歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

渋谷区広尾・大徳寺派寺院 東江寺、霊泉院ほか

2011年04月30日 | 瑞泉山祥雲寺
 江戸名所図会によると大徳寺派瑞泉山祥雲寺には子院が8宇あったという。
 今は、子院でも塔頭でもなく、別の寺というがそんなものでしょうか。 でも、墓はすべて祥雲寺の境内にあります。

 江戸時代には、祥雲寺の塔頭または子院として、資料別に下記があげられています。
①「大徳寺の歴史」山田宗敏編、②「続江戸砂子」(1735)、③「改正新編江戸志」、④文政の「地誌御調書上帳」(1828) によると、それぞれあげている塔頭は、
① 景徳院、東江寺、龍興院(旧名霊泉)、天桂院、真常院、香林庵、栖玄庵 の7院
② 景徳院、東江寺、隆興院、天桂院、興常庵、香林庵、栖玄庵、春霄院 の8院
③ 景徳院、東江寺、隆興院、天桂院、真當院、香林庵、棲玄庵、春霄院 の8院
④ 景徳院(東江寺を合寺)、霊泉院、天桂院(元春霄庵)、真常庵、香林庵、棲玄庵 の6院

各塔頭の縁起を調べてみました。(寺院の前の、□:今も現存、■:なし)

■鳳翔山 景徳院
開山 愚渓宗智(祥雲寺2世黙翁宗淵の嗣法、?-1677)
檀家に武蔵国岡部藩主安部(あんべ)氏。
慶安2年(1649) 麻布日下窪に建立。
寛文8年(1668) 類焼のため本寺を移し再建。
寛文12年(1672) 東江寺と合寺。

岡部藩第五代藩主・安部信賢(1685-1723)の墓。
戒名は芳徳院殿春嶺宗融。墓石には「丸に三つ引両紋」と「丸に梶の葉紋」が刻まれている。
年代的には初代安部信盛(1584-1674)の墓があってもよさそうなのだが。
安倍氏の菩提寺は、埼玉県深谷市の曹洞宗源勝院にもある。

□妙高山 東江寺

 寺の建物の瓦には、信濃飯田藩主堀氏の梅鉢紋が使用されている。

開基 堀美作守親昌(法名:太玄院殿前作州太守寂然宗外大居士、1606-1673)、父・親良(法名・東江寺殿梅也宗月大居士、1580-1637)の菩提を弔うために建立。
開山 僊渓和尚(龍嶽宗劉の嗣法、?-1684)、①より中興開山・愚渓宗智とすべきか。
寛文元年(1661) 以前に、下野州那須郡烏山に建立(注1)。
寛文12年(1672) 信州飯田に転封により、寺を廃して、後に景徳院境内に再建する。①では愚渓宗智により当地に移すと。
景徳院と合寺。 当地には先に景徳院があり、そこに東江寺が移り、その後、東江寺の名前に改めたと思われる。
(注1)東江寺境内に入るとすぐ左に、「東江菴」と刻まれた古い石標が立っている。年号も刻まれているのだが、読み難くなっている。「寛永十四丁丑 五月十三日」と読んでみたのだが、二月二十三日、二月十三日、あるいは五月二十三日かもしれない。堀親良の号「梅也宗月東江菴」と命日を刻んだものと推定。 右写真は堀家墓。


堀家墓の墓誌には親良系(信濃飯田藩堀家)の戒名が刻まれている。
 (堀秀重) 東浄寺殿松林道伯大居士
 (堀秀政) 東樹院殿拾遺補闕高嶽道哲大居士
 (同室、喜多島良滋女?) 養珠院殿薫譽高嶽大姉
 (堀秀治) 賞泉寺殿節安存忠大居士
 (堀忠俊) 昌林院殿天叟實参大居士
 (堀親良(秀家)) 東江寺殿梅也宗月大居士
 (堀親昌) 太玄院殿寂然宗外大居士
 (堀親貞) 隆松院殿眞叟紹立大居士
 (堀親常) 芳林院殿性室道覺大居士
 (堀親賢) 東明院殿規俊宗頴大居士
 (堀親庸) 寛祐院殿龍眞義定大居士
など。(読みにくい字があり、間違いがあるかもしれないし、旧字は一部現代の文字になっているものがあるのでご容赦ください。) 堀秀政(東樹院)の部分を中心に一部拡大して表示します。

