2012年7 月27日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 32
広島から戻った芳子は、大学で勉強することを決意した。
芳子は中学を卒業してから群馬県沼田の地元郵便局に勤めながら、定時制高校に通った。
そして19歳の時には、夜間の通学路で強姦という忌まわしい体験もした。
さらに、東京に出てきて間もなく、無実の窃盗の罪で服役もした。
人生のつまずきのなかで、気持ちはややもすると後ろ向きとなっていた。
だが、人生の師とも言うべき芳野教授と邂逅した。
「捨てる神あれば、拾う神あり」
世の中はうまく出来ていて、見捨てる人がいれば助けてくれる人もいる。
「悪いことばかりではないよ」という意味だ。
「時々、原爆で失った娘のことを思うことがあります。どうにもならないことですが、芳子さんを見ていると、娘のことを思うのです」
秋空が暮れかかっていた。
銀杏の葉はすっかり黄ばみ、風が強く吹くと夕陽に照らされていた黄金色の葉は激しく舞いながら地面に落下していた。
芳野教授はパイプの煙を吹かしながら、窓の外に目を向けていた。
「芳子さん、大学へ進学しなさい」
「私がですか?」
芳野教授の進言に芳子は戸惑った。
「うちの大学でもいいし、他の大学でもいいですよ。私が支援しましょう」
芳子はその申し出に深く感動し決意をした。
では、大学で何を学ぶかである。
芳子は神田川沿いの銭湯の湯に浸かりながら、何を大学で学ぶべきについて思いを巡らせた。
2012年7 月26日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 31
昭和20年の4月、芳野教授は、妻子を実家の広島に疎開させた。
昭和20年3月10日未明に都民が経験した「東京大空襲」は実に悲惨で、10万人以上の都民が1夜にして命を失った。
犠牲者は生きたまま火あぶりに会い、あえぎ苦しみ亡くなっていった。
この想像を絶する地獄絵が世界の人々にどのように正確に伝えているのだろうか?
これは広島、長崎の惨事と並び、人類史上最大の虐殺だったと表現してもおおげさではない。
猛火の中で逃げ場を失いあえぎ苦しみ死んだ人々の悔しさしと怒りは、どのようなものであったのだろうか?
アメリカ軍はB29と呼ばれた爆撃機により、 無差別焼夷弾の空爆を行った。
東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年( 昭和20年)3月10日の「東京大空襲」はその規模によって想像を絶していた。
この結果、芳野は妻子を東京から広島へ疎開させることにした。
当時、なぜか広島は一度も空爆を受けていなかった。
このため広島は安全地帯だという風評もあった。
では、なぜ、広島に原爆が投下されたのか?
1942(昭和17)年8月、「マンハッタン計画」と名付けられたアメリカを中心とする極秘の原爆製造計画が始まった。
軍と科学者と産業界を総動員して進められた巨大軍事開発事業であった。
1944年9月にはこの新兵器を日本に対して使用することを決めた。
1945(昭和20)年春から、アメリカは投下目標都市の検討を始めた。
投下目標は、原爆の効果を正確に測定できるよう、直径3マイル(約4.8km)以上の市街地を持つ都市の中から選び、空襲を禁止した。
そして、数10万以上の人口が住む大規模都市であることも条件とした。
7月25日には目標都市の広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに対する投下命令を下した。
広島を第1目標とする命令を出したのは、8月2日だった。
それは目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思っていたためだ。
都市の大きさや山に囲まれた地形が、原爆の破壊力を探るのに適していた。
広島はまだ空襲を1度も受けておらず、原爆の威力を確認しやすかった。
また、広島には軍隊、軍事施設、軍需工場が集中しており、それらがまだ破壊されずに残っていた。
8月6日、広島の天気は晴れいたので広島の運命は決まった。
芳野はこれらの事実を知ってから、怒りに身が震えた。
「芳子さんは、広島へ一度行ってきなさい」と芳野は芳子の背中を押した。
「戦後18年、戦争は風化しつつあります。あなた方の若い世代が戦争の悲惨さを知ることによって、平和の尊さは次の世代にも引き継がれると思います」
芳子は平和記念公園で芳野教授の言葉を思い起こしていた。
18年前には平和記念公園のある場所に、芳野教授の実家があったのだ。
広島の実相を触れる機会を芳野教授は芳子にもたらした。
2012年7 月25日 (水曜日)
創作欄 芳子の青春 30
広島の平和記念公園は、世界へ向かって平和の尊さを発信しているように芳子には想われた。
そして、生き証人である紀子は、原子爆弾がもたらした戦争の悲惨さと残酷さ、その理不尽さを体現していた。
原爆死没者慰霊碑の前で芳子は思わず祈った。
慰霊碑は平和記念公園の敷地内の、広島平和記念資料館と原爆ドームを結ぶ直線上に設置されていた。
原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから、コンクリート製の屋根の部分が、はにわの家型をしていた。
これは犠牲者の霊を雨露から守る趣旨だという。
中央の石室(石棺)には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者すべての氏名を記帳した名簿が納められている。
石室前面には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれていた。
この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したものだ。
平和への深い祈りと広く人類全体の誓いが、そこに刻まれていた。
過ちとは、原爆を投下した過ちであり、同時に戦争そのものの過ちである。
碑文の意味するところは、「全ての人間が再び核戦争をしない」ことを誓うためのものである。
その意味で、『過ち』は深い内容であった。
紀子は碑文を巡り論争があったことを芳子に説明した。
「芳子さんは、どのように思いますか?」
紀子に問われていたが、芳子には答えようがなかった。
芳子の父は戦死していた。
でも、誰の責任なのだろうか?
