宇宙の無限性に思いをはせるとき

2016年08月23日 11時12分48秒 | 社会・文化・政治・経済
★現代人は、あまりにも自己中心的になってしまった。
他の世界と離れて自分たちで存在できると信じ込んでしまった。
★「宇宙的なもの」と切り離され、“閉ざされた人生”になっている。
★人間の歴史は、宇宙との関係を離れて論じることはできない。
★「宇宙の探究」は「平和の探究」「人間の探究」と重なる。
★「人間は、宇宙と深い結び付きがある。
古来、人間は自然に恐れ恐れを抱き、また崇拝してきた。
★宇宙への探究は、人類の心を大空のごとく広げる。
また人類に一体感をもたらしてきた。
★宇宙を離れて人間はない。
★宇宙の無限性に思いをはせるとき、人間は「自己中心性」や「独善」などのエゴイズムを克服できるはず。

人生の勝負は途中で決まらない

2016年08月23日 10時37分10秒 | 社会・文化・政治・経済
★練習は裏切らない。
「こんなにやったんだからという自信が試合の成果につながった」
★メダルの価値は、頂点を目指そうとした勇気、自分に負けなかった鍛練の日々の中に詰まっている。
★人生の勝負は途中で決まらない。
栄光は、粘り抜いた逆転劇によって勝ち取るものだ。
★日々、積極的に人と関わる。
★生き生きと対話を広げる。
★生命尊厳の心
生命を育む力。
生命を尊ぶ心。
★歴史を変える民衆運動の根幹には女性の力があった。
人をいかに「励ます」ことができるか。
★確固たる人生の根本思想と哲学もつ。
人間教育の力が問われる。
★諦めやすく、弱い自分を変えることだ。













生前葬をやりたい ?!

2016年08月23日 05時07分54秒 | 創作欄
2012年3 月 7日 (水曜日)

60歳になった父が突然、生前葬をやりたいと言い出した。
生前葬になど出席するほど、多くの人は暇ではない。
だから、死んだことにするのだ。
当然、棺桶の中は空である。
以下は実際にあった話をベースに創作してみた。
歯科界、歯科業界も含めてバブルの時代、誰もが狂奔していた。
歯科器材を売っていたある歯科商社も建設・建築業、不動産業にも進出した。
だが、突然バブルが弾けたのだ。
振り出した手形が暴力団に流れた。
どのように借金を穴埋めするのか?
「死んで、金を作れ!」
押しかけてきた暴力団は迫った。
相手は保険金を目当てにしたのだが、経営者はその保険金を既に解約していた。
それほど金に窮していたのだ。
「では、葬儀をやれ!」
「葬儀?!」
経営者は相手の意図が理解できずに目を丸くした。
結局、青山斎場で盛大な葬儀が営まれた。
暴力団が、全ての段取りを整えた。
当然、棺桶の中は空であったが、その経営者の行方は未だ分からない。
これは、ある経営者の従弟の歯科技工士から聞いた話である・・・
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<参考>
○ 生前葬
生があるうちに縁のある人やお世話になった人を招いてお別れと礼を述べるために行う人が多い。
また、本来出席できないはずの自分の葬儀に喪主として参加することができるため、思い通りのやり方で行うことができる。
そのため多くは、無宗教であったり、音楽やスライドなどを多用した明るい葬儀であったり、一般の葬儀とは異なるイベント的な葬儀となる。
形式はカラオケ大会から立食パーティー、また、自費出版の自分史を配るなど、様々。
しかし、本人が本当に亡くなった後も、遺族により再び葬儀が行われることもままある。
日本では交際範囲の広い知識人が、自らの社会的活動の終止を告知する機会として開催することが多い。
生前葬を行った主な有名人
児玉誉士夫
右翼運動家。1960年に生前葬を行った。1984年死去。
水の江瀧子
女優。1993年に生前葬を行い、以降芸能界を引退しメディアに露出せず隠居生活を送っていた。2009年死去。
養老孟司
解剖学者。2004年11月に山口県防府市の多々良学園講堂ホールで行った。

創作欄 美登里の青春 続編 9

2016年08月23日 05時05分41秒 | 創作欄
2012年3 月 2日 (金曜日)

