歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

桜井市纒向遺跡 矢塚古墳 第3次調査 

2008年06月30日 | Weblog
 桜井市文化財情報発掘調査現場から(235回、広報「わかざくら」 平成20年7月掲載)「矢塚古墳の範囲確認調査」が配信された。
 矢塚古墳の範囲確認を目的とした、纒向遺跡第154次(矢塚古墳第3次)調査である。
今回の調査は、
 ①前方部周辺で、その北・西側に4か所トレンチを設定
 ②後円部南側の周濠を確認するため1か所トレンチを設定
 ③後円部南側の周濠を確認のための調査
結果(成果)は、
 前方部北西隅となる墳丘と前方部前面の墳丘盛土を確認した。
 現存する前方部の長さは約28mとなり、古墳の全長は約93m以上となる事がわかった。
 前方部北側裾から、前方部の幅が今残っている水田の畦から推定される位置より約3.5m北に広がる事がわかった。
 前方部北側で周濠を確認。ただし、その外側は今回の調査範囲の中では検出できなかったため、周濠の平面形は依然として不明
 遺物は、周濠から若干の古式土師器が出土。昨年と同様に庄内形甕はあるものの布留形甕が見られないため、今のところ時期については第1次調査で周濠から出土した土器群の庄内3式期より新しくはならない。
 今回の調査の成果から、推定される矢塚古墳の全長と前方部前面側から検出した周濠外側の地山の位置、削平を受けている可能性があるものの、確認した前方部墳丘との距離から前方部墳丘の本来の長さを考えると、最も古いタイプの前方後円墳である纒向型前方後円墳の規格である、全長・後円部径・前方部長が3対2対1の比率を持つ可能性が高い事が確認された。
という内容である。

[備考]
 今年3月6日に、「矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳」の発掘調査結果が各報道より発信された。その中身を要約すると、
 矢塚古墳では前方部の北西隅の地山が見つかり、全長93mと判明。「纒向型」だったことが裏付けられた。
 後円部の直径が約65mと、全体(約93m)の約3分の2を占め、ずんぐりとした形
 しかし、前方部は他の2基より極端に短く、古墳の誕生直後は設計プランが統一されていなかったことをうかがわせる。3基が3世紀半ばから後半に相次いで築造されていたことも改めて確認した。
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藤原宮跡 幢幡を支えた柱穴が出土

2008年06月28日 | Weblog
奈良文化財研究所は27日、橿原市の藤原宮(694~710年)跡で、大極殿院南門の南約30mから、国家的な儀式の際に立てた旗「幢幡(どうばん)」を支えたとみられる柱穴16個が見つかったと発表した。
周囲は一面に石が敷き詰められており、藤原宮で行われた国家儀式の様子を具体的に示す初の遺構。
柱穴は直径30~40cm、深さ約50cm。2本の柱で1本の幢幡を支えたとみられ、40~50cm幅で2本ずつの柱が東西方向に3m間隔で並んでいた。柱穴の深さからみて高さ4~5mの幢幡が、8本立てられていたとみられる。
未発掘の場所にも対称の位置に穴があるとみられ、藤原宮の中軸線の位置から推測して、13本の幢幡が並んでいたらしい。
 「続日本紀」701年(大宝元年)に、天皇が貴族らの拝賀を受けた元日朝賀の際、四神などを描いた幢幡を7本立てたという記載がある。平城宮の例などから、7本は門の北の大極殿側にあったとみている。
 30日~7月2日の午前10時~午後4時、現場を公開する。
[参考:共同通信、読売新聞、産経新聞]

続日本紀 大宝元年(701)
春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。
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バーミアン遺跡で、玄奘三蔵の「大唐西域記」に記載の王城跡発掘か

