<医学部誕生> 地域医療再生 志育てる

2016年04月04日 15時41分16秒 | 医科・歯科・介護
河北新報 2016年3月30日
 東北に4月、新しい医学部が誕生する。山村や漁村へ。東日本大震災の被災地へ。遠くない将来、若き医師たちが、地域医療再生の使命を胸に赴く日のために。東北薬科大から衣替えする新生「東北医科薬科大」。その挑戦を追う。
■東北医科薬科大の挑戦 1期生の使命
<葛藤抱え5年>
 新医学部の1期生は100人。そのうちの一人、福島県いわき市の鈴木法彦さん(20)=磐城高卒=に、入試の面接が強い印象を残した。
 面接官は、東北の医療過疎地に赴任する意思を繰り返し繰り返し尋ねた。口先だけか、本心なのか、見抜こうとしている。選ぶ側も必死なのだ。そう感じた。
 中学校の卒業式当日、震災が起きた。医者になって復興に貢献したい。だが両親に負担を強いることはできない。葛藤を抱えて勉強する日々が5年続いた。
 政府は2013年12月、震災からの東北復興を目的に37年ぶりとなる医学部新設を決定。破格の修学資金制度が、鈴木さんら震災世代の若者たちを医学の門へと導いた。
<校風をつくる>
 「校風は1期生がつくった」。全国の私立医大・医学部には、こんな言い習わしが数多く残されている。
 山形県米沢市の開業医、大辻圭一さん(64)は1973年に開学した獨協医大(栃木県壬生町)の1期生だ。卒業時の医師国家試験に向かって「どこにも手本がないから勉強は全て手探り。1期生が始めた自主勉強会は、大学の伝統として今も続いている」と話す。
 東北医科薬科大でも形作られるであろう校風を、大学側の準備から推し量ることができる。
 1年生が履修する「大学基礎論」は、東北の地理や歴史を幅広く学ぶ異色の講義だ。東北6県で広域展開する診療実習は、交通費や宿泊費を大学が全額負担する。医学教育推進センターの大野勲教授(61)は「医師として東北で暮らしていくのだという自覚を持たせたい」と強調する。
<「預かりもの」>
 学生には1人1台ずつノートパソコンを貸与し、学生個々と教員の双方向性を確保する。1学年当たり4人の担任教員を配し、生活上の悩みまできめ細かくケアする。
 一見、過保護にも思える配慮は、医学教育が「未来への巨額先行投資」だからだ。
 日本医師会によると、入学から卒業するまでに掛かる教育経費は医学生1人当たり1億円。東北医科薬科大の場合、これを自治体出資の修学資金などで賄う。
 「修学資金を貸与される学生は全員、自治体からの預かりものも同然。総合診療医として地域にお返ししなければならない」と大野教授は言う。
 大いなる使命を与えられた1期生たち。入学までつかの間の春休み、鈴木さんは、医学用語の英単語やドイツ語の基礎を独学で学び始めた。
[修学資金制度]35人には宮城県が拠出する90億円などを原資に各3000万円、20人には大学が1500万円を貸与する。1500万円貸与の学生は、自治体独自の修学資金制度を併用できる。いずれも卒業後、東北各地の医療機関に6~12年勤務すれば返済は不要となる。

