歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

青森県西目屋村 水上(2)遺跡 イスに座る縄文時代の土偶が出土

2014年02月28日 | Weblog
 青森県西目屋村(にしめやむら)の「水上(2)(みずかみ(2))遺跡」で、イスに腰かけたような姿をした類例のない縄文時代の土偶(高さ7・6cm)が出土した。
 同遺跡は、縄文時代前期末から後期初頭(約5000~4000年前)にかけての大規模な集落跡で、川沿いの斜面には、多数の土器や石器を捨てた「捨て場」が形成されており、土偶もその中から出土した。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.7.29 水上(2)遺跡 縄文時代の「石棺墓」が14基出土

イスに座る縄文時代の土偶…青森の遺跡で出土(読売新聞) - goo ニュース
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高島市・上御殿遺跡 古墳後期の円墳出土 「木棺直葬」両端に白色粘土

2014年02月28日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が27日、高島市安曇川町三尾里の上御殿遺跡で、古墳時代後期(6世紀中頃)の円墳(直径12・8m)がみつかったと発表した。 同遺跡および隣接する天神畑遺跡から古墳が確認されるのは今回が初めて。
 日本海側の古墳に共通する特徴を持ち、この地域の中小の首長層が日本海側と交流していたことがうかがえるとしている。
円墳の中央付近にある墓穴(長さ4・7m、幅1・9~1・7m、深さ22cm)からは木棺の跡がみつかった。 木棺そのものは腐って無くなっていたが、「木棺直葬」の形跡が確認された。木棺は長さ3・2m、幅75cmだったとされ、底はなく、木の板を側面と蓋に使用し、頭部と足部の端の部分は石を混ぜ込んだ白色の粘土で固めていた。木棺跡の土は、全体的に赤くなっていたことから、木の板の内側は、赤色顔料が塗られていたとみられる。
 木棺の端を白色の粘土で固める特徴は、京都府北部や兵庫県北部など日本海側の地域にある古墳の棺でもみられるという。
 副葬品としてガラス玉が出土。周囲の溝跡から見つかった須恵器の杯のふたから古墳の年代が特定された。
 上御殿遺跡は、北陸と近畿を結ぶ古代の幹線道路沿いで琵琶湖からも近く、陸と湖上の交通の要所だった。 近くの鴨稲荷山(かもいなりやま)古墳(全長45mの前方後円墳)の石室でも、日本海側の地域に多い形の冠や太刀が副葬品としてみつかっていることなどから、一帯の地域が日本海側の地域と密接な関係を持っていたことがさらに裏付けられた。
 現地説明会は3月2日(日)午後1時半から開かれる。
[参考:朝日新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
高島市・上御殿遺跡
 2013.8.9   国内初の双環柄頭短剣の鋳型が出土
 2013.7.18  8世紀末~9世紀前半の土師器の甕に人名「守君舩人」が7回墨書
 2011.10.21 古墳時代前期から中期の木棺墓1基とヒスイ製勾玉が副葬品として出土
2009.6.25 高島市・弘部野遺跡 古代北陸道の駅家跡か、建物群跡など出土
 「延喜式」では、北陸道の近江西ルートとしての駅家は、「穴多五疋。和爾。三尾各七疋。鞆結九疋。」4箇所があげられている。その4箇所は穴太(大津市穴太)、和邇(大津市和邇中)、三尾(高島市安曇川町三尾里)、鞆結(マキノ町)に比定されている。

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大阪市・難波宮跡 10年前に出土した柱は酸素同位体法による新しい年輪年代測定で7世紀前半と年代特定

2014年02月27日 | Weblog
 大阪府文化財センターが24日、2004年、大阪市中央区の難波宮(なにわのみや)跡(国史跡)の北西で見つかった塀の跡から出土した柱材を最新の年代測定法「酸素同位体法」(注1)で調べたところ、7世紀前半に伐採されたことがわかったと発表した。 この遺構が、孝徳天皇が645年から建設した前期難波宮(7世紀)のものである可能性が高まったとしている。
 東西に並んだ三つの柱穴のうち、二つに針葉樹とみられる柱の根元部分が残っていた。 1点(直径約31cm、長さ約126cm)はコウヤマキ製で、もう1点(直径約28cm、長さ約60cm)は樹種は不明。 年輪が粗いため、年輪幅の変動を調べる従来の方法が使えず、飛鳥時代の前期難波宮(7世紀)のものか、奈良時代の726年から聖武天皇が整備した後期難波宮(8世紀)のものかが特定できなかった。
 新しい手法で2本の柱材を測定した結果、ともに7世紀前半に伐採されたと推定した。
 3月15日(土)午後1時半から、大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で成果が報告される。
(注1) 総合地球環境学研究所(京都市北区)の中塚武教授(地球化学)が開発した樹木年輪から抽出したセルロースに含まれる重い酸素(酸素18、18O)と軽い酸素(酸素16、16O)の存在比(「酸素同位体比」)、を測定することで、その木材が作られた年代を決定できる新しい年輪年代法である。
 年輪セルロースに含まれる酸素原子の同位体2種類の比率が、降水量に比例した残存率を示すことを応用し、約2500年間の指標を作成。1年単位での測定を可能にした。
 これまでの「年輪年代法」は、年輪幅のデータがそろっている杉、ヒノキにしか使えないが、「酸素同位体法」で栗、コナラなど10種類ほどを調査したところ、同年代なら同じ同位体残存率を示すことを確認した。 広葉樹など、対象が大きく広がる。
 また、これまでの「年輪年代法」は残った年輪が100年分以上必要であるが、新手法は年輪が約50年以上あれば全ての樹種で測定が可能という。
[参考:共同通信、読売新聞、朝日新聞、日経新聞]
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天理市・ヒエ塚古墳 古墳時代前期前半(3世紀半ば~4世紀初)に築造された前方後円墳の可能性が高い

2014年02月25日 | Weblog
 天理市教委は24日、大和(おおやまと)古墳群の北端にあるヒエ塚古墳(同市萱生町)の発掘調査を1月末から行い、後円部南側から墳丘を覆っていた葺石や周濠とみられる溝跡を確認したと発表した。 埴輪が見つかっていないことなどから古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀初め)に築造された可能性が高いと確認された。
 ヒエ塚古墳は、全長130mの前方後円墳で、1977年に県立橿原考古学研究所が調査している。 後円部南側に南北約29m、幅約2m、深さ約1・5mのトレンチを掘った。
 墳丘の裾部から多数の10~20cm大の石と、それを支える長さ約30cmの基底石が出土した。 いずれも自然石で、葺石とそれを下部で支える基底石とみられる。
 すぐ南側には幅4・1mの溝跡が長さ2m分あり、周濠の遺構とみられる。
 基底石と周濠の間に幅1mの基壇状の平坦な部分も確認できた。
 さらにその南側では、幅14・5mの谷状の流路の跡も見つかっており、今後、川か周濠かを確かめるという。
 市教委は、古墳時代前期に築造されたことはほぼ確実で、すぐ南東にある西殿塚古墳(約230m、3~4世紀)の被葬者を盟主に初期国家形成にかかわった人物の墓とみている。
 現地説明会は3月2日(日)午後1~3時に開かれる。
[参考:共同通信、朝日新聞、読売新聞、MBS毎日放送、奈良新聞]
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守山市・下之郷遺跡 石剣の握りに使われていた樹皮がサクラと判明

2014年02月23日 | Weblog
 弥生時代中期(約2100年前)の巨大環濠集落跡として知られる「下之郷遺跡」から出土した石剣の握り部に使われていた植物が、サクラの樹皮であることが分かった。 石剣は守山市教委が2005年に行った調査で、集落西側の環濠から出土した。
 握り部に巻き付けられていた幅4ミリの樹皮の細工が残っていた。 樹皮に残る葉緑体のDNAを調べた結果、ソメイヨシノの原種の一つエドヒガンのDNAとほぼ一致した。
 同遺跡からは、幅約9センチの帯状に薄く剥いだサクラの樹皮も数点見つかっており、遺跡内で樹皮を加工していたとみられる。
 下之郷史跡公園(同市下之郷1丁目)で2月26日~3月10日まで、石剣を展示する。(火曜休館)
[参考:京都新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.4.24下之郷遺跡 正倉院の宝物「椰子実」そっくりのココヤシ製人面付き容器

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和歌山市・平井遺跡 6世紀前後の埴輪窯2基が見つかる

2014年02月23日 | Weblog
 和歌山県文化財センターは、平成24年から行っている平井遺跡(和歌山市平井206の1)の発掘調査で、古墳時代後期(6世紀前後)の埴輪を焼いた埴輪窯2基を発見したと発表した。 これまでに、県内で埴輪窯と見られる跡は岩橋千塚古墳群(和歌山市岩橋)の井辺八幡山古墳の近く、森小手穂窯跡(同市森小手穂)しか見つかっていなかったが、詳しい調査はされていなかった。
 今回の発掘調査は、和泉山脈の丘陵裾部分の1万㎡で実施し、比較的小規模な2基の埴輪窯が約25m離れて並んで見つかった。ともに、トンネル状に掘られた薪(まき)を焚いて焼き上げる登り窯。 西側1号窯が全長約3m、幅1・2m~3mと、東側2号窯が全長約5.5m、幅1・1m~1・5m。 このうち、2号窯では、窯の底の土に残された焼けた層の積み重なり具合から、5回以上繰り返し使われたことが確認でき、円筒埴輪であれば300~400個を焼いたと見られている。
 窯で焼かれた埴輪は、近くに位置する国史跡大谷古墳(同市大谷)や平井1号墳(同市平井)に運ばれ、並べられた可能性がある。
 周辺からは円筒埴輪や家形、馬形、人物などの埴輪が出土した。 岩橋千塚古墳群の大日山35号墳と大谷山22号墳からしか発見されていない矢を収納する武具の胡籙(ころく)形埴輪や双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)形埴輪の破片なども見つかた。
 平井遺跡は紀の川北岸にあり、研究者の間では、これまで紀ノ川を挟み、南岸の岩橋千塚古墳群を中心とした勢力と、北岸の古墳群とに分かれた勢力が存在すると考えられていたが、その構図を見直す必要も出てきたという。
 現地説明会が23日(日)午後1時半から開かれる。
[参考:わかやま新報、朝日新聞、読売新聞、産経新聞、毎日新聞、紀伊民報]

 2013.12.17 和歌山市・大谷山22号墳 国内2例目の胡ろく形埴輪を確認
 2008.8.26 和歌山市・大日山35号墳 胡ろくかたどった埴輪 全国初出土



キーワード: 胡籙、胡ろく、胡録

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常陸太田市・瑞龍遺跡 国字をヘラで刻んだ土器が出土

2014年02月20日 | Weblog
 茨城県教育財団は19日、常陸太田市瑞龍町の瑞龍遺跡の発掘調査(昨年9月より実施)で、平安時代の竪穴建物跡から、国字がヘラで刻まれた土器の底面が出土したと発表した。
 土器の破片は坏(つき)の底面と見られ、長さ約5・5cm、幅約5・5cm。
 国字は漢字にならって日本で作られた文字で、男女の交合を意味する「□〓(偏が「見」、旁が「見」を逆さにした漢字)」が刻まれていた。「ひるくかなひ」と読むらしい。横に「女」の字も刻まれていた。 この破片が出土した建物跡からは、ほかに「河内」「望正?」と書かれた墨書土器など見つかった。
 同財団によると「□〓(ひるくなかひ)」(注1)は、12世紀に書かれた藤原忠実(1078-1162)の日記にも見られ、隠語として知られている。 国字は奈良時代ごろから使われているという。
 今回見つかった破片は忠実の日記より200年も前のもので、国字の出現を考える上でも貴重な発見としている。
同遺跡は、同市南東部の里川右岸、標高約42mの台地上に立地する。 縄文時代中期から平安時代までの集落跡で、竪穴建物跡43棟などがあった。
 現地説明会は22日午後1時30分から開かれる。

[参考:茨城新聞、NHK水戸、茨城県教育財団HP]

(注1) 国字「□=(偏が「見」、旁が「見」を逆さにした漢字)」は「ヒルクナカヒ」と読む。 「婚ひ」は「クナカヒ(くながい)」と読むらしいし、『日本霊異記』(9世紀前半に成立)の上巻「雷を捉へし縁」では「婚合(クナカヒ)」という使い方が見える。 意は同じようである。

