歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

明日香村・檜隈寺跡 「呉」の異体字記した瓦出土

2008年11月30日 | Weblog
明日香村・檜隈寺跡 「呉」の異体字「吴」記した瓦出土
 明日香村教委が29日発掘調査報告会で、明日香村檜前の檜隈寺跡(国史跡)近くで、「呉」の異体字「吴」(注)が記された7世紀後半の瓦が8月に出土したことを明らかにした。(注:口の下の天は、縦の棒がなくニの下に人を書いている)
文字が記されていたのは軒丸瓦(直径16cm、厚さ3cm)2枚の裏側で、いずれもヘラのようなもので刻んであった。瓦の模様から7世紀後半のものと見られる。
同様の瓦は過去に同寺跡近くで拾われたことがあるが、発掘調査で見つかるのは初めて。檜隈寺の造営に、渡来系氏族の呉原氏(くれはらうじ)がかかわったことを示しているのではとみる。
 檜隈寺は、この地域の渡来系氏族の総称である東漢氏(やまとのあやうじ)が建てたとされ、寺跡のある檜前地区のすぐ東に東漢氏の一派の呉原氏の本拠地だったとされる栗原地区がある。
[参考:朝日新聞]

[9月25日掲載分]
東漢氏の再興期の居宅跡か 700年前後の建物群跡が出土
 飛鳥時代(7世紀)の有力渡来系氏族、東漢(やまとのあや)氏の拠点とされる奈良県明日香村の檜前(ひのくま)遺跡で、7世紀後半~8世紀前半の大規模な建物群跡が見つかったことを村教委が25日発表した。
 東漢氏の氏寺される檜隈(ひのくま)寺跡に近く、同氏の居宅跡の可能性が高いという。東漢氏は、当時権力をふるった蘇我氏と密接な関係があったとされるが、日本書紀などでの記載は乏しく、今回の発見は謎に包まれた一族の実態を知る上で貴重な資料となりそうだ。
 建物跡は、檜隈寺跡の南約200mの見晴らしのよい尾根上に、5棟がほぼ1列に並んだ状態で見つかった。最大の建物は南北3・6m、東西10・5mの床張り構造で、すぐ南側には庇の付いた建物跡(南北3・6m以上、東西5・4m)、中央部で間仕切り用の柱のある建物跡(東西7・5m、南北3m)などが見つかった。
東漢氏は、大陸の最先端技術を日本にもたらし、外交や軍事面で権力を築いたが、大化の改新(645年)による蘇我氏滅亡とともに衰退。677年には天武天皇に「七つの大罪を犯した」と指弾されたが、存続を許されて再び力をつけた。今回の建物群跡は、東漢氏の再興期に建てられた可能性が高く、一族の復興のシンボルとなる寺の造営や維持管理に携わった人が住んだのではないかとみている。約100年の間に3時期に分けられ、数回建て替えられたとみられる。東漢氏が飛鳥の都近くを拠点に暮らしていたことを裏付けた。
[参考:共同通信、産経新聞、前出]

 明日香村HPでは、表題の現地見学会を予定しています。
 
今年の6月には、檜隈寺跡から白鳳-天平期の金銅仏が出土
しており、その関連など、中身が気にかかるところです。

 明日香村教育委員会では、昨年度より国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区整備に伴う発掘調査を実施しています。
 今年度の調査で、檜隈寺の南方約200mの地点で、東漢氏の居住地に関わる建物群が見つかりましたので、下記の日程で現地見学会を開催いたします。
■ 日時: 平成20年9月27日(土) 午前10:00~午後3:00
■ 場 所: 発掘調査現場(於美阿志神社の南方約200m) (奈良県高市郡明日香村大字桧前地内)
■ 内容: 東漢氏に居住地に関わる建物群
■ 備考: 現地での説明はありません。
[参考:明日香村HP→発掘成果情報]

現地見学会に600人が訪れたと報道 [参考:9/28読売新聞]
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奥州市・白鳥舘遺跡 初の「藤原氏時代」遺構

2008年11月29日 | Weblog
 奥州市前沢区の国史跡白鳥舘(しろとりたて)遺跡から、奥州市世界遺産登録推進室の発掘調査で奥州藤原氏と同時期・12世紀後半とみられる2棟の建物跡と溝跡などの遺構が見つかった。
 建物跡はほぼ同規模(南北約4m、東西8・5m以上)で、重なるように位置していた。片方の建物南側には庇(約1・6m)があり、建物跡を東西に横切るように約5・5mの溝跡(幅約40cm)があった。かわらけなどの出土品から時代を特定した。
 平泉町で見つかった遺構と同規模で、庇があることなどの特徴が合致していることから、藤原氏との深い係りがあらためて証明された。
 現地説明会は30日午後1時半から開かれる。
[参考:岩手日報]

白鳥舘遺跡
 岩手県奥州市にある藤原清衡の祖父に当たる安倍頼時の八男・白鳥八郎則任の居城跡と伝えられる遺跡である。
 S字型に蛇行する北上川に周囲を180度以上囲まれる天然の要害であり、10世紀から16世紀まで北上川の要衝地として利用されてきた。衣川区の長者ヶ原廃寺跡とともに国の史跡「柳之御所・平泉遺跡群」に追加指定された。
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中国浙江省・田螺山遺跡 6000年前の茶畑か、栽培起源示す

2008年11月29日 | Weblog
 中国浙江省の初期稲作集落跡・田螺山遺跡で、6000-5500年前の地層から世界最古の茶畑とみられる遺構が見つかり、金沢大の中村慎一教授(考古学)らの日中共同研究グループがこのほど、金沢市で開かれた成果報告会で発表した。
 共同研究グループによると、当時の地表に掘られた縦約3m、横約2mの穴の中から、木の根が10数株出土。低湿地で保存状態が良く、顕微鏡で組織を調べたところ、ツバキ属と分かった。列状に並んでおり、植樹されたとみられる。約5m離れた場所でも同様のものが見つかった。
 ツバキ属にはツバキやサザンカ、茶の木がある。研究グループは、つばき油の採取には樹木数が少なすぎると判断。樹高がかなり低そうで葉を摘むのに適しているなどとして、茶の木の可能性が高く、数mおきにまとめて植えた茶畑と推定した。
 茶は中国・雲南地方が野生種の発祥地とされるが、紀元前1世紀(前漢)の文献の記述が最も古く、それ以前の状況は分かっていない。今回の発見は、茶が予想以上に前から親しまれていた可能性を示すとともに、栽培の起源を探る上で貴重な成果となりそうだ。
 12月13日に、下記要領により講演会が開催される。

サテライト・プラザミニ講演 中国の初期稲作遺跡を掘る―浙江省田螺山遺跡の日中共同調査―
日   時: 2008年12月13日(土) 14:00~15:30
開催場所: 金沢大学サテライト・プラザ、金沢市西町教育研修館内(西町3-16)
講   師: 中村慎一 (金沢大学人文学類教授)
講演内容
 中国浙江省余姚市にある田螺山遺跡は約7000年前の初期稲作文化の集落跡である。地下水位下に埋もれていた遺跡には,人骨・動物骨,木材,植物種実などの有機質遺物がきわめて良好な状態で保存されていた。「中国のポンペイ」ともいえるこの遺跡で,われわれは中国の研究機関と共同で自然遺物を中心とする調査・研究を展開している。世界最古の「茶畑」の発見など,これまでにいくつもの重要な成果が挙がっている。その一端を数多くの写真を交えながら紹介する
対   象: 入場無料。誰でも参加可。事前の申込は不要。
問合せ・申し込み:金沢大学サテライト・プラザ TEL:076-232-5343 FAX:076-232-5383
[参考:共同通信、金沢大学]

中国で6千年前の茶畑 浙江省・田螺山、起源示す(共同通信) - goo ニュース
中国茶、6千年の薫り? 浙江省で「最古の茶畑」発見か(朝日新聞) - goo ニュース
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安芸高田市・郡山城跡 中世の造成跡、郭跡と石垣遺構を確認

2008年11月29日 | Weblog
 市教委は28日、戦国大名・毛利氏の居城で、国史跡の郡山城跡(同市吉田町)で、城を囲んだ郭跡と石垣遺構を確認したと発表した。発掘調査で郡山城跡から郭の石垣が見つかったのは初めてで、上部に中世の郭の造成跡も確認された。
 石垣は、2006年9月の豪雨で発生した土砂崩れ災害の復旧工事中に出土し、今年9月初めから調査を行った。最下層から東西に約7m、高さ1・2m、幅0・8mの石垣が出土した。表面が平たく加工された花崗岩が、垂直に5段に積み重ねられ、すき間には小石が詰められるなど、丁寧に築かれていた。石垣の上には南北に細長い2段の郭跡を確認。上部の郭は中央部分が大きく崩落していたが、下部(約100㎡)はほぼ原形をとどめていた。
 上部は、土を盛り固めた「版築」により、高さ5~8mを土盛りし約200㎡が造成されていたことが崩落跡から判明した。
 周辺から16世紀後半の陶磁器が出土していることや、古文書の記録などから、天正年間(1573~91年)に元就の孫・輝元が築造したと推定される。
また今回の調査では、くぎなどの小さな鉄製品を作ったとみられる鍛冶炉跡も見つかった。
 29日午後2時から遺跡見学会を開く。見学会当日は、吉田歴史民俗資料館付近から、案内看板が設置される。
[参考: 読売新聞、朝日新聞}

 建武3年(1336)毛利氏が吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として下向した後、毛利時親(?-1341)が郡山南東の一支尾根に築城した。
 天文9年(1541) 吉田郡山城の戦いでは、尼子詮久(1514-1561)軍に包囲され攻められるが、陶隆房勢(1521-1555)の援軍もありこれを撃退。毛利輝元(1553-1625)の頃には、石垣等も使用した城郭へと強固にした。櫓が本丸に建てられたが天守閣は存在しなかったとされる。
 天正19年(1591)毛利氏が豊臣大名になり、広島城を築城し移転した。
 慶長5年(1600) 関ヶ原で敗れた毛利氏は防長2か国へと減封され長門萩に移り、吉田郡山城は廃城となった。
 寛永14年(1637) 島原の乱の後、キリシタンの決起を恐れた江戸幕府は郡山城の石垣、堀など破城した。

[10月28日掲載分]
安芸高田市・郡山城跡 初の石垣出土
 安芸高田市教委は27日、毛利元就(1497-1571)の居城として知られる同市吉田町の郡山城跡の麓から16世紀後半の石垣や城郭が出土したと発表した。同城跡からの石垣出土は初めて。
 石垣と城郭は城跡西南にあり、市街地との高度差がわずか約30mの平地近くまで城が広がっていた。石垣は加工石を積んだ切り石積みで幅7m、高さ1.2m。城郭2段の最下部にあたる。元就の孫・輝元(1553-1625)による増築とみられる。
 山城の城郭は1637年の島原の乱以降、江戸幕府の指示で取り壊しが全国で進み、同城でも山頂付近の三の丸など一部の石垣が残るのみ。城の全容は古文書や絵図で想像するしかなかった。
[参考:中国新聞]
郡山城跡から初の石垣出土(中国新聞) - goo ニュース

郡山城
 郡山城は、南北朝時代、安芸国吉田庄の地頭として定着した毛利氏が、その勢力を拡大していくなかで、一貫して本拠とした山城。城は1336(建武3)年、毛利時親(ときちか、?~1341)が郡山東南の一支尾根に築いたが、毛利元就(1497~1571)の時には標高約400m、比高約200mの郡山全山に拡大された。山頂に本丸他が築かれ、峰には200以上もの曲輪があり、全山を城郭化した大規模な山城だった。256年間、毛利氏の居城となった。
 城域は、東西約1.1km、南北約0.9kmで、南側の麓には内堀が巡り、城内には270段余の平段や、大通院、洞春寺、常栄寺、満願寺などの寺院が建立された。

毛利氏
 安芸・毛利氏初代・毛利季光(すえみつ、1202~1247)は、鎌倉幕府草創の功臣・大江広元(1148~1225)の四男である。
父・大江広元から譲られた相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を基盤に関東御家人として毛利姓を名乗り毛利氏初代となる。
三浦氏の乱(1247)の時に、三浦方に加担し敗れ三浦一族とともに自刃する。四男経光だけが季光所領の一つ越後国佐橋荘(新潟県柏崎市)に在住して死を免れ、毛利荘は没収されるが毛利の名字は保つことができた。経光の四男毛利時親(?~1341)が安芸国吉田庄を継ぐことになる。この時親の子孫が毛利元就(1497~1571)である。
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奈良市・唐招提寺 金堂の屋根裏 簡素な叉首組構造と判明

2008年11月29日 | Weblog
 奈良県教委文化財保存事務所は28日、国宝・唐招提寺金堂の解体修理に伴う調査で、奈良時代末に創建された当時の屋根裏が、梁上に斜材を合掌に組む簡素な「叉首組(さすぐみ)」と呼ばれる構造だったと発表した。同事務所によると、屋根裏の構造は、江戸期の大規模修理に伴い、創建時の部材が当初と違う場所で再利用されるなど、大幅に変わっているという。
 金堂は幅約28m、奥行き15m、高さ16m。
 調査では各部材を検証。屋根の四隅の軒を支える「地隅木(じすみぎ)」が、加工跡から当初は大梁(おおばり)として使われていたことなどがわかった。
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞]
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御廟山古墳・全長200mと判明

2008年11月29日 | Weblog
現地見学会が今日(29日)から行われ、早朝から1000人が集まっていると感心の高さを数紙が報じている。
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞]
世界遺産の暫定リスト、御廟山古墳初めて一般公開(読売新聞) - goo ニュース

[11月27日掲載分]
 百舌鳥・古市古墳群の1つ、御廟山古墳の発掘調査・現地一般公開 29、30日に先立って、宮内庁と堺市は27日、古墳周囲から5世紀中頃の大量の埴輪片が出土したと発表した。墳丘の全長は現在の186mが約200mだったことも判明した。
 応神天皇陵第2候補にふさわしい古墳であることが改めて確認されたとしている。
 3段に積まれた墳丘の1段目の斜面とテラス部を調査。その結果、一段目テラスの端に並んだ円筒型の大型埴輪(直径40cm)の列を検出。周囲には2段目斜面からずり落ちた葺石が見つかった。さらに1段目斜面の下部にも大量の葺石のほか、冑形、蓋形など埴輪の破片を多数確認。祭祀を行ったと考えられている造り出し部に近い場所では、家型埴輪が見つかった。
 いずれも5世紀中期ごろの製造とみられ、近くにある仁徳天皇陵の埴輪よりやや古く、仁徳より古い応神天皇の陵墓としての可能性が残った形だ。
 また墳丘は、江戸時代に濠を浚渫した際に崩れ、浚渫で出た土砂をかぶせられていたことも判明。全長が現在より約14mほど大きい200mで、後円部は15mほど大きい約110mだったことが確実となった。
[参考:産経新聞、時事通信、読売新聞]

築造は仁徳陵と同時期=御廟山古墳、全長200メートル-陵墓参考地、壕を公開(時事通信) - goo ニュース
陵墓参考地の御廟山古墳、初の一般公開へ…先着5千人(読売新聞) - goo ニュース


[11月18日掲載分]
御廟山古墳・発掘調査 現地一般公開 29、30日に
 御廟山(ごびょうやま)古墳(百舌鳥陵墓参考地、堺市北区百舌鳥本町1)の発掘調査が宮内庁と市によって進められているが、29、30日に現地で一般公開が行われる。
 宮内庁管理の古墳が住民に公開されるのは初めてだそうである。
 宮内庁と堺市は10月中旬から発掘調査を始め、12月19日に終了を予定。堀(幅約30~50m)に囲まれた墳丘護岸修復工事に伴う事前調査で、墳丘下部17カ所程度で発掘を行っている。これまでの他古墳調査から埴輪などの出土が期待されている。
 公開時間は午前9時~午後4時。希望者は約1km離れた大仙公園催し広場に集合し、調査状況の説明を受けたあと現地に移動する。堀2カ所に設けた仮設橋を渡り、周囲を歩く。市は両日とも5000人の見学者を見込んでいる。
 ただし、宮内庁が管理する古墳の墳丘内には立ち入ることはできないとのこと。
 御廟山古墳は高さ17m、全長186mの前方後円墳で、堺市の百舌鳥古墳群では4番目の大きさ。宮内庁の墳丘周囲の発掘に合わせ、市が一部水を抜き同庁管理外の堀を調査している。
一般公開について
 開催日時:平成 20 年11 月29 日(土)、30日(日)の2 日間 午前9 時~午後4 時まで(両日とも)
  ※雨天の場合は、当日午前5 時30 分からテレホンサービス(電話 0180-9977-55)でお知らせ。
 集合場所:大仙公園内催し広場
 見学方法:整理券を配布。1 日につき5,000 人まで 
出土品の展示: 博物館にて、11 月20 日までの発掘調査で出土した遺物を展示
[参考:産経新聞、堺市報道資料10/14,10/30]

[10/21掲載分]
堺市・百舌鳥御廟山古墳 宮内庁と市が同時調査を開始
 世界文化遺産の国内暫定リスト入りが決まっている百舌鳥・古市古墳群にあり、宮内庁が発掘調査中の堺市北区の陵墓参考地・御廟山古墳(5世紀後半)で、堺市も20日、参考地指定範囲外の周濠部分の調査を始めた。
 発掘は指定地の境界付近の墳丘裾を同庁、隣接する周濠を堺市が担当。12月中旬までに、試掘溝を設けるなどして形状、状況を確認する。この日は、すでに16日に調査を始めている同庁と、市の担当者らが現場で協議しながら、試掘溝の位置を決めた。…
[参考:読売新聞]

[9/16掲載分]
堺市・百舌鳥御廟山古墳 宮内庁と市が同時調査
 「陵墓参考地」に指定する堺市の百舌鳥御廟山古墳(5世紀中ごろ)で今秋、宮内庁が行う調査に合わせ、堺市も指定範囲外の堀を発掘することになった。陵墓や参考地の調査を、宮内庁と地元自治体が足並みをそろえて行うのは初めてである。発掘部位は宮内庁と調整して決める。

百舌鳥御廟山古墳
 日本最大の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)=全長約486m=を含む百舌鳥古墳群では、全長約186mの前方後円墳で4番目の大きさ。宮内庁は墳丘本体のみを陵墓参考地として管理し、周囲の堀は地元の地域自治会が所有している。
[参考:朝日新聞]

キーワード:百舌鳥御廟山古墳、御廟山古墳
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宮城県栗原市・清水山1遺跡 奈良時代の炭焼き窯か

2008年11月29日 | Weblog
 栗原市教委は27日、標高30mの丘陵に位置する清水山1遺跡(同市瀬峰清水山地内)で、古代の地下式炭焼き窯1基を発掘したと発表した。
 斜面をトンネル状にくり抜いた造りで、長さ5・5m、幅1・2m、最も深い部分で1・5m。窯の全面で炭の塊や炭化材が確認され、炭焼き窯と判断した。窯跡の堆積土中からは、奈良時代・8世紀半ばとみられる須恵器などが出土し、造営年代も同時代ごろとみている。炭焼きは差し渡し1m程度の土坑で伏せ焼きで行った。今回見つかった窯は大量生産用の本格的な規模と構造を持っており、多くの木炭を必要とした製鉄が近くで行われ、そこに供給した可能性が高いとする。
 当時の県中北部は律令政府が城柵造営などで地域支配を強めたようとした。炭と鉄生産にかかわる遺跡として貴重だという。
 その他に、縄文時代と古代の遺構・遺物を確認した。
 29日午前10時から午後3時30分まで現地説明会を開く。
[参考:毎日新聞、栗原市HP]
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長崎県南島原市・日野江城跡 明王朝時代の陶磁器「法花」片出土