2008年06月27日 | Weblog
 アフガニスタンの世界遺産・バーミヤン遺跡で、中国僧・玄奘三蔵の見聞録「大唐西域記」に登場する「王城」に関連するとみられる8~9世紀の土塀跡が、奈良文化財研究所などの調査で見つかった。
 場所は、2001年に旧政権タリバンが破壊した西大仏立像から南西に約300mのガリーブ・アーバード地区内の地点。
土壁は幅約1m、高さ約0・5m分あった。壁の片側に石垣が並び、粘土を突き固めた土台の中にこぶし大の石を入れて補強していた。土壁は基部の幅から高さ5m以上だったとみられるという。 
 玄奘は629年にこの地を訪れた時のことを、大唐西域記に「王城の東北の山側に立仏の石像がある」(西大仏のこと)と記述。当時の王城と土塀跡は極めて近いとみられ、王城の関連遺構とすれば初の発見となる。同研究所は「西域の仏教文化に彩られた王城が、玄奘の時代から100年以上、存在した可能性を示す貴重な資料」と話している。
[共同通信、産経新聞、朝日新聞、読売新聞]

大唐西域記
國大都城據崖跨谷,長六七里,北背高巖,有宿麥,少花果,宜畜牧,多羊馬。氣序寒烈,風俗剛,多衣皮褐,亦其所宜。
文字、風教,貨幣之用,同都貨邏國。語言少異,儀貌大同。淳信之心,特甚鄰國。
上自三寶,下至百神,莫不輸誠,竭心宗敬。商估往來者,天神現徵祥,示祟變,求福。伽藍數十所,僧徒數千人,宗學小乘說出世部。
王城東北山阿有立佛石像,高百四五十尺,金色晃曜,寶飾煥爛。(注:西大仏のこと)
東有伽藍,此國先王之所建也。伽藍東有鋀石釋迦佛立像,高百餘尺,分身別鑄,總合成立。(注:東大仏のこと)
城東二三里伽藍中有佛入涅槃臥像,長千餘尺。(略)
(備考)
西大仏は高さ145尺、東大仏は100余尺とあり、中国尺1尺=0.333mで計算すると、それぞれ48mと33mとなる。実際の測定値は55mおよび38mと公表されている。また、中国の1里は500mである。
西大仏と東大仏との距離は約800m、すなわち2里である。
詳細な成果報告は「バーミアン遺跡保存事-8次ミッション-」東京文化財研究所プレスリリースで知ることができる。
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唐津市桜馬場遺跡 太さ1cm超えるガラス製管玉を確認

2008年06月26日 | Weblog
 24日唐津市教育委員会は、桜馬場遺跡で副葬品とみられるガラス製管玉7点が新たに確認されことを発表した。
 管玉は昨年の出土品を整理中に確認され、長さ2・6-3・8cm、直径0・9-1・3cmで昨年出土した管玉のほぼ2倍。太さが直径1cmを超す管玉は珍しく貴重なものとみられる。
 弥生後期前半(1世紀後半-2世紀前半)に埋葬されたとしている。
 また同遺跡で5個目となる巴形銅器(直径5・6cm、高さ2・6cm)も新たに出土した。
 桜馬場遺跡は、中国の史書「魏志倭人伝」に記された末盧国の王を葬ったとみられる甕棺や多数の副葬品が昨年出土した。
今年の1月には、銅鏡などが副葬された別の甕棺が見つかり、少なくとも2代にわたる「王」の存在が明らかになったとされた。
[参考:共同通信、四国新聞、佐賀新聞]
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NY競売の大日如来座像(真如苑蔵)一般公開中 東京国立博物館

2008年06月26日 | Weblog
 ニューヨークのオークションで落札された運慶作とみられる大日如来座像(真如苑蔵)が6月10日より本館11室で一般公開されている。7月6日まで公開された後、再度7月10日から9月21日まで展示されるが、気をつけて欲しいのは7月10日~9月21日の展示は本館12室で行われ、この時には同じ12室で光得寺蔵の厨子入りの大日如来座像が展示されることです。足利義兼が作らせ運慶が作った可能性の高い大日如来座像が同じ場所で見られるわけです。2004年に同じ国立博物館で2体が公開されたようですが、今回その機会がまた得られるわけです。
下表は、2体の大日如来座像がかつての樺崎寺にあったとして、比較したものです。

名称大日如来座像(真如苑蔵)大日如来座像(光得寺蔵)
史料名称三尺皆金色金剛界大日如来像 金剛界大日并三十七尊形像
像高66.1cm31.3cm
製作年代1190~1199(1193.11以前) 1190~1199(左より後年)
当初鎮座場所樺崎寺本堂下御堂(法界寺)樺崎寺樺崎八幡宮赤御堂
像内納入品五輪塔形札,心月輪水晶珠 五輪塔形木柱,心月輪水晶珠
舎利と水晶製五輪塔 舎利と舎利容器

