歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

康津郡・月南寺址 三層石塔から、舎利瓶とみられる青銅瓶を発見

2017年07月29日 | 韓国の遺跡・古墳など
 韓国文化財庁は27日、朝鮮時代に廃寺になった全南月南寺址三層石塔(宝物298号、高さ約8m)の三層石下から舎利が入れられたとみられる青銅瓶(高さ22㎝、最大幅11㎝)が出土したと発表した。
[参考:聯合ニュース]

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 康津郡月南寺址
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羅州市・丁村古墳 殯葬を行った可能性を示すハエのさなぎの殻を確認

2017年04月19日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は17日、2014年12月に羅州市・丁村古墳(정촌 고분)1号石室から発見された1千500年前の金銅靴から、ハエ(蠅、파리)のさなぎの殻が確認されたと発表した。
 金銅靴内部の土を整理する過程で埋葬者の踵(かかと)骨片とともにハエのさなぎの殻約10個を検出して法医昆虫学的分析を進めた。
 これは葬儀を行う時、死体をすぐに埋めないで、外部で一定期間儀式を行った後に埋葬する、殯葬(빈장)の可能性を示すこととして注目される。
[参考:聯合ニュース]

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 丁村古墳
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蔚州・霊鷲寺址 3次学術発掘調査完了 さらなる僧坊跡を確認

2017年01月17日 | 韓国の遺跡・古墳など
蔚山博物館は13日、2012~2015年にかけて行った霊鷲寺址(蔚山市記念物24号)3次学術発掘調査を完了し、霊鷲寺が講堂-金堂-東・西塔-中門-回廊からなる寺院であったことが明らかになったと、13日明らかにした。今回は、さらなる僧坊跡を確認した。
霊鷲寺(영축사)は蔚山広域市蔚州郡青良面粟里(울산광역시 울주군 청량면 율리)に位置し、「三国遺事」に創建記録が記されている寺院であり、新羅第31代神文王3年(683)に宰相忠元公が建議して建てた統一新羅時代の双塔一金堂式伽藍である。
<規模>
中心寺域は東西69.6m×南北56.5m。
中門跡は正面3間×側面2間(8.6m×5.1m)と回廊跡。 
金堂跡は5間×5間 (16.4m×16.4m)の正方形形状。
講堂跡は正面7間×側面4間(24.5m、15m)。
回廊は東西南北全てにおいて側面1間である単廊構造。
東西両塔は、塔の領域を表示する地台石のある塔区が確認され、慶州・感恩寺址(감은사지)三層石塔と千軍里(천군리)三層石塔の様相と似ているという。
僧房は中心寺域を囲んで講堂左右と北側で確認された。
[参考:2017.1.13聯合ニュース、過去の関連情報・ニュース]
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全南千徳里・懷德古墳群3号墳 6世紀前後の葺石を施した横穴式石室を持つ円墳と判明

2016年10月31日 | 韓国の遺跡・古墳など
 全南道によれば、全南和順綾州面千徳里懷德古墳群(천덕리 회덕고분군、全南道記念物192号)の3号墳を調査した結果、直径22.17m、高さ5.3mの6世紀前後に築造された円形古墳とわかった。
 封墳表面では葺石と横穴式石室が確認された。
 石室壁面と木棺には「永生不滅(영생불멸)」を象徴する朱漆装飾が施されていた。
 埋葬施設には50年の間に4人以上が追葬されたらしい。
 出土遺物は器台、高杯、蓋杯等土器類、刃物・斧・矢など鉄器類、金製耳飾り、玉(勾玉など)など100点余り。
 出土遺物などから、6世紀前後にこの地域に大規模勢力集団が存在し、百済、大伽耶、倭と活発な交流がされていたようである。
 今回の発掘は文化財庁の許可を受けて大韓文化財研究院が行った。
[参考:聯合ニュースなど]

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扶余・陵山里古墳群 百済王陵級墓2基を確認

2016年09月22日 | 韓国の遺跡・古墳など
 韓国・文化財庁は20日、今年6月から扶余・陵山里古墳群(부여 능산리 고분군、史跡第14号) 4次発掘調査をした結果、2基の古墳が王陵級と確認したと発表した。百済の王陵級墓が発掘されたことは、武寧王陵(무령왕릉)以後、今回が初めてだ。
 陵山里古墳群には古墳17基があるが、追加発掘調査で、8号墳と10号墳が王陵級とみられることが新たにわかった。 2基の古墳は直径が15~20mであり、横穴式石室構造で造成されていた。王陵級とみられるのは、百済王陵級墓で確認される護石(호석・둘레돌)が囲まれているためである。 古墳入口から死体を安置する部屋まで通じる羨道から、漆とともに金で覆われた木棺片、金銅釘等も発見された。木棺は武寧王陵などで主に発見された高級木材であるコウヤマキ(금송、金松)で製作されたことが確認された。
 これまで存在が確認されていなかった古墳3基も今回の発掘調査で発見され、陵山里古墳群の古墳は合計20基に達した。
[参考:聯合ニュース、大田新聞、CAMニュースほか]