<医学部誕生>
教員医師 二足のわらじ

河北新報 2016年3月31日

■東北医科薬科大の挑戦 空白の10年
<崩壊へ懸念も>
 四面楚歌(そか)の船出だった。
 「銀座で美容外科を開業すると言い出されたら誰も止められない」「卒業生の受け皿になる病院は多くない。修学資金制度は必ず行き詰まる」
 東北医科薬科大は運営協議会の席上、医学部設置の根拠そのものに厳しい意見が浴びせられた。
 医師不足を嘆く患者団体までもが「一人前の医者になるまで10年かかる。その間は医学部を作った効果がない。現場の医師が教員になって吸い上げられ、むしろ地域医療が崩壊する」と懸念を表明した。
 1期生が地域に赴くまでの10年を埋める―。これもまた新医学部の使命となる。臨床経験を持つ教員医師がその任に当たる。
<被災地に献身>
 解剖医が1県1人という状態も珍しくない東北だが、法医学教室の教授には、高木徹也杏林大准教授(48)が同僚の杏林大助教と共に着任する。
 5000体超の遺体解剖を手掛けてきたエキスパートは「死因の究明を通じて健康維持に生かすのが役割」と自任。宮城県沿岸部で検視に当たった東日本大震災から5年を経て、再び被災地に献身する。
 震災からの復興支援を目的に設立される医学部の教員は「教育」と「現場」、二足のわらじを履く。
 東北大病院高度救命救急センターの遠藤智之医師(42)は、救急・災害医療学教室の准教授になる。東北大でも学生を指導する傍ら、石巻市の石巻赤十字病院で月2回、診療に当たってきた。
 新医学部の付属病院(仙台市宮城野区福室)はことし10月、救命救急センターを開設する予定だ。仙台東部道路の仙台港インターチェンジにも近く、広く沿岸部から急患を受け入れる。
<争奪戦始まる>
 地域病院への医師派遣を調整するため、大学に4月、地域医療総合支援センターが設置される。これを見越し、水面下では早くも医師争奪戦が始まっている。
 宮城県南三陸町の津波被災者986人がいまも身を寄せる登米市が、内科医の派遣を要請。付属病院も非常勤ながら週2回の派遣を請け負った。
 「できるだけ早期に地域の信頼に応える態勢を築きたい」と語る近藤丘(たかし)病院長だが、一方で「付属病院の診療科を維持しながら、全ての医師派遣要請に応じるのは不可能」と弱音が漏れる。
 新医学部は、船出の後も難しいかじ取りを強いられることになりそうだ。
[教員医師]4月時点で教員は115人で、うち100人(基礎15人、臨床85人)が医師。臨床の教員医師の採用元は東北薬科大からの内部登用51人、東北大11人、その他の宮城県内の医療機関5人、東北5県4人、東北以外11人。
          ◇         ◇         ◇
 東北に4月、新しい医学部が誕生する。山村や漁村へ。東日本大震災の被災地へ。遠くない将来、若き医師たちが、地域医療再生の使命を胸に赴く日のために。東北薬科大から衣替えする新生「東北医科薬科大」。その挑戦を追う。
<医学部誕生>
人事権握る既設が壁に

河北新報 2016年4月1日

■東北医科薬科大の挑戦 地域定着
 「自治医大の取り組みを踏まえ、それを乗り越えるよう期待したい」
 新医学部の設置主体に東北医科薬科大を選出する際、文部科学省はこう助言した。「東北の自治医大たれ」とのメッセージだ。
 自治医大(栃木県下野市)は1972年、医療過疎の解消を目指す都道府県の共同出資で設立された。学費は無料。代わりに卒業後は、出身地の診療所などに最低9年間の勤務が義務付けられる。
<寮で気概養う>
「医師になって古里に恩返しする共通目標の下、学生の一体感は強かった」。自治医大OBで東北大卒後研修センターの菅野武助教(36)は学生時代をこう振り返る。
 制度化された地方誘導とともに自治医大が重視するのが、6年間寝食を共にする全寮制だ。寮生活で学生たちは「建学の精神」をたたき込まれ、総合診療医として無医村などに赴く気概を養う。
<理念共有 困難>
 自治医大を巣立った医師は3900人超。それでも東北の医師不足は改善されなかった。人口10万当たりの医師数は2014年末現在、全国平均の244・9人に対して東北は215・6人にとどまる。
 こうした現状に新医学部は、自治医大を模した修学資金制度や勤務年限の義務化で対処する。だが…。
 「使命感を抱く奨学生と一般学生が半々。難しいかじ取りになるだろう」と先行きを危ぶむ声が早くも上がっている。地域定着の難しさを知る自治医大の岡崎仁昭教授(57)=仙台市出身=だ。
 自治医大卒の医師ですら、義務年限を終えた後の地元定着率は70%以下(表)。1学年に修学資金貸与学生55人、一般学生45人が混在する新医学部では、なおさら理念の共有が難しいとみる。
<肩代わり狙う>
 新医学部の拠点となる宮城県はともかく、東北5県では既設の医大・医学部が基幹病院を筆頭に地域の隅々まで人事権を握る。ここに新参医学部の出身者がどう入り込むのかも大きな課題だ。
 自治医大の場合、地域医療振興協会(東京)を組織し、公設病院の運営を請け負うことで閉鎖的な医療界に牙城を築いてきた。東北では青森県東通村の東通地域医療センター、宮城県大和町の公立黒川病院、福島県磐梯町の保健医療福祉センターなど六つの拠点を有する。
 新医学部は地域に浸透する戦略をどう描くのか。東北医科薬科大の高柳元明理事長(67)は、既設の医大・医学部を「基礎研究を重視するあまり、過疎地の医療機関に医師を送り出せていない」と批評する。

numata727 さんが 2015年04月03日 に書かれた記事をお届けします

2016年04月04日 15時19分07秒 | 医科・歯科・介護
発迹顕本(ほつしゃくけんぽん)