[参考文献:有隣第439号「新発見の大日如来像と運慶」平成16年6月10日 山本勉氏(東京国立博物館教育普及室長)]
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花の都パリで最古(石器時代 紀元前9000~同5000年)の遺跡発掘

2008年06月26日 | Weblog
フランス国立予防考古学研究所は25日、パリ南西部15区のセーヌ川沿いでパリでは最古となる石器時代の遺跡を発掘したと発表した。
矢尻、毛皮加工用のナイフ、火の使用跡が見つかった。
パリでこれまで最古とされていたのは、パリ東部ベルシーで発掘された遺跡。
[参考:産経新聞、共同通信]
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島根県美郷町・定徳寺 飛鳥時代の銅造観音菩薩立像を発見

2008年06月26日 | Weblog
 県古代文化センターは25日、飛鳥時代後期(白鳳時代、7世紀後半~8世紀初め)の仏像「銅造観音菩薩立像」(高さ27・2cm、台座を含めると34・9cm)が見つかったと発表した。飛鳥時代の仏像の発見は県内5例目。
 仏像は銅製鋳造で、浜田市でも同時代の仏像が発見されており、その他品質や形状からも県西部で仏像が作られていた可能性があり、県内への仏教伝来の様子を知る貴重な研究材料という。また、奈良・法隆寺の観音菩薩立像と大きさ、冠、胸飾り、衣のひだなどの特徴が似ており、手本にした可能性があると指摘する。
 左手は手のひらを上に向け、下げた右手には水瓶を持っている。頭部が大きく、あどけない表情は同時代の仏像の特徴であり、鋳造時は金メッキが施されていた可能性があるという。
 定徳寺は16世紀後半の建立で、観音像に銘文はなく寺に安置された経緯や時期は不明。
 仏像は、10月4日~11月30日、古代出雲歴史博物館の企画展「秘仏への旅-出雲・石見の観音巡礼-」で一般公開される。
[参考:中国新聞、山陰中央新報、読売新聞]
また、25日付けで島根県報道発表資料1464「石見地方最古の仏像の発見について」 として内容および写真が公開されました。
本当にあどけない表情ですね。心休まる思いです。
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橿原市・一町西遺跡 馬や牛など描いた平安時代の板絵出土

2008年06月24日 | Weblog
 24日奈良県立橿原考古学研究所は橿原市の道路建設予定地で、馬、牛、鶏および(羊、犬?)などの動物を描いた平安時代後期(11世紀後半)の板絵4枚(いずれも、縦約11cm、横約34cm、ヒノキ板)と大型の人形(ひとがた、長さ44cm)が出土したことを発表した。「犬か羊」には首輪が表現されており、家畜らしい。
 厄払いか豊作を願う祭祀に使われ、手慣れた筆遣いから加持祈祷を担った陰陽師らが描いたとみられるという。これほど複数の動物が描かれた例はないという。
 平安時代中期、平親信の日記「親信卿記」に、宮廷での厄払いの儀式で等身大の人形とともに馬や牛、犬などをかたどった祭具を用いたとの記述があり、今回の出土によく似る。
 一方、橿原市内などでは現在でも馬や牛を描いた板絵を奉納して五穀豊穣を願う「野神祭り」が行われている。
 現場は、地名をとって一町(かずちょう)西遺跡と名づけられた。
 板絵は7月5、6両日に同研究所付属博物館で公開される。
 [参考:時事通信、毎日新聞、産経新聞]

備考:
 7月19日(土)から9月7日(日)まで同考古学研究所附属博物館で「大和を掘る26」が開催される。
 7月26日(土)午後1時30~ 同研究所講堂で土曜講座が開催されるが、その中で一町西遺跡についての講座が取上げられる予定である。
 また、7月9日(水)~7月14日(月)東京代官山iスタジオでは速報展プレ展示 が開催される。
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奈良県橿原市・藤原宮跡で藤原不比等にあてた木簡発見