戦争は起こしてはならないものだ。
分かりきっているが、戦争、紛争は止まない。
紀子の説明によると碑文論争は責任論にまで及んのだ。
当然、原爆を投下したのはアメリカの責任である。
だが、責任を明確にしても、過ちはどうにもならないのだから、二度とあってはならない『過ち』へ「全ての人間の誓い」が碑文に凝縮されているのではないだろうか。
「私が語り部となったのは、『過ち』を訴えるためなの」 芳子は紀子の思いを深く胸におさめた。
昭和38年、戦争は人々の心のなかから徐々に風化しつつあった。
1956年(昭和31年)の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し戦後復興の終了を宣言した。
それから、7年が経過していた。
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<参考>
21世紀の時代は、20世紀の続きであり、負の遺産を引きづっているまま、どうにもならない状況下にある。
人類の最大の問題は、核兵器を開発していまったことだ。
今後、核戦争が起らない保障は、どこにもない。
1960年代のキューバ危機。
そして冷戦。
それらを回避できたのは奇跡であり、これ以上ない人類の幸運である。
では、どうすべきか?
人類が地球規模の危機を、真剣に受け止めて、これを回避するほかない。
少なくとも、人類が絶滅する日がやがて訪れるとしても、それを自然の摂理に委ねたいものだ。
今後、テロなどで核兵器を使用する「悪魔的な狂気の人間」をどうするかが、人類の命題。
2012年7 月24日 (火曜日)
創作欄 芳子の青春 29
紀子は芳子に色々説明した。
「原爆ドーム」は、原爆被災前の広島県産業奨励館である。
広島県の特産品の展示や催し物が開かれていたところであった。
原爆の爆心地は厳密に言えば、原爆ドームの直上で爆発したのではなく、この建物の東南約160m離れている現在の島外科病院の約580m上空で爆発したとされている。
島外科に密接して西側の道端にこの場所が爆心地であった旨の説明標識があった。
広島県産業奨励館は原爆の被災により、建物中央正面部分はかろうじて骨格骨組みが残されたが、 建物左右両側はほぼ完全に破壊されてしまった。
元安川に沿って南の方向に行くと近距離から原爆ドームを見ることができた。
建物は瓦礫と化してが飛び散り、無残に破壊された壁面から原爆の持つ恐ろしい破壊力を十分に推測することができた。
紀子は作家で詩人の原 民喜の詩碑に芳子を案内した。
その詩碑は広島市平和記念公園内原爆ドーム東側に立っていた。
その詩碑には「遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻」が刻まれていた。
原 民喜は1905年、広島県広島市幟町に生まれた。
1945年1月、郷里の広島に疎開、8月6日に広島市に原爆が投下され、生家で被爆、幸い便所にいたため一命はとりとめるが家は倒壊し、二晩野宿した。
それ以後被爆との因果関係は不明であるが体調が思わしくない状態が続いた
原爆投下の惨状をメモした手帳を基に描いた「夏の花」(1947年)は、1948年、第一回水上滝太郎賞を受賞している。
そして1951年、慢性的な体調不良や厭世観を苦に、国鉄中央線の吉祥寺駅 -西荻窪駅間で鉄道自殺した。
「原 民喜の体調が思わしくなくなったのは、被爆の影響だと私は思っています」紀子はきっぱりとした口調で言った。
元安橋を渡って間もなく歩くと北側に「原爆の子の像」が見えた。
三脚のドーム型の台座の上に少女の像が立っている。
この像を建てるに至ったきっかけは、佐々木禎子さんという少女の死が関わっていることを紀子は説明した。
禎子さんは昭和18年生まれであり、、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により2歳で被爆した。
同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子さんは不調を訴えることなく元気に成長した。
1954年8月の検査では異常なかった。
だが11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、1955年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。
病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べたところ、白血病であることが判明。
長くても1年の命と診断され、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。
被爆から10年もたってから、白血病で12歳の短い一生を終えたのである。
禎子さんは、鶴を千羽折ると病気が治る、と信じ闘病期間中包装紙などで鶴を折り続けたと言われている。
