉄地金銅張の胡籙が出土している。
 現地説明会は23日(木・祝)午前10時半から開かれる。
[参考:毎日新聞、産経新聞、京都府埋蔵文化財調査研究センターHP]

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東広島市・横田1号遺跡 細形銅剣の根元部分の破片に平面加工跡

2010年12月22日 | Weblog
 弥生時代の集落跡とみられる横田1号遺跡(東広島市西条町寺家)で、11月に1世紀中頃の竪穴住居跡から出土した銅剣の根元部分「茎(なかご)」の破片(長さ3cm、幅2・2cm、厚み1cm、約15g)が、一般的には丸みを帯びるのに対して平面加工された特殊な形状だったことが分かった。 銅剣は「細形銅剣」で、全長約23・5cm、重さ約150gと推定。
 現地説明会が23日(木、祝)午後1~2時に開かれる。 銅剣の破片も展示される。
[参考:中国新聞、東広島市教育文化振興事業団HP]


平面加工の弥生銅剣破片出土(中国新聞) - goo ニュース
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佐久市・北裏遺跡群 弥生後期の土壙、木棺の上に土器を置いた跡

2010年12月22日 | Weblog
 長野県埋蔵文化財センターが佐久市伴野の北裏遺跡群で行った発掘調査で、土壙から弥生時代後期(約1800年前)の木棺墓跡とみられる遺構が見つかった。土壙は地表から40~50cm下で出土、長さ225cm、幅115cm、深さ30cm。周囲に溝はなく、穴の中には、安置されていた木棺とみられる長さ150cm、幅55cmの長方形の木枠状の木炭と焼けた状態の土が見つかった。枠の中から、棺の上にあったと考えられる高杯、甕、壺などの土器約10個がほぼそのままの形で重なった状態で出土した。
 墓の中や墓を囲む溝から土器が出土した例はあるが、棺の上に土器を置く例はほとんどないという。棺を焼くなど何らかの葬送儀礼をした可能性も高いという。
 中部横断道建設工事に伴い、今年度の調査は4月中旬から11月まで行っている。これまでに、縄文時代の土坑、弥生時代の礫床木棺墓、方形周溝墓(~古代前期)、竪穴式住居跡、古代の竪穴住居跡(カマド、土器など)、中世の建物跡、板材を枠状に組み合わせた井戸などが出土している。
[参考:2010.12.22読売新聞、長野県埋蔵文化財センターHP、2011.1.25毎日新聞]

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鳥取市・本高弓ノ木遺跡 弥生時代最古の貯木場跡、丸太に石斧による加工跡も

2010年12月21日 | Weblog
 鳥取県教育文化財団が21日、本高弓ノ木(もとだかゆみのき)遺跡(鳥取市本高)で、弥生時代前期(約2500年前)の水路を利用した貯木場跡と大量の丸太が見つかったと発表した。
 丸太(広葉樹)は幅約20mの水路に埋まっており、これまでに約130本を確認。長さは0・5~11mで、直径は最大で1mのものもあった。ほぼ全てが枝打ちされ、樹皮も剥がされた状態で、石斧によるとみられる加工の跡もあった。
 また、因幡地方最古相の弥生土器が出土している。
 現地公開は25日(土)午後3時から行われる。
[参考:産経新聞、毎日新聞、鳥取県教育文化財団HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.10.23本高弓ノ木遺跡 弥生時代後期の盛土状遺構を確認
 2009.3.26本高弓ノ木遺跡 古墳時代の穂摘具が出土
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奈良県明日香村・飛鳥京跡苑池 池巡る石組みの溝が見つかる

2010年12月20日 | Weblog
 国内最初の本格的な庭園で、天武天皇の「白錦後苑(しらにしきのみその)」にあたると考えられている飛鳥京跡苑池(明日香村、7世紀後半)で、来年度から7ヵ年計画で復元整備に伴う発掘調査が1日から始まり、北側の池やその周辺に巡っていた可能性がある石組みの溝などが見つかった。 溝は幅約60cmで、池の東側で南北に延びる形で出土した。調査は来年1月末までの予定。
 飛鳥京跡苑池では平成11年、石敷きを施した大規模な池跡や護岸の石垣、浴槽のような形の巨大石造物が出土。池は南北に二つあり、庭園全体の範囲は東西約100m、南北約280mと推定される。
[参考:共同通信、産経新聞、2010.2.20奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.7.16 飛鳥京苑池 食膳に使用、ブリの骨が出土
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京都市上京区・薩摩藩邸跡 同志社大今出川キャンパス地から島津の家紋入り磁器片が出土

