ロシアのウクライナ侵攻はまだ続いています。
テレビの映し出すウクライナの惨状はますます恐ろしいものになっています。
キーウの近郊、ロシア軍の撤退した後の惨状は、テレビ画面では映し得ない残虐ものでしょう。
これ以上酷くならないことを願うばかりですが、東部、南東部では、一層激しくなるのではないかと言われています。
ロシアの侵攻が始まって都市の無差別の破壊が起きてから、多くのウクライナの人達から同じ言葉を聞いています。
「21世紀の今になって、何でこんな事が起こるのでしょう」
「21世紀になってもこんなことが起きるなんて考えもしなかった」
もし日本でもこんなことが起きたら、我々も異口同音にそういうのではないでしょうか。
宮澤賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論』序論)と言っています。その境地までの到達な難しいとしても、少しでもそうした気持ちを持たざるを得ないような悲惨な事態が、この21世紀、文化・文明の先端を行くヨーロッパで起きているのです。
少なくとも、武力によって、公然と都市を破壊し大勢の一般市民の殺戮を行うような戦争が、本当に21世紀の今起きるなどという事は、人びとの予想の外でしょう。
ならば、こうした「もう戦争などということが、物理的に現実に起きるなどということはない時代になっている」という人々共通の認識を何としてでも現実にするために、戦争の悲惨を経験することは今回で終わりにしようとの世界人類が決心が必要でしょう。
そして、そのためにも、今回の戦争のもたらした究極の悲惨ともいうべき現実を徹底的に検証し、「人間の何が」そうしたものを人類社会に持ち込むのかを全ての人々に知ってもらう事が必要でしょう。
このブログではたびたび触れますが、日本は、明治維新を契機に内戦をやめ、太平洋戦争の敗戦を契機に憲法第9条を掲げ、戦争をしない国になりました。
考えてみれば、日本で出来たことが、世界で出来ないと決める理由はないのではないでしょうか。
同じ人間であり、世界のほとんどの人達は、今のウクライナの人達と同じように、「こんなことが(戦争が)21世紀の今、現実になる事など考えれない」と考えているでしょう。その気持ちは、21世紀に住む人間として全く共通のはずです。
戦争を無くする、この人類にとっての歴史的な事業は、世界の平和を望む国々の人々が、そしてより具体的にはその国々のリーダーたちが、国連の下に結集し、国連の名において、理非曲直を明確にすることから始めなければならないのでしょう。
国連とその旗の下に集う、平和こそをモットーとする国々の国民、そして、そのリーダーたちの、世界平和のための歴史的な努力に期待したいと思うところです。
テレビの映し出すウクライナの惨状はますます恐ろしいものになっています。
キーウの近郊、ロシア軍の撤退した後の惨状は、テレビ画面では映し得ない残虐ものでしょう。
これ以上酷くならないことを願うばかりですが、東部、南東部では、一層激しくなるのではないかと言われています。
ロシアの侵攻が始まって都市の無差別の破壊が起きてから、多くのウクライナの人達から同じ言葉を聞いています。
「21世紀の今になって、何でこんな事が起こるのでしょう」
「21世紀になってもこんなことが起きるなんて考えもしなかった」
もし日本でもこんなことが起きたら、我々も異口同音にそういうのではないでしょうか。
宮澤賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論』序論)と言っています。その境地までの到達な難しいとしても、少しでもそうした気持ちを持たざるを得ないような悲惨な事態が、この21世紀、文化・文明の先端を行くヨーロッパで起きているのです。
少なくとも、武力によって、公然と都市を破壊し大勢の一般市民の殺戮を行うような戦争が、本当に21世紀の今起きるなどという事は、人びとの予想の外でしょう。
ならば、こうした「もう戦争などということが、物理的に現実に起きるなどということはない時代になっている」という人々共通の認識を何としてでも現実にするために、戦争の悲惨を経験することは今回で終わりにしようとの世界人類が決心が必要でしょう。
そして、そのためにも、今回の戦争のもたらした究極の悲惨ともいうべき現実を徹底的に検証し、「人間の何が」そうしたものを人類社会に持ち込むのかを全ての人々に知ってもらう事が必要でしょう。
このブログではたびたび触れますが、日本は、明治維新を契機に内戦をやめ、太平洋戦争の敗戦を契機に憲法第9条を掲げ、戦争をしない国になりました。
考えてみれば、日本で出来たことが、世界で出来ないと決める理由はないのではないでしょうか。
同じ人間であり、世界のほとんどの人達は、今のウクライナの人達と同じように、「こんなことが(戦争が)21世紀の今、現実になる事など考えれない」と考えているでしょう。その気持ちは、21世紀に住む人間として全く共通のはずです。
戦争を無くする、この人類にとっての歴史的な事業は、世界の平和を望む国々の人々が、そしてより具体的にはその国々のリーダーたちが、国連の下に結集し、国連の名において、理非曲直を明確にすることから始めなければならないのでしょう。
国連とその旗の下に集う、平和こそをモットーとする国々の国民、そして、そのリーダーたちの、世界平和のための歴史的な努力に期待したいと思うところです。