江戸名所図会によると大徳寺派瑞泉山祥雲寺には子院が8宇あったという。
今は、子院でも塔頭でもなく、別の寺というがそんなものでしょうか。 でも、墓はすべて祥雲寺の境内にあります。
江戸時代には、祥雲寺の塔頭または子院として、資料別に下記があげられています。
①「大徳寺の歴史」山田宗敏編、②「続江戸砂子」(1735)、③「改正新編江戸志」、④文政の「地誌御調書上帳」(1828) によると、それぞれあげている塔頭は、
① 景徳院、東江寺、龍興院(旧名霊泉)、天桂院、真常院、香林庵、栖玄庵 の7院
② 景徳院、東江寺、隆興院、天桂院、興常庵、香林庵、栖玄庵、春霄院 の8院
③ 景徳院、東江寺、隆興院、天桂院、真當院、香林庵、棲玄庵、春霄院 の8院
④ 景徳院(東江寺を合寺)、霊泉院、天桂院(元春霄庵)、真常庵、香林庵、棲玄庵 の6院
各塔頭の縁起を調べてみました。(寺院の前の、□:今も現存、■:なし)
■鳳翔山 景徳院
開山 愚渓宗智(祥雲寺2世黙翁宗淵の嗣法、?-1677)
檀家に武蔵国岡部藩主安部(あんべ)氏。
慶安2年(1649) 麻布日下窪に建立。
寛文8年(1668) 類焼のため本寺を移し再建。
寛文12年(1672) 東江寺と合寺。
岡部藩第五代藩主・安部信賢(1685-1723)の墓。
戒名は芳徳院殿春嶺宗融。墓石には「丸に三つ引両紋」と「丸に梶の葉紋」が刻まれている。
年代的には初代安部信盛(1584-1674)の墓があってもよさそうなのだが。
安倍氏の菩提寺は、埼玉県深谷市の曹洞宗源勝院にもある。
□妙高山 東江寺
寺の建物の瓦には、信濃飯田藩主堀氏の梅鉢紋が使用されている。
開基 堀美作守親昌(法名:太玄院殿前作州太守寂然宗外大居士、1606-1673)、父・親良(法名・東江寺殿梅也宗月大居士、1580-1637)の菩提を弔うために建立。
開山 僊渓和尚(龍嶽宗劉の嗣法、?-1684)、①より中興開山・愚渓宗智とすべきか。
寛文元年(1661) 以前に、下野州那須郡烏山に建立(注1)。
寛文12年(1672) 信州飯田に転封により、寺を廃して、後に景徳院境内に再建する。①では愚渓宗智により当地に移すと。
景徳院と合寺。 当地には先に景徳院があり、そこに東江寺が移り、その後、東江寺の名前に改めたと思われる。
(注1)東江寺境内に入るとすぐ左に、「東江菴」と刻まれた古い石標が立っている。年号も刻まれているのだが、読み難くなっている。「寛永十四丁丑 五月十三日」と読んでみたのだが、二月二十三日、二月十三日、あるいは五月二十三日かもしれない。堀親良の号「梅也宗月東江菴」と命日を刻んだものと推定。 右写真は堀家墓。
堀家墓の墓誌には親良系(信濃飯田藩堀家)の戒名が刻まれている。
(堀秀重) 東浄寺殿松林道伯大居士
(堀秀政) 東樹院殿拾遺補闕高嶽道哲大居士
(同室、喜多島良滋女?) 養珠院殿薫譽高嶽大姉
(堀秀治) 賞泉寺殿節安存忠大居士
(堀忠俊) 昌林院殿天叟實参大居士
(堀親良(秀家)) 東江寺殿梅也宗月大居士
(堀親昌) 太玄院殿寂然宗外大居士
(堀親貞) 隆松院殿眞叟紹立大居士
(堀親常) 芳林院殿性室道覺大居士
(堀親賢) 東明院殿規俊宗頴大居士
(堀親庸) 寛祐院殿龍眞義定大居士