迹(しゃく)を発(はら)って本を顕す。公明党は「大衆とともに」を立党精神に掲げた政党。市町村議員→都道府県議員→国会議員のネットワークにより、地域の声を形にし、政策を立案、実績をあげてきている。公明党は今回の統一選挙では、「人が生きる、地方創生」をテーマに戦っている。党のネットワークの基盤になる選挙としている...
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「製薬企業からの医薬品の適正使用に関するお知らせ」

2016年04月04日 15時15分59秒 | 医科・歯科・介護
┏━━━━━━━━━━━【PMDAメディナビ】━━━━━━━━━━━━━┓

 「製薬企業からの医薬品の適正使用等に関するお知らせ」 ( 2016/04/04配信)

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「製薬企業からの医薬品の適正使用に関するお知らせ」のページに、
以下の情報を掲載いたしましたのでお知らせいたします。

ペグイントロン皮下注用調製時の注意に関するお願い
(MSD 株式会社)
http://www.pmda.go.jp/files/000211072.pdf

■ペグイントロン皮下注用の調製時に、

添付の注射用水0.7mlで溶解し、そのまま全量(0.7ml)投与した事例や、
添付の注射用水0.5mlで溶解し、過量投与した事例

がこれまで複数報告されています。

■調製及び投与時は

 添付の注射用水 全量(0.7ml)で溶解すること
 投与量は0.5ml以下であり、全量投与しないこと

と注意喚起されていますので、
本剤の調製及び投与時に注意をお願いいたします。

4割の病医院で受診抑制、保団連調査

2016年04月04日 15時14分08秒 | 医科・歯科・介護
健康診断を受けない若年層も増加

m3.com 2016年4月1日 (金) 配信 高橋直純(m3.com編集部)

 全国保険医団体連合会は3月31日に開催したマスコミ懇談会で、5年ぶりとなる受診実態全国調査の第1次集計を発表。4割の病医院で経済的理由による受診抑制があったとし、住江憲勇会長は「忸怩たる思いでこのデータを見ている。さらなる患者負担の増加は容認できない」と訴えた。
 調査は全国の保険医協会、医会の会員8万645の医療機関(医科、歯科)を対象に2015年12月から2016年1月にかけて実施(一部、2月から3月)。第1次集計では2月末までに集まった1万1984施設(回収率14.8%)の回答を分析。最終結果は2016年夏ごろになる見込み。
 経済的理由と思われる受診中断事例の有無については、「あった」が40.9%(2010年38.7%)、「なかった」が27.6%(同34.2%)、「分からない」が30.4%(同26.4%)となった。2010年と比較すると「あった」はほぼ横ばいだが、「なかった」が6ポイント減少する一方で、「分からない」が4ポイント上昇しており、判断に迷う事例が増えていることが分かった。
 一方で、小児科では「あった」が7.8%にとどまり、全国で小児の医療費助成制度の拡充が進んでいる効果が示された(2010年は診療科別の集計はしていない)。
 この半年間で遭遇した事例を尋ねたところ、最多が「薬が切れているはずなのに受診に来ない」(67.1%)で、「受診回数を減らす要望」(60.8%)、「薬代を減らす要望(ジェネリック希望等)」(60.3%)と続いた(複数回答)。
 75歳以上の患者窓口負担の2割への引き上げについては、73.0%が「受診抑制につながる」と回答した。自由記述欄を分析した結果として、是非については「反対意見が多数を占める一方で、『やむを得ない』との意見も一定数見られる。しかし、『高所得者に限る』など条件付きの意見が多い」と説明した。
 保団連監査の竹崎三立氏が自身の診療所の患者を分析したところ、患者一人当たりの1カ月間での受診回数は2008年の1.98回から2015年には1.3回に減少していたと報告。「長期処方希望と薬の飲み伸ばしによる自己防衛が進んでいる」と指摘した。また、非正規社員の増加を背景に、若年層で健康診断を受けていない割合も増えているという。
 住江会長は「自由記述で、労働環境の悪化が現役世代の受診困難につながっているという指摘が出ているのが今回の調査の特徴。将来的な健康格差につながる」と指摘。高額療養制度の改正や75歳以上の窓口負担2割化などのさらなる患者負担の増加は容認できないと訴えた。また、薬剤費の増加を抑えて、診療報酬本体に回すべきと主張した。

