「奥ゆかしさ」は何処へ行った
以前にも自画自賛について書いたことがありましたが、最近の世の中を見ていますと、「奥ゆかしさ」などという日本語は、あちこちで死語になるのではいかなどと思ってしまいます。
もともと「奥ゆかしい」という言葉は、英語などでは「適訳」がないといわれているわけで(いろいろな辞書で、「奥ゆかしい」に相当する英語を探してみると結構面白いと思います)、いわば日本独特の言葉(感覚)といわれることが多いようです。
それでも、同じような感覚というのは、日本人でなくても、人間であれば、それなりに持っているのではないかと思っているのですが、やはり自然環境や、創り上げてきた伝統文化などから違いが出てくるのではないでしょうか。
日本の歴史や伝統、文化の在り方は、「奥ゆかしい」という感覚をことさらに重視するような性格を培って来ているということだと考えるべきでしょう。
なぜそうなったのかは大変難しい問題ですが、どんな思考回路や態度から「奥ゆかしさ」が生まれるのか考えてみるのも大事な事ではないでしょうか。
自分なりに考えてみれば、人間関係の中で、「自分と同じように他人も重視する」、「自分の感情だけで頭の中を一杯にせず他人の気持ちも推し量る余裕を持っ」、「ひとそれぞれに、多様性を持つことを理解している」、その結果、むやみに自分の主張だけを通そうとしませんから「争いは無駄なことだからやめよう」、「他者の気持ちも汲んで人間関係を和やかに保つことが一番良いのだろう」という方向で行動を選択することにいなるようです。
古くは聖徳太子の「17条の憲法」でも「和を以て貴しと為す」から始まり、役人の心構え、長たる者の心得など、「皆の意見を十分聞け、独断や自己中心主義・思い上がりは駄目」とはっきり釘を刺しています。
アメリカではトランプさんが、何かにつけて「自分だから出来た」といった趣旨の発言をして、今回のバグダディーの件でも民主党と論争になっていますが、「奥ゆかしい」という言葉を持つ日本でも、要職にある政治家や官僚などの、あまり奥ゆかしくない発言が数多くマスコミで報じられています。
それに引き換え、ノーベル賞受賞者が協力者の存在を語り、スポーツの優勝者が指導者やファンの存在や声援に感謝の言葉を力を込めて述べるのは、清々しさ、更に「奥ゆかしさ」を感じるところです。
日本人がものを考えるとき、頭のどこかに、「奥ゆかしさ」を判断基準に持つようになったら、日本社会はもっともっと良い所になるような気がしているのですが、何か、最近、ヘイトスピーチなども問題になるようで、逆方向に進んでいるよな気がして心配です。
以前にも自画自賛について書いたことがありましたが、最近の世の中を見ていますと、「奥ゆかしさ」などという日本語は、あちこちで死語になるのではいかなどと思ってしまいます。
もともと「奥ゆかしい」という言葉は、英語などでは「適訳」がないといわれているわけで(いろいろな辞書で、「奥ゆかしい」に相当する英語を探してみると結構面白いと思います)、いわば日本独特の言葉(感覚)といわれることが多いようです。
それでも、同じような感覚というのは、日本人でなくても、人間であれば、それなりに持っているのではないかと思っているのですが、やはり自然環境や、創り上げてきた伝統文化などから違いが出てくるのではないでしょうか。
日本の歴史や伝統、文化の在り方は、「奥ゆかしい」という感覚をことさらに重視するような性格を培って来ているということだと考えるべきでしょう。
なぜそうなったのかは大変難しい問題ですが、どんな思考回路や態度から「奥ゆかしさ」が生まれるのか考えてみるのも大事な事ではないでしょうか。
自分なりに考えてみれば、人間関係の中で、「自分と同じように他人も重視する」、「自分の感情だけで頭の中を一杯にせず他人の気持ちも推し量る余裕を持っ」、「ひとそれぞれに、多様性を持つことを理解している」、その結果、むやみに自分の主張だけを通そうとしませんから「争いは無駄なことだからやめよう」、「他者の気持ちも汲んで人間関係を和やかに保つことが一番良いのだろう」という方向で行動を選択することにいなるようです。
古くは聖徳太子の「17条の憲法」でも「和を以て貴しと為す」から始まり、役人の心構え、長たる者の心得など、「皆の意見を十分聞け、独断や自己中心主義・思い上がりは駄目」とはっきり釘を刺しています。
アメリカではトランプさんが、何かにつけて「自分だから出来た」といった趣旨の発言をして、今回のバグダディーの件でも民主党と論争になっていますが、「奥ゆかしい」という言葉を持つ日本でも、要職にある政治家や官僚などの、あまり奥ゆかしくない発言が数多くマスコミで報じられています。
それに引き換え、ノーベル賞受賞者が協力者の存在を語り、スポーツの優勝者が指導者やファンの存在や声援に感謝の言葉を力を込めて述べるのは、清々しさ、更に「奥ゆかしさ」を感じるところです。
日本人がものを考えるとき、頭のどこかに、「奥ゆかしさ」を判断基準に持つようになったら、日本社会はもっともっと良い所になるような気がしているのですが、何か、最近、ヘイトスピーチなども問題になるようで、逆方向に進んでいるよな気がして心配です。