堀氏と大徳寺との関係では、まず、堀秀政(1553-1590)が、織田信長の供養のために、天正11年(1583)、大徳寺総見院(京都)に古渓宗陳銘の梵鐘(重文)を鋳造したことがあげられる。 その後、堀親賢(1684-1715)の時代の正徳3年(1713)、烏山にあった東江寺の梵鐘(万治4年(1661)堀親昌寄進)を改鋳し祥雲寺に寄進している。


堀親賢によって寄進された梵鐘は、今も祥雲寺の鐘撞堂に架かっている。
梵鐘の銘文は「武蔵野州瑞泉山祥雲寺鐘銘并序」から始まり、 
 (略)
 那須山之城主美作刺吏菅姓堀氏親昌丁先考東江院前美作刺吏従五位下菅原朝臣親良二十五遠年之忌新鑄鳧鐘以寄本寺
 (略)
 萬治四年龍集辛丑夏五月 日
         檀越美作刺吏従五位下菅原親昌
           冶工 山城大掾 藤原清光
           前大徳見住當山僊溪叟宗春 撰
  跋
鐘暦半百年所洪音嗄缺於越衆議革故錬冶勤以旧銘冀不廢先功故檀越曾孫石州刺吏従五位下菅原姓堀氏親賢施金助費以酬先志
  旹
正徳三歳舎昭陽大荒落仲冬中澣日
         住持比丘前徳禪桂州宗愞(注)謹誌
            椎名  伊豫藤原重休
            椎名  平藏藤原重祐
と刻まれている。
(注)愞 は忄(りっしんべん)でなく女へんが正しい。

□霊泉院 または龍興院(隆興院)、今は霊泉院
開基 出雲広瀬城主松平佐渡守近栄(結城秀康の孫)
開山 徳峯宗古(祥雲寺2世黙翁宗淵の嗣法、?-1705) 
寛文9年(1669) 当地を拝領し建立。

写真左は霊泉院、真ん中上は瓦当(三つ葉葵紋と五三桐紋)、右は出雲広瀬藩松平家墓(右が松平近栄公墓)

 出雲広瀬藩初代藩主松平近栄(ちかよし、1632-1717)は、寛文6年(1666年)に兄の松江藩主・松平綱隆から3万石を分与されて広瀬藩を立藩したとされるから、それから3年後にこの霊泉院を建立したことになる。
 墓石からはっきりと、「法雲院殿前上州刺史松隂宗長大居士 享保二丁酉年 九月十九日」と読み取れる。

■天桂院
④では、元は春霄(宵)庵と云い、後に天桂院と改めるとしている。ただし、②、③にも掲載されているので明確ではない。
寛永年中、麻布台本寺内に建立したが、寛文8年(1668)類焼のため当地に再建した。
開山 黙翁宗淵 (祥雲寺開山龍嶽宗劉の嗣法、?-1677)
資料「史料大徳寺の歴史」によると、開基は堀孫太郎親智(1628?-1666)。寛永14年(1637)親良から下野国に3千石を分かち給う。
「寛政重修諸家普」には、堀親智の法名は宗雲、渋谷の祥雲寺に葬るとしている。 先の東江寺の堀家墓(写真)には、おそらく親智系の墓誌があり、堀親智と思われる戒名「天桂院殿瑞溪宗雲」が刻まれている。
親智→親興→親賢と続き、親賢(1684-1715)は、本家の信濃飯田藩堀家第4代親常の跡を継ぎ信濃飯田藩第4代藩主となる。この時に、天桂院はなくなった可能性がある。

香林院
寛文5年(1665) 麻布小山に建立したが、寛文8年(1668)類焼のため本寺を当地に移し建立。
開基 大給縫殿頭真次(法名・香林院殿前尚衣徹景清暁大居士、1577-1646)、嗣子・乗次(1632-1687)が建立。
開山 絶山宗信(愚渓宗智の嗣法、?-1685)