その宗教の話は、美登里の心に綿が水を吸うように浸み込んできた。
多くの参加者が、何の飾りもなく自分の過去を語っていた。
そして、信心をしたことで、「宿命を転換できた」と言っていた。
美登里を会合に誘った敏子も赤裸々に過去を語った。
敏子は教育大学を出て、小学校の教師となったばかりの年の夏休みの臨海学校で、生徒の水死事故に遭遇した。
亡くなった1年生の男子生徒の担任の女性教師は42歳、泳げなかったので深みはまった生徒を目撃したのに、自ら助けに行けなかったのだ。
生徒を引率してきた教師たちは、それぞれのクラスの生徒を監視していた。
敏子は1年目の新米教師であるのに、5年生のクラスを担当していた。
行くへ不明となった生徒の担任の女性教師は、取り乱して初めに敏子に助けを求めに飛んで来た。
ところが、敏子も泳げなかったのだ。
結局、50㍍くらい離れたところに居た男性の教師に助けを求めた。
さらに緊急の事態を知って、6人の男性教師たちが海へ向かった。
海で遊んでいた生徒たち全員が岸に集められた。
緊急事態に20代と思われる海の監視員も2人駆けつけてきた。
だが、行方不明となった生徒は、みんなが必死に探したにも関わらず何時までも見つけられなかった。
そして、虚しくも海に沈んでいたことが約1時間後に発見され、蘇生術を施されたが息を吹き返すことはなかった。
救急車で房総の市民病院に運ばれ生徒の死が確認された。
責任を感じた担任の女性教師は2日後、自宅の部屋で首を吊って自殺をした。
「若い自分が泳げなかった。教師失格ね」
生徒の水死で敏子自身も非常に責任を感じていた。
その年の秋に、敏子は同じ大学出身の先輩である男性教師に導かれて信心を始めたのだった。
「私はこの信心で、宿命を転換することができまいた」
敏子の体験を聞いたみんなが「良かった」と肯いていた。
明るく快活に見えた敏子には、悲惨な過去の体験があったことに美登里は心が動かされた。
「私にも宿命は必ずあるはず、それを断ち切ることができるのなら、信心をするほかないかもしれない。私も敏子さんのような凛とした女性になりたい」
その日、美登里の心は大きく傾き信心をする決意をした。
「美登里さん、私たちと一緒に幸福になりましょね」
会合に参加した全員から祝福された。
「良かったね」
「本当の幸せをつかもうね」
「宿命を転換できるからね」
誰彼無しに声をかけられて、美登里は肯きながら感極まって泣いた。
2012年3 月 2日 (金曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 10
美登里が徹に初めて会ったのは、19歳になって1か月が過ぎた夏の日であった。
美登里は九段会館の屋上のビア―ガーデンで、夏だけアルバイをしていた。
昼間は叔父の美術専門の古本店で働いていたが、少しの小遣いになればとアルバイトを始めた。
神保町の昼時、餃子屋で美登里は偶然にも高校の同級生の澤村美穂と出会った。
美穂は九段の女子大学へ進学していた。
アルバイトは美穂に誘われたのだ。
美穂と一緒にアルバイトをしていた大学の同期生が盲腸となり、緊急入院をした。
店長が美穂に、「困ったな!店はこれからますます忙しくなる。誰か代わりはいないかね。探してほしい」と頼んだのだった。
人生の途上、出会いは奇なものだ。
美登里が美穂に誘われてアルバイをしていなければ、区役所に勤めている徹と出会うことはなかっただろう。
徹は区役所の同僚たちと九段会館の屋上のビア―ガーデンにやってきた。
彼らにとって九段会館の屋上は、例年の夏の夜の楽しみの場であった。
その日は九段会館の屋上に、とても強い風が吹き抜けていた。
テーブルに置いた箸が吹き飛ばされた。
「何度も悪いね。箸また吹き飛んじゃった」
美登里に笑顔で声をかけたのが徹だった。