デンタルサポート、ベトナムのビンメック国際病院と提携

2016年04月04日 15時11分29秒 | 医科・歯科・介護
ベトナム最大手のビンメック国際病院への
日本の歯科医療技術の研修指導と
歯科技工の提供を行う提携についてご案内申しあげます。
引き続きご高配を賜りますよう、どうぞよろしくお願い申しあげます。



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デンタルサポート、ベトナムのビンメック国際病院と提携
日本の歯科医療技術の研修指導と歯科技工を提供

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デンタルサポート株式会社(所在地:千葉県千葉市、代表取締役社長:内田 武)は
ビンメック国際病院(VINMEC INTERNATIONAL HOSPITAL、以下ビンメック
所在地:ハノイ、統括責任者:Le Thuy Anh)と提携いたしました。
ビンメック国際総合病院内に設立された歯科医療センターへ
日本人歯科医師を派遣し、インプラントをメインとする
日本の歯科医療技術研修指導および、歯科技工物の提供を実施いたします。


■ベトナムの歯科医療事情
ベトナムの人口に対する医師の数は1人の医師に対して3,300人、
歯科医師の数については、歯科医師1人に対して10,000人と
絶対数が不足していることに加え、歯科だけに限らず
医療関係者の都市部への集中傾向が顕著です。
都市部と地方との医療水準の地域格差が大きく、ハノイやホーチミンなどの
都市部であれば近代的な医療機器を備えた私立病院・クリニックが
いくつか存在しております。
近年、日系クリニックの進出や日本人医 療従事者が
勤務している医療機関も増えてきましたが、
未だタイやシンガポールなどの近隣の国の医療水準に
到達しているとは言い難い状況です(外務省在外公務医務官情報より抜粋)。


■歯科医療技術も支援実施に至った経緯
ビンメックはベトナム国内に「より質の高い歯科医療の提供」を目的として、
ビンメック国際病院内に歯科医療センターを設立しました。
提供する歯科医療技術を国際的な水準へ高めたいというビンメックの要望と、
高品質な日本の歯科医療技術を世界に発信し、
医療のグローバル展開と産業化を推進したいという当社の方針が一致したため、
提携に至りました。


■インプラントを始めとする歯科医療技術と歯科技工を提供
ベトナムでは、高度な歯科医療の技術を習得したい歯科医師は、
国外に出て行ってしまう傾向にあるといわれていますが、
ベトナムの歯科医師や医療スタッフが、日本人歯科医師から直接指導を受け、
インプラントなど富裕層向けの高度な歯科診療の実績を重ねることで、
ベトナム国内で歯科医療技術のレベルアップと充実を図ることが期待できます。
また、当社の歯科技工所であるデンタルスタジオ(所在地:日本)や
ミャンマーの子会社(DS SAKURA Dental Services Co., Ltd.)から
歯科技工物を提供することで、歯科技工の国際的な流通の
基盤づくりとなると考えています。
 

■歯科医療技術支援の契約内容について
・契約締結日:2016 年 1 月 14 日
・契約期間 :2016 年 1 月 14 日から 2019 年 1 月 14 日の 3 年間
・弊社が提供する歯科医療技術の主な支援内容
(1)インプラントおよび歯科技工に関する資料および文書の提供。
(2)歯科医療センターのスタッフに対するインプラントを含む
 歯科治療の技能研修の実施。
(3)歯科医療センターへ日本式歯科診療の専門的見識が高い歯科医師を派遣し、
 歯科医療センターのスタッフが患者への治療を行なう際に
 インプラントおよび歯科技工に関する実地訓練を行う。


■VINMEC INTERNATIONAL GENERAL HOSPITAL
企業名:VINMEC INTERNATIONAL GENERAL HOSPITAL
代表者:統括責任者Ms. Le Thuy Anh
所在地:458 Minh Khai Street, Vinh Tuy Ward, Hai Ba Trung District, Hanoi City,
    Vietnam VINMEC INTERNATIONAL GENERAL HOSPITAL
URL:http://eng.vinmec.com/