■眞常庵
元禄8年(1695) 霊泉院開山の徳峯宗古が建立。④以後に廃寺。

■棲玄庵
元禄2年(1689) 霊泉院2世功海宗勲が建立。④以後に廃寺。

ほかに、末寺として天桂庵と龍護山大聖寺がある。
□天桂庵

年貢地(百姓地内)に敷地270坪として建立。
開山 東天宗嶽(?-1788) 
寛保2年(1742) 本庄柳島長寿寺持ちの庵であったが、祥雲寺塔頭香林院へ譲り受ける。
天明7年(1787) 香林院東天宗嶽(?-1788)の弟子尼妙立が附囑され、今の尼庵になる。
往時は、間口8間、奥行4間の本堂があった。

□龍護山大聖寺
前身は府中番場宿の曹洞宗高安寺の末・瑞龍山慶正寺。
寛延3年(1750) 香林院の東天宗嶽が慶正寺を香林院へ譲り受けて本山大徳寺末にし、祥雲寺の年貢地(百姓地内)に敷地736坪を引き建立したいと願い出て許可された。
安永4年(1776) 一宇の建立が未だされていなかったので、寺号を大聖寺と改号して建立することを改めて願い出た。
香林院の大聖寺分の過去帳によると 、開基は本還宗智居士 山中姓で先祖が山中鹿之助であるという。
東天宗嶽の入滅後、衰退をしたが、初代常盤津文字太夫が霊像を寄進し堂宇を修繕したという。
明治33年頃までの地図には臨済宗妙心寺派東北寺に隣接して、大聖寺あるいは大祥寺の名前となって存続している。今は廃寺となっている。

現在残っているのは、東江寺、霊泉院、香林院、天桂庵の4寺か。

[参考資料]
「大徳寺の歴史」山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行
「渋谷区史」 昭和27年6月渋谷区役所発行
「新修渋谷区史」 昭和41年東京都渋谷区発行
「寛政重修諸家普」
「江戸名所図会」

関連情報
 瑞泉山祥雲寺
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桜井市・纒向遺跡 「卑弥呼の宮殿」(大型建物跡)のそばから、より新しい時代の別の大型建物跡が見つかる

2011年04月28日 | Weblog
 桜井市教委は27日、今年2~3月に行われた同市・纒向遺跡の発掘調査で、「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される大型建物跡(3世紀前半)のそば(東へ5mの地点)から別の大型建物跡の一部が見つかったと発表した。
 南北9mに並ぶ柱列で、東西1.2m、南北60cmの大きな柱穴3個が4.5m間隔に並んで見つかった。大きな柱穴の間には束柱跡(約60cm四方)も2個確認された。 周辺調査から南端の柱穴は建物の南西隅と判明し、柱穴は建物の西面にあたる。 柱穴の大きさは隣の大型建物跡とほぼ同じ大きさで、柱穴列もさらに北に延びる可能性が高く、大規模な建物だったとみられる。
 柱穴の間隔や、束柱を持つ構造が2009年に約5m西で見つかり、卑弥呼の宮殿ともされる大型建物跡と似ており、同規模の建物だった可能性が高い。 建物跡の大部分はすぐ東側を通るJR桜井線の線路下に埋まっており、建物の規模や造営年代の特定は難しい。
 現場からは3世紀後半から4世紀にかけての土器が多数見つかっており、卑弥呼の時代より新しいと推定している。
 日本書紀・垂仁天皇元年の条に、「冬十月に、さらに纒向に都をつくる。これを珠城宮と謂う。」
 同・垂仁天皇九十九年の条に、「秋七月に、天皇、纒向宮の崩りましぬ。」
 同・景行天皇四年の条に、「冬十一月(略)、即ち纒向宮に都をつくる・是を日代宮と謂す。」
と、4世紀の天皇と仮定される垂仁および景行天皇の時に纒向に宮殿があったことが記される。
 現場はすでに埋め戻されたため、現地説明会は行われない。 現場の写真や出土土器は桜井市立埋蔵文化財センターで始まった速報展「50cm下の桜井」(~10月2日まで)で、昨年の調査で大量に出土したモモの種などとともに展示される。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞、NHKニュース]
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益田市・金山古墳 前方後円墳の可能性 5月に発掘調査