爽やかに微笑むその人は誰かに似ていた。
長身で少し猫背である。
東北訛りがあった。
髪はきちんと整えられていたが、どこか崩れた感じもした。
「君の笑顔は、素敵だね。接客業に合っているね」
その声は明るく、そのトーンは耳をくすぐるような感じでソフトであった。
実はその時、徹は14歳で自殺してしまった自分の妹の面影を、目の前の女性に重ねて見ていた。
美登里が想えば徹の顔立ちは大好きな父に似ていたのだ。
「もしかして、この人と親しくなるかもしれない」
美登里はそんな予感がした。
つまり、運命的な出会いを感じたのだった。
このような思いこみは恋の始まりである。
2012年3 月 3日 (土曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 10
昭和50年代はまだ、演歌がテレビで幅を利かせていた。
また、オーディション番組『スター誕生!』やほかの歌謡番組から新しいスターも誕生していた。
当時デビューした山口百恵・森昌子・桜田淳子が「花の中三トリオ」と呼ばれていた。
美登里も同年代であった。
美登里は、1980年月10月5日、日本武道館で開かれた山口百恵のファイナルコンサートに行った。
山口百恵は21歳であり、22歳の誕生日の約3か月前の引退であった。
ファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残した。
そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となった。
歌唱終了後、ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩みながら去っていった。
中学生の頃からスターの百恵に憧れ、自分自身の想いを投影していた美登里は、19歳から続いていた妻子ある徹との別れを決意した。
「今が分かれる潮時ね、このままでは、ずるずると不安定で先の見えない関係を続けてしまう。まだ、私は若いにだからやり直せるはず」
言葉では言えそうにないので、想いを手紙にしたためた。
<美登里の手紙>
徹さんへ 
冷静になってこの手紙を書きたのだけれど、涙が溢れてきてペンは止まります。
涙でにじんだ文字を見ては、便箋を破ることの繰り返しなの。
直接、別れの言葉を伝えた方がいいのかしら、と思ったのだけれど、それができない。
先日のように言葉の行き違いで、私は傷つきたくないし。徹さんの暗い顔を見たくない。
「しばらく時間をほしい」と徹さんは、あの日、新宿・大久保のホテルを出た時、言ったのだけれど、私たちの3年の歳月にあとどれだけの時間が必要なの?
徹さんが、「二人は波長が合ってしまうんだ」と言っていたことを、私は否定はしません。
「このままで、いいじゃないか」と徹さんは言ったのだけれど、私は何時までも“影のままで居たくはない”
実はこの間、古本屋で立原道造の本だと思って買った本が、立原正秋の本だったの。
題名が「雪のなか」という本で、「わかれ」の章を読んだら私たちの将来の二人の関係を想わせる内容なの。
徹さんは、何時か私に飽きるかもしれない。
そして、徹さんの方から別れ話を切り出すかもしれない。
その時の私は惨めになってしまう。
徹さんには、一度も言ったことがないのだけれど、私は信仰をしているの。
その教えの中に、「自分の幸福を他人の犠牲の上に築いてはいけない」とあるの。
そのことを真剣に考えてほしい。
そして徹さんに私の立場を分かってほしいと思っています。
一番いけないのは、ずるずると関係を続けることなの、徹さんもそう思いませんか?
私は、分かれることを決意したの。
私の気持ちを解ってほしい。
これ以上、書けません。
また、涙が溢れてきたの。
美登里より