■デンタルサポート株式会社について
歯科・医科・介護のワンストップサービスを提供するDSヘルスケアグループの一員として、
訪問歯科診療サポート、歯科技工、医科の訪問診療(在宅医療)サポート、介護事業等を運営。
訪問歯科診療サポートにおいては、北海道から九州まで全国に展開。
ひと月に6万回以上の診療をサポートしている実績を存分に活かした、
啓発活動、情報発信を行っています。
海外においては、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイにて、
医科・歯科併設のクリニック「SAKURA Medical and Dental Clinic」を開設。
2015年12月にはミャンマーに歯科技工サービスを提供する子会社
「DS SAKURA Dental Services」を設立いたしました。
アジア、中東を中心に活動をしています。

<会社概要>
本社所在地 : 千葉県千葉市美浜区中瀬1-3 幕張テクノガーデンD棟17階
設立    : 1989年(平成元年)5月
資本金   : 2億980万円
代表者   : 代表取締役社長 内田 武(薬剤師・薬学博士)
ホームページ: http://www.dentalsupport.co.jp/

量ではなく“質”や“機会”で考えていく

2016年04月04日 12時32分04秒 | 社会・文化・政治・経済
18、19歳の新有権者は240万人になりますが、これは全有権者のわずか2%。
高齢世代と若者世代の人口ボリュームには大きな差があります。
しかも日本の投票率は年齢に比例し、高齢世代の投票率は安定して高く、60代と20代を比べると2倍も違います。
視点を変えて、量ではなく“質”や“機会”で考えていくといいでしょう。
冷静にみれば、若い人が「公のこと」より、私的な充実というか、プライベートな充足を望むのは、自然な流れだと思うんです。
でも、結婚したり、子どもができたりする中で、「育児にお金がかかるな。今住んでいる地域の自治体はどんな補助があるのかな」というふうになってくる。
意識を持った若い世代が、自らの世代の争点や高齢世代との対立点を明らかにすることで、若者が高齢者世代と戦うのでなく、説得して、変化を生み出すことも可能になるでしょう.

東京工業大学准教授・西田亮介さん



















“心の痛み”をきっかけに行動を起こそう

2016年04月04日 12時16分01秒 | 社会・文化・政治・経済
★「他人にある勇気や忍耐はあなたの中にも-詩人・ホイットマン
★豊かな言葉は豊かな心を育む。
★漢字検定は、単なる暗記を目的とするものではない「表現力や主体的に学ぶ姿勢を身に付けるため。
児童の自主性を重んじる。
狙いは1)「基礎・基本」における漢字学習の一助けにする2)良い学習習慣を身に付けさせる3)目的達成の喜びと自信を持たせる-の3点。
★登頂よりも、自然との触れ合いに重きを置いてもらいたいですね。
「体感」「体験」は後々に大きくなるはずです。
登山家・田部井淳子さん
★「感じろ! そして考えろ」です。
問題の状況を生み出している原因は何かを何度も自らに問い、「考える」ことで、問題の「構造」が見えてくるはずです。
構造がみえなければ、実現性に富んだ解決策は生みだせません。
ぜひ、自らの問題意識を大切にしていってほしいです。
今や、「気付いた個人」が事業を立ち上げ、課題を解決する時代になりましたので。共に社会を変えていきましょう!
NOP法人フローレンス代表理事駒崎弘樹さん

自衛隊が戦闘に巻き込まれないための仕組み

2016年04月04日 11時14分41秒 | 社会・文化・政治・経済
日本の繁栄と安全には国際社会の平和と安定が欠かせない。
国際社会の平和と安定に貢献することで、日本の平和は一層強固なものとなる。
ただし、法整備はあくまでも備えである。
大前提として、抑止力を整えた上で他国との対話を促進することで、紛争の平和的な解決を目指す平和外交を進めることが重要になる。
憲法9条と平和的生存権、13条の幸福追求権を合わせ読むことで、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態」では、自衛の措置が認められる。
わが国防衛のために日本近隣の公海上で警戒監視活動をしている米艦船に対し、外部から武力攻撃があった場合。
これに対処する必要がある。
放置したら、日本に対する武力攻撃に発展する可能性もある。
そこで、わが国の存立を全うし、国民を守ために、必要最小限度の実力行使に限り自衛の措置を容認した。
あくまで自国防衛の範囲である。
日本を海外で戦争できる国にするわけではない。
平和安全法制は戦争を防止して地域の安全をもたらすものである。
日本が徴兵制になることは絶対にあり得ない。
憲法18条には「その意に反する苦役に服されるない」と規定されている。
また、13条が定める個人の尊重の原則に反するとの理由で「憲法の下では徴兵制は許されない」。
憲法学者の6割が自衛隊の存在そのものを“違憲”と見ている。
だが、自衛隊の武力行使は自国防衛のためである。
自衛隊が戦闘に巻き込まれないための仕組みも整っている。
実施区域で後方支援をすることが困難になれば部隊長が一時後方支援を休止する。
さらに防衛相が活動の中断を命令する。