2011年04月28日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは27日、益田市久城町の金山(かなやま)古墳(全長22~25m)が前方後円墳の可能性が高いことが分かったと発表した。金山古墳は形などから古墳時代後期(6世紀)の築造とされるが、不明な点が多いため、県教委と市教委は、地元のNPO法人「久城伝承文化顕彰会」と合同で5月10日から発掘調査を行う。
 発掘調査は5月10~20日ごろまで行う。
 現地説明会が5月14日(土)午前10時半から開かれる予定。
[参考:産経新聞、島根県HP→報道発表資料]
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和歌山市・岩橋千塚前山A58号 隣の方墳と合わせて、ひとつの前方後円墳と判明

2011年04月26日 | Weblog
 県立紀伊風土記の丘(和歌山市岩橋)の発掘調査で、これまで径15mの円墳とされていた岩橋千塚古墳群前山A58号墳と隣にある方墳が、ひとつの前方後円墳(全長約20m、後円部直径14m)と判明した。
 前方部頂上周辺で、円筒埴輪や馬の埴輪が長方形を囲むように埋まり、後円部の斜面には、円筒埴輪が段状に巡らされていた。また、後円部の横穴式石室から須恵器や玉類の破片が出土した。
 古墳時代後期(6世紀前半)の築造と見られる。
 現地説明会が、29日の午前11時と午後1時に行われる。
[参考:読売新聞、紀伊風土記の丘HP]

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奈良市・平城宮外苑 「松林苑跡」 コナベ古墳の西側から楼閣?跡と石張りの護岸を備えた苑池が見つかる

2011年04月24日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所は今年の1~3月に発掘調査し、陵墓参考地である全長204mの前方後円墳・コナベ古墳(同市法華寺町、5世紀前半)の外堤西側、かつ、陪冢に指定されている大和26号墳(方墳)の南側で、平城宮の外苑「松林苑」の施設とみられる奈良時代の建物跡の一部や石張りの護岸を備えた苑池が見つかったと明らかにした。
 大極殿を一望できるような施設を計画的に配置した庭園だったとしている。
 東西約5m、南北約2~3.4mの建物跡2棟を確認し、柱の大きさや配置から、楼閣だったとみている。
「続日本紀」には、
天平元年(729)三月三日 天皇御松林苑宴羣臣。引諸司并朝集使主典以上于御在所。賜物有差。
天平元年(729)五月五日 天皇御松林。宴王臣五位已上。賜祿有差。亦奉騎人等。不問位品給錢一千文。
天平二年(730)三月三日・天皇御松林宮。宴五位以上。引文章生等令賦曲水。賜絁布有差。
天平七年(735)五月五日・天皇御北松林覽騎射。入唐廻使及唐人。奏唐國新羅樂弄槍。五位已上賜祿有差。
天平十年(738)一月十七日 皇帝幸松林。賜宴於文武官主典已上。賚祿有差。
天平十七年(745)五月十八日 天皇親臨松林倉廩。賜陪從人等穀有差。
とみえる。
 これらから、松林苑は、聖武天皇の時代に利用され、苑内には倉庫もあったと考えられている。
 現場は既に埋め戻されている。
[参考:4.23読売新聞、4.24毎日新聞、「新日本文学大系 続日本紀」1990岩波新書]

2011.8.25 追記
 その後、池から見つかった甕や皿など大量の土器について、715年前後に使われた可能性が出てきたという。 松林苑が文献に登場する729年より前となり、時期が合わなくなる。
 これについて、①松林苑以外の庭園の可能性、②松林苑は文献に登場する729年より前に整備された とする意見が出ている。
 出土した土器は、県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で開催中の発掘調査速報展「大和を掘る29」に9月4日まで展示される。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.4コナベ古墳 宮内庁、調査現場を報道陣に公開
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エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランとマリー=ガブリエル・カペ