創作欄 美登里の青春 続編 5

2016年08月23日 05時02分14秒 | 医科・歯科・介護
2012年2 月27日 (月曜日)

人生の途上、何が起こるか分からない。
叔母が東京大学病院に入院した。
本人には「胃潰瘍だ」と告げていたが、スキル性胃がんであった。
胃がんの中で、特別な進み方をする悪性度の高いがんであり、余命は半年~1年と診断されていた。
叔父は美登里に涙を浮かべてそれを告げた。
医師の診断書を手にした叔父の手が小刻みに震えていた。
美登里はその診断書を叔父から手渡されたので読んだ。
美登里も思わず涙を浮かべた。
冬の陽射しは、長い影を落としていた。
徹と訪れたことがある三四郎池の木立が叔母が入院している病棟から見えた。
小太りの叔母は45歳であったが、年より若く見えた。
叔母は24歳の時に子宮筋腫となり、子どもを産めない身となっていた。
叔母は負い目から夫に、「愛人を作ってもいい」と言っていた。
叔母は薄々感じていたが、叔父には愛人が実際に居たのである。
だが、その愛人に若い男との関係ができて、現在は叔父は寂しい身となっていた。
「美登里ちゃん、あの人は何もできない人なのよ。お願い、私が退院するまで、叔父さんの面倒をみてほしいのだけれど、どうかしら」
叔母は美登里の手を握り締めた。
手には福与かな温もりがあった。
美登里は叔母に懇願されて、東京・文京区駒込の叔父の家へ行った。
八百屋お七の墓がある円乗寺の裏に叔父の家があった。
その夜、美登里は風呂に入った。
脱衣場は風呂場にはないので、廊下で着替えてた。
美登里は襖の間に人の気配を感じた。
叔父が美登里の襖の僅かな間から、美登里の裸体を覗き見ていたのだ。
美登里は多少は不愉快であったが、馬鹿な叔父の行為に一歩引いて冷笑を浮かべた。
大好きな父親によく似ていた叔父に、好感を抱いていたので気持ちは許せたのだ。
そして、美登里はその夜、夕食の時に叔父から聞かされた八百屋お七のことを思った。
お七は天和2年(1683年)の天和の大火で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎)と恋仲となった。
翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。
愛する男に会いたいために、放火をする16歳の女の子の浅知恵である。
だが、その激しい情念に美登里は気持ちが突き動かされた。
2012年2 月28日 (火曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 6
叔父の家は昭和10年代に建てられた古い木造屋で、東京大空襲でも運が良く焼失をまぬがれた。
叔父は働いていた古本の美術専店の主人に子ども居なかったことから、養子に迎え入れられた。
義母は52歳の時に突然、クモ膜下出血で亡くなってしまった。
主人の19歳の姪が山梨県甲府から家事手伝いにやってきた。
叔父は29歳の時に、21歳となった主人の姪と結婚した。
70歳で亡くなった義父は東京都文京区本駒込の吉祥寺に眠っている。
寺の境内には江戸時代の農政家・二宮尊徳の墓碑があった。
また、山門には漢学研究の中心であった「旃檀林」の額が掲げられている。
「旃檀林」は駒澤大学の前身のひとつで、仏教の研究と漢学の振興とそれらの人材供給を目的とした学寮だった。
毎月の9日は義父の月命日であり、叔父は墓前に花を添えていた。
だから、その春の9日は美登里にとっても忘れられない日となった。
叔父の家に家事手伝いに来てから3日目の夜中である。
体に異変を感じて目覚めたら、叔父が美登里の布団に入り込んでいたのだ。
驚愕して身を跳ねのけたが、叔父に抑え込まれた。
荒い叔父の息遣いが酒臭かった。
「叔父さん、何するの!」と美登里は叫んだ。
「美登里、男、知っているんだろう?」
叔父は唇を寄せてきた。
美登里はその唇を避けながら、「嫌、ダメ」と叫んだ。
叔父の体から突然、力が抜けた。
「お前は、処女か?!」
美登里は肯いて、声を上げて泣きだした。
「悪かった。許してくれ、俺は魔が差したんだ」
叔父は乱れた浴衣を整えると、畳の上へ両手を突き土下座をした。
叔父は何度も畳に額を擦り付けて謝罪した。
美登里は泣きながら、両手で顔を覆っていた。
豆電球の灯りさえ、美登里には明るく映じた。
美登里は人と争った経験がほとんどない。
温厚な父は子どもころ美登里に言っていた。
「美登里も怒ることはあるよね。でも、ゆっくり10数えてごらん。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、それでも怒りが収まらなければ、怒っていい。でもね、怒ると損をするよ」
美登里は眠れないまま、ゆっくり10数を数えた。
そして美登里は、叔父の行為を許すことにした。
「夢の中の出来事」のように想えばいいと自身に言い聞かせた。
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<参考>
作家・島崎藤村は、姪のこま子との近親相姦に苦しんだ。
文学史上最大の告白小説とされる「新生」。
こま子は19歳の春、産後の病で妻を失った藤村宅に移り住んで3人の子育てや家事を手伝うことになった。
だが、藤村とただならぬ関係となり妊娠。
藤村は悩み抜いた 末、翌年には逃げるように渡仏した。