2008年11月28日 | Weblog
 市教委は27日、国指定史跡「日野江城跡」(同市北有馬町)で、15~16世紀に中国で作られた「法花(ほうか)」と呼ばれる陶磁器の破片が出土したと発表した。
 法花の壺は美術品としては十数点が知られているが、発掘品としてはほとんど 例がないという。
 日野江城は、鎌倉時代前期に築城され、南北朝時代から江戸時代初期にかけてこの地方を治めた有馬氏の居城。90年代の二の丸発掘調査では金箔瓦なども発掘されている。
 7月から市教委が発掘調査したところ、大量の国産土師器など約3万点が出土し、掘立柱建物跡一棟、柱穴列三列、池状遺構三基、溝状遺構五条を検出した。本丸の一部からこの時代の物と推定される青磁など輸入陶磁器や法花の破片(長さは3~13cm)18点が出土した。元は一つの壺だったとみられるという。
 法花は中国・明王朝時代の陶磁器の一つで、細線の文様を描き、藍、瑠璃、赤、黄の釉薬で雲文、蓮弁文、草花文を表現した鮮やかな色彩の陶磁器独特の美しい文様が特徴。観賞用などとして製作されたと考えられている。国内では2000年に大分県竹田市の小路(こうじ)遺跡での出土例があるが、流通量が極めて少ないとみられ、市教委は「有馬氏の財政力や繁栄ぶりをうかがい知るうえで貴重な資料」としている。
 29日午後1時半から、日野江城跡の発掘調査現場で現地説明会を行う。問合せは市教委文化財課
[参考:毎日新聞、西日本新聞、長崎新聞]
中国・明時代 陶磁器「法花」 日野江城跡(南島原市)から破片 有馬氏の繁栄裏付け(西日本新聞) - goo ニュース

[参考」
法花
 国内で代表的な優品として、東京国立博物館で所蔵する『法花騎馬人物図壺』がある。明時代(15~16世紀)の作。江戸幕府重臣青山家に伝来。
 法花は、さまざまな色の釉薬を胎土に直接掛け分けて彩る三彩の技法の一種で、絞り出しの技法で紋様の輪郭線を盛り上げ、紫・黄・白・緑などの低火度の色釉を加えて焼き上げたもの。

日野江城
 建保年間(1213-1219) 藤原経澄が築城。経澄は築城時に姓を有間と称し、後に有馬と改称した。
 有馬晴純(1483-1566)の時代に21万石を領するまでに成長した。
 文禄4年(1595) 13代目当主の晴信(1567-1612)はキリシタン大名となり城下にセミナリヨを建設した。
 江戸時代初期には晴信は4万石を領し、日野江城は島原藩の藩庁となった。
 慶長17年(1612) 岡本大八事件の罪を問われ切腹。直純(1586-1641)が後嗣となる。
 慶長19年(1614) 直純、日向国延岡城に移封となる。
 元和2年(1616) 松倉重政が入城。しかし、松倉氏は入封後日野江城に不便を感じ新たに島原城を建設し、日野江城を廃城とした。
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慶尚南道昌原市北面・茶戸里遺跡 出土品から現れた新しい発見!

2008年11月28日 | Weblog
茶戸里遺跡
 釜山から西へ約40kmのところにある。BC300~BC100の鉄器時代を主とする遺跡である。
 1988~1998の間に全8次にかけて国立中央博物館により発掘調査が実施され、72基の木槨墓が確認された。
 最近、出土遺物を整理して保存処理する過程で、いろいろな事実の発見と確認がなされている。
 それらの成果は、今月28日から同館特別展示室(ソウル)開催される「葦畑の中の国・茶戸里 その発掘と記録特別展」('갈대밭 속의 나라 다호리, 그 발굴과 기록')で展示発表される模様。「밭」は「原」の意味もあり、「葦原中国・・・」とも訳せる。
 それらの一部が聯合ニュースなどで報じられていたのでまとめてみた。

1.茶戸里遺跡の概要
 慶尚南道昌原市北面茶戸里にある鉄器時代木棺土廣墓遺跡(史跡 第327号)
 海抜約20mの低丘陵麓の長さ150m、幅30~40mを越える範囲にまたがる。発掘は1988年国立中央博物館によって行われた。遺跡は鉄器時代(BC300-100)の木棺土廣墓を主にした共同墓として丸太を彫って作った木棺に、副葬品を入れたかごを底に入れる葬法を見せている。墓は穴が大きくて深い墓であるほど一緒に入れる材料が多くて多様で、墓の大きさは身分の違いにより差があると見られる。墓と一緒に入れられた物を見ると、青銅器・鉄器・漆器・素焼きの土器などがある。漆器の鞘、細形銅剣、鉄刀など武器類と特殊な紋様の青銅鏡、五銖銭、青銅鈴などが竹かごに入れたまま出土した例もある。また、木の柄の端がついた鉄斧・タビ(따비)・鎌など農機具もたくさん出土した。その他、筆・扇など...

