『高齢者の生きがいづくり』がキーワード

2016年01月08日 13時01分05秒 | 医科・歯科・介護
横倉日医会長年頭あいさつ
「かかりつけ医」推進のため地域包括診療料の見直し要望

m3.com 2016年1月7日 (木) 配信 高橋直純(m3.com編集部)

 日本医師会の横倉義武会長は1月6日の定例記者会見での年頭あいさつで、「『高齢者の生きがいづくり』が本年のキーワード」と述べ、「かかりつけ医」を中心とした健康寿命の延伸に力を入れる考えを示した。4月に控える診療報酬改定でも、「かかりつけ医」の評価を求めたほか、2017年度から始まる新専門医制度については、地域医療と専門医制度を整合させるため、地域医療の崩壊を来さないプログラムの作成や関係者による「協議の場」の設置を求めた。


 2016年は地域医療構想を策定する年で、横倉会長は、各地域において地域医療包括ケアシステムを構築する必要性を指摘。日医として「地域に根ざしたかかりつけ医の存在が、高齢者の尊厳を保ち、住み慣れた地域でいつまでも健康に過ごせる社会を実現するカギであると確信している」として、4月から日医が始める「かかりつけ医機能研修制度」をアピールした(『「2016年、かかりつけ医を推進」- 横倉日医会長に聞く◆Vol.1』を参照)。
 かかりつけ医を中心に健康寿命を延伸していく方針を示した上で、安倍内閣が提唱する「一億総活躍社会」を実現するためには「高齢者の生きがいづくり」が今年のキーワードになると指摘。2015年7月に発足した「日本健康会議」とともに、先進的な予防・健康づくりを全国に広げるための活動をオールジャパンで取り組んでいくと述べた。
 診療報酬改定については、(1)技術料に包括されている医療用消耗品などが人件費を圧迫していることから、基本診療料など人件費、技術料が包括されている項目への重点配分、(2)地域包括ケアを推進するため、各機能を担う医療機関のコストを 適切に反映した診療報酬体系の実現、(3)「かかりつけ医」をきちんと評価するために地域包括診療料と地域包括診療加算の要件見直し――の3点を挙げた。
 消費税については、2016年度税制改正大綱で「特に高額な設備投資にかかる負担が大きいとの指摘等も踏まえ、2017年度税制改正に際し総合的に検討し結論を得る」の文言が加わったことで、抜本的解決へ前進した書きぶりとなっていると説明した(『医学生修学金、「返還免除益」は非課税』を参照)。
 新専門医制度に関しては、地域医療の崩壊を招くことのないよう、日医が昨年末に発表した、一定の要件下で指導医がいない中小医療機関での研修を認めるべきとする「新しい専門医の仕組み―地域医療を守るための提案―」を改めて紹介。「地域医療と専門医制度を整合させるため、それぞれの地域において都道府県、大学、医師会等の関係者が協議・連携するための協議の場を設置することが不可欠である」と訴えた(『新専門医研修、「指導医不在でも一定要件下で認めるべき」』を参照)。
 6月に見直しが予定されている医療事故調査制度についても、1月から支援団体のスタッフを対象にした研修会を開催すること報告。医療事故の初期対応から調査報告書の作成、遺族への説明までの一連の過程において、他機関とともに、医学的専門性と公正性を持って調査を的確に行える総合的な調整力を有する人材の育成を目指す。

母の話は割り引いて聞いていたのだが

2016年01月08日 08時32分34秒 | 日記・断片
狂言癖のある母親、現実と虚構の境界線が曖昧で会った。
だから、母の話は割り引いて聞いていたのだが・・・真実(事実)もあったようだ。
二・二六事件の日、母親は腎炎で宮内庁病院に入院していたそうだ。
母親は学習院の教諭を勤めていた芳野家のお手伝いであった。
お坊ちゃんは皇太子殿下のご学友。
時に訪問者から芳野家の娘と間違われたこともあったそうだ。
奥さまの父親が当時の南次郎大将。
「大将は偉ぶらずとても気さくな人だったよ」と懐かしんでいた。
そして戦後、南大将がA級戦犯になった時は巣鴨プリズンまで私と姉を連れ面会に行ったが、会えなかったと言う。
偶然であるが、日本医師会の会長であった臼田貞雄さんが芳野家の方たちの歯科治療を行っていたことを知る。
それは母が67歳で亡くなった後のことである。
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二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から 2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の下士官 兵を率いて起こしたクーデター未遂事件である。

母は生涯、拘りから山本信子を名乗っていた

2016年01月08日 07時56分18秒 | 日記・断片
大学を卒業前、「何としても銀座・有楽町で働くのだ」と意気込んで就職活動を展開した。
映画評論家の淀川長治さんが、当時、西銀座のサテライトスタジオに出ていて、映画の紹介をしていた。
その淀川さんがスタジオから出て来るのを待ち構えていて、いきなり「弟子にしてください」と無謀にも申し入れた。
「弟子?!君は学生?」
「そうです」
「まずは、映画を一杯見ること。それから社会勉強をすること。いいですね。映画が大好きなら、チャンスはあります。ではね」テレビ画面で観るバイバイのポーズでニッコリ。
群馬県の沼田の田舎娘が上京して、いきなり憧れの作家・吉屋信子に弟子入りを懇願して断られた18歳の母。
息子も同じ無謀な行為に走ったのだ。
映画少年は高校の時、玉電の山下駅(小田急線の豪徳寺)前の古本屋で「アメリカ映画年鑑」「ヨーロッパ映画年鑑」や「映画の友」「スクーリン」などを買って、貪るように読んでいた。
俳優の髪の色、目の色、身長、体重まで載っていた映画年鑑。
化学少年は映画少年に変貌していた。
ちなみに母は67歳で死ぬまで、自己満足であったのだろう創作を続けていた。
姉から母のお通夜の席で初めてその話しを聞く。
母は生涯、拘りから山本信子を名乗っていた。
無論本名ではない。
戸籍名はウメであった。



淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11 月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家である。約32年にわたって「 日曜洋画劇場」の解説を務め、ヨドチョーさん、ヨドさんの愛称のほか、その独特の 語り口 ... 淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11 月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家である。約32年にわたって「 日曜洋画劇場」の解説を務め、ヨドチョーさん、ヨドさんの愛称のほか、その独特の 語り口 .

毎年100人の難民を国費留学生として日本に招く

2016年01月08日 06時23分41秒 | 社会・文化・政治・経済
「この地球上から『悲惨』の二字をなくすのだ」という高邁な決意から、日本は武力支援でなく人道支援に徹すべきだ。
世界には難民が5000万人以上存在する。
それは、『悲惨』そのものの状況下にある。
5000万人のうち18歳未満の子どもたちが半数を占めている。
現地で期待されるのは「若者たちに対する教育支援」
「平和・文化・教育」に基づいた国際的人道支援に日本は徹すべきだ。
毎年100人の難民を国費留学生として日本に招く。
日本で学んだ国費留学生は、帰国し国のリーダーとなる。
留学中に共に学んだ彼らは悪魔のような人間ではない。
「戦争はらめるべきだ」と考え、和平への道が開かれるのではないか。