2012年2 月29日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 7
6月9日は、美登里の誕生日であリ20歳となった。
「私も大人になったのね」 美登里は19歳の1年を振り返った。
不本意にも“愛してしまった”妻子ある徹との出会い。
叔母の死、母親との再会。
そして、何よりも大きな変化は信仰に導かれたことだった。
叔母の死がなければ、信仰はしなかっただろう。
元気な叔母が、46歳の誕生日を迎える10日前に逝った。
スキル性の胃癌で余命6か月から1年と医師から言われていたのに、5か月で逝ってしまった。
3か月で一旦は東京大学付属病院を退院した。
叔母は元気な大きな声で話す人であったが、信じられないほどか細い声になっていた。
そして小太りであったが、10㌔も痩せて頬骨が出て年より老けて見えた。
白髪も増えていた。
その叔母がある日、「富士山が見たい」と言った。
山梨県甲府で生まれ19歳までその地で育った叔母は、山梨県側から見た富士山を仰いできた。
「静岡側から富士山を見てみたい」
叔母が懇願するように言うので、叔父が西伊豆へ1日、自動車に乗せて連れて行った。
車椅子に乗った叔母が見た静岡側の富士山は、叔母を甚く感嘆させた。
「富士山は、何処から見ても素敵ね」
叔母は微笑みながら溢れる涙を流した。
車の窓越しに見る伊豆の山桜が満開であった。
万感想うこともあったのだろう桜を見て叔母は涙を流した。
叔母が再び入院したのは死の7日前であった。
すでに叔母の意識はなくなっていた。
意識がなる前日、美登里が病室に入ると、起き上がろうした。
何度も叔母は試みたが、「もう、ダメなのね」と言って、布団に両手を投げ出すようにした。
美登里はその細った手を握りしめた。
肉太であった叔母の手は、皺が目立ち太い血管が浮き出ていた。
「美登里が泊ってくれると元気だ出るわ」
叔母が言うので、美登里はベットの脇の簡易ベットで付添い寝を何度かした。
だが、意識が亡くなった叔母は、眠り続けるばかりで、付添婦が何度も痰の吸引をしていた。
酸素マスクも付けていた。
叔母の死の3日前、その付添婦が、「臭いな。寝られない」とイライラしたように言った。
そして、面倒臭そうに叔母の下の世話をした。
付添婦は叔母と同年代に見えた。
そして叔母の日の前日、付添婦は叔母の酸素を勝手に止めた。
病室に入ってきた看護婦(当時)がそれを見咎めた。
「あはた!何をするの!」看護婦は付添婦を睨み据えた。
そして、美登里を廊下に呼び出して、「あの人を辞めさせなさい。私の立場からは言えないの」
怒りが収まらない様子であった。
「怒る時には、10数をゆっくり数えるんだ。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10とね。それでも怒りたければ怒る。でも怒ると損をするよ」 そのように父に諭されていた。
美登里は想った。
人間は、死期が迫っても、誰かと必ず出会う。
「出会いも、まさに宿命。良い人にも出会う。悪い人にも出会う。それも定めではないのか?」

2012年2 月29日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 8
叔母の葬儀は、東京・文京区本駒込の吉祥寺で執り行われた。
叔母の父母と兄弟、姉妹たち6人が、山梨県からやってきた。
叔母は6番目に生まれた娘であった。
「こんなに、若くして亡くなるなんて・・・」と死に顔を見てみんなが泣いていた。
美登里は、父と1年ぶり会ったが、父の背後に居る人を見て目を見張った。
息が詰まり、声も出なかった。
52歳となった母親が美登里の前に姿を見せたのだ。
美登里が10歳の時に母親に若い男ができて、悶着の末に家を出て行ってしまった母親とは9年ぶりの再会であったが、とても複雑な想いがした。
父親は行く場所がなくなり困り果た末に、仕方なく自分の許へ戻ってきた妻を許し受け入れたのだ。
狭い田舎の土地であり、母親のことは暫く噂も立っていた。
気まずい思いをしたはずの母親が厚顔にも、父の許に戻って来るとは、どう考えても美登里には理解できないことであった。
美登里は知らなかったが、母親は温泉芸者であった。
美登里の父の幸吉は、勤めている農協の旅行で美登里の母の五月と出会った。
どのような経緯があったのか、五月は幸吉の押しかけ女房となった。
実は五月には連れ子の男の子がいたが、2歳の時に近所の川に落ちて死んでしまった。
村人たちは、幼子から目を離した母親の軽率さに非難の目を向けていた。
だが、勝気な五月は、相手を見返すように振舞っていた。
「まったく厚顔無恥、何処の馬の骨か分からん女だ」
村人たちは烙印を押すように五月を蔑んだ。
父の幸吉は5人兄弟、姉妹の家族の二男で、実家の農家を長男が受け継いだ。
幸吉の母は48歳の時に結核で亡くなっている。
そして、幸吉の父親は52歳で脳出血で逝った。
和服の喪服を着ている美登里の母親は、52歳になったが、葬儀の中でも浮いたような存在に映じた。
豊かにアップに結った髪型で厚化粧であり、どこから見ても平凡な家庭の主婦のようには想われない。
何処か水商売の女のような雰囲気を漂わせているのだ。
「美登里、その髪型素敵だよ!綺麗な女になったね。私似じゃないね。やっぱり性格もそうだけど、お前さんは、お父さん似だね」
葬儀が終わると母親の五月が美登里の前にやってきて、美登里の手を取った。
母親には、娘を棄てて家を突然出て行った時の謝罪の言葉は最後までなかった。