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 陵山里古墳群
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羅州市・丁村古墳 石室造成・盛土を同時進行など築造技法を確認

2016年09月09日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は5日、5世紀後半から7世紀初期までに作られた羅州市・丁村古墳の築造技術と構造を確認するための発掘調査を実施して、丁村古墳は1号石室造成と盛土作業を同時に進めて作った墓とわかったと発表した。
 このような築造技法は栄山江流域の古代墓では初めて確認された。
栄山江流域古墳は普通平地や低い丘陵にあるのに対して、丁村古墳は海抜112mの山斜面に単独で造成された。上部の土を削平し1,600㎡の広さの平坦な土地を固め、安定的に古墳を築く(積み重ねる)ために石室造成と盛土を一緒に行った。土の墓が流れないように外側の土は水平に固めて積み、築台を設置して古墳下部を補強した。
 今回の調査では1号石室と甕棺2基、木棺1基は同時代に造成され、以後に石室2基と石槨4基、甕棺4基が古墳中に追加されたことも分かった。
 1号石室(4.9x3.8x3m)の3Dデジタル写真が添付されており、石積みの壁と天井を構成した姿がよく確認される。また、そのドーム状は。思ったより天井の幅が狭く傾斜が強かった。
[参考:聯合ニュース他]

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 羅州市・丁村古墳


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天安市銅城山城、忠南地域最初の漢城百済土城を確認

2016年09月08日 | 韓国の遺跡・古墳など
忠南天安市銅城山城の発掘が山城の北側と西側城壁、城内地域一部で行われ、調査の結果、忠南地域最初の漢城首都期百済土築山城と確認された。
銅城山城は忠南、天安市と忠北、鎮川郡を結ぶ交通路に隣接したところにあり、동성산(銅城山、海抜高度237.8m)の頂上部を囲む鉢卷式山城である。全体周囲が約930mに達する。
城内頂上部では多数の家跡とくぼみなどが確認され、内部では、脚皿と硬質土器破片など4~5世紀の百済土器が集中出土した。
今回の発掘で、銅城山城の存在は漢城首都期百済勢力が馬韓の古土(過去の地域)に軍事的な進出があった直接的で明確な証拠である。
[参考:聯合ニュースほか]

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 忠南天安市山城





キーワード: 忠南天安市
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高霊郡・主山城 百済技術で作った木槨庫を確認

2015年07月15日 | 韓国の遺跡・古墳など
 大同文化財研究院は14日、大伽耶の石垣山城である慶北高霊郡主山城(고령 주산성)内城(6世紀初期に築城)で、百済の技術で作られた食材を保管するために作ったと推定される大型地下保存施設・木槨庫(縦横各5m、深さ2m、 6世紀中頃)を確認したと発表した。
 このような木槨庫は公州 公山城、大田 鷄足山城、利川 雪城山城、錦山 栢嶺城、大田 月坪洞遺跡などの百済圏域で主に発掘され、伽耶圏域から出たことは初めてという。
 当時、大伽耶と百済が密接な交流をしており、木槨庫に使われた度量衡が百済で使われた南朝尺(1尺=25㎝)である点からみて、百済技術で作られた可能性が大きいと話した。
 木槨庫では、新羅が大伽耶を併合した後、火を付けたとみられる焼土と木炭とともに、6世紀後半新羅で製作された短脚高杯、短脚皿片も出土した。
 研究院関係者は木槨庫の確認は大伽耶が554年管山城戰鬪(注1)で敗れた後、親百済勢力によって支配されたという学説を後押しすると話している。
[参考:聯合ニュース]

(注1)管山城戦闘は554年百済と新羅が管山城、今の忠北、沃川で戦って新羅軍が百済軍を打ち破って百済聖王を殺した戦い。 その後、両国は百済が滅亡するまで敵対関係が続いた。

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朝鮮半島の前方後円墳 最新情報

2015年01月11日 | 韓国の遺跡・古墳など
2015年1月8日付けの産経新聞の記事 「朝鮮半島に前方後円墳12基 奈良・橿考研博の学芸員が報告 」を読んだ。
日本と韓国が一つの目標(解決)に向かって話し合うことは非常に大事だが、だいぶ遅かったという感じもする。
産経新聞に書かれた古墳は新徳1号墳(咸平郡)、月桂洞1号墳(光州広域市)、長鼓峯(山)古墳(海南郡)の3つだけで、他の9つについてはわからない。坂靖さんが発表された資料を是非拝見したいものである。

