歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

福井県若狭町・藤井岡古墳 甲冑形埴輪が出土 大和政権との関わりを示す

2015年08月28日 | Weblog
 若狭町と花園大(京都市)考古学研究室などが26日、若狭町藤井の5世紀初頭の藤井岡古墳(直径約23m、高さ約4mの円墳)で、甲冑をまとった埴輪の一部が見つかったと発表した。
平成25年の調査に続いて、同考古学研究室などが、形状や装飾の状況を詳しく調べるため、今月6日から発掘調査を行っている。
 大和政権の工人が作っていたとされる「甲冑形埴輪のかけらが多数出土した。埴輪は推定高さ60cm、幅50cm程度で、古墳の上部に並べられていたとみられる。 同古墳は山の尾根を生かした作りになっており、斜面には葺石も確認された。 葺石や甲冑形埴輪を備えた様式などから大和政権との深い関係が確認されたとしている。
現地説明会が29日に行われる。若狭町民向けが午前10時から、一般向けが午前11時から。

 藤井岡古墳から南西に約10km離れた若狭町脇袋には、古墳時代中期の上ノ塚古墳(全長100mの前方後円墳)が存在する。
 同様の埴輪は小浜市の太興寺古墳群(5世紀末)でも見つかっているが、今回の方が古い。
[参考:中日新聞、産経新聞、読売新聞、朝日新聞]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼玉県最古の仏像 越谷市・野島山浄山寺の木造地蔵菩薩立像

2015年08月25日 | Weblog


 昨日(8/24)は、浄山寺(越谷市野島32)の地蔵菩薩立像が公開(ご開帳)され、拝観に行ってきました。
 ご開帳日に併せて、山門および本堂には葵の紋の幕が飾られています。
 十六菊花紋が浮彫で飾られている厨子の中に納められた像高約1mの地蔵菩薩立像は、彩色された後も残り、胸の筋肉が張った力強さを持ちながらも、袈裟の襞(衣文)も緻密に彫られ、端正な佇まいに見えます。右手には錫杖、左手には宝珠を持っています。
 埼玉県の最古の古仏と云えば、数年前には桂木寺(毛呂山町)の木造伝釈迦如来坐像(平安時代10世紀後半)でした。
 真言宗智山派密蔵院(上尾市平塚)にある日光・月光菩薩立像は平安時代後期の作といわれていましたが、日光菩薩立像は、カヤ材の一木造りで、平安初期の特徴を受け継いでいるといわれ、制作時期は11世紀ごろに遡りました。月光菩薩立像はヒノキ材の寄せ木造りで、定朝様であり、12世紀の制作とみられています。
 そして、野島山浄山寺の木造地蔵菩薩立像は、これまで秘仏として調査されたことがなく、慈覚大師(円仁、794-864)の作と伝えられてきました。ところが、2011年3月11日の東日本大震災で、倒れて両足が損壊したため、修復と鑑定を行った結果、平安時代初期にあたる9世紀に作られた非常に古い像であることが判明したそうです。したがって、この地蔵菩薩立像が埼玉県最古の仏像となります。

現在の埼玉県の古い仏像を古い順に並べてみると下記のようになります。
 浄山寺(越谷市野島)の木造地蔵菩薩立像
  一木造 彫眼 カヤ材 彩色 像高92.5㎝ 平安時代9世紀。(9世紀初期に遡る見解もあるが要観察)
 桂木寺(毛呂山町)の木造伝釈迦如来坐像
  一木造 掘眼 カヤ材 像高 75cm 平安時代10世紀後半
 密蔵院(上尾市平塚)の日光菩薩
  一木造 掘眼 カヤ材 像高106.7cm 平安時代11世紀
 密蔵院と同時期のもの、あるいは調査が行われていない古仏もありますが、ここでは省略します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御所市・中西遺跡 古墳時代前期(4世紀前半)を中心とする竪穴建物群(最大規模の集落跡)が見つかる 

2015年08月21日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が19日、御所市室、條にまたがる中西遺跡で、古墳時代前期(4世紀前半)を中心とする竪穴建物跡26棟が出土した発表した。
 遺構は北東側に広がる大規模な集落遺跡で、秋津遺跡と一体となることが判明した。 秋津遺跡を含め、これまでに竪穴建物は計81棟になる。 集落全体の範囲は南北約400m、東西200m以上に及び、さらに北側や西側に広がる可能性がある。
全体は祭祀空間と居住空間が区画されており、計画的に配置した古墳時代前期の集落では最大の規模としている。
 建物は一辺が3~6.5mで、これらは西南西―東北東方向の溝で北側と南側の群に区画され、北群は秋津遺跡へとつながる。 建物群や溝の方位も秋津遺跡の集落遺構と一致した。
 高杯や小型丸底壷などの大量の土器や、鏡形の石製模造品1点(直径6・1cm)が出土しており、集落内の祭祀で使われたとみられる。
 秋津遺跡ではこれまでに、祭祀用と考えられる塀で囲まれた方形区画や独立棟(むね)持ち柱建物、居住用の竪穴建物などを検出している。 中西遺跡も含めて集落内部は、溝や柵で囲む区画は祭祀の空間、竪穴建物は居住の場と計画的に配置されたらしい。
 秋津遺跡については、初期ヤマト政権が直営した祭祀施設や、5世紀に周辺地域を本拠とした葛城氏の居館との見方がある。
 現地説明会は23日午前10時から午後3時まで開かれる。
[参考:奈良新聞、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞、産経新聞、ABC関西ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 秋津遺跡
 中西遺跡