2.木棺に雲母が存在 神仙道教思想が紀元前後にあったか?
 木槨墓4号墳と35号墳で雲母の存在が発見された。4号墳の場合盗掘よる被害のために、撹乱された土層で雲母が収集されたため、初めに置かれた場所が不明であるが、埋葬当時の姿が比較的に残る35号墳では、死体の頭部が置かれたそばで発見された。
 この雲母は平たい形で、今までは4-6世紀の慶州平野の新羅時代の積石木槨墳墓でたまに発見されてきた。
 したがって、茶戸里遺跡は今まで韓半島で確認された雲母出土遺跡では最も早い時期に属して、「雲母」が墓に死体と共に埋蔵され始めた時期が少なくとも2千年前であることを現したという点で非常な関心を集めている。
新羅墓で出土する雲母がほとんど例外なく死体の頭部側で発見される傾向は、今回の茶戸里木棺墓でも現れた。
 大田大イ・ハンサン教授は「今まで慶州などの地を中心に調査された、紀元前後頃数千、数万基に達する慶尚道地域木棺墓は一様に東-西方向に墓壙長軸を置いて、死体の頭には殆んど例外なく東に置いた様相を見せている。」と話している。
 これをみると、雲母は死体を埋葬する時に顔付近に置いて、その意味は死者の冥土での永生のための仙薬だったと学界は推測している。
 雲母が紀元前後遺跡で発見されたことによって、神仙道教思想が韓半島には2千年前に広範囲に広まっていたと推察できるとみている。
[参考:2008/11/25聯合ニュース]

3.扇で死体の顔を隠した「扇木棺墓」(부채 목관묘)
 1980年代国立中央博物館が調査した慶南昌原茶戸里遺跡1号木棺墓で「扇木棺墓」が初めて確認された。
 扇が出土した理由が分からなかったため。漠然とここ埋められた人が生前に暑さを追い払うために使った用品という程度しか思いつかなかった。そのような中でも柄だけ残った扇遺物を精密分析した結果、白羽扇に属する扇だったことが明らかになったことは大きい成果であった。
 その後、2003年ごろ慶北星州郡例山里遺跡でやはり丸太木棺を使った40号墳で発見し、さらに慶南金海市が伽耶歴史文化館整備計画の一環で都心テーマパーク公園「伽耶の森」を作る予定だった鳳凰洞一帯の場所で丸太木棺を使ったと推定される扇木棺墓を発見した。今年に入っては、慶北慶山市押梁面都市開発事業敷地で発掘した94号木棺墓で同じ様式を発見した。
 例山里遺跡発掘では、全く新しい事実が明らかになった。ここも柄だけ残っていたが、それが置かれた様子が頬部分に置いたように、扇が死体の顔を隠していたことが明らかなった。
 続いて、金海市鳳凰洞ではこのような状態で扇が2柄あったという新しい事実があらわれた。
 今回の慶山市押梁面の扇木棺墓もまた、金海と同じように扇が2柄発見された。
調査団は柄が置かれた位置で見ると、扇が死体の顔を隠したと考えられるという見解を表明した。
 さらに、扇木棺墓は実物で確認された事例が4ヶ所に過ぎないが、昌原、金海、星州、慶山という点で嶺南地域を合わせる独特の木棺墓埋葬パターンのうちの一つだったと推察している。
 だが、発見事例が少ないためな、学界でこれに対する専門研究成果は現れていない。
[参考:2008.2.22聯合ニュース]

4.ハトムギ(はと麦)が出土
 1988年発掘調査した茶戸里遺跡1号木棺墓で、全長170㎝・幅3㎝の長弓1点とそれよりも小さい短弓3点、そして矢柄の束が含まれていると明らかになった。長弓と短弓は、ともに木の皮と同じようなもので表面を覆った後にその上に漆を塗っていたと発表された。さらに、出土祭器から栗、柿と鳩麦などが見つかった。このうちハトムギは考古学的出土品では初めての事例である。
 木棺墓34号墳では円筒形矢筒に含まれた鉄鏃の固まりが発見された。
 さらに、茶戸里遺跡出土漆器類は博物館保存科学室分析結果、今まで学界通説の楽浪界でなく、この地域で自主的に作ったいわゆる「韓国産」である可能性が大きいと明らかになった。
注)ハトムギの日本での最古の出土の例はよく分からないが、栽培は奈良時代とも考えられている。DNA的には中国よりも韓国に近いとされており、今回の発見により、韓国から伝わった可能性が強いといえるのではないだろうか。
[参考:2008.11.26聯合ニュース]
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南城市・玉城武芸洞 石棺墓を発見

