歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

松江市・田和山遺跡 弥生中期後半の石製品(硯?)に最古の文字かは、油性マーカー痕

2022年09月09日 | 竹姫(浄岸院)
 2020年2月1日に田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品(硯と判断)にある文様について文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果が発表されたが、奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)などのチームが分析したところ、現代の油性マーカーの痕だとみられることが分かった。
 10日に千葉市で開かれる日本文化財科学会で発表される。
[参考:共同通信、奈良新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞]

関連情報ニュース・情報
 田和山遺跡
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朝倉市・下原遺跡 弥生中期中頃の硯が出土

2019年07月08日 | 竹姫(浄岸院)
 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で、福岡県朝倉市一木の下原遺跡で弥生時代中期中頃の硯(すずり)が出土していたことが分かった。内陸部は初めて。
 1981年の調査で住居跡から見つかり、当時は砥石(長さ14・6cm、幅6・7cm、厚さ2cm)とされていた。
[参考:2019.7.6 西日本新聞]
 
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八尾市・東弓削遺跡 由義宮跡(推定)から 「優婆夷」と墨書された土器(皿)が出土

2018年01月23日 | 竹姫(浄岸院)
 道鏡が建立した由義寺(ゆげでら)跡とされる大阪府八尾市の東弓削遺跡で、「優婆夷(うばい)」「寺」と墨で書かれた土器(素焼きの皿・直径17cm)が見つかっていたことが分かった。
 優婆夷は、在家の女性信徒を意味する。「優婆夷」と書かれた土器は全国でも例がないという。
 土器(皿)は塔跡の北東約600mの天皇の離宮「由義宮(ゆげのみや)」跡と推定される一角から出土した。皿の裏面に「優婆夷」と墨書されていた。その下にも1文字あり、土器が欠損して判読できないが、女性信者の個人名ともみられるという。
 墨書土器は、大阪府大阪狭山市池尻中の府立狭山池博物館の特別展で28日まで公開される。


関連ニュースおよび情報
 由義寺跡

 平安京跡左京八条三坊十四町(八条院町、現京都市下京区塩小路町)から、「尼優婆塞優婆夷求声聞者求辟支仏者求」と書かれた木簡が出土している。


道鏡の寺に女性パトロン? 由義寺跡から墨書土器、裏面に徳の高い女性信者表す「優婆夷」
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橿原市・新堂遺跡 5世紀前半の木製椅子、須恵器、馬の骨などが出土

2017年02月16日 | 竹姫(浄岸院)
 橿原市教委と奈良県立橿原考古研は15日、橿原市の新堂遺跡で、古墳時代中期(5世紀前半)の川の遺構から大規模なしがらみ(柵)遺構、木製の椅子、須恵器、柵、馬の骨などが多く出土したと発表した。
 大型店舗建設に伴い、市教委と橿考研が共同で約7000㎡を調査した。
① 幅約15~35m、深さ最大約2・5mの川跡を検出。川の勢いや流れを変えるためと考えられる大規模なしがらみ遺構が見つかった。
② 木製の椅子はコウヤマキの一木造りで、高さ約12cm、幅約35cm、奥行き約16cm。儀礼の場で使われた可能性があるという。曲線を生かした優美な造り。このほか、木づちや刀を模した祭祀具も見つかった。
③ 壺や甕、高坏、器台など70点以上が出土。朝鮮半島の伽耶地方産の特徴「火炎形透かし」といわれる穴の装飾をまねたものをはじめとし、試作品などのようなものも含まれ、朝鮮半島の文化を取り入れ日本で生産が始まった須恵器導入期の資料として注目される。 これまで知られていない須恵器の窯が近くにあった可能性があるともしている。
④ 馬とみられる肩甲骨や歯が出土し、複数の馬を飼っていた可能性もある。

 今回の出土品のうち、木製品以外は、15日から6月まで「歴史に憩う橿原市博物館」で展示される。
 腰かけなどは今月26日(日)と3月4日(土)の午後1時半から、同館そばのクリーンセンターで開く成果報告会で公開される。
[参考:共同通信、奈良新聞、読売新聞、産経新聞、毎日新聞、朝日新聞、NHKニュース、TVN奈良テレ放送]