2008年06月24日 | Weblog
 藤原京(694~710年)の宮跡北東に設けられた門近くからから出土した木簡(縦24・1cm、横2・5cm)に、右大臣を意味する「右大殿(みぎのおおとの)」と記されていたことが23日、奈良文化財研究所の調査で分かった。
木簡は昭和55年に中枢部の藤原宮の北東にある門の外の溝から見つかり、同研究所が再調査に伴って赤外線撮影したところ、「右大殿荷八」の5文字を確認、同じ溝から「和銅元年(708年)」と記された木簡も出土したことから、同年に右大臣に任命された、日本最初の法律「大宝律令」制定に尽力した藤原不比等(ふひと)=659~720年=を示す可能性が高いという。
木簡は不比等の邸宅が宮の東側にあったとする説を補強する資料という。
 同研究所は、木簡は天皇から不比等への下賜品8個を藤原宮の外に運び出す際の荷札と推定している。不比等を示す木簡は平城京跡(奈良市)で見つかっているが、藤原京跡では初めてという。

[参考:産経新聞、京都新聞、読売新聞]
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三原市・三太刀遺跡 小早川氏中世の館跡? 御館(みたち)の裏づけ 

2008年06月24日 | Weblog
三原市本郷町本郷の三太刀遺跡(みたちいせき)の南側部分で中世の館跡を示す囲い跡が見つかった。
14世紀前後の遺構とみられ、約45cm幅の溝で、底に直径20cmほどの穴が約1m間隔に並ぶ。
竹や木を編んだ「柴(しば)垣」跡で、穴は支柱の跡らしい。
遺跡の場所は、小早川氏の最初の拠点とされ、「御館(みたち)」が語源という地名のいわれも裏付ける。
市教委は28日、本郷公民館(本郷町下北方)で現地説明会を催す。
[参考:中国新聞]

小早川氏
相模国土肥郷(神奈川県足柄下郡湯河原町土肥)を本拠地とした桓武平氏土肥氏から分岐。
土肥実平の子、遠平が小田原あるいは小田原付近の早川(早河)の地を与えられ、小早川を名乗った。
吾妻鏡・建久5年(1194)に小早川弥太郎の記述が見える。それまでは土肥弥太郎と記されていた。
小田原城は、元は小早川遠平の居館で、小早川城ともあるいは当時小田原城のすぐ北の小峰山(小田原市城山)にあったところから小峯城(小峰城)とも云われた。
源頼朝が守護・地頭を置いた時に、遠平は旧平家氏領の安芸国沼田庄(広島県三原市周辺)の地頭職に任じられる。
安芸国沼田に移り、住み、大きな勢力を伸ばしてくのは遠平・景平の後、茂平の代からと考えられている。
景平は平賀義信の子であり、土肥遠平の養子になったということは、平氏から源氏に代わったことを意味するのか。

遺跡から北1.5kmのところに小早川家菩提所米山(べいさん)寺があり、実平から代隆景に至る宝筐印塔20基が整然と並んでいる。殊に立派なもので一見の価値がある。
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人に飼われたネコ 日本の最古はいつ? 長崎・壱岐カラカミ遺跡で弥生時代のネコの骨が出土

2008年06月22日 | Weblog
文献などから、イエネコの伝来は経典などをネズミの害から防ぐため、8世紀に遣唐使が大陸から持ち帰ったと考えられていた。
平安時代の「日本霊異記」に死者がネコになってよみがえる8世紀の話があり、同時代の「源氏物語」「枕草子」にもかわいがられたネコが登場するなど、ペットとして飼われるようになっていた。
実際に、イエネコの骨の最古の出土例は、神奈川県鎌倉市の千葉地東遺跡など鎌倉時代(13世紀)の遺跡2か所で確認されているだけだった。

野生ではなく、人に飼われたイエネコの骨が、長崎県壱岐市・壱岐島のカラカミ遺跡から見つかり、奈良文化財研究所などの鑑定の結果、紀元前1世紀ごろの弥生時代中期のもので、イエネコの骨としては最古であることがわかった。

カラカミ遺跡は弥生時代中期以降の環濠集落。九州大学が2004~07年度にイノシシ、魚、イヌなどの骨と一緒にゴミ捨て場から発掘した動物骨を同研究所埋蔵文化財センターの松井章・環境考古学研究室長らが鑑定した。
見つかったネコの骨は1歳半~2歳で脛(けい)骨、大腿骨など12点。野生のヤマネコより骨や関節が小さく、形状が現在のイエネコと酷似し、当時、壱岐島にヤマネコがいた形跡がないことからイエネコと断定。脛骨を放射性炭素年代測定などで調べた結果、約2100~2200年前とわかった。
[参考:読売新聞]
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鳥取・琴浦町・梅田萱峯墳丘墓 現地説明会開催予定