【発見】中西遺跡で最大規模の集落遺構
奈良の中西遺跡で溝跡など出土 4世紀最大の建物群か



キーワード: 独立棟持柱建物、秋津・中西遺跡

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南あわじ市松帆地区 松帆銅鐸、「ひも」を初確認

2015年08月14日 | Weblog
 奈良文化財研究所や同県教育委員会などが12日、兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった「松帆銅鐸」7個(弥生時代前期―中期)のうち2個で、上部の釣り手部分にあたる「鈕(ちゅう)」と、音を鳴らす棒「舌(ぜつ)」にひもが残っていたと発表した。
銅鐸や舌を吊り下げるためのひもが確認されたのは全国で初めて。「銅鐸を木などに吊るして鳴らしたことが裏付けられた」としている。・・・「聞く銅鐸」
 ひもが残っていたのはエックス線CT検査で、内部に舌が確認された3、4号銅鐸(ともに、弥生時代中期の外縁付鈕式1式)。二つの銅鐸は大きい方(3号)の中に小さい方(4号)をはめ込んだ「入れ子」の状態で、7月下旬に3号の中から4号を取り出し内部の砂を除去し調査した。
 3号は、鈕の頂部付近に太さ約2mmのひも(よりひも)と痕跡が残存。舌には太さ約5mmのひもを通し穴にくぐらせて縛って固定していた。
 4号は、鈕の頂部で複数本のひもの痕跡が残存。舌の穴に、太さ約4mmのひも(組みひも)が通った状態で残っていた。
 ひもの原料は麻か、イラクサ科の多年草「からむし」の可能性があり、ねじったり、組み合わせたりしており、太さ4~5mm。
銅鐸から溶け出した銅イオンの防腐効果で残ったとみられる。舌の下端や銅鐸内部にはイネ科などと推定される草の葉らしい植物も付着。
 13~16日に南あわじ市滝川記念美術館でひもの写真などが展示される。
[参考:読売新聞、奈良新聞、産経新聞、朝日新聞、神戸新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース情報
南あわじ市松帆地区 弥生時代の古式銅鐸(松帆銅鐸)が7個出土



銅鐸、つり下げて使用か? ひもの一部を初確認 淡路島

【淡路銅鐸】植物繊維ひも初発見 本体と音を鳴らす舌を結んだか 具体的使い方わかる

淡路島出土の銅鐸からひも確認 つるして使用か

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県高取町・森ヲチヲサ遺跡 5世紀後半、最大級の大壁建物跡が出土

2015年08月01日 | Weblog
 高取町教委が30日、森ヲチヲサ遺跡(高取町森)で、約13.5m四方(約180㎡)の大壁建物跡(5世紀後半)が見つかったと発表した。
朝鮮半島由来とされる大壁建物としては全国最大級。同半島の床暖房「オンドル」とみられる遺構も出土し、渡来人の有力者の建物とみられる。
 大壁建物は、並んで立てられた木の柱を塗り込めた厚い壁が特徴で、これまでに奈良県や滋賀県を中心におよそ120件見つかっているが、同町内では約40例確認されている。古代のオンドルは同町の清水谷遺跡や観覚寺遺跡、大津市の穴太遺跡に次いで4例目になる。
 5月から約500㎡を調査した結果、「大壁建物」3棟の跡が見つかった。このうち最も大型の1棟は、大壁建物跡の全体が出土。長さ13.5mの溝(幅約50cm)で囲まれ、中に直径約20cmの柱穴が約50cm間隔で並んでいた。建物東側には石敷きがあり、溝が約3mにわたって途切れているため、その辺りに建物の入り口があったとみられる。
 近くでは、約1・1m四方の穴と、そこから建物内の西に延びて北に屈曲する溝が出土し、中に炭化物が交じっていた。かまどの煙を床に通して部屋を暖める、「オンドル」とみられる遺構という。
 そのほか5世紀後半の韓式系土器、滑石製勾玉なども出土した。
 日本書紀には、5世紀後半の雄略天皇の時代に、朝鮮半島からの渡来人、身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)が中国・呉に派遣され、連れ帰った技術者らを、遺跡周辺を指すとみられる「檜隈野(ひのくまのの)」に住まわせたことなどが記されている。檜隈は高取町や明日香村の一部を指す地名と考えられている。
 同町の薩摩遺跡では「檜前村主」と書かれた古代の木簡も出土しており、5世紀後半ごろの檜隈氏は、同町を含む檜隈の地に居住していたと考えられるという。
 遺跡近くには紀伊(和歌山県)へと通じる古代の官道「紀路」があり、周辺に古い渡来人が居住していたとみられる。
 現地説明会は8月1日午前10時~午後4時に開催される。小雨決行。
[参考:奈良新聞、共同通信、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、毎日新聞、NHKニュース]

<参考> 『日本書紀』
■雄略天皇二年(戊戌458)十月是月。置史戸。河上舍人部。天皇以心爲師。誤殺人衆。天下誹謗言。太惡天皇也。唯所愛寵。史部身狹村主青。桧隈民使博徳等也。
■雄略天皇八年(甲辰464)二月。遣身狹村主青。桧隈民使博徳使於呉國。
■雄略天皇十年(丙午466) 秋九月乙酉朔戊子(4日)。身狹村主青等將呉所獻二鵝到於筑紫。
■雄略天皇十二年(戊申468) 夏四月丙子朔己卯。身狹村主青與桧隈民使博徳出使于呉。
■雄略天皇十四年(庚戌470) 春正月丙寅朔戊寅(13日)。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。
■雄略天皇十四年(庚戌470) 三月。命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。

過去の関連ニュース・情報
 大壁建物
大壁造り建物

奈良・高取町で最大級の大壁建物跡出土 檜隈氏の関連有力者住居か


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする