歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

松江市・島田1号墳 美豆良を下げた髪型の男性埴輪を復元

2012年01月31日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは31日、松江市東出雲町の「島田1号墳」(直径11mの円墳、5世紀後半)から出土した人物埴輪の破片から、精緻な男性像を復元し、公開した。 物埴輪として国内最古級とみている。
 復元した男性像は上半身で高さ36cm。髪の毛は顔の左右で束ねて垂らす「美豆良(みずら)」という髪型で、額の上から後頭部まで伸びる7cm幅、厚さ2mmの帯状の立体的に髪を結ったように見える造形は全国にも例がないという。
 短い襟付きの服で、右前重ねを2カ所の紐で結んでいる。 大阪府藤井寺市の蕃上山(ばんじょうやま)古墳(全長53mの前方後円墳、5世紀)で同じような埴輪が出土しており、近畿地方の職人の関与が推定されるという。
 2月4日から3月4日まで和鋼博物館(安来市)で開く発掘速報展で、3月10~20日まで県立八雲立つ風土記の丘(松江市)で公開する。
[参考:読売新聞、産経新聞、中国新聞、島根県HP]

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和歌山市・神前遺跡 鎌倉時代の大溝(水路)を発見

2012年01月27日 | Weblog
 和歌山県文化財センターは、和歌山市神前(こうざき)の神前遺跡の発掘調査で、鎌倉時代の大溝(水路)1条を発見したと発表した。 延長約28kmあったという日本中世最大の用水路「宮井用水」の一部である可能性が高い。 宮井用水は現在も和歌山平野一帯を潤している用水路だが、中世のころは文献でしか把握されていないという。
 宮井用水の起源は、文献(「日前宮文書」など)によると平安時代末期まで遡り、平安時代末期に日前宮(和歌山市秋月)が領域として安原盆地を開発した。
 大溝は、両側の肩部(幅約1m)が現在の用水路を挟むように見つかっており、復元すると幅6mという巨大な溝になる。見つかっている大溝の全長は約70mで、さらに南方へと続いているという。
 溝からは、平安時代末から鎌倉時代(900~700年前)の瓦器や土師器、須恵器などが出土している。 護岸と考えられる杭や柵列などの跡も見つかっている。
 鎌倉時代の大溝以外には弥生時代の水路とみられる溝や素掘井戸、古墳時代の竪穴建物、掘立柱建物なども見つかっている。
 現地説明会は、28日午前11時からと午後1時半からの2回開かれる。
[参考:紀伊民法、読売新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.12 神前遺跡 弥生時代前期から水田稲作をしていたことを裏付ける水路の溝を発見
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大垣市・昼飯大塚古墳 3段築造の様子を広範囲で確認、葺石や埴輪列、周壕跡も

2012年01月27日 | Weblog
 大垣市教委は26日、同市昼飯町の県内最大の前方後円墳・昼飯大塚古墳(全長150m)で、古墳時代前期(3世紀)の古い特徴を残す葺石や、1段目平坦部で埴輪列などを確認したと発表した。
 同古墳は、古墳時代中期初頭(4世紀末)に築造されたが、急勾配の斜面に葺石を張り付ける古墳時代前期に似た特徴を残していた。 埴輪は60~80cmの間隔で、37mの区間で23個が見つかった。
 約13mと推測されていた墳丘の高さが実証され、3段構成の墳丘が視覚的に明らかになった。
 深さ約3m、幅4・7~8・4mに及ぶ周壕も広範囲に確認された。
 後円部が完全な円形ではなく、1.5mほど東側に膨らんでいた。
 同古墳は、来年春ごろまでに歴史公園として整備される。
 現地説明会は2月5日(日)午前10時と午後1時半。
[参考:岐阜新聞、中日新聞、朝日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.27昼飯大塚古墳 子ども用埴輪棺出土11/28現地説明会
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高知県いの町・バーガ森北斜面遺跡 弥生期の貯蔵庫遺構と炭化米が出土

2012年01月27日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは、いの町奥名の丘陵地に広がる弥生時代中~後期の「バーガ森北斜面遺跡」で、新たに貯蔵庫(長さ1・8m、幅1・2m)とみられる遺構と大量の炭化米(約500g)、そして近くから、有力者の住宅とみられる最大規模の竪穴建物跡(直径約8m)が見つかったと発表した。
 貯蔵庫は、地面を掘った周囲に柱穴があり、倉庫のような姿だったとみられる。 炭化米はジャポニカ種の短粒米。 弥生土器の壺にはドングリが入っていた。
 竪穴建物跡はその北東約5mで出土した。これまでに約20基見つかっている同様の遺構の中でも最大で、中心に直径約1・5mの炉跡があった。 人々がこの地に定住していた可能性がさらに濃厚となったとしている。
[参考:1.21高知新聞、1.26読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.2.28 いの町・バーガ森北斜面遺跡 弥生時代中期末の竪穴建物跡6棟などが出土
 2008.9.25 いの町・天神溝田遺跡 律令制から荘園制への変換がたどれる遺跡
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京都府大山崎町・鳥居前古墳 東側斜面は4段構造と判明

2012年01月27日 | Weblog
 京都府大山崎町教委が25日、400年前後の築造とみられる、前方後円墳(帆立貝式)「鳥居前古墳」(同町円明寺)で、桂川方面を望む東側斜面の段差が西側より一段多い4段構造になっていることが分かったと発表した。
 方角により段数が異なる構造の古墳は珍しく、平野部方向からの見栄えをよくし、被葬者が支配した地域に威厳を示そうとしたとみている。
 鳥居前古墳は西乙訓高から西に約60mの丘陵(標高約93m)にあり、町教委が昨年11月から範囲確認のため発掘調査を続けている。 古墳東側斜面のくびれ部分から後円部にかけて、これまで最も低いとみられていた1段目の下から、高さ1m、総延長11mの新たな段差が見つかり、敷きつめた葺石も出土した。
 西側斜面(3段構造)に新たな段差はないことが過去の調査で判明しており、今回、東側だけが4段と明らかになった。古墳の全長と後円部の直径もこれまでの推定から3m延び、それぞれ54m、42mに改められた。
 現地説明会は28日午後1時から開かれる。
[参考:京都新聞、毎日新聞、日経新聞、産経新聞、大山崎町HP]

地点map
 鳥居前古墳
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千葉県立中央博物館・出土遺物巡回展「古墳に眠る石枕」開催

2012年01月26日 | Weblog
 千葉市中央区の県立中央博物館で「石枕」に焦点を当てた平成23年度出土遺物巡回展-房総発掘ものがたりー「古墳に眠る石枕」開かれている。(開催期間: 平成23年12月24日~平成24年2月26日)
 全国で出土した約120点中、今回はそのうち35点が展示されている。
[参考:東京新聞、千葉県HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.1.28 成田市・台方宮代遺跡 石枕が出土、現地説明会1/30
 2008.12.12 成田市・船形手黒遺跡 現地説明会 11/15
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モンゴル・バヤンノール市・突厥壁画墓発掘 高句麗壁画と近似 青龍や白虎

2012年01月23日 | 韓国の遺跡・古墳など
 1月22日の読売新聞で、「白虎?7世紀モンゴルの墓に「高松塚」似の壁画」と題して、記事が掲載された。 発掘調査は昨年の7~9月にかけてモンゴル-カザフスタン共同調査団により行われたもので、11月27日に大阪国際大学(枚方)で同調査に携わったA.オチル モンゴル遊牧文化研究所長が同発掘に関する講演を行った。
 国内では読売新聞以外の報道はないようだ。
 韓国の聨合ニュースを見ると、10月27日に東北アジア歴史財団が「7世紀突厥壁画墓発掘調査結果および成果」と題して講演会を開催し、やはりA.オチル氏が講演を行っている。
 聨合ニュースでは、7世紀といっても、600年頃としている。
 現存高さ4m、直径32mの封墳の中に、地上から7.5m下に、直径4.5m、高さ2.7mの平面楕円形の墓室が設けられた。 南側壁面を突き抜けて南北方向に全長42m、幅1.8mに達する墓道も確認された。 墓道の壁に漆喰を塗り、赤や青、黒の顔料で40点余りの画が描かれていた。青龍と白虎壁画は墓道両側に各々発見された。
 「돌궐벽화무덤」(突厥壁画墓)で検索すると、青龍・白虎の画像が見れるはずである。

追記 2013.10.21
 明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末~8世紀初め)に関する講演会が10月19日、東京であったそうである。モンゴルの7世紀の墓から、東アジア最大級の「四神(ししん)」(方角の守護神)の極彩色壁画が見つかり、「モンゴル初の四神」と朝日新聞が写真入りで紹介していた。
 よく調べてみると、昨年1月22日に読売新聞で紹介されたもののようである。ただ、その時には遺跡名は書かれていなかったが、今回「オラーン・ヘレム墳墓」(直径30mの円墳、高さ4m、)と分かった。




キーワード
 突厥=Türk=テュルク=투르크=돌궐
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平塚市・北金目塚越遺跡から弥生時代中期の4頭の鹿の絵画土器が出土

2012年01月22日 | Weblog
 平塚市教育委員会は20日、平成22年度に調査した真田・北金目遺跡群の北金目塚越遺跡(同市真田)の方形周溝墓からの出土品を整理する過程で、弥生時代中期(約2100年前)の壺に、4頭の鹿の絵が描かれていたと発表した。
 土器は破片で高さ15.5cmが残存している。鹿は土器のくびれた部分にヘラで描かれており、長い首の上に頭部が三角で表現され2本の角があり左を向いている。
 弥生時代の西日本では土器や銅鐸などに鹿が多く描かれている。角が毎年生え変わることから、再生の象徴と考えられ特別な動物として信仰されていた。
 弥生時代中期に、西日本の文化が神奈川に入っていたことが分かる貴重な資料としている。
 この時代に鹿の絵が描かれている土器は、県内ではこれまでに5つ確認されているが、4頭は初めてという。
 発掘された絵土器は平塚市博物館(同市浅間町)で、1月21日~2月5日(月曜日休館)に展示される。
[参考:毎日新聞、平塚市HP]
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栗東市・手原遺跡 井戸跡から出土した須恵器の壺の中から、人形2体が見つかる

2012年01月20日 | Weblog
 栗東市教委と市体育協会文化財調査課による手原遺跡北西部(同市蜂屋)の調査で、井戸跡(直径約4・3m、深さ2・5m)から、首の部分が欠けた須恵器の壺(直径15cm、高さ14cm)が発見され、その中に長さ約13cm、幅約2・5cmと、約15cm、幅約2・2cmの木製の人形(ひとがた)2体が見つかった。 ともに杉製で、頭部から肩にかけてあごひげのある顔が墨で描かれている。 祭事で川や水路に流されることが一般的な人形が、井戸に手厚く入れられていたのは珍しい、という。
 手原遺跡では奈良時代(8世紀)の寺院や役所跡が確認されている。
 21日に栗東歴史民俗博物館で開かれる「2010・11年度発掘調査成果報告会」で展示解説される。
[参考:京都新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.12.21手原遺跡 製塩土器の破片が大量出土

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安中市・長谷津遺跡 弥生時代後期の小型の連弧文鏡が出土

2012年01月20日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団は18日、安中市西上磯部の長谷津(ながやつ)遺跡で2009年の発掘調査(注1)で竪穴住居跡から出土した青銅鏡が、弥生時代後期(紀元1世紀中頃~3世紀中頃)の3世紀初めのものと判明したと発表した。 県内で発見された銅鏡としては最古級で、弥生時代の銅鏡発見は初めてである。 西日本の弥生文化が、群馬にも及んでいたことを裏付ける貴重な資料としている。
 青銅鏡は直径6cm、厚さ2・4mmで、4分の1の部分が弥生時代後期の土器と一緒に三つに割れた状態で見つかった。 前漢時代(紀元前202~後8年)の鏡をモデルに、朝鮮半島や西日本で作られたと考えられている小型の連弧文鏡で、裏面に連弧文と鋸歯文が浮き彫りされているのが特徴とされる。
 発見された銅鏡は今月27日から29日まで県庁県民ホールで一般公開される。
(注1) 縄文時代前期5軒、弥生時代中期11軒、同後期55軒、古墳時代前期7軒、同後期9軒の竪穴住居が出土した。
[参考:上毛新聞、読売新聞、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]

過去の関連ニュース・情報
 長谷津遺跡 竪穴住居間にトンネル跡

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長岡京跡・右京五条三坊三町 「四行八門制」に沿った道路遺構が出土

2012年01月19日 | Weblog
 長岡京市埋蔵文化財センターは18日、長岡京市長岡2丁目(右京五条三坊三町)の文化財発掘調査(長岡京跡右京第1034次調査)で、長岡京時代の街路の区割りである「四行八門(しぎょうはちもん)制(注1)」に沿った通路とみられる遺構が出土したと発表した。 「文献で推定されてきた『四行八門制』が確認される例は珍しい」としている。
 調査で、長岡京時代の南北間24mの溝と、西側1・8~2・4m間隔で並行した南北10mの溝を確認した。 溝の付近から「月」と書かれた墨書土器や円面硯、瓦片、建物跡の遺構も出土した。
 現地説明会は21日(土)午後2時から開かれる。
(注1) 四行八門制: 一町を、東西を4行、南北を8門に等分したものが土地の最小単位(注2)とする宅地制度。
(注2) 1戸主(へぬし)という。
[参考:京都新聞]
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滋賀県・紫香楽宮跡(宮町遺跡) 聖武天皇の内裏跡か 恭仁宮跡と類似した配置の大型掘立柱建物跡を確認

2012年01月18日 | Weblog
 甲賀市教委は18日、聖武天皇が奈良時代中期に造営した紫香楽宮跡の宮町遺跡(同市信楽町)で、同遺跡で最大規模の掘立柱建物跡(東西約24.9m、南北約14.8m)が見つかったと発表した。天皇が政務をつかさどる「朝堂」跡の北側にあり、位置や規模などから天皇が日常生活を送っていた内裏の可能性が高いという。
 朝堂北側では、ほぼ同規模の建物跡が以前にも見つかっており、天皇と伯母の元正太上天皇が過ごす2棟の正殿が、朝堂の中軸線を挟んで東に今回の建物、西に同規模の建物が並び立つ。 このような配置は同時期に聖武天皇が造営した恭仁宮跡(京都府木津川市)の内裏でのみ確認されている。
 今回見つかった建物跡では、遺物がほとんど出土していないため、現段階では建物の詳細は明らかではないという。朝堂跡の北側をさらに調査し、検証する必要があるという。 
[参考:時事通信、共同通信、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
  紫香楽宮跡(宮町遺跡)
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釜山機張郡龍岫里 古墳から5世紀中後半の家形土器が出土

2012年01月18日 | 韓国の遺跡・古墳など
 釜慶文物研究院(2010年設立)は17日、昨年6月から10月まで釜山機張郡鼎冠面龍岫里(부산 기장군 정관면 용수리)一帯の古墳群発掘調査で三国時代の5世紀中後半の家形土器(집모양 토기、高さ18㎝、幅17㎝)を発掘したと発表した。
 この家形土器は正面から見ると、二つの柱があり、柱の後に平面壁を中心に半円形形状をなしている。半円形状の部分には外周に12本の小さい柱が立てられていて、屋根は切妻造(맞배형)のようだ。 酒や水を注いで入れることができる酒杯形の形状などからみて祭儀用として使われたとみている。
 この土器が発掘された地域は、4~6世紀の大規模家の跡地などが発見された佳洞遺跡(가동유적)に接している。
[参考:聨合ニュース]
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三重県明和町・斎宮跡 出土した土師器の破片に最古の平仮名の「いろは歌」

2012年01月18日 | Weblog
 三重県立の斎宮歴史博物館が17日、斎宮跡(三重県明和町)から出土した平安時代後期(11世紀末~12世紀前半)の土器片に、平仮名で「いろは歌」が書かれていたことが分かったと発表した。平仮名のいろは歌が書かれた出土品としては日本最古とみられ、宴や儀式に使用され不要になった皿に書かれている。
 筆跡が繊細で、斎王の身の回りの世話をする女官が文字を練習するために書いたのではないかと推測している。
 平仮名が書かれた土器片は、2010年10月に宮殿があったと考えられている区域で見つかった。
 土師器の皿の一部で、約2cm四方の土器片4個(接合復元、縦6.7cm、横4.3cm)の両面に、墨で約1cm四方の大きさの平仮名が記されていた。土器片をつなぎ合わせると、皿の内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と書かれていた。
 いろは歌は、平仮名などの文字を覚えるための手習い歌のひとつで、文献などから10世紀末から11世紀中ごろに成立したと考えられている。平仮名でいろは歌が書かれた木簡の出土例はこれまでにもあったが、岩手県平泉町の志羅山遺跡で見つかった12世紀後半のものが最も古いという。
 同館は今月21日から3月11日まで、出土した土器片を公開する。
[参考:共同通信、毎日新聞、NHK]

過去の関連ニュース・情報
 斎宮跡

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豊橋市・普門寺旧境内 鎌倉時代の「行者」跡が見つかる

2012年01月18日 | Weblog
 豊橋市美術博物館は17日、同市雲谷(うのや)町にある普門寺の普門寺の旧境内で、鎌倉時代に僧侶が修行をした「行場」跡が見つかったと発表した。 この時代の史跡が確認されたのは東海地方では初めてという。
 昨年11月から発掘を行い、12月に船形山と隣の神石山との間の標高200m地点で、建物の土台となる礎石跡と約100㎡の盛り土の基壇を発見した。 1.8m四方の小規模の建物が建てられたと見られる。 近くでは人工的に立てた巨石も見つかり、 一緒に出土した陶器などから鎌倉時代の行場と推定される。
 また元堂跡がある平場から、ひな壇状に造成された土地と複数の建物の掘立柱の跡を発掘した。生活の痕跡を示す陶器などの出土品があり、坊院跡であることを示している。
 元堂跡近くの池も水を抜いて調査し、小型の舟形木製品(長さ約15cm)を発見した。 年代は不明だが、舟で穢(けが)れを祓う道具とみられる。
 現地説明会が、22日(日)午前10時30分と午後1時30分から開かれる。当日は、 出土品の展示と普門寺が所蔵する文化財の特別公開も行う。
[参考:東日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.3.1普門寺旧本堂(元々堂)跡 寺の創建が10世紀まで遡ることを確認
 2010.1.8普門寺旧本堂(元々堂)跡で岩盤を削った基壇が見つかる
 2008.12.5普門寺旧伽藍址 元堂址で新たに基壇見つかる 

真言宗船形山普門寺
 普門寺は静岡県境の弓張山系の南端にある山岳寺院。 標高約220mの山中にある。 現在は真言宗の寺院だが、 もとは現在の場所より北側の船形山の斜面に広大な境内を持つ密教系の山岳寺院だった。
 かつての境内跡とされる山の斜面には、 本堂だった元堂や元々堂の跡のほか、「平場」に僧侶が生活した坊院跡が200カ所以上も点在し、信仰の対象となった巨岩も残されている。
 「三州船形山普門寺略縁起」では、神亀4年(727)年に行基が開山したとされる。
 これまでの発掘調査から、 平安時代中期(10世紀)の創建とみられる。
 嘉応年間(1169~71年)に兵火にあって焼失。
 養和年間(1181~82年)に源頼朝の叔父とも舎弟とも云われる化積上人が学頭となり寺を再興。頼朝の保護を受けた鎌倉時代に大いに繁栄した。
 頼朝が立ち寄ったと伝えられている。源頼朝が上洛したのは建久元年(1190)。10月3日に出発し、11月7日に入洛、12月29日に鎌倉に戻る。普門寺近くを通った可能性があるのは、(往)10月13日菊河(菊川)、18日橋下(橋本)、25日野間庄(復)12月18日小熊、20日橋下(橋本)、21日池田。
 戦国時代は全山が焼失したが、今川氏により再興され、江戸時代には徳川家や吉田藩の保護を受けた東三河有数の古刹とされる。

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