2008年06月22日 | Weblog
 鳥取県埋蔵文化財センターは、平成19年度から発掘調査を行っている梅田萱峯(うめだかやうね)墳丘墓の現地説明会を開催することを発表している。
 日時:平成20年6月28日(土) 午後1時30分から3時まで ※小雨決行
 場所:梅田萱峯遺跡(東伯郡琴浦町大字梅田・西伯郡大山町八重)
 その他:出土品の展示もあわせて行う

 昨年10月5日鳥取県埋蔵文化財センターは、梅田萱峯遺跡で、埋葬部(主体部)を四本柱で囲んだ墓上祭祀施設のある弥生墳丘墓を確認したことを発表した。年代は約2千年前の弥生時代中期後半。
 同様の祭祀施設を持つ弥生墳丘墓は、西谷3号墳(出雲市、約千八百年前、弥生時代後期後半)と、平原1号墓(福岡県、弥生時代終末、約千七百年前)。梅田萱峯遺跡が三例目で一番古い。
 墳丘墓は南北11m、東西8m、最大高0.6mの方形で、地山を削平した後、約40cmの高さに盛土。周辺に1-3段の石を張り付け、東辺と西辺の中央部には長さ1.5m、幅40cmの張り出し部がある。
 棺があったとみられる付近を囲うように、直径20cmの4本の柱を南北2・1m、東西2・8mの間隔で建てた跡(直径約80cm、深さ約80cm)も見つかった。

 今回の現地説明会の開催の名称は遺跡でなく、墳丘墓となっており、墳丘墓に焦点を絞ったものらしい。
 特に、墓穴のまわりを柱穴が囲んでいる特徴的な墳丘墓とした上で、今年度は、さらに詳しい調査を行い、人を埋葬した棺の様子が分かるなど新たな成果がありましたと記している。
[参考:鳥取県埋蔵文化財センター]
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宗像市・田熊石畑遺跡 弥生中期の青銅武器が出土 一墳墓から全国最大の数

2008年06月21日 | Weblog
 福岡県宗像市は21日、同市田熊2丁目で発掘調査を進めていた弥生時代の「田熊石畑(たぐまいしはた)遺跡」の墳墓から、同時代中期ころ(約2200年前)の青銅器の細形銅剣4本と銅戈1本が出土したと発表した。
 弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓から出土した青銅武器としては最も数が多く、市教委は「一帯を治めた有力首長の墓だろう」としている。
 銅剣は長さ27‐43cm、銅戈は長さ24cmで、武器として実用的な細形。
 性別は分からないが頭骨とともに深さ約80cmの土中で見つかった。
 被葬者の胸付近にそれぞれ切っ先を足元に向けて置かれていたとみられる。
 近くから装飾品の翡翠製垂飾1点、碧玉製管玉十数点も発掘された。これらは髪飾りだった可能性がある
 墳墓は南北に縦2m、幅70cm、高さ80cmで、木棺墓か土壙墓かは断定できない。
 北部九州では、弥生時代中期から青銅武器が副葬され始める。この時代、国内でこれまで1つの墓から複数の武器形青銅品が出土したのは、福岡市早良区の「吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡」と福岡県古賀市の「馬渡束ケ浦遺跡(まわたりそくがうら)」で、銅剣や銅戈、銅矛など計4点の出土が最多だった。
 中国の歴史書「漢書地理誌」はこの時代から1世紀ほど後の倭に〈百余国〉が存在したと記す。

専門家の意見
 柳田康雄・国学院大教授(考古学)「吉武高木遺跡の墓と違って鏡こそ出ていないが、馬渡束ヶ浦遺跡とともに3者はほぼ同等のランクと考えられる。この時期にはすでに、福岡平野に限らず玄界灘沿岸で突出した首長を抱くクニが成立していたのだろう」
 九州歴史資料館・西谷正館長「1人の墓から5本の銅剣、銅戈が出土したことは、宗像の地域に相当有力な首長が存在したことを裏付けており貴重だ」
[参考:西日本新聞、読売新聞]
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総社市・大文字遺跡・栢寺廃寺 岡山県内最古の文字瓦出土

