△▼厚生労働省▼△  04月11日 19時 以降掲載

2016年04月12日 11時07分55秒 | 医科・歯科・介護
△▼厚生労働省▼△

新着情報配信サービス

  

○ 政策分野

・動物の輸入届出制度
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220697

○ 審議会等

・第5回 特定健康診査・特定保健指導の在り方に関する検討会 資料
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220699

・第4回アレルギー疾患対策推進協議会(開催案内)
http://wwwhaisin.mhlw.go.jp/mhlw/C/?c=220701

高度な支援、国が加速 

2016年04月12日 11時06分45秒 | 医科・歯科・介護
 医科学など専門家を配置
 「国策強化の行方」


共同通信社 2016年4月8日 配信

 スポーツ庁が五輪でのメダル量産に向けた施策として中核に据えるのが、有望競技を情報・医科学面から支える「ハイパフォーマンスサポート事業(旧マルチサポート事業)」だ。2009年秋に本格的に始まり、16年度予算は過去最多の35億円。スポーツ強国に倣い、支援の「高度化、専門化」(鈴木大地長官)に取り組む。
 対象は夏季五輪では18競技。日本スポーツ振興センター(JSC)が国費で情報分析やトレーナーなど約50人のスペシャリストを雇用し、各競技に配置している。日本独自の用具開発は筑波大が企業と組んで進めており、12年ロンドン五輪ではフェンシングの剣のグリップや、前傾姿勢を取りやすいレスリングのウエアをつくった。リオデジャネイロ五輪に向けても「秘密兵器」の準備を進めている。
 五輪で現地の支援拠点となる「ハイパフォーマンスサポート・センター」もJSCがこの事業で設置する。4年前のロンドンでは和食や、疲労回復効果のある炭酸泉のプールなどを選手に提供し、史上最多38個のメダル獲得を後押しした。
 JSCによると、五輪前年の世界選手権で8位以内に入った選手の五輪でのメダル獲得率は北京大会では19・7%だったが、ロンドン大会では32・1%と大きく伸びた。和久貴洋(わく・たかひろ)情報・国際部部長は「最後の調整の環境が整ったことで成功率が上がった」と自負する。
 競技団体が独自に実施するのは難しい、多角的な支援。より現場のニーズに合った取り組みを実現するため「研究のための研究になっては駄目」(スポーツ庁関係者)「サポートする側も進化しないといけない」(JSC担当者)と、模索が続く。
(長谷川)

成年後見人の育成促進 

2016年04月12日 11時05分37秒 | 医科・歯科・介護
権限拡大へ関連法成立 
認知症高齢者増に対応


共同通信社 2016年4月8日 )配信
 認知症や知的障害、精神障害などで判断能力が不十分な人を支援する「成年後見制度」の利用を促進する法律が8日の衆院本会議で自民、民進、公明各党などの賛成多数で可決、成立した。認知症高齢者らの増加に対応し、担い手確保のため市民の後見人を育成するほか、選任する家庭裁判所の監督体制を強化する。
 医療や介護に関する後見人の権限拡大も検討する。併せて審議されていた、郵便物の開封や、後見されている人が死亡した後の手続き代行を認める民法の一部改正などは、6日の参院本会議で既に成立している。
 認知症高齢者らは財産管理や介護施設の入所契約を結ぶのが難しかったり、悪徳商法の被害に遭いやすかったりする。後見人はこうした人たちの手続きを代行するが、認知症の人が400万人を超えるのに、利用は約18万人にとどまっていた。
 利用促進法は議員立法。後見人となる人材を確保するため市民への研修や情報提供を実施し、後を絶たない後見人による財産の横領を防ぐ目的で家裁や関係機関による監督体制の強化を政府に求めた。利用者増に向けた施策や目標を定めた基本計画を策定し、首相をトップに関係閣僚が参加する利用促進会議を内閣府に設置すると定めた。
 また意思決定が困難になった人も医療や介護を円滑に受けられるようにするために、現在は財産管理と介護サービス契約の代行などに限られる後見人の業務拡大を検討することも求めた。手術や輸血といった医療行為への「同意権」などが焦点になるとみられるが、後見される人や家族、支援団体からは「自己決定権が侵害される恐れがある」との批判も出ている。
 成年後見制度は2000年にスタート。家族のほか、司法書士や弁護士、社会福祉士ら法律や福祉の専門家が後見人になることが多い。
 ※成年後見制度
 認知症や知的、精神障害などで判断能力が不十分な人を後見人が保護、支援する制度。介護保険制度が発足した2000年に、禁治産、準禁治産制度を廃止してスタートした。家族らの申し立てを受けて家庭裁判所が選任する「法定後見」と、将来に備え、判断能力があるうちに自分で選ぶ「任意後見」がある。後見人は家族のほか弁護士、司法書士などが多いが、研修を受けた市民もなれる。財産管理などが主な業務で、日常の買い物や掃除などは業務に含まれない。

医療事故調査制度半年 件数低調、判断に戸惑いも

2016年04月12日 11時04分10秒 | 医科・歯科・介護
 遺族「もっと話聞いて」 

共同通信社 2016年4月11日 )配信

 診療に関連した予期せぬ死亡事案を対象とした医療事故調査制度のスタートから半年が過ぎた。医療機関側が「院内調査が必要」と判断し、第三者機関に届け出たのは188件。想定を大幅に下回る件数で「『予期』を巡る判断に現場が苦慮している」との見方も。一方、調査の進め方や結果報告に関し、遺族側から「もっと話を聞いて」「分かりやすい説明を」との声が出ている。
 ▽「予期」の範囲
 制度の対象は全国約18万カ所の医療機関や助産所。第三者機関の「日本医療安全調査機構」(東京)によると、届け出があった188件の内訳は、内科と外科が29件ずつ、整形外科20件、産婦人科15件、精神科と循環器内科が13件ずつなどとなっている。
 機構側は制度開始前、届け出は年間千~2千件と見ていた。院内調査をするかどうかの判断は医療機関側に委ねられているが、制度に詳しい名古屋大病院の長尾能雅(ながお・よしまさ)副院長は「現場では『予期せぬ』の範囲をどう捉えればいいのかという戸惑いが大きい」。機構に寄せられた制度に関する相談は半年間で約千件。半数は届け出の判断や手続きに関するものだった。
 医療現場には依然として訴訟リスクへの警戒感も強いといい、関東地方の総合病院の院長は「届け出た時点で、原因が特定できなくても『医療ミスだ』と騒がれるのでは」と懸念を示す。
 機構の木村壮介)常務理事は「医療機関側は調査対象を幅広く捉え、原因を徹底究明して再発防止につなげる姿勢をもっと積極的に示す必要がある」と話す。
 ▽蚊帳の外
 制度上、機構に報告した事案は院内調査を実施し、その結果は遺族に説明するよう規定。遺族は不服があれば、第三者機関である機構に調査を依頼できる。
 昨年11月に食道がんと診断され東海地方の病院に入院中だった女性が急死し、院内調査が実施されたケース。抗がん剤投与後に激しい嘔吐(おうと)などの症状があり、死亡との因果関係が問われたが、「原因不明」との結論が示され、40代の娘が機構に調査を申し立てた。
 病院側は娘の要望に応じて4ページにまとめた院内調査の報告書を交付。抗がん剤の投与量や死亡の経緯が記されていたが、難解な専門用語やグラフが並べられ、娘は「遺族に内容を理解させようという気持ちは感じられなかった」と振り返る。
 院内調査の過程で話を聞かれることもなく、この点は義務化されていないが「遺族の目線を意識した対応をしてほしかった」。遺族の相談窓口を開設する「医療の良心を守る市民の会」代表の永井裕之さんも「調査過程で蚊帳の外に置かれると遺族は不信感を強める」と指摘する。
 医療側と遺族の信頼構築に向け、永井さんは「医療事故で大切な家族を亡くした人たちは『なぜ』『何が起きた』という気持ちを簡単には拭えない。医療機関側の責任が明確でない場合でも、遺族が知りたいと考える点については説明を尽くすべきだ」と強調する。
 医療事故被害者の間には、遺族の要望に応じる形で院内調査を始める仕組みを求める声も根強い。制度は6月までに見直すことになっており、届け出対象の範囲などの課題をどう整理するか、国や医療界の対応が注目される。