2010年12月18日 | Weblog
(写真は2010年11月25日撮影)

 同志社大学今出川校地(京都市上京区)で行われている発掘調査で、「丸に十の字」で知られる島津家の家紋入りの染付磁器片が見つかった。8月中旬に幕末の時期と考えられる遺構面で検出したが、最近の土器洗いの結果判明したという。同校地内で薩摩藩邸に関する遺物が見つかったのは初めてとなる。
 同場所では、足利義満建立の鹿苑院の遺構の発掘調査も行っている。
[参考:京都大学、同志社大学HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.26 京都市上京区・薩摩藩邸跡 同志社大今出川キャンパス地にあった薩摩藩邸絵図を確認
 2010.11.25 京都市上京区・相国寺旧境内 足利義満建立の鹿苑院の遺構が見つかる
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向日市・長岡京 続日本紀に記述の西宮の複廊跡を発見か

2010年12月18日 | Weblog
 京都府向日市埋蔵文化財センターは17日、同市向日町の長岡京(784~794年)の大極殿西側で、内裏を囲んでいたとみられる大型の掘っ立て式複廊跡が見つかったと発表した。
 続日本紀・延暦8年(789)二月廿七日「移自西宮。始御東宮」とあり、桓武天皇の時、「西宮」から「東宮」へ移ったと記述されている。 同センターは未確定だった西宮(第1次内裏)の施設の一部である可能性が高いとみている。東宮(第2次内裏)はすでに確認されている
 大極殿の西約350m付近で780㎡を調査。施設の北西角とみられる掘っ立て柱の穴21基と、この柱穴群を囲む石組みの雨落ち溝4本を見つけた。柱跡は1辺1.2~1.6m、深さ1.4~1.6m。柱間は2.4~3mで、複廊は全体幅8・6m、高さ5m前後と推定される。大極殿などが長岡宮へ移築された後期難波宮の複廊と一致する。
 また、70年代の調査で出た門の跡が南の延長上にあり、位置関係から施設は南北145mと推定。東宮の複廊の南北159mに匹敵することから、西宮の複廊との見方を強めた。
 現地説明会は19日(日)午後2時から開かれる。
[参考:京都新聞、毎日新聞]
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梁山・龍塘里 洛東江祭祀場所を発掘し、祭祀用粉青磁を多量発見

2010年12月17日 | Weblog
 韓国文物研究院は17日、洛東江で浚渫にともなう土壌截取が予定された梁山市院洞面龍塘里(양산 용당리)一円川辺沖積地帯を発掘調査した結果、高麗~朝鮮時代建物跡とともに祭祀に使ったことが明らかな15~16世紀の朝鮮初期頃の粉青磁を多量に収集したことを明らかにした。
 新羅時代から朝鮮時代に至るまで、洛東江で江神祭(강신제)を行った場所、文献にだけ記録されている「伽倻津(가야진)」が慶南梁山の洛東江辺で実体が現れた。川を神と感じて祭祀した場所が発掘調査を通じて確認されることは今回が初めてという。
 これらの粉青磁が「世宗実録」から見える祭器とよく似ているという点で祭器であることが確実であり、確認した粉青磁祭器は実際に使用した建物跡内部から多量に出土した。この建物跡は、周辺から収集した多量の瓦出土状況から、正面2間、側面1間の切妻造りとみられる。新羅時代以来洛東江の神に祭祀した伽倻津,あるいは伽倻津祠があったという各種文献記録を総合して、今回の発掘で現れた建物跡はこの施設と考えられる。
[参考:聨合ニュース]
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津市・相川西方遺跡 約1800年前の粘土採掘坑が新たに250基出土

2010年12月17日 | Weblog
 弥生時代末期(約1800年前)とされる相川西方遺跡(あいかわせいほういせき、津市久居相川町)から、粘土採掘坑が250基新たに見つかった。 昨年度調査した隣接場所で同様に出土した250基を合わせると合計500基になる。
 採掘坑は不定形だが、大きさは直径約0.5~10m、深さ約20~60cm。深さが違っていてもすべて粘土層が掘られている。また、採掘坑から弥生土器の壺や甕(注1)、高杯などが多数出土した。
 発掘調査を行った三重県埋蔵文化財センターは、採った粘土は土器を焼くための原料と考えられるとしている。
 現地説明会が18日(土)午前10~11時に開かれる。
[参考:読売新聞、三重県埋蔵文化財センター、三重県HP]

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 三重県埋蔵文化財センターのHPに出土した甕の写真が添付されている。台付甕で口縁が広く、胴体にかけて膨らみ、台にかけてまた細くなる。おそらくS字甕。
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