2011年04月22日 | Weblog

写真は (左)三菱一号館美術館、(右)マリー=ガブリエル・カペ「自画像」

 昨日は、東京国立近代美術館の「生誕100年 岡本太郎展」、その後に、三菱一号館美術館の「ヴィジェ・ルブラン展」を観に行ってきました。
 両館とも空いていたので、ゆっくり、じっくりと観ることができました。
 行く前の興味度、そして観終わっての関心度はともに「ヴィジェ・ルブラン展」でした。
 ただ、ヴィジェ・ルブラン(1755-1842)展での最大の期待は、マリー=ガブリエル・カペ(1761-1818)の絵が何点飾られているのだろうかということ。残念ながら、東京・国立西洋美術館所蔵の「自画像」1点のみでした。こちらは何度も観ているので、他の作品をぜひ観たかったです。作品が描かれたのは18世紀の中頃から19世紀初頭で、日本では江戸時代の11代徳川家重から13代徳川家斉の在位した時期だと思いながら鑑賞しました。
 三菱一号館美術館は初めてでしたが、他の美術館とは違って、区画がたくさんある、落ち着いた雰囲気のある美術館でした。また、図録が素晴らしかったです。左右見開きのページの右には展示している絵を載せ、左のページにはその解説が載っており非常に見やすい構成で、約260頁もあります。
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慶州聞慶市虎渓面 統一新羅時代の金銅仏像7点が出土

2011年04月22日 | Weblog
 嶺南文化財研究院は21日、慶北聞慶市虎渓面犬灘里(경북 문경시 호계면 견탄리)で朝鮮時代の地図や文献に烏井寺(오정사)という寺刹があった場所と記録された一帯を発掘調査した結果、統一新羅時代以後から高麗時代中・後期まで運営されたとみられる寺の跡地を発見し、「廣林寺」とみられる寺跡の積心建物跡9棟、築台施設6基、付属施設8基などを確認したと21日発表した。
 また、「廣林寺付」という字を書いた銘文瓦と統一新羅時代金銅仏像7点(高さ12~17cm、8世紀頃)も出土した。
[参考:聯合ニュース]

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益田市・医光寺 釈迦如来坐像が、前身の寺が創建された頃の制作であることを確認

2011年04月21日 | Weblog
釈迦如来坐像(伝・崇観寺本尊)の内部から墨書の銘文を発見
 雪舟(1420-1506)ゆかりの医光寺が所蔵し開山堂に安置している釈迦如来坐像(木造、高さ約70cm)が、前身の寺・崇観寺(すうかんじ)が創建された頃の制作であることが、県立石見美術館(同市有明町)の調査で確認された。
 釈迦如来坐像は医光寺の前身・崇観寺の本尊だったとされている像で、背中部分の内側に銘文が墨で書き付けられていた。
 応安4年(1371年)に、大仏師法橋広成が制作。 由来や、この地を治めた施主(第11代益田家当主・益田兼見)の名前があった。材料は、檜か針葉樹とみられる。
 鎌倉時代から南北朝時代の仏像、薬師如来像ほか、釈迦如来座像、弘法大師座像を展示した特別展「速報 医光寺の仏像」が、同美術館で4月20日から始まった。6月20日まで。
[参考:読売新聞、山陰中央新報、益田市HP、島根県芸術文化センター「グラントワ」HP]



臨済宗東福寺派 瀧蔵山 医光寺 (島根県益田市染羽町4-29)
 現・医光寺の西方に、貞治2年(1363) 斎藤長者妻直山妙超を開基、龍門士源を開山(注1)として創建された天台宗崇観寺の塔頭を前身とすると伝わる。
(注1) 龍門士源は東福寺一世・聖一国師(1202-1280)の法孫士顔の嫡子と云われるが不明。
 益田市のHPでは、第7代住職が雪舟(1420-1506)としている。
 17代益田宗兼(?-1544)によって医光寺を現在地に建立した。 その後、崇観寺は衰退し、さらに寺堂の消失によって医光寺と合併した。
 本尊は薬師如来像。 安阿弥(快慶の号)の作と伝えられる。