創作欄 美登里の青春 7

2016年08月23日 03時16分28秒 | 創作欄
2012年2 月21日 (火曜日)
創作欄 美登里の青春 7
松戸の裁判所での初公判の光景は、美登里にとって衝撃的であった。
傍聴人は男性が2人、女性は美登里を含めて3人、地元の千葉の新聞社など報道関係者が2人であった。
表面の扉が開き裁判長らが入廷して、全員が起立した。
そして、右側の扉が開き、手錠、腰縄の姿で刑務官に先導されて峰子がうな垂れて入廷してきた。
席に着く前に、峰子の手錠、腰縄が外された。
峰子はうつむいたままで、一度も傍聴席に目を向けることはなかった。
美登里は濃紺の地味なスーツ姿であり、化粧もしていなかった。
初めに検事が詳細に罪状を述べた。
それから国選弁護人が医師の診断書に基づき峰子の弁護をした。
峰子は犯行半年前から地元松戸市内病院の精神科に通院していた。
さらに、東京・四谷に住んでいた時には、信濃町の大学病院の精神科にも通院していた。
弁護士は、犯行時に峰子が心神喪失状態であったと主張した。
裁判官3人が顔を見合せながら言葉を交わしていた。
そして、裁判官が、「次回公判は3月24日、火曜日、午前11時、それでいいですか」と弁護人に尋ねた。
弁護人は、手帳を確認してから、「結構です」と答えた。
裁判所を出て、美登里は前回と同様に本とチョコ―レートとバナナを差し入れるために、拘置所の所定の店へ行った。
その店で美登里は、暴力団員の三郎に再会した。
「親分の裁判が、午後1時にあるんだ」と三郎が言う。
美登里は罪状が何だろうと思った。
拘置所へ行くと三郎が「ねいさん」と呼ぶも米谷明美が居た。
「2週続けて、拘置所に来るなんて、あんた、偉いね」と明美は微笑んだ。
明美はこの日は和服姿ではなく、豊か胸が大きく開いた花柄模様のワンピース姿であり、妖艶な感じがした。
明美は39歳であり、19歳の息子が居る母親の姿とは思われない。
明美は和服姿の時は髪をアップにしていたが、この日は長く髪は下ろしていたので、若く見える。
美登里は、後楽園スタジアムでのボクシングの試合の観戦に誘われ、チケットまでもらったのに、その試合に行かなかったことを明美に謝罪した。
「いいよ。気にしなくとも。息子は判定で試合に負けた。あの子は性格が優しいから、ボクシングに向いてないかもしれない。攻めきれなかった」
美登里は、どのように言うべき分からずうなずいた。
美登里はその日、休むわけにいかず、午後から病院の勤務に向かい、その日は午後8時まで残業をした。
2012年2 月22日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 1
「人はなぜ、狂うのか?」
美登里は考えを巡らせたが、答えが見つかる分けではなかった。
「心も風邪をひく」そのように想ってみた。
中学生のころ、夜中にうなされて目を覚ましたら、父が枕もとに座っていたのだ。
頭に手をやると冷蔵庫で冷やした手拭いが額に乗っている。
「39度もあった熱が、37度に下がったよ」と父親が微笑んだ。
「何も覚えていない」
心がとても優しい父親は寝ずにずっと枕もとに座って、1人娘である美登里を看病していたのだ。
嬉しさが広がり、美登里は深い眠りについた。
母親は美登里が小学生の頃、美登里の担任の教師と深い関係となり、噂が広がったことから狭い土地に居られず家を出た。
妻子が居た教師は学校を辞め、千葉の勝浦の実家へ帰った。
母親は2年後、家に戻ってきたが再び姿を消すように居なくなる。
美登里は子ども心に、母親が何か精神を病んでいるようにも見えた。
母親は化粧も濃く相変わらず派手な姿であったが、深く憎んでいたその姿が美登里にはとても哀れに想われたのだ。
美登里は性格が父親似で穏やかであり、ほとんど人と喧嘩をした記憶がない。
高校卒業後の進路をどうするか?
地元で働くか都会へ出るか迷っていたが、会社勤めに何か抵抗があった。
組織に馴染めないと思われたのであるが、結局、美登里は高校を卒業すると、東京へ出ることにした。
父親の弟が、東京の神保町で美術専門の古本屋を営んでいたので、美術に興味があった美登里は叔父の勧めるままに、その店で働くことにした。
19歳の時、美登里は区役所で働いていた徹と出会ったのである。
九段会館の屋上のビアホールで夏だけアルバイトをしていた。
徹は客として区役所の同僚ち3人とビールを飲みに来ていた。
ある夜、美登里は帰りの電車の中で偶然、徹と隣合わせに座っていたのだ。
美登里の視線を感じた徹が、本から目を美登里に転じた。
「ああ、偶然だね。君は九段会館で働いていたよね?」
「ハイ」
美登里は相手の爽やかな笑顔に戸惑い、恥じらいで頬を赤らめた。
それまで男性と交際した経験がなかったのだ。
「ここで、偶然会ったのも何かの縁。今度の日曜日、上野の二科展へ行かない? 僕の友だちが作品を出展しているのだ」