このブログで既にリストアップした前方後円墳および新たに発表された前方後円墳を下記のように整理してみた。16古墳ある。

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2008.11.22 韓国の前方後円墳 海南龍頭里古墳を発掘調査 6世紀中頃築造
2008年11月21日、朝鮮日報(インターネット版)の記事に、今回の海南・龍頭里古墳の記事が出ていた。
 タイトルは、「海南・龍頭里古墳」 任那日本府 亡霊から抜け出した前方後円墳 13ヶ所中7ヶ所発掘「倭色濃厚だが任那日本府説反証」 である。
 現在まで把握された韓半島の前方後円墳13基中7基が姿を表した・・・と始まり、前方後円墳の性格を簡単に触れた上で、韓国で確実に把握された古墳13基を下記のように整理している。 ◎は調査が行われた古墳 ( )内は調査した機関
 全北高敞郡七岩里古墳
 全南霊光郡月山里月桂古墳.
 潭陽郡古城里古墳(月城山古墳)および声月里古墳(月田古墳)
 咸平長年里長鼓山古墳
 咸平馬山里(杓山)古墳群第1号墳
 ◎咸平礼徳里新徳古墳 (国立光州博物館)
 ◎光州明花洞古墳 (国立光州博物館)
 ◎光州月桂洞1および2号墳 (全南大博物館)
 ◎霊岩郡チャラボン(자라봉)古墳 (韓国精神文化研究院)
 ◎海南方山里長鼓山(峯)古墳 (国立光州博物館)
 ◎海南龍頭里古墳 (国立光州博物館)

2013.2.20 康津・永波里古墳 韓国で14番目の前方後円墳が見つかる
古墳の規模は残存全長が67mで、円形部直径38m、円形部高さ7mである。 6世紀初めに築造か。

2013.10.8 韓国・全南羅州佳興里新興古墳 5世紀半ばの前方後円墳を確認
5世紀半ばの前方後円墳(墳丘長 30m)としている。

④ 大韓民国全南大学人類学科講師 崔榮柱氏の「韓半島の栄山江流域における古墳展開と前方後円形古墳の出現過程」(立命館文學 632, 163-152, 2013-07立命館大学)には、①の13基の古墳以外に光州堯基洞古墳?(全長50m)(注1)が加えられている。
崔氏は、韓国にある前方後円墳を「前方後円形古墳」と呼んでいる。その理由は、前方後円墳がヤマト政権を頂点とした政治体系で、ヤマト政権と地方首長の政治的な支配・従属関係を示したと考えられるのに対して、朝鮮半島の前方後円墳が直ちに日本古墳時代の体制内に編入されることを意味しかねないため、それを配慮して「前方後円形古墳」と呼ぶことにしているとしている。
(注1)光州堯基洞古墳をハングルで表した言葉を探しているが、광주 산정동 지실 고분군が見当たるのみである。日本語訳にすると「光州堯基洞造山古墳」?となる。


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羅州市・丁村古墳 完全に近い状態の百済金銅履物が出土

2014年10月24日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は23日、全南羅州伏岩里古墳群と隣接した丁村古墳(정촌고분、羅州市郷土文化遺産第13号)で、これまで発見された百済金銅履物のうちで最も完全に近い状態の遺物を発掘したと発表した。
 同古墳は蜂の巣型古墳で、石室、石槨、甕棺など計9基の埋葬施設が発見されていた。今年は石室墓3基に対する内部調査を実施した。
出土品は、金銅靴ほか、金製耳飾り、と金製装飾、馬具、矢筒の装飾具、・矢じり・玉・石枕などが多量に出土した。
 1号石室墓の規模は、最大長さ485cm、幅360cm、高310cmで、これまでに知られている馬韓・百済圏の大型石室墓の中では最も大きいという。金銅靴は1号石室墓から出土し、長さ32cm、高さ9cm、幅9.5cm。足の甲先端に龍の飾りがあり、足首の部分には金銅板の覆いを付着した。 履物の底には蓮華と鬼の模様を透彫と線刻で整えて派手に飾られていた。
 主人公は百済だけでなく伽耶、新羅とも交流があったとみられる。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 金銅履物
 丁村古墳


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霊岩郡・王仁祭り 110万人が訪れる 

2014年04月10日 | 韓国の遺跡・古墳など
 2014.4.8の聨合ニュースで、全南霊岩郡郡西面一帯の100里の桜並木で開かれた「霊岩・王仁文化祭り」(4月4~7日)が桜を楽しもうとする観光客や住民など110万人が訪れて、大盛況で終えたと報道した。
 郡民創作街頭演劇「王仁博士日本へ行く」をはじめ、マダン(庭)劇、フェスティバル、「王仁学灯点灯式」など様々な文化行事が開催された。
 「湖南の小金剛」と呼ばれる全南霊岩月出山の麓では、毎年4月になると周囲100里(約40km)(注1)の道に桜が咲く。霊岩郡鳩林里の道岬寺(注2)と王仁博士遺跡地(注3)を通って犢川里に至る15kmほどの区間である。桜並木の始まる鳩林村は、月出山の麓で最も歴史が深い。ここでは、古代からの現在まで韓•中•日の交易の中心地となった歴史的な故地で、1600年前の百済時代の王仁博士と道岬寺を創建した道詵国師(827∼898)(注4)が生まれた町である。

(注1) 日本での1里は4kmであるが、韓国での1里は0.4km
(注2) 月出山道岬寺(도갑사) 全南霊岩郡郡西面道岬里8番地
新羅末の道詵国師が建てたとされ、高麗後期に大きく発展したと伝えられている。旧は文殊寺という寺があり、国師が幼い時期を過ごしたところだが、道詵が中国から返って来た後、この文殊寺跡に道岬寺を建てたという。その後、朝鮮成宗4年(1473)に再建し、朝鮮戦争の時に大部分の建物が焼けてしまったものを新しく建て直して今日に至っている。
(注3) 王仁博士遺跡地は鳩林村の東にあり、王仁が脚光を浴びたことにより彼に関連する遺跡物を復元した場所である。王仁墓(祠堂)、内三門、外三門、文山斎、養士斎、展示館、王仁像などから成る。王仁博士は百済人として応神天皇の招聘により、日本に渡り典籍を教えたとされている。日本書紀では王仁、古事記では和邇吉師と記されている。
(注4) 第42代興徳王2年(827)に道詵は生まれた。早くに出家して九山禅門の一つである桐裏山禅法門を継承した。彼は唐の南宗禅の祖師である六祖・慧能大師(638-713)の法孫・馬祖と道一から法を受けた西堂の智蔵から禅法を学び、中国南宗禅を会得した。彼の法名は道詵、諡号は了空禅師である。後に光陽郡の白鶏山玉龍寺に長く居たため玉龍子と呼ばれたりもした。彼が高麗太祖の建国と後三国統一を予見し、大きい助力を与えたとされ、大禅師、王師、先覚国師を追封された。
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金海市・鳳凰洞遺跡 伽耶時代船舶、倭(日本)の部材を使用

2014年01月10日 | 韓国の遺跡・古墳など
 嶺南文化財研究院は8日、2012年6月に慶南金海鳳凰洞で東洋文物研究院が収集した伽耶時代船舶部材(長さ390cm、幅60cm、厚さ2~3mm)の保存処理を完了したとして、部材の年代は放射性炭素年代測定の結果3~4世紀と確認されたと発表した。
 部材は、樟(녹나무)と杉(삼나무)であるが、樟は中国、日本のほか韓国では南海岸一部・済州道などで制限的に育つが、杉は日本固有樹種である。 そのため、船は日本で建造したか、あるいは金官伽耶(首都:金海)が材料(木)を輸入して建造したものと考えられる。
 実際の船の長さは8~15m以上と推定され、伽耶時代海上活動、特に倭(日本)との交易に使われたとみられる。
 この船舶部材が発見された鳳凰洞遺跡(봉황동 유적)は、当時南海岸を通して金官伽耶の港の役割をしたところと推定されている。
[参考:聨合ニュースほか]

過去の関連ニュース・情報
2012.6.26 金海市・鳳凰洞遺跡 
 金海市は25日、東洋文物研究院の発掘調査により慶尚南道金海市の鳳凰洞遺跡(史跡2号)から伽耶時代4〜5世紀のものと推定される船の一部が初めて出土したと発表した。 昌寧郡釜谷面飛鳳里の新石器時代の遺跡から出てきた船に続いて韓国2番目に古い船という。
 出土したのは、船舶本体の隔壁(長さ340㎝、幅60㎝)、櫓と錨(いかり)の石。
 船の全体の大きさは、長さ30m、幅10m以上と推定された。これは、35人程度の乗船が可能な規模としている。 伽耶の優れた船舶製造技術を見ることができ、海上王国伽耶の実体を証明する画期的な材料として評価される。
 今回の調査では、貝塚、高床建物跡、Y字型木柵設備なども一緒に発掘された。