古墳時代の首長級が座った?…木製の椅子出土
奈良・橿原の新堂遺跡で最古級の須恵器70点超出土…当時の生産体制を考える第1級資料
古墳時代の腰掛け?ほぼ完全な形で出土 奈良・新堂遺跡
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淡路市・舟木遺跡 弥生時代の鉄器工房跡が4棟出土

2017年01月25日 | 竹姫(浄岸院)
 兵庫県と淡路市の教育委員会が25日、淡路市舟木にある弥生時代後期の山間地集落遺跡「舟木遺跡」の発掘調査で、新たに鉄器生産工房跡と、手工業品を生産した可能性のある工房跡、鉄器などが見つかったと発表した。
 見つかった4棟の大型の竪穴建物跡のうち3棟は敷地が円形で直径が10mを超える大型で、うち1棟から4基の炉の跡が確認された。柱が外側に寄り中央部が広いことから、作業をする空間だったと想定される。また4棟全てから鉄器製作に使ったとみられる石器を多数発見。鉄器は計57点見つかり、鍛冶関連のほかに針状鉄器など小型工具が出土した。針状鉄器は小さいものでは長さ4mm、幅1mmで、何らかの手工業品を生産する大規模な工房群が存在した可能性があると指摘している。鉄の加工に使った台石や砥石など石製工具42点や、祭事用と考えられる弥生時代終末期(3世紀初頭)の土器も出土した。
 過去に同市で見つかった近畿最大の鉄器生産遺跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」(同市黒谷)を上回る規模とみられる。工房があった時期は同時に出土した土器の年代から、2世紀後半とみられる。 
 五斗長垣内遺跡では、鉄鏃などの武器類が多く出土した一方、舟木では明確に武器と認められるものはなかった。二つの集落はわずか約6kmの距離でほぼ同時期に存在していたが、生産物に違いがあることが判明。五斗長垣内が消滅した後も舟木で鉄器生産が続けられていたことも分かった。
 2月5日午後1時半から、北淡震災記念公園セミナーハウス(同市小倉)で発掘調査成果報告会が開かれる。
[参考:神戸新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 淡路市・垣内遺跡(五斗長垣内遺跡)


近畿最大?淡路に鉄器工房跡 弥生時代の舟木遺跡
淡路・舟木遺跡、弥生鉄器の大産地か 工房が集中
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江戸城・松の廊下での刃傷事件直後の書状発見

2016年12月03日 | 竹姫(浄岸院)
 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の本願寺史料研究所は2日、「忠臣蔵」で知られる吉良上野介義央(1641-1702)が、元禄14年(1701)3月14日、江戸城・松の廊下で、浅野内匠頭長矩(1667-1701)に切りつけられた刃傷(にんじょう)事件の直後に上野介の様子などを記した文書が見つかったと発表した。
 同寺と築地御坊(現・築地本願寺)がやり取りした手紙の写しがとじ込まれた「江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうとどめちょう)」に、元禄14年(1701)1月20日から翌15年12月24日まで、刃傷事件をめぐる寺や吉良側の対応、討ち入りに対する受け止めなどが記録されていた。
 西本願寺と吉良家が特別な関係にあったことを裏付ける、大変貴な発見としている。
 西本願寺は豊臣家と縁が深かったが、徳川幕府との関係構築に苦心するなかで、幕府の儀式典礼などを担う高家の役職だった吉良家と関係を密にしていた。
 元禄14年(1701)3月21日の手紙では、上野介が浅野内匠頭に斬られたことについて、築地御坊が「吉良上野介に対し浅野内匠頭、三月十四日不慮之儀(不慮の事件)があった」と西本願寺の宗主に伝え、宗主から「吉良殿へのお見舞いの使者の儀、ご口上を致す使者をよろしく遣わせ」として、上野介の見舞いを指示されたと記されていた。
 同年4月5日には、事件後の上野介について「お痛みも軽く、食事も相変わることがない由、ご注進を受けた」と記載。同寺は「浅野内匠頭殿の乱心の様子を承りたいが、委細の様子が上申されていない。そちらでの噂うわさの様子をくわしく聞いておくよう」と情報収集を命じていた。
 さらに同月10日付の手紙では、「吉良上野介殿、松之坊とご直談、ご口上の内容を宗主に披露を遂げた」とし、西本願寺側が上野介に事件の事情聴取をしたことが示されている。
元禄15年12月14日の赤穂浪士討ち入り後の24日の書状には、討ち入りに対して「驚いたことである。言語に絶える」と表現していた。
 このほか、吉良本人が西本願寺にあてた書状1通、父・義冬(よしふゆ)が西本願寺にあてた書状3通、西本願寺の江戸在勤の担当者が同寺にあてた書状1通もみつかった。
 吉良が書いた書状には、年の明暦の大火で焼失した江戸御坊(築地本願寺)の再興が順調に進んでいることを喜ぶ内容が記され、吉良家と西本願寺が親密な関係だったことをうかがわせる。
 刃傷事件は19世紀前半に江戸幕府が編さんした「徳川実紀」でも取り上げられているがやはり乱心の理由は記されていない。
[参考:共同通信、時事通信、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]