「支援女性死なせた」 手術促した後悔、今も 

2016年04月12日 11時02分57秒 | 医科・歯科・介護
成年後見促進法成立

共同通信社 2016年4月11日 配信

 認知症高齢者や精神・知的障害者の増加を見据え、利用促進法により担い手の育成や権限強化が図られることになった成年後見人。手術への「代諾」(同意)や居住地の選択、死後の財産処理といった場面に立ち会ったとき、後見される人の意思をどうくみ、支援に生かすのか。日々、難しい判断を迫られている。
 「私は被後見人を死なせてしまった」。関東地方で活動する60歳代の男性後見人は唇をかんだ。2008年7月、男性が後見人となって支援していた女性=当時(46)=は喉にできた腫瘍を切除する手術を受けた約2週間後、くも膜下出血で死亡した。女性には重度の知的障害があり「術後の管理のため」病院のベッドに両手足を縛られ、身体を拘束されていた。後見人には拘束する方針は伝えられていなかった。
 腫瘍は良性だったが、こぶし大になり食道を圧迫していた。健常者ならすぐにでも手術してしまうケース。だが、知的障害がある女性は術後、ベッドで安静を保てないことが予想されたため、先延ばしにしてきた。
 「手術をすべきか」。後見人は悩んだ。女性は通常の病院の診察でも恐怖で体を震わせ、目を潤ませていた。意思表示ができたとしたら「手術は望まない」と言ったかもしれない。後見人は「自分だけで結論を出すのが怖くて」精神保健福祉士ら専門職10人に手術について検討を求めた。意見は真っ二つに割れ、結局後見人らに促される形で、代諾権限のある女性の実母が手術に同意した。
 身体拘束と死亡との因果関係は不明だ。だが、もし手術をしていなかったら―。7年以上たった今も、後見人の悔恨の念は消えない。「手術の是非はもちろん、術後管理の方法をもっと病院側と詰めるべきだった」
 成年後見制度は00年、介護保険制度とともに高齢化社会を支える両輪として導入された。今回成立した促進法では従来の財産管理に加え、施設入所や入院などの手続きをはじめとする生活面のサポートを強化。担い手確保のため市民後見人も育成して、サービスの需要増に備える構えだ。
 医療行為や介護に同意する権限を後見人に付与するべきかどうかも議論される。後見人の力が強まる可能性が出てきたことに、現場は戸惑う。
 岐阜県多治見市のNPO法人「東濃成年後見センター」の山田隆司事務局長は、自宅で1人暮らしをしている認知症の高齢者や知的障害者の見守りから施設入所や入院の手続きの代行、死亡後に火葬された被後見人の遺骨の受け渡し、残された財産の遺族への引き渡しまでを一手に担う。
 「当事者や家族の意思にとことん寄り添おうとすれば、覚悟が必要」と山田事務局長。台風でも大雪でも雨戸を開けておくのが好きな独居の当事者の家にほぼ毎日通って雨戸を閉めたり、自宅で突然死した人がいれば、警察の実況見分に立ち会ったりする。残された遺産の相続を拒む親族を、1時間以上にわたり受け取ってもらえるよう説得したことも。「ボランティア感覚の市民後見人では到底無理」と話す。
 国学院大法科大学院の佐藤彰一教授は「促進法が求めている後見人の権限強化や制度拡充を検討する前に、当事者の意思をどのようにくみ取り、支援内容に反映させていくかの議論が先だ」と指摘している。