 写真の一番前に建つのは、医光寺総門。そばに立つ説明板には、下記のように記されている。(2002年12月撮影)
医光寺総門
                           指定 昭和三十四年九月一日
 医光寺総門は高麗門の形式で屋根は切妻造り、本瓦葺き、正面の屋根は中央部を高くし、両側を一段低くした段違いの屋根となっている。高麗門は扉筋(とびらすじ)の二本の本柱と背後の二本の控柱(ひかえばしら)からなるが、他に門のごとく本柱、控柱でひとつの屋根を支えるのではなく、本柱通りに妻破風(つまはふ)屋根を架、それと直角に控柱通りに一段低い切妻屋根を載せた門で、屋根の平面はΠ形になり近世の城郭の門に用いられた。
 この門は、益田市の拠城七尾城の大手門を移築したものと伝えられている。十七世紀後半に屋根を改めたといわれ、冠木(かぶらき)に据えた蟇股(かえるまた)や妻飾(つまかざり)の板蟇股に近世の技法がみられる。また、昭和40年にも修理が行われている。
 構造、意匠と簡素であるが、本柱、冠木ともに太く、その豪壮な構えは威容であり、戦国末期の高麗門の姿を今にとどめている。
                           益田市教育委員会


過去の関連ニュースおよび情報 
 2008.11.20 益田市・三宅御土居跡 遺構発見可能性高まる


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泉佐野市・安松田遺跡 東大寺復興に使われた瓦片が出土

2011年04月20日 | Weblog
 大阪府教委は19日、泉佐野市東羽倉崎町の安松田遺跡(やすまつだいせき)で、治承4年南都焼討(1181)で炎上した東大寺を重源(ちょうげん、1121-1206)が再建する際に生産されたとみられる瓦片1000点以上と窯跡などが出土したと発表した。
 ほぼ完全な形で見つかった平瓦2枚は、縦42・5cm、幅34~31cmで、重さ7・5kg。同遺跡の粘土で作られていた。
 同遺跡では、これまでの発掘調査で多数の粘土採掘の土坑が見つかっている。
 岡山市・万富(まんとみ)窯と愛知県田原市・伊良湖(いらこ)窯で瓦が大量生産されたことは知られているが、このほかの生産地が確認されたのは初めて。
 出土した瓦は4月26日から5月8日まで、府立狭山池博物館で展示される。
[参考:共同通信、読売新聞、産経新聞、大阪府HP、大阪府立狭山池博物館HP]

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小山市・牧ノ内古墳群 1400年前の国内最大級の竪穴住居跡を発見

2011年04月19日 | Weblog
 小山市間々田の恩川東岸にある牧ノ内古墳群から、古墳時代としては国内最大級とみられる竪穴住居の遺構(長さ約28.3m、幅約4.5m)が見つかった。かまど4基が設けられた跡があり、遺構内部から出土した土器から6世紀末~7世紀初頭に造られたとみられる。
 恩川流域の間々田地区の古墳群として、千駄塚古墳群の千駄塚古墳(円墳70m、6世紀)を中心として、北1.7kmに宮内古墳群があり、南には約1kmに広がって牧ノ内古墳群が形成されていたとみられる。
 最大で直径約40mの古墳5基も見つかった。
 現場説明会が16日に開かれた。 残念ながら、遺構は宅地造成のため失われる。
[参考:下野新聞]
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華城市・吉城里土城、漢城百済時代に築造された土城であることを再確認

2011年04月17日 | Weblog
 中部考古学研究所は13日、先月2日から華城市の吉城里土城(화성 길성리토성)周辺の工場建設予定地である東側城壁区間とその内部傾斜面一帯を試掘した結果、吉城里土城が3~4世紀頃漢城百済時代に作られた土城であることを再確認したと発表した。
 城壁内部からは3~4世紀漢城百済土器であることが明らかな打捺文軟質土器(타날문 연질토기)破片が多数と鉄器1点が発見された。
城壁は自然丘を削って土を重ねて固めたいわゆる版築技法(판축기법)で作られていた。
[参考:連合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2008.10.11 華城市吉城里土城 百済時代に築造された土城であることが明らかに