2008年11月28日 | Weblog
 港川県立博物館・美術館と沖縄更新世遺跡調査団が発掘調査を行っているの「ガンガラーの谷」内にある「武芸洞」(同市玉城字前川)入り口付近で、23日縄文時代晩期と考えられる石棺墓1基が発見され、中からは大人の人骨1体と子どもの人骨一部が確認された。
 洞穴内では、縄文時代前期(約6千年前)の爪形文土器も南部地域で初めて出土しており、石棺近くに火をたいた炉の跡もあることから、今回の調査で武芸洞が縄文時代前期から晩期まで生活場や墓域として利用されていたことが明らかになった。
 石棺墓は、石を四角い棺おけ状に配列し、石蓋をかぶせた縄文晩期から弥生期の墓。発見された石棺は、縦2m、幅80cm、深さ40cm。大人の人骨は、うつ伏せで顔を横に向けた状態で寝かせられ、副葬品としてシャコ貝が確認されている。
 沖縄での石棺墓は、読谷村や宜野湾市の遺跡2カ所で発見されているが、洞穴内から発見されたのは初めて。
 29、30の両日は、小中学生を対象に無料の見学会を開く。問合せはおきなわワールド。
[参考:琉球新報、毎日新聞]
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岩手県:大台野遺跡  3万5千年前の木炭片確認

2008年11月27日 | Weblog
 西和賀町教育委員会は27日、同町の「大台野遺跡」から見つかっていた後期旧石器時代の木炭片が、放射性炭素年代測定で3万5000年前ごろのものと確認されたと発表した。同じ地層からは鉄鉱石も出土しており、遺跡から鉄鉱石が出土した国内最古級の事例という。 鉱脈は遺跡から5km以上離れた下流にあり、人為的に持ち込まれたのではと考えている。
 同時期の中国、ロシアの例から、祭祀に使用したとも推定できる。
 鉄鉱石は親指大で、3・5g前後。遺跡中央部の地表で深さ約90cmの層に、木炭片や石器と一緒に4つ出土した。
[参考:共同通信]
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恭仁宮跡 朝堂跡?見つかる

2008年11月27日 | Weblog
 聖武天皇が4年間だけ都を置いた恭仁(くに)京の宮跡(京都府木津川市)で、「朝堂」のものとみられる柱穴4基や、天皇が仕事前に立ち寄る「後殿(こうでん)」の柱穴が見つかったと京都府教委が27日、発表した。
 恭仁京は天平12(740)年、聖武天皇が突如遷都して成立し、宮殿が急遽造営されたが、同16年には難波宮に遷され、都としての役目を終えた。朝堂院地区では、これまで周囲を区画する板塀や南門が見つかっていたが、朝堂そのものの跡が見つからず、短命な都だったことから簡易な建物だったとの推測もあった。
 今回の朝堂の柱穴は、天皇が執務する大極殿跡の南300mから見つかった。検出した4つの柱穴は、平城宮跡の朝堂とほぼ同規模の直径1・5~1・7mで、東西方向に約3m(当時の十尺)間隔で並んでいた。直径30-50cmの柱が立っていたことが判明。
 朝堂が立ち並ぶ「朝堂院」の南門跡など過去の調査結果とも合わせ、東西幅130mと、平城京の3分の2ほどの細い朝堂院区域、平城京と同規模の朝堂が8棟並んでいたと推定されるという。
 「続日本紀」天平16年(744)元旦に朝堂に官人を集めて饗応したとの記述があり、今回の発見は、その規模にふさわしい建物の存在をうかがわせる。(天平十六年正月丙申朔、十六年春正月丙申朔。廃朝。饗五位已上於朝堂。)
 また、朝堂院地区の北にある大極殿院地区では、中心部の北側36mで、柱穴の下部(直径0・8~1m)3基分が見つかった。大極殿の柱穴と同じ5・1m間隔で並んでおり、天皇が休息する後殿の一部とみられるという。
 現地説明会は29日午前10時と午後2時からの2回行われる。
[参考:産経新聞、京都新聞、共同通信、朝日新聞]
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敦賀市・大町田遺跡 市内で初の弥生時代末-古墳時代初頭(3世紀)の集落跡

2008年11月27日 | Weblog
 市教委は26日、大町田遺跡(同市羽織町)について、弥生時代末(約1800年前)-古墳時代初頭(3世紀)の集落跡であると発表した。
 竪穴住居など9棟の住居跡が見つかり、甕や壺、高坏(など収納箱(縦60cm、横40cm、深さ10cm)に約100箱分の土器の破片類も出土した。遠隔地との交流もうかがわせる近江や東海製の土器の破片も混じって出土している。
 同遺跡の南東約300mには、国指定史跡・明神山古墳群(4世紀)、東約300mには弥生時代中期(約2000年前)の集落跡である吉河遺跡(1世紀)もあるが、この時代の集落跡が見つかったのは初めて。
 調査している市教委は、「今回の発見をこの地域の時代的な空白を埋める。古墳の埋葬者を推測する上でも興味深い。」として注目する。
 市教委は29日に午前10時と午後2時の2回、現地説明会を開く。問合せは市教委文化振興課
[参考:福井新聞、中日新聞]