抗菌薬の重複処方7% 

2016年04月12日 11時00分49秒 | 医科・歯科・介護
京大が124万人レセプト調査

京都新聞 2016年4月11日

 抗生物質(抗菌薬)を複数の医療機関から重複処方されている患者の割合は、抗菌薬を処方された患者全体の7・4%であることが、京都大医学研究科の中山健夫教授と高橋由光講師らの調査で分かった。高橋講師は「医療機関同士の情報共有が不足しているのではないか。重複処方がすべて不適切とは言い切れないが、減らせる処方はあるはず」としている。
 不必要な薬剤使用の防止が課題となる中、薬剤全般の重複処方に関する大規模で包括的な研究は初めて。医療政策学の国際専門誌に発表した。
 研究グループは、各企業でつくる健康保険組合の加入者ら124万人のレセプト(診療報酬明細書)から、2012年12月の1カ月に加入者が外来で処方された全薬剤を分析した。結果、全身用抗菌薬やせき止め薬が、処方された薬の上位の二つを占め、重複処方されている割合もそれぞれ7・4%、8・5%と、上位二つであることを突き止めた。65歳以上では薬剤全体で重複処方の割合が低いことも分かった。
 転売目的の重複処方が問題となった向精神薬についても調査し、10医療機関以上から向精神薬を処方されている患者が2人いることが判明した。ただ、多数の医療機関から処方を受けた理由は分からないという。
 高橋講師は「抗菌薬やせき止め薬は医師が簡単に処方する傾向が推測できる」と指摘する。
 近年、安易な抗菌薬投与が耐性菌を生じさせるとして問題となっており、厚生労働省も今月、20年までに抗菌薬の使用を3分の2に減らす方針を打ち出している。

幻の「専門誌・紙記者列伝」

2016年04月12日 10時55分19秒 | 医科・歯科・介護
無頼派記者
沼田利根は、「専門誌・紙記者列伝」を書こうとしていた時期がある。
元学生運動の闘士
元暴走族
業界のダニとして忌み嫌われた記者
「オイ。ネタ出せ!」とお役人を脅かす記者も居たのだ。
昼間から酒も飲んでいた。
農林省の食堂には酒が置いてあいったのだ。
昼間から記者クラブで麻雀である。
サラ金に多額の借金をしてる者も居た。
彼らは鋭い記事も書いたが、荒んだ生活もしていたのだ。
女タラシもいた。
彼らは、競輪、競馬、競艇も好きであった。
飲めばその道の専門家のように語る。


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無頼派作家

坂口安吾(24年間働きに働いて48歳で死ぬ)、太宰治(実質13年で全集12巻分を残した)、織田作之助(約6年半で全集8巻分を残した)を中心に、石川淳、伊藤整、高見順、田中英光(約10年で全集11巻分を残した)、檀一雄などを指すことが多い。
さらに奥野健男によると、三好十郎、平林たい子を含ませることもある。太宰、織田らと交流があり無頼派に数えられることのある青山光二は晩年のインタビューで、太宰と織田を純然たる無頼派として言及し、長寿の檀一雄や自身については純然たる無頼派ではないと回答している[2]。

日本の近現代文学史上の潮流としての無頼派というより、広範な意味で無頼派と評される作家は、吉行淳之介、色川武大、中上健次、伊集院静らをはじめとして相当数存在する。

坂口安吾短編小説「二十七歳」

2016年04月12日 10時13分16秒 | 社会・文化・政治・経済
矢田津世子には妻子ある男が居た
訪ねてきた矢田から「桜」という同人雑誌への加入を請われる。
「同人になって、仲間になればあなたといつでも会えるから」安吾は舞い上がった。双方の母親が認め合う仲だった。
しかし、プラトニックラブに終わる。

二十七歳

1947(昭和22)年3月1日発行の『新潮』に発表。

 矢田津世子との恋愛に苦しみ抜いた安吾の心情。
それは、この作品の中では一人だけWという伏せ字になっている男と矢田津世子との関係について、感情的になっていることからも伺い知ることができる。

その照れ隠しというわけでもないのだろうが、実名のまま笑いものにしている人物と、Wという人物の対比が際だっている。
それは誰あろう、詩人で現在も多くのファンをもつ中原中也であるのだ。
いつも嘆いているとか、飲みながらもその後の行動を計算して、金を少しだけ残しておくだとか、酔っ払うとサルマタ一枚になるまで脱ぎまくる癖があるだとか、ファンの立場からしてみればこんなことを書く安吾というのは、とんでもない奴だと怒りたくもなるだろう。
しかし、中也ファンは、なぜ安吾が中也の名をそのまま書いたか、もう少し考えてみる必要がある。
安吾が匿名でなく実名で書いているのは、何らかの批判があっても真正面から対処する覚悟ができていたからだ。
実際、そうした批判について安吾は、弁明の文を書いている。(98.7.6)
「坂口安吾の東京を歩く」で昭和6年から11年までを巡ってみたいとおもいます。
この昭和初期は坂口安吾が新進作家として登場した時であり、その時代に彼の出会った人たちとの巡り合いを中心に、歩いてみたいとおもいます。

特にその中で坂口安吾が初めて惚れた女性が矢田津世子でした。
彼女に関しては、友人の大谷藤子が下記のように書いています。
「矢田津世子は、その生涯を書くために生き、そのためには結婚生活に入ろうとさえしなかつた。作品を書けるという生活を彼女ほど厳しく選び、愛した作家も稀れだといいたいほどである。自分はどういう意味にしろ圧迫する人を持ちたくない、そのために萎縮する性質だからと彼女は語ったことがある」、坂口安吾との関係もこの文を読めば、納得しますね。
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件 27 3月 京都へ旅行
京橋のバー「ウインザア」の女給 坂本睦子と親しくなる
「ウインザア」で矢田津世子と出会う
8月 蒲田の家に矢田津世子が訪ねてくる
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退 28 1月 矢田津世子の自宅を訪ねる
5月 蒲田の酒場「ボヘミアン」のマダム安さんと親しくなる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 29 酒場「ボヘミアン」のマダムお安さんとアパートで同棲
9月頃 大森区堤方町555の十二天アパートに転居
年末に檀一雄と「はせ川」であう

「この戦争中に矢田津世子が死んだ。私は死亡通知の一枚のハガキを握って、二三分間、高か二筋の涙というものを、ながした。……つまり私はそのときも尚、矢田津世子にはミレンがあったが、矢田津世子も亦、そうであったと思う。」、坂口安吾が初めて本当に惚れた女性が矢田津世子でした。坂口安吾が初めて矢田津世子にあったのは「とにかく、私と英倫とほかに誰かとウインザアで飲んでいた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだって、ウインザアへやってきた。英倫が紹介した。それから二三日後、英倫と矢田津世子が連れだって私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合った始まりであった。」と書いています。このとき矢田津世子は偶然か、意識的か、蒲田区安方町の坂口安吾宅に訪ねたときに本を忘れます。「手紙がきた。本のことにはふれておらず、ただ遊びに来てくれるようにという文面であったが……私は遊びに行った初めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のような食卓で、酒を飲まされて寛いでいた。その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まったく、一睡もできなかった。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のように映り、私の頭は割れ裂けそうで、そして夜明けが割れ裂けそうであった。この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかったが、私にとってはすでに得恋の歓喜であった)は、私の初めての経験だから、これは私の初恋であったに相違ない。」、やはり坂口安吾にとっては初恋の人だったようです。

<矢田津世子>
 明治40年6月15日、秋田県南秋田郡五城目町に生まれる。本名 矢田ツセ、麹町高女を大正13年に卒業後日本興業銀行に勤務、昭和2年名古屋に移り住み、「文学時代」の懸賞小説に「罠を飛び越える女」で当選、昭和11年発表の「神楽坂」は芥川賞候補になる。矢田昭和19年3月病死。

「はせ川」で坂口安吾は初めて檀一雄に会い、一生の友人になります。このほかにも坂口安吾は行きつけの店があり、「この同人が行きつけの酒場があった。ウインザアという店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで…」、と書いています。この同人とは、牧野信一、河上徹太郎で、この酒場では矢田津世子や中原中也と知り合います。またこの中原中也と店の女給を争うことになります。この女給が坂本睦子です。坂本睦子はこのあとも河上徹太郎、大岡昇平などと浮名を流します。新潮の今月9月号に久世光彦が「女神」として坂本睦子の一生を書いています。

蒲田の酒場「ボヘミアン」のマダム安さんのことだとおもわれます。坂口安吾はこの女性の良人の追跡をのがれるため、たびたび住むところを変えます。

矢田津世子が言った。「四年前に、私が尾瀬沼へお誘いしたとき、なぜ行こうと仰有らなかったの。あの日から、私のからだは差上げていたのだわ。でも、今は、もうダメです」……そして、私は接吻した。矢田津世子の目は鉛の死んだ目であった。顔も、鉛の、死んだ顔であった。閉じられた口も、鉛の死んだ唇であった。……「じゃア、さよなら」矢田津世子は、かすかに笑顔をつくった。そして、「おやすみ」と軽く頭を下げた。それが私たちの最後の日であった。そして、再び、私たちは会わなかった。」このあと矢田津世子は昭和19年3月、病死します。

「意を決して、矢田津世子に絶縁の手紙を書き終えたとき、午前二時ごろであったと思う。ねむろうとしてフトンをかぶって、さすがに涙が溢れてきた。……翌日、それを速達でだした。街には雪がつもっていた。その日、昭和十一年二月二十六日。血なまぐさい二・二六事件の気配が、そのときはまだ、街には目立たず、街は静かな雪道だけであったような記憶がする。一しょに竹村書房へも手紙をだした。数日後、竹村書房へ行ってみると、その手紙が戒厳令司令部のケンエツを受けて、開封されているのだ。してみれば矢田さんへ当てた最後の手紙も開封されたに相違ない。むごたらしさに、しばらくは、やるせなかった。矢田さんからの返事はなかった。」とあります。矢田津世子と本郷菊富士ホテルであった翌日が2.26事件当日ですね、ひたひたと戦争の足音が忍び寄ってきています。

競輪愛好家 裏目に泣く

2016年04月12日 04時21分16秒 | 創作欄
宮坂寅之助を語る時、競輪仲間は彼の「悔しさ」を思い浮かべて、「裏目に泣く」男の皮肉な人生を自らにも重ねた。
「このレースこそ1-3で固い」と強気な宮坂が叫ぶように言う。
口が達者な宮坂はその根拠を述べる。
声も大きいので、説得力があるように思われるのだ。
「でも、もしもがあるよ。裏を返したら?」と荻野一郎がアドバイスをする。
「いや、裏はいらない。素人はそれだから儲けられない。固いレースはどこまでも固く収まるんだ。見ていろ!」
意を決して、宮坂は500万円を1-3の車券に投じた。
茨城県取手の田圃を切り売りして得た500万円であった。
昭和40年の後楽園競輪場は競輪ファンの熱気に包まれ、溢れかえっていた。
だが、本命の1番選手は勝負処の4コーナーで7番選手に外に張られて失速。
巻き返したものの2着をやっと確保し、1-3が3-1となってしまった。
1-3は380円、3-1は4320円の配当となる。
大本命の1番選手が2着になることは宮坂寅之助はじめ多くのファンの誰もが想定していなかったのだ。
彼は呆然としたまま座り込んで暫く立てずにいた。

なぜトーマス・マンは日記を焼却したのか?

2016年04月12日 02時48分44秒 | 医科・歯科・介護
トーマス・マン日記
1918-1921

マンは生前、幾たびか自らの「古い日記」を焼却炉で焼いている。
残されたのは1933-1955年までの日記と、1918年から1921年までの日記のみ。
奇跡的に「後世のために救われた」、第一次世界大戦期の貴重な4年の記録。

沼田利根は中学2年に担任教師に勧められ、日記を始めた。
その日記は、社会人になった4年間まで綴られた。
母親に日記を読まれた苦い経験から、日記を中断した。
それ以降は、「断片」として日々の想いなど綴る。
俳句、短歌、詩、創作などもノートに残していた。
それらの全てをゴミとして家族によって処分されてしまった。
特に惜しく思ったのは映画評論。
読書ノート類でもあった。
段ボール7個ほどであっただろうか。
さらに、友人、20代・独身の頃の恋人などからの手紙類も失われた。

思うに、なぜトーマス・マンは日記を焼却したのか?