国字刻んだ土器出土 常陸太田・瑞龍遺跡(茨城新聞) - goo ニュース

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奈良県上牧町・久渡2号墳 7世紀中頃築造 高市皇子の墓とは時期が合わず

2014年02月15日 | Weblog
 上牧町教委が12日、久渡(くど)古墳群の久渡2号墳(北葛城郡上牧町上牧)が、背後に周溝を持つ7世紀中頃の円墳(直径約16m、高さ3m)だったと発表した。
 終末期古墳(7世紀)にみられる丘陵の南斜面(東西約30m)を削って築造されており、最大幅約13m、最大高さ約5mの溝を築き、墳丘の背後を半円形に囲んでいた。
 埋葬部は横穴式石室で全長約9m、幅約1.2~1.9m。 後世の盗掘や採石で破壊されていたが、北西約4kmの明神山(王寺町)の輝石安山岩を加工せず、そのまま用いて築いており、天井石とみられる石(長さ1・6m、幅1m)や、奥壁・側壁の一部が見つかった。
 石室の床面には、3km西の高山石切場遺跡(香芝市)付近の石材と似た凝灰岩の破片を敷き詰めており、厚さ約20cm分が残っていた。 天井や壁の石材は赤茶色の自然石で、床(凝灰岩)の白色とでコントラストを造っていたらしい。
 そのほか、祭祀跡とみられる土器片や石組みの排水溝、飛鳥時代の平瓦片20点以上、刀や刀装具の破片、琥珀製の棗玉(なつだま)などの副葬品もあった。 棺や骨は見つからなかった。
 2号墳については、文献(注1)から天武天皇の皇子・高市(たけちの)皇子(654?~696年)の墓の可能性もあったが、年代が合わない結果となった。
 現地説明会は16日(日)午前9時30分~午後3時に開かれる。
[参考:読売新聞、産経新聞、奈良新聞]

(注1) 延喜式 三立岡墓/高市皇子。在大和国広瀬郡。兆域/東西六町。南北四町。無守戸。

過去の関連ニュース・情報
 久渡古墳群



キーワード: 久渡古墳群、久渡2号墳
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桜井市・纒向遺跡 宮殿エリアの東側に同時代の建物跡が見つかる

2014年02月08日 | Weblog
 桜井市教委が6日、邪馬台国の有力候補地とされる桜井市の纒向遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で、これまでの宮殿エリア(東西約150m、南北約100m)の東側に建物群(建物A~D)と同じ東西の同一軸線上(注1)に並ぶ新たな建物跡と南北の溝が見つかったと発表した。 これまでの宮殿エリア内の中央部分で出土していた卑弥呼の居館の可能性がある柵列に囲まれた大型建物跡・建物D(注2)に関連する宮殿施設とみられる。 エリア内の東側で建物跡が確認されたのは初めてで、宮殿エリアが東側に広がることが実証された。
(注1)東西軸は4~5度左に傾く。
(注2)桜井市の現地説明資料などで記されている建物名称。 東西4間(12.4m)、南北4間(19.2m)
■ 今回見つかった建物跡(3世紀前半)は建物D(同時期)の36.5m東側で見つかった。 規模は、東西2間(3.4m)、南北3間(6.7m)で、方形の柱穴(一辺40~60cm)が10個見つかり、直径15~20cmの柱が使われ、柱穴の1カ所には当時の柱が一部残っていた。
 建物跡の中央付近の穴からは4例目となる朝鮮半島製の陶質土器(壷)の破片(長さ約5cm)1点が出土した。 管玉などの石製品の材料となる北陸産の緑色凝灰岩の破片なども見つかった。
■ 3世紀後半から4世紀前半の南北溝(長さ20m以上、幅2・5m)と、平行する柱の列の跡5間分(約10m)も検出した。
 これらは、3年前に建物Dの東側で見つかった、3世紀後半以降の別の大型建物跡・建物E(注3)(南北9m以上)と方位が一致。溝や柱列が、この建物Dに関連する可能性が高まった。 付近では邪馬台国の女王卑弥呼の時代の後、4世紀代も、重要施設が建てられた様子が明らかになりつつある。 また、宮殿エリアからは昨年2月の調査で、4世紀後半の居館を囲む周濠跡が出土しているほか、5世紀末~6世紀初頭の居館の周濠と考えられる南北方向の石張溝(いしばりみぞ)も見つかっている。
 このため市教委は、宮殿エリアには3世紀前半~6世紀初頭の約300年間に、少なくとも4時期の首長の宮殿施設が存在した可能性があるみている。
 現地説明会は9日午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:奈良新聞、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、纒向考古学通信Vol.3 平成23.9.1桜井市立埋蔵文化財センター]

