僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

(11/20)ある死刑囚の歌

2010年11月20日 17時04分40秒 | 文学/言葉/本
彼は
人を殺して刑務所に入るまでに
一体
どのくらいの人とまともな会話をしたであろうか。
一体
幾人の人と対等に笑顔で語ったであろうか。

それはほとんど皆無だったのかもしれない。

生まれてきて
中耳炎、カリエス、蓄膿症等の病気を抱え
成績不振、教師やクラスメイトからもいじめられ

母は結核に罹り、極貧の中で死ぬ間際に
好きなたらこを食べたいと言ったが
結局自分は食べずに
それを幼い子どもたちに食べさせて亡くなった。

就職してもどこも定着せず
荒れた心から犯罪を犯しては少年院に入っていた。
彼自身が、耐性のない激情型の性格から
誰も彼に同情することはなかったであろう。
自業自得と言ってしまえばそれが正しい。

そしてとうとう
取り返しのつかない罪を犯す。

故郷に帰ろうとしても
お金がない、空腹という状態のときに
全く縁もない農家に強盗に入る。
その農家一家も貧しい所だった。
その一家にも事情があるのだ。
貧しくて、明日の糧をどうしよう、と思っていたかもしれない。

人を殺す、というのは
その人の人生を奪ってしまうことだ。
この不運なめぐり合わせ。

結局
彼は捕まり
後に死刑囚となる。

当時25歳である。
昭和34年の出来事である。

ここまでなら
死刑囚の1人として
記憶にも残らずに処刑されたであろう。

彼の有期の人生はここから始まった。
死刑囚でありながら
むしろここから彼の「人としての」人生が始まったようなものである。

彼は
自分を振り返ったとき
生涯でたった一度だけ褒められたときのことを思い出す。
小学生の時だったか
自分の絵を褒めてくれた先生に手紙を書く。
その先生は
褒めたことをほとんど忘れていたが
逆に
そのことを覚えていたことに涙し
彼に歌を詠むことを勧める。

褒められたことのない人間が
一度だけ褒められたことを生涯
忘れずにいる、という哀しさ。
誰からも好かれなかった人間が
対等に声をかけられることの嬉しさ。

その思いを忖度する。


そして彼は
刑死(けいし)するまでにたくさんの歌を詠み
新聞等の歌壇に投稿し
その名は世に知れ渡っていく。
彼を支える人もでき、初めてといっていいほど
彼は死刑を待ちつつ
人間としての心を取り戻すのである。

辞世の歌

この澄めるこころ在るとは識らず来て刑死の明日に迫る夜温し



小さいときから他者から愛されることもなく
他者を愛することもなく(ちなみに彼は女性を知らずして刑死)
彼の人生のどこかで
彼に温かく声を掛け続ける人間が傍にいたなら
彼の人生もまたちがったかもしれない
どんなに貧しくても
一番やってはいけないことをしてはならない、と
小さいときから植え続けていたならば
何かが違ったかもしれない。





私が学生時代に
教育実習生として2週間
教壇に立ったのだが
そのときの仮のクラスで
ある1人の生徒が気になった。
誰とも話さず
ポツンといて
皆で私を囲んで写真を撮るときにも
端っこにいた子だった。
あるとき私は思い切って話しかけた。
何を話しかけたかは
もう○○年前のことなので忘れたが
それを機に
彼女は私の傍に来ることが多くなった。
何も話さない。
でも話したい。
何を話したらいいかわからない。
だから私が話しかけるのをずっと待っている。

そうこうして実習が終わった。
その後
彼女との交流ができた。
とは言っても
緘黙の人だったから
私の所に電話をしてきても黙ったままだった。
私が話しかけるまで話さない。
でも電話をしてきたのだから何か用があるのだ。
ようやく出てきた言葉は
私の家に遊びに行きたい、ということだった。
遊びに来ても
しゃべらない。
言葉を発するまで時間がかかる。
別に言葉が不自由ではないのだ。
これまで彼女は
自分から
普通の女の子が話すように話したことがなかったのだろう。
その私とのやりとりは
端から見れば滑稽だったかもしれない。
私も彼女のために
自分の言いたいことを言うまでじっくり待つ、ということをしてみた。
お互い
苦痛の時間であるにもかかわらず
その後も
電話をしてきて
うちに来ていたのだから
それなりに楽しかったのかもしれない。

私は電話が来ると
苦痛のときもあった。
それは
うちに来ても話さない、
常に自分が話題を提供して話さなければならず
彼女が答えても
はい、とか、それは・・・・とまた沈黙のことを思い浮かべて
苦痛のときもあった。

結婚が近くなって
彼(夫)にそのことを話すと
「相手をしてやれよ。その子はそれでも来たいのだから。」と言われた。

あるとき
彼女は
私に
浴衣を縫って持ってきてくれた。
何だか涙が出た。
彼女なりの私への気遣いだった。
お母さんに御礼の電話をすると
逆に恐縮された。
いつも、娘をありがとう、と。

私は彼女を私たちの結婚式に招待した。
先日
自分の結婚式の写真を同僚に見せるということで
探したときに
彼女の姿が映った写真もあった。
今、どうしている。
あれから
その裁縫の仕事でどこかの県に行ったと便りにあったが
今は
互いに音信不通となっている。

今なら
もっともっと
大事にしてやらなければ、と強く思うのだ。
あの時の私は
若かった。
年齢も
心も。

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