など。(読みにくい字があり、間違いがあるかもしれないし、旧字は一部現代の文字になっているものがあるのでご容赦ください。) 堀秀政(東樹院)の部分を中心に一部拡大して表示します。
堀氏と大徳寺との関係では、まず、堀秀政(1553-1590)が、織田信長の供養のために、天正11年(1583)、大徳寺総見院(京都)に古渓宗陳銘の梵鐘(重文)を鋳造したことがあげられる。 その後、堀親賢(1684-1715)の時代の正徳3年(1713)、烏山にあった東江寺の梵鐘(万治4年(1661)堀親昌寄進)を改鋳し祥雲寺に寄進している。
堀親賢によって寄進された梵鐘は、今も祥雲寺の鐘撞堂に架かっている。
梵鐘の銘文は「武蔵野州瑞泉山祥雲寺鐘銘并序」から始まり、
(略)
那須山之城主美作刺吏菅姓堀氏親昌丁先考東江院前美作刺吏従五位下菅原朝臣親良二十五遠年之忌新鑄鳧鐘以寄本寺
(略)
萬治四年龍集辛丑夏五月 日
檀越美作刺吏従五位下菅原親昌
冶工 山城大掾 藤原清光
前大徳見住當山僊溪叟宗春 撰
跋
鐘暦半百年所洪音嗄缺於越衆議革故錬冶勤以旧銘冀不廢先功故檀越曾孫石州刺吏従五位下菅原姓堀氏親賢施金助費以酬先志
旹
正徳三歳舎昭陽大荒落仲冬中澣日
住持比丘前徳禪桂州宗愞(注)謹誌
椎名 伊豫藤原重休
椎名 平藏藤原重祐
と刻まれている。
(注)愞 は忄(りっしんべん)でなく女へんが正しい。
□霊泉院 または龍興院(隆興院)、今は霊泉院
開基 出雲広瀬城主松平佐渡守近栄(結城秀康の孫)
開山 徳峯宗古(祥雲寺2世黙翁宗淵の嗣法、?-1705)
寛文9年(1669) 当地を拝領し建立。
写真左は霊泉院、真ん中上は瓦当(三つ葉葵紋と五三桐紋)、右は出雲広瀬藩松平家墓(右が松平近栄公墓)
出雲広瀬藩初代藩主松平近栄(ちかよし、1632-1717)は、寛文6年(1666年)に兄の松江藩主・松平綱隆から3万石を分与されて広瀬藩を立藩したとされるから、それから3年後にこの霊泉院を建立したことになる。
墓石からはっきりと、「法雲院殿前上州刺史松隂宗長大居士 享保二丁酉年 九月十九日」と読み取れる。
■天桂院
④では、元は春霄(宵)庵と云い、後に天桂院と改めるとしている。ただし、②、③にも掲載されているので明確ではない。
寛永年中、麻布台本寺内に建立したが、寛文8年(1668)類焼のため当地に再建した。
開山 黙翁宗淵 (祥雲寺開山龍嶽宗劉の嗣法、?-1677)
資料「史料大徳寺の歴史」によると、開基は堀孫太郎親智(1628?-1666)。寛永14年(1637)親良から下野国に3千石を分かち給う。
「寛政重修諸家普」には、堀親智の法名は宗雲、渋谷の祥雲寺に葬るとしている。 先の東江寺の堀家墓(写真)には、おそらく親智系の墓誌があり、堀親智と思われる戒名「天桂院殿瑞溪宗雲」が刻まれている。
親智→親興→親賢と続き、親賢(1684-1715)は、本家の信濃飯田藩堀家第4代親常の跡を継ぎ信濃飯田藩第4代藩主となる。この時に、天桂院はなくなった可能性がある。
□香林院
寛文5年(1665) 麻布小山に建立したが、寛文8年(1668)類焼のため本寺を当地に移し建立。
開基 大給縫殿頭真次(法名・香林院殿前尚衣徹景清暁大居士、1577-1646)、嗣子・乗次(1632-1687)が建立。
開山 絶山宗信(愚渓宗智の嗣法、?-1685)
■眞常庵
元禄8年(1695) 霊泉院開山の徳峯宗古が建立。④以後に廃寺。
■棲玄庵
元禄2年(1689) 霊泉院2世功海宗勲が建立。④以後に廃寺。
ほかに、末寺として天桂庵と龍護山大聖寺がある。
□天桂庵
年貢地(百姓地内)に敷地270坪として建立。
開山 東天宗嶽(?-1788)
寛保2年(1742) 本庄柳島長寿寺持ちの庵であったが、祥雲寺塔頭香林院へ譲り受ける。
天明7年(1787) 香林院東天宗嶽(?-1788)の弟子尼妙立が附囑され、今の尼庵になる。
往時は、間口8間、奥行4間の本堂があった。
□龍護山大聖寺
前身は府中番場宿の曹洞宗高安寺の末・瑞龍山慶正寺。
寛延3年(1750) 香林院の東天宗嶽が慶正寺を香林院へ譲り受けて本山大徳寺末にし、祥雲寺の年貢地(百姓地内)に敷地736坪を引き建立したいと願い出て許可された。
安永4年(1776) 一宇の建立が未だされていなかったので、寺号を大聖寺と改号して建立することを改めて願い出た。
香林院の大聖寺分の過去帳によると 、開基は本還宗智居士 山中姓で先祖が山中鹿之助であるという。
東天宗嶽の入滅後、衰退をしたが、初代常盤津文字太夫が霊像を寄進し堂宇を修繕したという。
明治33年頃までの地図には臨済宗妙心寺派東北寺に隣接して、大聖寺あるいは大祥寺の名前となって存続している。今は廃寺となっている。
現在残っているのは、東江寺、霊泉院、香林院、天桂庵の4寺か。
[参考資料]
「大徳寺の歴史」山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行
「渋谷区史」 昭和27年6月渋谷区役所発行
「新修渋谷区史」 昭和41年東京都渋谷区発行
「寛政重修諸家普」
「江戸名所図会」
関連情報
瑞泉山祥雲寺
今は、子院でも塔頭でもなく、別の寺というがそんなものでしょうか。 でも、墓はすべて祥雲寺の境内にあります。
江戸時代には、祥雲寺の塔頭または子院として、資料別に下記があげられています。
①「大徳寺の歴史」山田宗敏編、②「続江戸砂子」(1735)、③「改正新編江戸志」、④文政の「地誌御調書上帳」(1828) によると、それぞれあげている塔頭は、
① 景徳院、東江寺、龍興院(旧名霊泉)、天桂院、真常院、香林庵、栖玄庵 の7院
② 景徳院、東江寺、隆興院、天桂院、興常庵、香林庵、栖玄庵、春霄院 の8院
③ 景徳院、東江寺、隆興院、天桂院、真當院、香林庵、棲玄庵、春霄院 の8院
④ 景徳院(東江寺を合寺)、霊泉院、天桂院(元春霄庵)、真常庵、香林庵、棲玄庵 の6院
各塔頭の縁起を調べてみました。(寺院の前の、□:今も現存、■:なし)
■鳳翔山 景徳院
開山 愚渓宗智(祥雲寺2世黙翁宗淵の嗣法、?-1677)
檀家に武蔵国岡部藩主安部(あんべ)氏。
慶安2年(1649) 麻布日下窪に建立。
寛文8年(1668) 類焼のため本寺を移し再建。
寛文12年(1672) 東江寺と合寺。
岡部藩第五代藩主・安部信賢(1685-1723)の墓。
戒名は芳徳院殿春嶺宗融。墓石には「丸に三つ引両紋」と「丸に梶の葉紋」が刻まれている。
年代的には初代安部信盛(1584-1674)の墓があってもよさそうなのだが。
安倍氏の菩提寺は、埼玉県深谷市の曹洞宗源勝院にもある。
□妙高山 東江寺
寺の建物の瓦には、信濃飯田藩主堀氏の梅鉢紋が使用されている。
