米国のテーラーが生み出した「科学的管理法」を日本に帰化させた人物が、上野陽一(1883~1957)。
科学的管理法を、そのまま翻訳して日本国内に普及したのではなく、日本人として東洋人としての創意工夫、意訳を用いながら、日本産業の近代化を目指した個性ある人物でした。
上野陽一を語る場合、さまざまな顔を持っています。
「心理学者」
「ベストセラー作家」
「翻訳者」
「能率技師(今でいう経営コンサルタントです)」
「教育者・大学教授」
「学校創設者」
「人事院人事官」
「平和主義者・リベラリスト」
今でいうマルチタレントです。
もし、現在上野が生きていれば、テレビのワイドショーや新聞雑誌で引っ張りだこだったように思います。
1983年、東京に生まれた上野は、父の関係で長崎に転居。
長崎で幼少期、学生を過ごし、大学進学を目指し再び東京へ。
予備門など、苦学を重ねながら、1908年東京帝国大学文学部を卒業。
専攻は、当時隆盛しつつあった心理学。
卒業から2年後「心理学通儀」を出版、これがベストセラーになります。
学校の先生の資格試験に必須の読本ということもあり、当時裕福ではなかった上野にとって大きな経済的な後ろ盾になったものと思われます。
36歳で早稲田大学にて広告心理学を教授。
「能率の心理」を出版。
これをきっかけにしてライオン歯磨きの広告部長と知り合います。
ここが、上野の人生の転機となります。
同社の工場での改善を要請されたのです。
上野の伝記を読むと、当時の米国で興隆しつつあった科学的管理法の机上の方法論は研究していたものの、実際に適用したことがなかったため、不安で夜も眠れなかったとのこと。
努力家の上野は、このライオン歯磨き(当時、小林商店)での能率指導で産出量20%アップ、工場面積3割圧縮という成果をもたらします。
この時、上野は能率で生み出した業績を、消費者や従業員にも還元するよう提案をしています。
その後、内容量の増量や休憩時間の増加といったカタチが実現するようになります。
その後、化粧品大手の中山太陽堂、福助足袋、大阪造幣局などでの能率指導を実施。全国での講演活動や著作活動を積極的に進めていきます。
1925年には、日本産業能率研究所を創設。
初代所長に就任します。
白木屋では日本初といわれる商業コンサルティングを実施。
大著「能率ハンドブック」を出版。
1942年には日本能率学校を設立します。
上野は、書籍、講演、教授活動といった多様なメディアを活かした「能率」の普及を行うとともに、能率研究所、能率学校という枠組みを活用した「能率」普及を担う人材の輩出を目指したのです。
戦後は、人事院人事官として官職につき、新しい公務員制度を基礎づけます。
74歳で死去。
上野陽一の波乱に満ちた人生は、日本の産業界の近代化に大きく貢献するとともに、「能率」の普及というライフワークに貫かれたものでした。