日々の営業の仕事の重圧

2016年04月04日 09時57分18秒 | 創作欄
小峰徹は映画評論家を目指した時期がある。
高校生の頃に見たテレビの映画の影響であり、古本屋で多くの映画雑誌を買い込み、各評論家の文章を読んでみた。
そして大学1年の時、有楽町でアルバイトをしていた時には、西銀座デパートにあった特設のサテライトスタジオに張り着くようにして映画評論家の淀川長治のトークに魅入っていた。
そして唐突にも、サテライトスタジオから出て来た淀川さんに「弟子にしてください」と懇願したのである。
色々な脚本も古本屋で集めていたので、その脚本の1冊の余白にまず、サインを求めた。
「ボクは、今いくつ? 20歳なの、まず、社会勉強をすること。いいですね。映画評論は幅広い知識の上でするものです。わかった?」淀川さんは温和な笑顔で諭すよに言う。
徹は「子ども扱いにされたのだ」と苦い想いがした。
そして、作家の三浦朱門先生の最終講義に刺激を受け、一つの方向性を定めた。
チェーホフを論じた三浦先生によって、チェーホフの著書や評伝を読む。
そして「チェーホフと女性」と題する原稿を書き大学の雑誌に掲載された。
卒論は「夏目漱石女性論」をテーマとした。
「沼田は作家になったら、田山花袋くらいの私小説が書けるだろう」と友人の緒方清作君に言われた。
徹がもっとも嫌っていた作家の田山花袋を引き合いに出すのである。
徹はチェーホフのような劇作家を目指し、脚本を書き始めていたのだ。
彼は松原知恵子などの憧れの女優を思い描きながら原稿に向かっていた。
ついでに作詞にも取り組んでみたが、これが意外を難しいことを知らされた。
「才能がないんだ」
現実は甘くなかった。
原稿から段々身を引いて行く。
夜の歌舞伎町や新宿2丁目が徹を引き付けて行く。
個室のヌードスタジオにも会社の同僚に誘われて通うようになる。
日々の営業の仕事の重圧もあった。
仕事すら完全な挫折の兆候である。
日本工業新聞社を10日ほどで辞めて、学習百科事典の営業の仕事を1年余続けていたのだが・・・

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淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。約32年にわたって「日曜洋画劇場」の解説を務め、ヨドチョーさん、ヨドさんの愛称のほか、その独特の語り口からサヨナラおじさんとして親しまれた。

日大に入学のため1927年(昭和2年)に上京した際、かねてから投稿を行っていた雑誌『映画世界』(南部圭之助編集長)の社員募集を見て、編集部へ出向きそのまま採用され、編集者として活動。しかし1929年(昭和4年)に神戸の実家へ戻され、姉の経営する輸入美術品店「ラール・エヴァンタイユ」で勤務する。

その後、知人を介して1933年(昭和8年)にUA(ユナイテッド・アーティスツ)の大阪支社に入社する。なお、大阪支社勤務時代の1936年(昭和11年)2月に、来日したチャールズ・チャップリンとの会談に成功している。その後、淀川は日本におけるチャップリン評論の第一人者と言われる。その後1938年(昭和13年)に「モダン・タイムス」封切に伴う宣伝体制強化を受けて東京支社に移り、ジョン・フォード監督の『駅馬車』の宣伝などを担当する。

1941年(昭和16年)12月の日米開戦後の1942年(昭和17年)に東宝映画の宣伝部に就職。
この時期、後に世界的な映画監督となる黒澤明と出逢い、淀川の生涯の親友となった。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結後には、アメリカ映画の配給会社セントラル映画社(CMPE)のレクチャー部に勤務する。
その後、1947年(昭和22年)に雑誌『映画の友』に入社し[1]、編集長を経て、映画解説者・映画評論家として活動を開始。


