東日本大震災の衝撃が、額田治郎の生き方を変えた。
前日まで、額田は陸前高田に滞在していたのだ。
陸前高田
昭和30年(1955年)1月1日 - 高田町・気仙町・広田町・小友村・竹駒村・矢作村・横田村・米崎村が合併し、陸前高田市となる。
東日本大震災
2011年(平成23年)3月11日、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生した。
隣接する市町村の震度は、大船渡市・一関市・宮城県気仙沼市が震度6弱、住田町は5強であった。
同市の震度は欠測だったが、市の発表による災害状況では6弱とされている。
この地震が引き起こした大津波によって市役所庁舎を含む市中心部が壊滅し、市の全世帯のうち7割以上が被害を受けた。
また、市域にある東日本旅客鉄道(JR東日本)の5駅のうち4駅(大船渡線の竹駒駅・陸前高田駅・脇ノ沢駅・小友駅)は、周辺地域の多くの駅同様、駅舎などが流失し、線路も大きな被害を受けた。
4月9日:この時点で判明していた陸前高田市における死者は1,211人、行方不明者1,183人、避難者16,579人。
4月14日:GPS(全地球測位システム)を用いた国土地理院の調査の結果、岩手県・宮城県・福島県の広範な沿岸地域において、この地殻変動による著しい地盤沈下があったことが明らかとなった。
特に岩手・宮城両県境付近の変動量は大きく、最大は牡鹿半島の-120 cm, 陸前高田市は小友町西の坊が-84 cmで市街地中最大、同じく米崎町高畑は-58 cm, 同じく気仙町双六は-53 cm, 他では宮城県石巻市が-78 cm, 気仙沼市が-76 cm, 岩手県大船渡市が-73 cmであった。
岩手県総合防災室によると、2012年8月11日現在で陸前高田市における死者は1,555人・行方不明者は223人で、行方不明者のうち陸前高田市が死亡届を受理した件数は205人である。
陸前高田の木造駅舎は東日本大震災の大津波で流失。
太平洋に面した三陸海岸の南寄りに位置する。
三陸海岸南部はリアス式海岸が続き、西の唐桑半島と東の広田半島に挟まれた広田湾の北奥に市中心部のある平野が広がる。
小さな平野ではあるが、山が海に迫る地形が続く三陸海岸では最大級のものである。
広田湾奥には気仙川が流れこんでおり、その運ぶ土砂で形成された砂州には高田松原と呼ばれる松原が東西に続く。
高田松原の北に古川沼があり、その先の山麓に中心市街地があり、その北には氷上山がそびえる。
広田半島には椿島などの景勝がある。
額田は仙台には毎年仕事で行っていた。
その日、想い立って仙台から陸前高田まで足を延ばしてみた。
高田松原を一度、見ておきたいと思ったのだ。
旅行らしい旅行をほとんどしない仕事人間の額田であったが、地方出張のついでに訪れた場所は少なくない。
そのような場所が記憶に留まり、額田の心を満たしていた。
1日違いで彼は難を逃れたのであり、改めて自分は生かされたのだと思った。
額田はそれまで午前6時の始発バスで、取手駅から東京・神保町まで通勤していたが、4時に起きて家を5時に出て徒歩で約25分、取手駅まで向かう生活習慣に変えたのである。
何かで自分を変えたいという気持ちが、額田を突き動かしたのだ。
彼は55歳を過ぎており髪の毛のだいぶ抜けてきた。
縁がなく独身身であり生活習慣を変えるのも気ままであった。
住む家は中古の2階建の1軒屋であり、庭は何時も殺風景である。
そろそろ定年後の生活についても考える身ともなっていた。
彼の身を案じる妹が、時々電話をかけてくる。
そして聖書の小冊子を毎月、送ってくるのである。