備考
 吉城里土城はソウルから南に約50kmほどの京畿道華城市郷南面吉城里にある標高112mを最大とする山の稜線に築かれた土城である。
 2002年韓神大学校博物館によって地表調査が実施され、削土法と盛土法を混用して築城された全周2,311mの土城と発表された。
 築城技法が、基底部に石列を使わない純粋な版築の土城だったこと、城壁の基底で出土した中島式硬質無文土器など、そして隣接した社倉里古墳との関連性から、概ね4世紀頃に築造されたと推定されていた。

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浜松市・狐塚古墳 一辺22mの市内最大の方墳と判明、円筒埴輪が規則的に並んで出土

2011年04月15日 | Weblog
 浜松市北区細江町の狐塚古墳の発掘調査で、5世紀中頃(古墳時代中期)に築造された、一辺22mの二段築成で市内最大の方墳であることが判明した。
 現存する北東側の墳丘部分を調査し、上段と下段の平坦な面から円筒埴輪14点が一定間隔で規則的に並んでいるのが見つかった。その上部斜面は葺石で覆われており、さらにその上部からは形象埴輪も多く出土した。
 同古墳からは、過去には鉄製の短甲が出土している。
 17日午前9時半と午後1時からの2回、現地見学ウォーキングが開催される。集合は北区役所第2駐車場。
[参考:静岡新聞、中日新聞、浜松市HP]

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和歌山県すさみ町・立野遺跡 約2300年前に木工集団

2011年04月14日 | Weblog
 今年の2月初めまでに、約2300年前(弥生時代前期)の河川跡から、伐採された木材、皿状の容器、舟形の器、琴などの木製品が発見された、すさみ町周参見の立野遺跡(たちのいせき)に、優れた技術を持った木工集団が入植・定着し弥生文化を伝えていたことが、県文化財センターによる調査で明らかになった。
 多数の弓を製作しているが、矢先に付く打製石鏃の出土がないことから、狩猟・採集集団ではなく入植者がいた根拠の一つとしている。 ほぼ完全な形で見つかった弓は、樹皮が巻き付けられ漆で補強されるなど高い技術で作られ、製品として出荷していた可能性が高いという。
[参考:紀伊民報]

過去の関連ニュース・情報
 2011.2.5 立野遺跡 大量の木製品が出土 周辺地に供給の可能性も
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木津川市・鹿背山城跡 16世紀後半の切岸の遺構を確認

2011年04月13日 | Weblog
 戦国武将・松永久秀(1510-1577)が16世紀後半に山城とした鹿背山(かせやま)城跡(木津川市鹿背山)の発掘調査で、主要な建物があった山頂付近の主郭から、敵の攻撃に備えて岩盤の斜面をほぼ垂直に削り取った「切岸(きりぎし)」(高低差3~5m)の遺構3箇所が見つかったと木津川市教委が発表した。
 鹿背山城は南山城地域最大の山城で、木津川に面した標高約136mの山頂に築かれ、3つの主郭を持つ。「多聞院日記」などの文献で、15世紀後半の文明年間に興福寺(奈良市)の出城であったことも知られ、16世紀後期に大和を支配した戦国武将、松永久秀が再整備した。
 その後、16世紀後期の永禄年間(1558-1570)に、大和を拠点にした久秀が北方防御のために改修したとされる。
 近くからは15世紀の平瓦や焼けた壁土も出土し、興福寺関連施設の遺物とみられる。
[参考:毎日新聞]

過去のニュース・情報
2010.2.25 鹿背山城跡 「薬医門」跡が見つかる、興福寺時代から存在か
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東京都新宿区・妙典山戒行寺 長谷川平蔵の墓

2011年04月10日 | Weblog
日蓮宗 妙典山 戒行寺 (新宿区須賀町9-3)