開基 堀美作守親昌(法名:太玄院殿前作州太守寂然宗外大居士、1606-1673)、父・親良(法名・東江寺殿梅也宗月大居士、1580-1637)の菩提を弔うために建立。
開山 僊渓和尚(龍嶽宗劉の嗣法、?-1684)、①より中興開山・愚渓宗智とすべきか。
寛文元年(1661) 以前に、下野州那須郡烏山に建立(注1)。
寛文12年(1672) 信州飯田に転封により、寺を廃して、後に景徳院境内に再建する。①では愚渓宗智により当地に移すと。
景徳院と合寺。 当地には先に景徳院があり、そこに東江寺が移り、その後、東江寺の名前に改めたと思われる。
(注1)東江寺境内に入るとすぐ左に、「東江菴」と刻まれた古い石標が立っている。年号も刻まれているのだが、読み難くなっている。「寛永十四丁丑 五月十三日」と読んでみたのだが、二月二十三日、二月十三日、あるいは五月二十三日かもしれない。堀親良の号「梅也宗月東江菴」と命日を刻んだものと推定。 右写真は堀家墓。
堀家墓の墓誌には親良系(信濃飯田藩堀家)の戒名が刻まれている。
(堀秀重) 東浄寺殿松林道伯大居士
(堀秀政) 東樹院殿拾遺補闕高嶽道哲大居士
(同室、喜多島良滋女?) 養珠院殿薫譽高嶽大姉
(堀秀治) 賞泉寺殿節安存忠大居士
(堀忠俊) 昌林院殿天叟實参大居士
(堀親良(秀家)) 東江寺殿梅也宗月大居士
(堀親昌) 太玄院殿寂然宗外大居士
(堀親貞) 隆松院殿眞叟紹立大居士
(堀親常) 芳林院殿性室道覺大居士
(堀親賢) 東明院殿規俊宗頴大居士
(堀親庸) 寛祐院殿龍眞義定大居士
など。(読みにくい字があり、間違いがあるかもしれないし、旧字は一部現代の文字になっているものがあるのでご容赦ください。) 堀秀政(東樹院)の部分を中心に一部拡大して表示します。
堀氏と大徳寺との関係では、まず、堀秀政(1553-1590)が、織田信長の供養のために、天正11年(1583)、大徳寺総見院(京都)に古渓宗陳銘の梵鐘(重文)を鋳造したことがあげられる。 その後、堀親賢(1684-1715)の時代の正徳3年(1713)、烏山にあった東江寺の梵鐘(万治4年(1661)堀親昌寄進)を改鋳し祥雲寺に寄進している。
堀親賢によって寄進された梵鐘は、今も祥雲寺の鐘撞堂に架かっている。
梵鐘の銘文は「武蔵野州瑞泉山祥雲寺鐘銘并序」から始まり、
(略)
那須山之城主美作刺吏菅姓堀氏親昌丁先考東江院前美作刺吏従五位下菅原朝臣親良二十五遠年之忌新鑄鳧鐘以寄本寺
(略)
萬治四年龍集辛丑夏五月 日
檀越美作刺吏従五位下菅原親昌
冶工 山城大掾 藤原清光
前大徳見住當山僊溪叟宗春 撰
跋
鐘暦半百年所洪音嗄缺於越衆議革故錬冶勤以旧銘冀不廢先功故檀越曾孫石州刺吏従五位下菅原姓堀氏親賢施金助費以酬先志
旹
正徳三歳舎昭陽大荒落仲冬中澣日
住持比丘前徳禪桂州宗愞(注)謹誌
椎名 伊豫藤原重休
椎名 平藏藤原重祐
と刻まれている。
(注)愞 は忄(りっしんべん)でなく女へんが正しい。
□霊泉院 または龍興院(隆興院)、今は霊泉院
開基 出雲広瀬城主松平佐渡守近栄(結城秀康の孫)
開山 徳峯宗古(祥雲寺2世黙翁宗淵の嗣法、?-1705)
寛文9年(1669) 当地を拝領し建立。
写真左は霊泉院、真ん中上は瓦当(三つ葉葵紋と五三桐紋)、右は出雲広瀬藩松平家墓(右が松平近栄公墓)
出雲広瀬藩初代藩主松平近栄(ちかよし、1632-1717)は、寛文6年(1666年)に兄の松江藩主・松平綱隆から3万石を分与されて広瀬藩を立藩したとされるから、それから3年後にこの霊泉院を建立したことになる。
墓石からはっきりと、「法雲院殿前上州刺史松隂宗長大居士 享保二丁酉年 九月十九日」と読み取れる。
■天桂院
④では、元は春霄(宵)庵と云い、後に天桂院と改めるとしている。ただし、②、③にも掲載されているので明確ではない。
寛永年中、麻布台本寺内に建立したが、寛文8年(1668)類焼のため当地に再建した。
開山 黙翁宗淵 (祥雲寺開山龍嶽宗劉の嗣法、?-1677)
資料「史料大徳寺の歴史」によると、開基は堀孫太郎親智(1628?-1666)。寛永14年(1637)親良から下野国に3千石を分かち給う。
「寛政重修諸家普」には、堀親智の法名は宗雲、渋谷の祥雲寺に葬るとしている。 先の東江寺の堀家墓(写真)には、おそらく親智系の墓誌があり、堀親智と思われる戒名「天桂院殿瑞溪宗雲」が刻まれている。
親智→親興→親賢と続き、親賢(1684-1715)は、本家の信濃飯田藩堀家第4代親常の跡を継ぎ信濃飯田藩第4代藩主となる。この時に、天桂院はなくなった可能性がある。
□香林院
寛文5年(1665) 麻布小山に建立したが、寛文8年(1668)類焼のため本寺を当地に移し建立。
開基 大給縫殿頭真次(法名・香林院殿前尚衣徹景清暁大居士、1577-1646)、嗣子・乗次(1632-1687)が建立。
開山 絶山宗信(愚渓宗智の嗣法、?-1685)
■眞常庵
元禄8年(1695) 霊泉院開山の徳峯宗古が建立。④以後に廃寺。
■棲玄庵
元禄2年(1689) 霊泉院2世功海宗勲が建立。④以後に廃寺。
ほかに、末寺として天桂庵と龍護山大聖寺がある。
□天桂庵
年貢地(百姓地内)に敷地270坪として建立。
開山 東天宗嶽(?-1788)
寛保2年(1742) 本庄柳島長寿寺持ちの庵であったが、祥雲寺塔頭香林院へ譲り受ける。
天明7年(1787) 香林院東天宗嶽(?-1788)の弟子尼妙立が附囑され、今の尼庵になる。
往時は、間口8間、奥行4間の本堂があった。
□龍護山大聖寺
前身は府中番場宿の曹洞宗高安寺の末・瑞龍山慶正寺。
寛延3年(1750) 香林院の東天宗嶽が慶正寺を香林院へ譲り受けて本山大徳寺末にし、祥雲寺の年貢地(百姓地内)に敷地736坪を引き建立したいと願い出て許可された。
安永4年(1776) 一宇の建立が未だされていなかったので、寺号を大聖寺と改号して建立することを改めて願い出た。
香林院の大聖寺分の過去帳によると 、開基は本還宗智居士 山中姓で先祖が山中鹿之助であるという。
東天宗嶽の入滅後、衰退をしたが、初代常盤津文字太夫が霊像を寄進し堂宇を修繕したという。
明治33年頃までの地図には臨済宗妙心寺派東北寺に隣接して、大聖寺あるいは大祥寺の名前となって存続している。今は廃寺となっている。
現在残っているのは、東江寺、霊泉院、香林院、天桂庵の4寺か。
[参考資料]
「大徳寺の歴史」山田宗敏編 平成5年5月 毎日新聞社発行
「渋谷区史」 昭和27年6月渋谷区役所発行
「新修渋谷区史」 昭和41年東京都渋谷区発行
「寛政重修諸家普」
「江戸名所図会」
関連情報
瑞泉山祥雲寺