参考:
明神山(みょうじんやま)1号墳 
福井県敦賀市坂ノ下 丘陵尾根の標高67.6mに築造
古墳時代前期(4世紀)築造、前方後方墳、墳長47m、後方辺長さ約27m(高さ5.6m・頂辺15m)、前方辺長さ20m(幅約17m・高さ3m)
前方部1段・後方部1段、葺石あり、埴輪なし
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善光寺の阿弥陀如来立像 快慶作か 東京芸大が本格調査 

2008年11月26日 | Weblog
 善光寺が所蔵する阿弥陀如来立像が快慶の作品である可能性が高いとして、東京芸大で詳しい調査を実施することになり、26日、立像の搬出作業が行われたという。大きめできれいな写真が貼付されています。
善光寺の仏像、快慶作か=東京芸大で調査へ-長野(時事通信) - goo ニュース

[11/21掲載分]
 長野市の善光寺は21日、寺の史料館で所蔵する阿弥陀如来立像が、鎌倉時代の仏師、快慶の作品である可能性が高まったと発表した。26日に東京芸術大に運び、立像の内部などを本格的に調査する。
 立像は木製で高さ高さ98・5cm。台座と光背を含めると194.4cmになる。鎌倉期の仏像の特徴である玉眼(ぎょくがん)が施され、漆箔と金泥が塗られている。
 立像は廃寺などから持ち込まれた「客仏」との見方もあるが、安置された年代とも経緯は不明。明治時代の廃仏毀釈の際の可能性が高い。現在の同郡中条村で「南無阿弥陀仏」の声が聞こえた土の中を掘った際にこの仏像が出現した、との言い伝えもあるという。
 当初は善光寺本堂一角の部屋に保管されていたが、03年の前回御開帳の際に寺史料館に移された。
 善光寺は、立像のルーツを調べるよう同寺で仏像の保存修復を手掛けている東京芸大の籔内佐斗司(やぶうちさとし)教授に依頼。今年9月に阿弥陀如来立像の立体写真を撮影した。
 1本の木を割り、中をくりぬいた上でつなぎあわせる「割矧(わりはぎ)」と呼ばれる組み方や、肩の曲線などが、快慶の他の作品と極めて似ていることがわかったという。
 外観などから「快慶が13世紀初めに制作した東大寺俊乗堂(しゅんじょうどう)の阿弥陀如来立像(重要文化財)や、浄土寺(兵庫県小野市)の国宝・阿弥陀三尊立像などと形状や大きさが酷似している。仏像の襟周りの衣の造形から、快慶の第2期の作例に分類できる」と指摘。銘文は確認されていないが、腹部や背部に隠されている可能性もあるとして、エックス線撮影を含めた詳細な調査を進める。
 籔内教授は「銘文がなくても、快慶の基準作例に限りなく近い造形的特徴を有していることが証明されれば、貴重なものになる」としている。
 台座裏には、江戸時代の文化12(1815)年に現在の上水内郡信濃町の中村六左右衛門が修復した-との説明書きがあり、修復時に台座や金箔などが加えられた可能性があるという。
 善光寺白蓮(びゃくれん)坊の若麻績(わかおみ)敏隆・営繕局次長が、この仏像は快慶の作品に似ていると考え、今年夏に籔内教授に相談したことが調査のきっかけになった。善光寺事務局は「来春の御開帳までに快慶作と確認し、御開帳期間中に参拝客に公開したい」と話している。
[参考:読売新聞、信濃毎日新聞、毎日新聞、中日新聞、朝日新聞]

快慶作か、善光寺の阿弥陀如来立像…東京芸大が本格調査(読売新聞) - goo ニュース

【快慶】 
 運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師。運慶とともに制作したとされる東大寺南大門(奈良市)の金剛力士像は国宝。浄土寺(兵庫県小野市)の阿弥陀三尊立像も国宝になっている。
 端正な顔立ちや繊細な造形が特徴。高さ1m前後の3尺阿弥陀如来立像を多く残している。
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国分寺市・武蔵国分寺跡 南大門・講堂地区見学会

2008年11月26日 | Weblog
 天平宝字年中(757~765)に創建されたとする国指定史跡・武蔵国分寺跡(同市西元町)の見学会が24日、現地で開かれて130人が集まり、南大門地区と講堂地区に関する調査成果が報告された。
 南大門地区は金堂の中心から約115m南に位置し、今回の調査では、その門が「礎石建ち」の建物で、2本の親柱の後ろに控え柱が立つ棟門とみられることなどが判明した。
[参考:読売新聞]
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