 「戒行寺」(監修・星弘道 発行 妙典山戒行寺)[資料1] という本を杉並区立図書館で探して読んでみた。 昭和60年度蔵書となっている。
 それを主に参考にして、縁起をまとめてみると、
文禄4年(1595) 玉泉院日養上人(?-1612)により麹町に戒行庵として創草された。 日養上人は、後に駿州(沼津市岡宮)の日蓮聖人を開山とする法華宗本門流の大本山・光長寺(こうちょうじ)の第十世となった。
寛永の頃までは、麹町一丁目御堀端にあったとする説と、麹町八丁目谷にあったとする説がある。
寛永11年(1634) 2年後に江戸城々郭が拡張されることが決まり、四谷御門外の地に移転することになった。同年、徳川家光より現在の地に三千七百坪の寺地を拝領し、麹町より移転した。 この時、中興開山として第4世玉泉院日城上人。開基は宮重作兵衛信秀(?-1646、妙典院殿蓮経日珠居士)(注1)。
 ちなみに、戒行寺の西隣の曹洞宗・法輪山勝興寺は、天正10年(1582)に麹町清水谷に草庵を建てるが、寛永11年(1634)に江戸城拡張のため、この地に移されたという。 場所、時期などが戒行寺とよく似ている。

 「江戸名所図会」など、明暦年(1655-1657)に移転したと記すものがあるが、現存最古級の江戸全図であることが分かった臼杵市立図書館蔵の「寛永江戸全図」(寛永20年(1643)頃の江戸城下を描いたもの)には、現在地に戒行寺および勝興寺が記されており、明暦年中ではなく、寛永20年までには移転していることがわかる。
[参照:2008.9.11 発掘された日本列島2008 「…江戸の誕生」初期のキリシタン遺物]

 日城上人は、養寿院(お万の方、1580-1653)と子息の頼宣(よりのぶ)の外護を得、諸堂、両尊、四菩薩の寄進を受けた。
 中興開基の宮重作兵衛信秀は、藤原氏の支流を汲む名門の氏で、松平清康の代から仕えた直参という。 御天守番を勤めていた。戒行庵の隣に住居していて、檀那となり一寺となすために尽力した。
 宮重作兵衛信秀の墓は、杉並区堀の内の共同墓地にある。(下左写真)
 
 戒行寺は、池波正太郎の「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵(宣以)の菩提寺として有名であり、その供養之碑(平成6年7月建立)が本堂前の参道横に建てられている。 碑には「火付盗賊改方 長谷川平蔵宣以供養之碑 法名 海雲院殿光遠日耀居士 寛政七年五月十日 享年五十歳」と刻まれている。
 それでは、長谷川平蔵の墓はというと、あるのかないのか明確でない。
 参道を進んで、右に長谷川家の墓(①)がある。 明治時代のものである。 杉並区堀の内にある戒行寺の墓地に移してあったものを、再度寺に運んできたらしい節がある。 資料1に長谷川平蔵宣以の墓の写真(②)が載っている。さらに、杉並区堀の内に戒行寺の墓地があるといい、長谷川平蔵宣以の墓がここに眠っていると記載している。 だが、長谷川平蔵宣以の墓の写真(②)というのは、虫眼鏡でよく見ると(①)の墓と同一のようである。
 長谷川家の墓(①)の最上部にある家紋は左が「丸に根笹」、右が「丸に蔦」(下の写真左)であった。前回の日蓮宗 長廣山 立法寺の長谷川正次系の墓の最上部にあった家紋(下の写真右)と並べて見比べると違いが歴然とするのではないだろうか。


 長谷川平蔵の墓が、あるのかないのかという結論(推測)であるが、明治末期に、戒行寺内にあった墓は、杉並区堀の内の共同墓地に改葬移転され、この時に、遺族の立会がなかったので、墓は無縁のものとして処分されてしまったのではないだろうか。 共同墓地の戒行寺の墓域にある、無縁仏にたくさんの墓石が縦に積まれている。外からはそれらしきものはなかったが、中の方にひっそりと眠っているのかもしれない。

(注1)宮重作兵衛信秀を宮重作兵衛忠次と書いていたが、あるいは書いているものがあったが訂正する。寛政重修諸家譜には幼名忠次(ただつぐ)とし、その後に作兵衛と記している。(2016.6.3)


2014.6.25 追記
開基・宮重作兵衛信秀の五男・信利の4代後八郎左衛門信量(のぶかず)の四男・信敏が本因坊11世元丈であり、その子岩之助が13世本因坊丈策である。

関連情報
 長廣山 立法寺
 徳栄山総持院本妙寺




キーワード: 長谷川正長、長谷川正成
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