 この刃傷事件に、徳川綱吉の養女・竹姫が間接的に関係している。
  元禄14年(1701)清閑寺熙定は、霊元上皇の使者として江戸へ下向した時に、この刃傷事件が起きた。清閑寺熙定は竹姫の実父である。
 享保2年(1717)6月3日 医員・熊谷玄興直暉、津軽意三楽信 竹姫御方につけられ。(徳川実紀)
  津軽意三楽信は内科医で、刃傷事件当時の当直医であった。

「吉良殿御痛も軽ク」… 刃傷事件直後の記録見つかる
「吉良殿、お痛み軽く」西本願寺が上野介聴取 忠臣蔵記録、本願寺史料研究所で見つかる
刃傷事件後「痛み軽い」=吉良上野介と面談―西本願寺で史料発見・京都
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竹姫(浄岸院)と勧明山法養寺(妙教山法養寺)

2013年07月09日 | 竹姫(浄岸院)
 今年の5月18日から7月7日まで開催された江戸東京たてもの園(小金井市)での『大奥女中とゆかりの寺院』を見ました。
 300円にしては立派な図録を購入しましたが、その図録には載っていない8代将軍吉宗の息女・竹姫(浄岸院)の勧明山法養寺(現、妙教山法養寺)に関する『竹姫付老女奉文』(1733年2月)が展示されていました。その連名者の一人「つぼね」が祐天寺に埋葬されている本性院と思われ、それらを併せて紹介したいと思います。

参考出典
資料1. 『御府内備考(ごふないびこう)』(文政12年(1829))
資料2. 『大奥女中とゆかりの寺院』(平成25年(2013)5月江戸東京たてもの園)
資料3. 『日蓮宗ホームページ→日蓮宗東京都南部宗務所』
資料4. 『祐天寺ホームページ』

1.妙教山法養寺(旧、勧明山法養寺)
 資料1.および3.によると、天正六戊寅年(1578)、池上本門寺12世日惶上人の代に神田三河町に妙経院日等(慶長十八癸丑年五月十二日遷化)を開山として勧明山法養寺(池上本門寺末)を起立した。
 慶長年間に下谷稲荷町へ移転、江戸時代には江戸城西御丸と大奥の祈祷所となった。
 境内に熊谷稲荷大明神を祀り、江戸市中の信仰を集めた。
行事として、
 正、五、九月に御祈祷、甲子の日(1年に6回)に大黒天御祈祷(1733~開始)
 二月初午、九月廿二日稲荷大明神祭礼御祈祷(1735~開始)
 十月祖師日蓮大士会式法要(寛文年間以降に開始)
があったようだ。
 明治43年(1910)当地にあった妙教庵と合併、翌年池上へ移転、山号を妙教山に改めた。

2. 大奥との信仰的なつながり
 資料2.によると、法養寺と江戸大奥との信仰的なつながりは、法華信者であった4代将軍家綱(1641-1680)の御台所顕子(高厳院、1640-1676)からで、寛文(1661~1673)以降にあたるとしている。 法養寺の祖師像は江戸城本丸に安置されていたものを高巌院が家綱に懇願して寄進したと伝えられる。 資料1.に高巌院建立の「日蓮大士之像」があり、このことと思われる。
 ほかにも、寄進された像などが多数ある。

