今年の5月18日から7月7日まで開催された江戸東京たてもの園(小金井市)での『大奥女中とゆかりの寺院』を見ました。
300円にしては立派な図録を購入しましたが、その図録には載っていない8代将軍吉宗の息女・竹姫(浄岸院)の勧明山法養寺(現、妙教山法養寺)に関する『竹姫付老女奉文』(1733年2月)が展示されていました。その連名者の一人「つぼね」が祐天寺に埋葬されている本性院と思われ、それらを併せて紹介したいと思います。
参考出典
資料1. 『御府内備考(ごふないびこう)』(文政12年(1829))
資料2. 『大奥女中とゆかりの寺院』(平成25年(2013)5月江戸東京たてもの園)
資料3. 『日蓮宗ホームページ→日蓮宗東京都南部宗務所』
資料4. 『祐天寺ホームページ』
1.妙教山法養寺(旧、勧明山法養寺)
資料1.および3.によると、天正六戊寅年(1578)、池上本門寺12世日惶上人の代に神田三河町に妙経院日等(慶長十八癸丑年五月十二日遷化)を開山として勧明山法養寺(池上本門寺末)を起立した。
慶長年間に下谷稲荷町へ移転、江戸時代には江戸城西御丸と大奥の祈祷所となった。
境内に熊谷稲荷大明神を祀り、江戸市中の信仰を集めた。
行事として、
正、五、九月に御祈祷、甲子の日(1年に6回)に大黒天御祈祷(1733~開始)
二月初午、九月廿二日稲荷大明神祭礼御祈祷(1735~開始)
十月祖師日蓮大士会式法要(寛文年間以降に開始)
があったようだ。
明治43年(1910)当地にあった妙教庵と合併、翌年池上へ移転、山号を妙教山に改めた。
2. 大奥との信仰的なつながり
資料2.によると、法養寺と江戸大奥との信仰的なつながりは、法華信者であった4代将軍家綱(1641-1680)の御台所顕子(高厳院、1640-1676)からで、寛文(1661~1673)以降にあたるとしている。 法養寺の祖師像は江戸城本丸に安置されていたものを高巌院が家綱に懇願して寄進したと伝えられる。 資料1.に高巌院建立の「日蓮大士之像」があり、このことと思われる。
ほかにも、寄進された像などが多数ある。
■熊谷稲荷大明神木像
元禄15年(1702) 熊谷安左衛門/開眼 法養寺所蔵
熊谷稲荷の本地仏である白狐に乗った熊谷大明神。厨子に「熊谷安左衛門 開眼之 法名一中日頼 元禄十五年壬午十一月吉日」と墨書がある。 元禄15年(1702)に彫刻された本像は、享保20年(1735)に法養寺に納められた。[資料2.より]
■大黒天木立像および鬼子母神木立像
享保18年(1733)5月 有徳院(吉宗)が納めた、とその由緒が「公用帳簿」に記されている。[資料2.より]
■釈迦涅槃図繍仏(1663)
寛文三年(1663)天真院様御寄附被遊候。絹地惣縫地像ニ御座候。釈尊之羅髪は則 天真院様御前髪を以、被為縫候由申伝候。[資料1.より]
紀伊徳川光貞室天真院が釈迦涅槃図繍仏を法養寺に寄進した。 天真院は伏見宮貞清親王女(安宮照子女王、照姫)(1625-1707)。 徳川光貞は吉宗の父。
寛文3年(1663)縫物師戸塚七兵衛によって制作された。[資料3.より]
■葵御紋附之戸帳水引
葵御紋附之戸帳水引之儀は、享保十八丑年二月竹姫君様御祈祷被仰付候節、御寄附被 遊候。[資料1.より]
3.竹姫(浄岸院)
この「葵御紋附之戸帳水引」については、特別展『大奥女中とゆかりの寺院』(平成25年5月~7月、江戸東京たてもの園)で
『竹姫付老女奉文』なるものが展示されていた。 残念ながら資料2.の図録にはまったく触れられていなかったので、展示内容を書き留めておいた。(以下下記に記す。)
「享保18年(1733)2月、竹姫が祈祷のため葵紋付戸張、水引を寄付することを竹姫付老女(とみ・岡田・藤元・つぼね)が連名で知らせている。将軍の息女は嫁しても将軍家族の立場を有する。 法養寺所蔵。
覚
葵御紋
―御戸張―
葵御紋―
―御水引―
右従
竹姫君様為御祈祷此度御寄附被遊倀永々御祈祷行可被致候
以上
享保十八年丑ノ二月
とみ
岡田
藤元
つぼね
法養寺
竹姫と法養寺の関係がいつからはわからないが、『竹姫付老女奉文』(1733年2月)作成の時点では、大黒天も稲荷大明神も法養寺にはなかった。
当時竹姫はご懐妊中で、この年享保18年(1733)5月1日、芝御守殿にて1女菊姫(眞含院 1733-1808)を生んでいる。 安産祈願と生まれてくる子供の武運長久を考えていたのかもしれない。
同じ年の五月に、吉宗から大黒天木立像および鬼子母神木立像が納めら、2年後に熊谷稲荷大明神木像が納められている。
奉文にある竹姫(1705-1772)付老女(とみ・岡田・藤元・つぼね)とは誰なのか調べてみた。
「大名藩邸における御守殿の構造と機能:綱吉養女松姫を中心に」(氷室史子・お茶の水史学第49巻:2005.12) 77-117)(資料4.)に『鹿児島県史料旧記雑録追録三ノ二』より作成とある「竹姫君様附女中充行」(表)に、
大上臈・とみ、大年寄・岡田がある。 年寄・藤えがあり、藤元としたのは藤えの見誤りのようである。つぼねは局・局としか書いていないが、資料4.に、
竹姫局の本性院、寂
享保18年(1733)7月25日、竹姫の局であった本性院が逝去し、祐天寺に葬られました。法号は本性院殿覚誉法順大姉です。本性院は享保13年(1728)に逝去した松平兵庫の娘であることがわかっています。
■参考文献 『徳川諸家系譜』4、『本堂過去霊名簿』
とあり、本性院のことと思われる。
残念ながら、同年7月25日には竹姫の局であった本性院が死去した。
本性院の墓は、祐天寺(目黒区)にある。 追葬合葬墓となっている。
見珠院殿性誉嘉延大姉 安永五丙申天(1777)七月三日 芝御守殿 芳川
祐天寺二世 香誉(花押) 本性院殿覚誉法順大姉 享保18癸丑天(1733)七月二十五日
栴林院殿本誉永昌大姉 寛政三辛亥天(1791)六月三日 松平兵庫 森衛
香誉とは香誉祐海のこと。
祐天寺には、本性院の舎利を納めた坐像が残る。
以上