過去の関連ニュース・情報
 桜井市・纒向遺跡
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和歌山市・井辺遺跡 古墳時代前期の水田跡や集落跡

2014年02月07日 | Weblog
 和歌山市文化スポーツ振興財団埋蔵文化財センターの津秦地区の井辺(いんべ)遺跡の発掘調査で、古墳時代前期(約1700~1800年前)の水田跡や集落跡などが見つかった。 同時代の水田跡が県内で発掘されるのは珍しいという。
 水田跡は、一辺4~5mで10枚近く見つかった。当時の水田は小規模のものが網目状に幾つも集まっていたとされる。
 また、縄文時代晩期(約2500~2600年前)の土器棺墓が出土した。 これまでの調査では、当時、海だったと想定されていたが、人々が生活していた可能性が生じた。
 現地説明会は9日(日)午後1時半から開かれる。 和歌山電鉄貴志川線・神前(こうざき)駅下車、北東に徒歩約10分。
[参考:産経新聞]

過去の関連遺跡
2012.9.29現地説明会
墳丘墓3基と墳丘墓前の竪穴建物棟が出土
遺跡の中央や東側は、弥生時代末~古墳時代初頭の集落遺跡として知られる。今回の調査地は、遺跡の東部に位置し、近隣の調査では、古墳時代初頭の竪穴建物が計9棟みつかっている。今回の調査で、竪穴建物に加えて墳丘墓が3基検出され、古墳時代初頭の短期間に集落域から墓域へ土地利用の変化を確認した。[参考:現地説明会資料]

2011.6.4井辺遺跡(西側) 約1800年前の集落に伴う溝を発見



キーワード: 忌部、斎部、伊部、井辺、員弁
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堺市・ニサンザイ古墳 後円部の直径が14m大きい170mと確認

2014年02月06日 | Weblog
 堺市が5日、陵墓参考地ニサンザイ古墳(同北区、5世紀後半)の調査で墳丘の端部分を見つけ、後円部直径が、これまでの測量結果(1926年、156m)より10m以上大きく、約170mと推定されるとの結果を発表した。
 全長については2012年11月に、約290mとされてきた全長が、300m以上とみられることが発表されている。
 一方、古墳の葺石が簡素化され、まばらにしか敷かれていないことも分かった。
 宮内庁の修復作業に合わせ、濠の水を抜いて初めて測定された。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
ニサンザイ古墳
 2012.11.28ニサンザイ古墳 全長は300mを超える



キーワード: 土師ニサンザイ古墳
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坂出市・讃岐国府跡 奈良時代~平安時代の大型建物跡群を確認

2014年02月06日 | Weblog
 「讃岐国府跡」(坂出市府中町)で発掘調査している香川県埋蔵文化財センターは2月9日に現地説明会を実施する。
 昨年(2012年)度の調査では、奈良時代から平安時代の瓦葺きの塀や大量の瓦片、その南側で4棟の建物跡および区画施設が見つかり、同センターは讃岐国府跡と断定した。
 今年(2013年)度の発掘調査では、昨年度に見つかった中心施設の南西側で、新たに4棟の建物跡や西側の区画施設と考えられる大溝(幅2・5m)跡を確認した。
 一番南側の1棟の柱穴は、奈良時代(8世紀)の一辺が約1・5mの方形で、県内で確認された同時期の柱穴の中では最大。
 現地説明会は2月9日(日)午後1~3時に開かれる。
 讃岐国府は奈良時代に置かれ、平安時代・仁和2年(886)に菅原道真(845-903)が讃岐守を任じられ890年まで赴任した。
[参考:四国新聞、読売新聞、香川県埋蔵文化財センターHP]

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