■熊谷稲荷大明神木像
 元禄15年(1702) 熊谷安左衛門/開眼 法養寺所蔵
 熊谷稲荷の本地仏である白狐に乗った熊谷大明神。厨子に「熊谷安左衛門 開眼之 法名一中日頼 元禄十五年壬午十一月吉日」と墨書がある。 元禄15年(1702)に彫刻された本像は、享保20年(1735)に法養寺に納められた。[資料2.より]

■大黒天木立像および鬼子母神木立像
享保18年(1733)5月 有徳院(吉宗)が納めた、とその由緒が「公用帳簿」に記されている。[資料2.より]

■釈迦涅槃図繍仏(1663)
 寛文三年(1663)天真院様御寄附被遊候。絹地惣縫地像ニ御座候。釈尊之羅髪は則 天真院様御前髪を以、被為縫候由申伝候。[資料1.より]
 紀伊徳川光貞室天真院が釈迦涅槃図繍仏を法養寺に寄進した。 天真院は伏見宮貞清親王女(安宮照子女王、照姫)(1625-1707)。 徳川光貞は吉宗の父。
 寛文3年(1663)縫物師戸塚七兵衛によって制作された。[資料3.より]

■葵御紋附之戸帳水引
 葵御紋附之戸帳水引之儀は、享保十八丑年二月竹姫君様御祈祷被仰付候節、御寄附被 遊候。[資料1.より]

3.竹姫(浄岸院)
 この「葵御紋附之戸帳水引」については、特別展『大奥女中とゆかりの寺院』(平成25年5月~7月、江戸東京たてもの園)で
『竹姫付老女奉文』なるものが展示されていた。 残念ながら資料2.の図録にはまったく触れられていなかったので、展示内容を書き留めておいた。(以下下記に記す。)

 「享保18年(1733)2月、竹姫が祈祷のため葵紋付戸張、水引を寄付することを竹姫付老女(とみ・岡田・藤元・つぼね)が連名で知らせている。将軍の息女は嫁しても将軍家族の立場を有する。 法養寺所蔵。


葵御紋
―御戸張―
葵御紋―
―御水引―
右従
竹姫君様為御祈祷此度御寄附被遊倀永々御祈祷行可被致候 
      以上
享保十八年丑ノ二月
とみ
岡田
藤元
つぼね
       法養寺


 竹姫と法養寺の関係がいつからはわからないが、『竹姫付老女奉文』(1733年2月)作成の時点では、大黒天も稲荷大明神も法養寺にはなかった。
 当時竹姫はご懐妊中で、この年享保18年(1733)5月1日、芝御守殿にて1女菊姫(眞含院 1733-1808)を生んでいる。 安産祈願と生まれてくる子供の武運長久を考えていたのかもしれない。
 同じ年の五月に、吉宗から大黒天木立像および鬼子母神木立像が納めら、2年後に熊谷稲荷大明神木像が納められている。

 奉文にある竹姫(1705-1772)付老女(とみ・岡田・藤元・つぼね)とは誰なのか調べてみた。
 「大名藩邸における御守殿の構造と機能:綱吉養女松姫を中心に」(氷室史子・お茶の水史学第49巻:2005.12) 77-117)(資料4.)に『鹿児島県史料旧記雑録追録三ノ二』より作成とある「竹姫君様附女中充行」(表)に、
 大上臈・とみ、大年寄・岡田がある。 年寄・藤えがあり、藤元としたのは藤えの見誤りのようである。つぼねは局・局としか書いていないが、資料4.に、
竹姫局の本性院、寂
 享保18年(1733)7月25日、竹姫の局であった本性院が逝去し、祐天寺に葬られました。法号は本性院殿覚誉法順大姉です。本性院は享保13年(1728)に逝去した松平兵庫の娘であることがわかっています。
■参考文献 『徳川諸家系譜』4、『本堂過去霊名簿』

 とあり、本性院のことと思われる。
 残念ながら、同年7月25日には竹姫の局であった本性院が死去した。
 本性院の墓は、祐天寺(目黒区)にある。 追葬合葬墓となっている。

                   見珠院殿性誉嘉延大姉    安永五丙申天(1777)七月三日 芝御守殿 芳川
祐天寺二世 香誉(花押)   本性院殿覚誉法順大姉     享保18癸丑天(1733)七月二十五日
                   栴林院殿本誉永昌大姉    寛政三辛亥天(1791)六月三日 松平兵庫 森衛 

