今から約100年前の20世紀初頭。
日本の産業界に科学的な「マネジメント」の概念が普及し始めました。
米国のテーラーやギルブレスが先導した科学的管理法(サイエンティフィック・マネジメント)を翻訳、導入しようという動きが加速したのです。
当時の日本の大手企業にも科学的管理法の信仰者はいましたが、ある種独立した立場から企業を指導する専門職が誕生しました。
「能率技師」
今でいう経営コンサルタントです。
当初は、製造現場における非効率を是正し、生産量増大、生産性向上、作業スペース縮小、工数・人員の縮小に向けての指導を実施したのです。
それまでのデキルだけ主義、成行き管理、根性主義が蔓延していた現場は、大きく変わっていったのです。
その中で、名実ともにスーパースターだったのが、
「能率」のコンセプトを普及させた上野陽一(1883年~1957年)。
彼は、現場指導、講演、教育、執筆、出版、マスコミ出演などで脚光を浴びま
さらに、晩年には能率の普及のため学校(日本能率学校)の設立を行ったのです。
経営史に詳しい裴富吉教授は、当時の能率技師として、 「日本能率界の3先達」を挙げています。
民間人の上野陽一、官僚の山下興家、軍人の伍堂卓雄の3名です。
山下興家(1881~1960)
1906年に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業し、南満州鉄道に就職。
1916年に鉄道院の技師となり、大井工場長、大宮工場長、工作局長として働き、1933年に退官。
日本機械学会の会長をつとめたのち、戦後の人事院設立とともに初代の人事官に任ぜられ、上野陽一とともに公務員制度の確立に尽力。
また、カナモジカイの理事をつとめ、上野とともに国語国字問題の研究を続けた。
伍堂卓雄
海軍軍人として呉海軍工廠における重工業分野での生産能率で大きな功績を残す。
伍堂は、東京帝国大学工科を卒業後、海軍に入る。後にリミット・ゲージ・システムと呼ばれる能率的分業体制を確立。
伍堂は、呉海軍工廠においてタイムスタティ、管理組織の研究を続け、国際的な軍縮の流れの中で、日本連合艦隊の機能強化に尽力する。
世界最大級の戦艦大和の建造でも使用されたブロック工法もこの時考案されたもの。
戦後は日本能率協会の会長をつとめた。
さらに、上野陽一とともに民間の能率技師と活躍した荒木東一郎も忘れるわけにはいきません。
荒木東一郎(1985~1966)
技術畑出身のエンジニア。
米国アクロン大学で工学修士を取得。
荒木と上野は、上野が日本産業能率研究所の所長を務めた時期に嘱託として参画。
能率理論の啓蒙を重視した心理畑出身の上野に対して、荒木は能率の実践指導を優先する技術畑、「考えるより行動、知識ではなく知恵」を主張。
荒木は、能率指導によって企業等が得られた利益に連動して報酬を受け取るという成果報酬の仕組みを日本で初めて採用した異色の経営コンサルタント。
著作や教育活動の多かった上野に対し、あくまで荒木は企業経営に密着した。
3人の能率技師・・・日本の産業界を変えていきます。