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三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年(大正15年)1月12日 - )は、日本の作家。

日本大学芸術学部教授、文化庁長官(第7代)、社団法人日本文藝家協会理事長(第7代)、日本芸術院院長(第4代)などを歴任した。

文字通り人生を見えるがままに見せた

2016年04月04日 09時53分01秒 | 社会・文化・政治・経済
チェーホフ-七分の絶望と三分希望
沼野充義著

作家の姿は、「七分の共感と三分の憐憫」の人のように見えてくる。
愛と同情に溢れながら、知性ゆえにか微かな憐笑を抑えられなかった作家である。
トルストイは人生を肯定的描き、ドストエフスキーは否定的に描いたが、チェーホフは言葉の厳密な意味においてありのままに捉えた。
凡百の写実作家のよう価値観を密輸入したりせず、文字通り人生を見えるがままに見せたのがこの天才だ。
ありのままに人生を見れば、それが悲劇であるとともに滑稽であるのは当然ではないか。
しかも日本の私小説家と違って、この作家は当時のあらゆる社会問題から目をそらさなかった。
先輩の大長編作家たちとは対照的に、彼は短編途中編しか書かず、やがて劇作家として世界的な声望を得るわけだが、この評伝を読むとそれも自然だと思われる。
あの激動期にどんなイデオロギーにも傾かず、人生をあるがままに見るのは長く続けられる仕事ではないからである。
そして一つだけ私見を述べることを許して頂けるなら、演劇には小説にはない独特の仕掛けがあって、彼の危うい綱渡りを助けてくれたからだろう。
偉大な天才の照れ性には、天も加担するかもしれない。
山崎正和評

松戸で再会

2016年04月04日 02時40分51秒 | 日記・断片
昨日は午前 
8時40分にミスターマックスの脇で待ち合わせをして、小堀(おおほり)の赤峯宅(仮名)での会合へ向かう。
車内で見せてもらった歌の映像を赤峯宅でも流した。
滝の映像にカラオケ用の歌詞が流れる。
そのようなソフトがあるのだ。 
4月の八重洲地区の会合用に制作したのだ。
個人でオリジナルのカラオケができることにみなさん感嘆していた。
大きなスクリーンで映像が流される予定だ。
畳の幅くらいのスクリーンなので、ゲストで参加した人は「大きいね!」と驚く。
10時過ぎに会合が終わりお茶の時間となり、串団子をいただく。
外へ出ると小雨は止んでいた。
午後は松戸へ行く。
藤代の友人に会う。
誰にでも「おお会長」「柏の会長」「守谷の会長」などと笑顔で呼びかける。
宮元さん(仮名)は声が大きい人で元気そのもの。
「大病もせず、生きてきている。使命があって、生かされているのだ」と改めて感謝する。
90代の人に話しかけてみた。
道で会う人に挨拶をする習慣が身に着いてから、誰とでも話せるようになる。
元歯科企業の経営者の上本(仮名)にも数年ぶりに会う「もう80歳だ」と言っていた。
マスクをしていて、「風邪がなかなか治らない」と咳き込む。
「厚生年金と企業年金をもらっていて、何とか遊んで暮らしている」と笑っていた。
守谷の人は、元深川の材木関係の企業にいて、話の分かる社長で「家を建てろと土地も買ってもらった。税金をどうせ払うんだからと5万円の給料の時に、儲かったからって、100万円の賞与が出たんだ」と言う。
「自慢話ばかりする男だ」と宮元さんは批判的だ。
奥さんの友人の話もする。
「新宿にビルを持っていて優雅に暮らしているんだ。東京ドームの年間シートを持っていて、金持ちは違うな。毎回、違うブランド品の服を着て来るんだ」
「また、自慢話か」と宮元さんは距離を置く。
宮元さんに松戸駅前の居酒屋でご馳走になる。
「昼は、ソバを食って、1本酒を飲んで、1300円のはずが、1700円取られた。外へ出てから気が付いた。全くふざけた店だ」と憤慨していた。
千代田線の取手行きに乗る。
「取手行きがあるのか」と驚いていた。
宮元さんは電電公社時代の話を時々する。
NTTとは言わない。
彼の拘りであろうか?