香誉とは香誉祐海のこと。
祐天寺には、本性院の舎利を納めた坐像が残る。
                  以上
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東京都目黒区・祐天寺 江姫・崇源院宮殿を初公開/江戸東京博物館

2010年12月27日 | 竹姫(浄岸院)
 
祐天寺の仁王門(左)  阿弥陀堂(右)  ともに竹姫の寄進による。(2011.4.7撮影)

 来年NHK大河ドラマ「江姫たちの戦国」のヒロイン 浅井三姉妹(注1)の三女・江の生涯を紹介する特別展「2011年NHK大河ドラマ特別展 江姫たちの戦国」が1月2日~2月20日、「江戸東京博物館」(東京都墨田区)で開催される。
 今回、江・崇源院の厨子「崇源院宮殿(すうげんいん・くうでん)」が初公開される。

(注1) 浅井長政(あざいながまさ)の三姉妹 母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)
■茶々(淀殿、1569?-1615) 大虞院 豊臣秀吉の側室 墓所は京都市東山区の養源院(浄土真宗)、大阪市北区の太融寺(真言宗)、ただし、遺体が確認されていない。
■初(1570?-1633) 常高院 京極高次の正室 墓所は若狭(小浜市)の常高寺(臨済宗)
■江(1573-1626) 崇源院 徳川秀忠の正室 墓所は芝・増上寺(浄土宗)。霊屋は鎌倉市の建長寺(臨済宗)に移築。高野山奥の院(真言宗)にも墓所がある。

 崇源院宮殿と崇源院の位牌はもともと静岡市の宝台院(浄土宗、徳川秀忠の生母・西郷局の菩提寺)にあり、江戸時代に宮殿は東京都目黒区の祐天寺(浄土宗)に、位牌は芝・増上寺に移された。(注2) 位牌は戦時中の空襲で焼失したとされる。宮殿は徳川家康のもの(注3)と伝えられていたが、08年に祐天寺が修復の際、屋根組みの柱に「寛永五年(1628) ……建立 宗源院様御玉家(おたまや)」の墨書を確認した。 江の息子・徳川忠長が、寛永5年9月に徳川家の菩提寺である芝・増上寺に宛てて書いた手紙に、「(幕府に無断で)駿府に母親の霊廟を造るよう命じたので、(増上寺での)三回忌の法会に参会できなくなった」(読売新聞参照)とあることから、駿府城(静岡市)にいた忠長が造り、後に祐天寺に移されたものであることが分かった。
 宮殿とは、仏像や位牌を安置する厨子の一種。高さ2.38m、幅2.1m、奥行き1.35mで、金箔を使い、極彩色の外観で、内部には極楽をイメージした蓮華や飛天が描かれている。外装には蓮華の文様や逆蓮(ぎゃくれん)の彫刻が施されている。
[参考:読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、共同通信]

(注2) 祐天寺は祐海上人(1682-1760)が祐天上人(1637-1718)の廟所を設けるために下目黒にあった善久院を買い取り、建立したものであり、時期は享保3年(1718)。この時はまだ祐天寺の寺号をつけることが許されず、明顕山善久院祐天寺と呼ぶことが認められたのは享保7年(1722)のこと。
 徳川家から、堂宇、仏像、厨子など多くの寄進があったが、特に、5代綱吉の息女(養女)竹姫(浄岸院 1705-1772)は享保4年(1719)に祐天上人宮殿をはじめとして、その後も阿弥陀如来尊像および阿弥陀堂、仁王像および仁王門、法然上人像などの寄進を重ねた。竹姫は1708年と1716年に2度の婚約が整いながら、相手が早世するということがあり、篤い信仰心が生じたのだろうと推測する。 享保14年(1729)に薩摩藩主島津継豊に入輿し、その後島津家と徳川家との縁戚関係を深め、外様であった薩摩藩の発言力を高めるに至った努力は、後の篤姫(天璋院 1836-1883)と比べても多大な貢献を行っている。 安永元年(1772年)12月5日、江戸の薩摩藩邸で死去した。法名は浄岸院信誉清仁祐光大禅定尼。祐天寺に位牌が納められた。墓所は鹿児島市の島津家墓所・福昌寺(曹洞宗)に葬られた。
 また、竹姫は島津継豊との間に1女として菊姫(眞含院 1733-1808)をもうけた。 菊姫は福岡藩・黒田重政(1737-1762)と結ばれ1男2女を生むが、長女・屋世(黒田治之室)以外は夭折。福岡藩主・黒田継高は一橋徳川家・初代当主・徳川宗尹の五男・治之(1753-1781)を養子に迎え屋世と結婚するが、屋世も11歳で死去。黒田本家の血統は男系女系とも途絶えたとともに、竹姫の血統も途絶えた。 興味深い人物であるので採り上げてみた。