「二科展ですか?」
想わぬ誘いであった。
「行こうよ。今度の日曜日午後1時、東京都美術館の入り口で待ち合わせよう。待っているからね」
下北沢駅で電車が停車したので徹は立ちあがった。
人波に押し流されるように徹は降りて行く。
2012年2 月22日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 2
宗教とは、何であるのか?
美登里は、ある日突然、同じアパートに住むその人の訪問を受けた。
何時もその人は爽やかな親しみを込めた笑顔で、元気な張りのある明るい声で挨拶をしていた。
美登里はどのような人なのか、と気にもしていた。
「私は、佐々木敏子です。よろしお願いします」と丁寧に頭を下げるので、美登里も挨拶を返した。
その人とは、毎日のように顔を合わせていたが、訪問を受けるとは思っていなかったので、戸惑いを隠せなかった。
「お部屋にあがらせていただいて、いいかしら?」
その申し出に、嫌とも言えない雰囲気であった。
部屋は幸い片付いていた。
「部屋を綺麗にしているのね」相手は部屋を見回して、笑顔を見せた。
美登里はお茶でも出そうかと台所へ向かおうとしたが、その気配を感じて相手は、「突然で、迷惑でしょ。構わないでください」と制するように言う。
美登里は1枚しかない座布団を出した。
相手はその座布団に座りながら、「お仕事は、どうですか?」と聞く。
「まあまあです」としか答えようがなかった。
「あなたは、幸せですか?」真顔で聞かれたので戸惑いを覚えた。
沈黙するしかない。
美登里は、自分が幸せかどうかを真剣に考えてたことがなかった。
「幸せとは、何だろう?」沈黙しながら、美登里は頭を巡らせた。
気押されるような沈黙の時間が流れた。
相手は美登里をじっと見つめていたのだ。
「私たちと一緒に、美登里さん幸せになりませんか?」
佐々木敏子は結論を言えば、宗教の勧誘のために訪問してきたのだ。
「明日の日曜日、どうでしょうか? 時間があればお誘いします。私たちの集まりに出ませんか?」
美登里は、徹から「二科展へ行かないか」と誘われていた。
「明日は、用事があります」と断った。
「残念ね。それではまた、お誘いするわ。是非、集まりに来てくださいね」
その時の敏子はあっさりした性格のように想われた。
そして、小冊子を2冊置いて行く。
小冊子を開くと聖書の言葉が随所に記されていた。
2012年2 月23日 (木曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 3
人の才能は、千差万別である。
運動能力であったり、学問の分野であったり、芸術の分野であったり。
美登里は、自分にはどのような能力があるのだろうかと想ってみた。
父親は地元の農業高校を出て農協の職員となった。
母親は? 美登里は母についてどういう経歴なのかほとんど知らない。
イメージとしては、厚化粧で派手な服装で、地元でも浮き上がっているような異質な雰囲気をもった女性であった。
だが、声は優しい響きで甘い感じがした。
体はやせ形の父とは対照的に豊満である。
歌が上手であり、よく歌ってくれた子守唄は今でも美登里の記憶に残っていた。
美登里は美術に興味があったが、絵が描けるわけではなかった。
美登里が勤める美術専門の古本店には、美術愛好家や美術専門家などが来店していたが、特別な出会いがあったわけではない。
美登里は午後1時に東京都美術館の前で待ち合わせをしたので、15分前に着いた。
すでに多くの人たちが来ていた。
二科会はその趣旨によると「新しい価値の創造」に向かって不断の発展を期す会である。
つまり、常に新傾向の作家を吸収し、多くの誇るべき芸術家を輩出してきたのだ。
絵画部、彫刻部、デザイン部、写真部からなる。
概要によると、「春には造形上の実験的創造にいどんで春期展を行い、秋には熟成度の高い制作発表の場とする二科展を開催しようとするものであります」とある。
美登里が、徹と行ったのは秋期展だった。
徹は美登里より、5分後にやってきた。
スニーカーを履き、上下ジーンズ姿である。
「晴れてよかったね」と徹は笑顔で言う。
美登里は徹の歯並びがいいことに気づく。
夜半から降っていた秋雨は午前10時ごろ上がり、青空が広がってきてきた。
上野公園の銀杏は、鮮やかな黄色に染まっていた。
2人は初めに徹の友人の作品が展示されている彫刻展を見た。
裸体像のなかに、バレリーナ―の彫刻がった。
「これだ」と徹は立ち止まった。
その彫刻は等身大と思われた。
つま先立ちであるから、細く長い足が強調されていた。
乳房はお椀のように丸く突き出ている。
手は大きく広げられていて躍動感を感じさせた。
「いいんじない」と徹は美登里を振り返った。
美登里は頬えみ肯いた。
2012年2 月25日 (土曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 4
徹は二科展をじっくり見たわけではない。
60点ほどの彫刻展を見てから絵画展を見た。
それからデザイン展と写真展は流すような足取りで見て回った。
東京都美術館を出ると秋の日差しはまだ高かった。
「不忍池でボートに乗ろうか?」と徹が言う。
「ボートですか?」美登里はボートに乗った経験がなかった。
東叡山寛永寺弁天堂方面へ向かう。
細い参道の両側には、露天商の店が並んでいた。
「何か食べる?」と問いかけながら徹は店を覗く。
西洋人の観光客と思われる若い男女が笑いあいながら綿菓子を食べていた。
小学生の頃、美登里は夏祭りで父と綿菓子を食べたことを思い出した。
徹は美登利を振り返り、「綿菓子も懐かしい味がしそうだね」と微笑む。
夏には大きな緑の葉の間に鮮やかなピンクの花さかせる池の蓮は枯れかけていた。
ボート場には、ローボート、サイクルボート、スワンボートがあった。
「どれに乗る?」と徹は振り返った。
一番、ボートらしいローボートを美登里は選んだ。
美登里はこの日、緑色のジーパンを履いていた。
ボートが転覆することないと思ったが、まさかの時を思ってスカートでなくてよかったとボートが池を滑り出すと思った。
徹がロールを器用に漕ぐので、大きな水しぶきは飛び散らない。
ピンク色のスワンボートとすれ違った。
高校生らしい男女が横に並んで足で笑い合いながらボートを漕いでいた。
美登里は県立の女子高校だったので、男性と交際する機会がなかった。
「楽しそうだね」徹は微笑んだ。
美登里は振り返りながら肯いた。
「タバコ吸っていいかな?」
美登里は黙って肯いた。
「実は大学の卒論は、森鴎外だった。小説『雁』読んだことある?」
「ありません」
美登里は青森県人なので太宰治が好きであった。
それから同じ東北人として宮沢賢治の本も読んでいた。
高校生の時、短歌もやっていたので石川啄木にも惹かれていた。
そして、東北人として最も身近に感じたのが寺山修司だった。
美登里にとって羨ましいほどの多彩な人であった。
「僕の職業は寺山修司です」
「そんなことが言えるんだ」 美登里はかっこいい男だと惚れ込んだ。
徹は暫く、思いを巡らせているように沈黙しながらタバコを吸っていた。
「小説の雁のなかに、この不忍池が出てくる。話は遠い明治の昔のことだけどね」
徹はタバコの煙を池の岸の方へ吹き出した。
タバコの煙が輪になって池に漂った。
ボートを降りると徹は、無縁坂へ美登里を案内した。
「ここが三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の岩崎邸だった。この坂の左側に、昔は小説の中に出てくるような格子戸の古風な民家が並んでいたんだ」
徹が学生時代にはそれらの家々がまだ残されていた。
高い煉瓦造りの塀を背にして、徹は手振り身振りで説明した。
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<小説の雁の概要>
1880年(明治13年)高利貸しの妾・お玉が、医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱くも、結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行する。
女性のはかない心理描写を描いた作品である。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
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<参考>
寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日~1983年5月4日)は、日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。
「言葉の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。

信じ切る

2016年08月23日 02時43分39秒 | 医科・歯科・介護
★不可能を可能にする。
★個人の能力を超える。
★日常と非日常が交錯する。
★一発、逆転。
★何かに賭ける。
★何かに徹する。
★自然の脅威に遭遇する。
★想わぬ事故に遭う。
★何かに感動する。
★挫折する。
★立ち直る。
★運命を感じる。
★自然治癒力。
★復元力。
★肯定する。
★否定する。
★立ち止まる。
★前進する。
★後悔する。
★学び成長する。
★幸福・平和
★生きる喜び。
★感謝の気持ち。
★慈悲。
★信じ切る。