2008年06月21日 | Weblog
 20日同市教委は、総社市南溝手の大文字遺跡から、県では最古となる文字瓦が出土したと発表した。
 4月初旬に市道拡幅工事中、隣接する白鳳時代(7世紀後半から8世紀初め)に創建されたとされる栢寺廃寺の瓦を廃棄した穴(幅約3m、深さ50cm)があるのを発見。コンテナ35箱分の古代瓦が出土し、その中に文字瓦2点があるのを確認した。文字は白鳳時代の平瓦凸面に線刻されていた。
 字の解読は京都橘女子大の狩野久元教授に依頼。
 1点(18×14×3cm)には2行に分けて「評」「太」などの文字が線で刻まれている。
「評」は大宝律令(701年)での「郡」以前の地方行政単位を示すことから、この地方が当時から吉備の国の中心地で、中央豪族が支配していた可能性なども考えられるとする。
 1点(20×17×3cm)も2行にわたって「人」「大」のほか、神仏など上位者に何かを献じる「奉」の文字があることから「瓦を祭祀に用いたとみられ、極めて珍しい」という。
「奉(たてまつる)」は神や仏、上位者に差し出す意味があり、瓦を用いて、祭祀に使用した珍しいケースとしている。

 同遺跡は、栢寺廃寺の付近に位置し、塔や講堂が南北に並ぶ四天王寺式の伽藍配置を想定すると、出土場所は寺の東端だったと推定される。
 県内での文字瓦はこれまで、岡山市の賞田廃寺など2カ所で出土しているが、いずれも年代は奈良時代で、今回は最古の文字瓦として歴史的価値が高いという。
 (写真の①は大文字遺跡 ②は栢寺廃寺跡)
 瓦は7月1日まで、総社市総合文化センター(同市中央)1階ロビーに展示する。
[参考:岡山日日新聞、山陽新聞、産経新聞]
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名古屋市守山区東谷山山頂 尾張戸神社古墳ほか 古墳の形・築造時期を確認

2008年06月21日 | Weblog
 市教委文化財保護室が今月中旬に初調査して、志段味古墳群のうち東谷山山頂にある尾張戸神社古墳など古墳三基が古代の豪族「尾張氏」の墓である可能性が高まったとする。さらに、曖昧であった古墳の形と築造時期を確認した。
 尾張戸神社古墳は、直径30mの円墳。築造は四世紀半ば。
 中社と南社の両古墳は、長さ55-60mの前方後円墳。築造は四世紀後半。
 中社からは祭礼に使う円筒埴輪の破片も多数、見つかった。築造時期は埴輪の有無や、格式を高めるために積まれる葺石の形などから決めた。
 尾張戸と中社からは、ヤマト王権があった近畿地方で、主として四世紀だけに古墳の装飾に使われた硅石(けいせき)を発掘した。硅石は東谷山のすそ野にある白鳥塚古墳からも見つかっているが、この地方の古墳では他に使われていない。
 尾張戸神社古墳上に今も立つ尾張戸神社は、尾張氏の祖先を祭神とし、日本書紀や古事記には尾張氏がヤマト王権に王妃を嫁がせたと記されている。
[参考:中日新聞]

<備考>
■志段味古墳群
 名古屋市の北東端・守山区上志段味に集中する前期~後期の大古墳群。
■白鳥塚古墳
 全長109mの前方後円墳。埴輪が見つかっていないことなどから4世紀後半の築造と考えられる。かつて墳丘斜面は葺石で覆われており、特に後円部の頂上部の葺石には白色珪石が使用されていたことから白鳥塚と名づけられるようになったと伝えられる。
■尾張戸神社
 東谷山山頂にあり、成務天皇5年、宮簀媛命による勧請と伝わる古社。尾張国造尾張氏の祖先を祀る。
ご祭神 天火明命(あめのほあかりのみこと)天香語山命(あめのかぐやまのみこと)建稲種命(たけいなだねのみこと) 
延喜式に「山田郡 尾張戸神社」とあり、また国内神名帳に「従二位尾張戸天神」の名が見られ、かつては熱田神宮に次ぐ大社であったという。
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