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慶南 南海郡古県面南峙里墳墓群 百済貴族の墓 を確認

2014年01月09日 | 韓国の遺跡・古墳など
 慶南発展研究院歴史文化センターは8日、昨年11月から進めている南海島の南海郡古県面南峙里(남해군 고현면 남치리)墳墓群の発掘調査で、百済系の石室を確認したと発表した。
 古県面は高麗大蔵経板(版)刻地と推定される場所で、南峙里墳墓群は古県面で唯一知られている高麗時代の墳墓群であるが、今回、百済系の石室が確認されることにより墳墓群が三国時代から造成されたことが判明したとしている。
全体で約10基の墓の中から、現在4基を発掘調査中。 このうち、盗掘により石室の壁石と蓋石の一部が露出した1号墳は、埋葬主体部が地下式の横口式石室で、入口は門柱石と門地枋石(敷石)を設け板石で入口を閉鎖した百済系石室と確認された。
 副葬品として百済の高位官・奈率(6品)以上が着用した銀花冠飾と冠環(注1)が出土した。このような副葬品は百済泗沘期の都である扶余地域を中心に12点だけ出土している重要な資料であり、1号墳の被葬者は百済の高位官とみられる。
[参考:聨合ニュース]

(注1)冠環か棺環か不明。

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昌原市鎮海区 伽耶時代4世紀半ば頃の家形土器が出土

2014年01月07日 | 韓国の遺跡・古墳など
 東亞細亞文化財研究院は6日、4世紀半ば頃の伽耶時代の家屋構造を窺わせる家形土器(가형토기)1点を慶南昌原市鎮海区(경남 창원시 진해구)の木槨墓から発掘したと発表した。
 この家形土器は、切妻造で正面2間、側面2間の9柱楼子式(楼閣形、高床式)建物を形象化している。烧成中による建物下部の柱がねじれている。 四面の壁を線文でリアルに表現しており、正面には出入りの扉を描写している。
 正面から見て右側面の屋根の部分に液体類を注ぐ注入口があり、正面切妻屋根の下に注出口を作ており、一種の注口附土器と判断している。 内部容量は約350㎖。
 この三国時代の家形土器は、韓国では約20点が報告されているが、慶州舍羅里古墳群、昌原茶戶里古墳群、機張龍岫里遺跡から出土した遺物を除けば、ほとんどの出土地は不明である。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
2012.1.18 釜山機張郡龍岫里 古墳から5世紀中後半の家形土器が出土
 5世紀中後半の家形土器(집모양 토기)が出土。 屋根は切妻造で、酒や水を注いで入れることができる酒杯形の形状(注1)。

(注1) 出土した家形土器(写真)を今回の出土品と比べてよくみると、欠けた注出口があるように見える。
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蔚州・霊鷲寺址 統一新羅時代の石仏座像が出土

2013年12月13日 | 韓国の遺跡・古墳など
 蔚山博物館は10日、新羅第31代神文王3年(683)に宰相忠元公が建議して建てた蔚州郡青良面粟里の霊鷲寺址で統一新羅時代の石仏坐像1点が出土したと発表した。
 石仏は上半身が欠けているが、半跏趺坐(はんかふざ)石造座像で大きさは幅83㎝、厚さ54㎝、現存高さ35㎝で、衣服のシワ表現が自然で写実的に表現されており、当時の統一新羅公認の優れた彫刻技術を見せているとしている。
 昨年の調査では、霊鷲寺が統一新羅時代の双塔一金堂式伽藍であることを確認したが、今年の調査では中門と回廊跡を確認して、中心寺域範囲が明らかになった。
 中心寺域は東西69.6m、南北56.5mであり、地方寺刹であることを考慮すれば、相当な規模の寺刹だったとしている。
 中門は正面3間、側面2間(長さ8.6m、幅5.1m)の大きさであり、金堂から30m南に位置している。
 回廊は東西南北全てにおいて側面1間である単廊構造であることが確認された。 東・西回廊は金堂中心から東に32m、西に32mに位置し、南・北回廊は金堂中心から南に29.5m、北に24mに位置している。
 ほかに、左右対称の構図である双鳥文軒丸瓦、鬼面瓦、蓮華文軒丸瓦などが新しく確認された。
[参考:2013.12.11聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2013.10.17 霊鷲寺址 2次学術発掘調査 寺域範囲確認
 2012.12.31 霊鷲寺址 典型的な統一新羅時代の伽藍配置である双塔一金堂式構造を確認

キーワード:半跏趺坐石造座像 
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