(注3) 祐天寺HPに、「享保9年(1724)11月13日、宝台院の前住職である欣説が入寂しました。祐天寺に宮殿を寄進した人物です。」とあり、家康のものと伝えられた宮殿すなわち崇源院宮殿のことか。そうなると、崇源院宮殿は1718~1724年の間に祐天寺に納められていたことになる。[参考:祐天寺HP]
 さらに、祐天寺を訪れた際に、祐天寺発行の「寺宝で綴る*祐天上人と祐天寺」(平成17年発行)を購入。その中に、この宮殿があった。宮殿のことには一言も触れられていなかったが、徳川家康像が納められており、それについての説明が記されていた。 5代綱吉が増上寺安国殿の家康像を写し、竹姫に贈り、竹姫が祐天寺に納めたとある。 また、別説もあるようだが、いずれにしても、この宮殿が家康のものと伝えられてきたために、家康像を納めたか、あるいは、家康像を納めたために家康の宮殿と伝われてきたかと推定される。

2011.1.31追記
 1月28日に「江~姫たちの戦国~」展(江戸東京博物館)を観てきました。金色に輝く宮殿の写真を撮りたかったのですが、残念なことに写真撮影禁止でした。 代わりに図録を購入しました。 上述の文に補足をする内容があり、大変参考になりました。 それは、祐天寺住職・巖谷勝正住職の書かれた「崇源院様の宮殿」です。
 まずは、宝台院の住職であった「欣説」の法号名と読みについてです。実は祐天寺HPに(参考文献 『本堂過去霊名簿』、『浄土宗大辞典』として)も記されていましたが、光蓮社瑞誉上人即到欣説(こうれんじゃずいよじょうにんそくとうごんせつ)大和尚でした。「欣」は、今の時代は「きん」と読むことが多いですが、当時は欣求浄土のように「ごん」と読まれていました。 宝台院十七世欽説の項に「八代将軍(吉宗)の命により崇源院殿の御霊屋を廃し位牌を増上寺内の崇源院殿の宮殿へ安置す」と記録されており、これを裏付ける記録が「増上寺目鑑」享保8年(1723)11月の項に、増上寺に崇源院殿の尊牌が到着し、御霊屋内の宮殿に安置したとあるそうです。 したがって、崇源院宮殿も同じ頃に祐天寺に移されたとみているようです。 さらに、驚くべきは、祐天寺の土地は崇源院の領地であったことでした。 「上、中、下目黒および衾村は入国後徳川氏の直轄地となったが、(略) 他の十数ヵ村とともに (略) 崇源院徳子の化粧料として宛てがわれた」とあるそうです。
 目黒区のHPにも、
■天正18年(1590) 三田村・上目黒村・中目黒村・下目黒村が徳川氏の直轄地に、碑文谷村の一部が旗本神谷氏の知行地となる
■寛永9年(1632) 2代将軍秀忠夫人崇源院の遺領(上目黒村・下目黒村・衾村・碑文谷村の4ヵ村の一部)が、増上寺に寄進される。
■延享3年(1746) 下目黒村・中目黒村の町並地が町奉行支配地となり、下目黒町、中目黒町と唱える。
 と記されていました。
[参考:2011年NHK大河ドラマ特別展「江~姫たちの戦国~」図録、目黒区HP]

お江の位牌納めた「宮殿」、東京・祐天寺で確認(読売新聞) - goo ニュース

関連情報
 2011.1.28千駄ヶ谷村・霊山寺領 崇源院(江姫)の寄進によるもの
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