像の少女が捧げ持っているのは折り続けたという折り鶴を形どったものである。
禎子さんの死を知った一青年と禎子さんの同級生が、原爆で亡くなった全ての子供達のために慰霊碑を作る計画を立て全国に呼びかけ、
海外からの支援も受けて、昭和33年(1958年)にこの像が完成した。
折り鶴をかかげ持つ少女像は、平和への祈りを捧げているように芳子には映じた。
像台座の下に置かれている石碑には『これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための』と刻まれていた。
原 民喜の生家の幟町にある広島市立幟町中学校に禎子さんが在籍していた。
ここには折り鶴の碑ある。
紀子は芳子にこれらの経緯を説明した。
紀子に出会わなければ、知りえないことばかりであり、芳子は紀子に改めて感謝した。
「広島へ来て、本当に良かったです。ご親切は一生忘れません。広島で見聞きしたことを必ず伝えたいと思います」
「芳子さんのような方に会えて私も良かったです」紀子は涙を浮かべた。
被爆者の多くは偏見にさらされたなかで、被災者であることを隠して生きてきた。
原爆被災者であることから、結婚が破断した例もあった。
原爆症というものが伝染し たり遺伝したりするものだといった誤った認識が昭和20〜40年代あった。
進学・就職・結婚・市民生活上での差別行為が、2重に被爆者たちを苦悩と絶望の淵に突き落としていた。
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<参考>
1963年、東京地方裁判所が「原爆投下は当時の国際法に違反する」旨の判決を下した。
他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や放射能によってもたらされた難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含む)にあある。
生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を強いるものとなっている。
これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続くものとされると主張している。
広島大学原爆放射線医科学研究所研究グループの長期調査結果報告において、被爆二世の白血病発症率が高い、特に両親ともに被爆者の場合に白血病発症率が高いことが50年に渡る統計結果より明らかにされた。これにより、まだ一部しか解明されたとしかいえないが、医学的に少なくとも被爆二世への遺伝的影響の否定はできないことが明らかにされた
2012年7 月23日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 28
広島市は、江戸時代、中国・四国地方第一の城下町であった。
明治維新後は広島県の県庁所在地となる。
広島市は海、川、山が近く風光明媚であり、学校も整い県民の教育意識も高まっていた地方都市となる。
また、商店街も整然としており商業都市として栄えたが、大きな民家の庭には大樹も茂っていた。
そして二つの川に挟まれた美しい三角州の都市であった。
一方、陸軍の諸施設が集中していき、やがて学都・軍都二つの顔が鮮明になった。
1920年代から発展しはじめた重工業も1930年代後半には軍需工業化してきた。
被爆直前には、広島湾一帯は、呉の海軍とあわせて軍事的性格を強めていた。
被爆前の広島は、太田川(本川)の本流が、市の中心部で本川と元安川にわかれ、そこにできた三角州の先端が中島地区であった。
現在、平和記念公園ができ、住んでいる人は居ないが、被爆前、ここには中島本町、材木町、天神町、元柳町、木挽町、中島新町など町があった。
被爆当時、爆心地である中島地区には約1,300世帯、約4,400人が暮らしてた。
原爆ドームはヒロシマの象徴である。
紀子に案内されて、芳子は旧中島地区にやってきた。
その日は日曜日であったので、多くの人が川で泳いでいた。
子どもばかりではなく、大人の人も水遊びを楽しんでいるような光景に映じた。
廃墟と化した原爆ドームと川で泳ぐ人たちのまるごと平和を満喫しているような歓声や水飛沫、その対比に芳子は戸惑いを覚えた。
「私も子どもころは、あのように泳いでいたのよ」
紀子はケロイドが残る顔に微笑みを浮かべた。
被爆建物は言わぬ証言者である。
だが、多くの建物は戦後18年が経過し、すでに多くが撤去されていた。
原爆を思い出される建物が存在することを嫌う市民も多くいたのだ。
だが、被爆体験の風化を食い止めたいと紀子は、被曝体験の語り部となった。
被曝の体験は、被爆直後から、文学をはじめ美術、映画、音楽、演劇など、幅広いジャンルで数多くの作品を生み出した。
紀子は自分の使命を自覚してからは、全国から広島を訪れる小・中・高校生、あるいは旅行者たちに体験を語り続けてきた。
「芳子さんは、心や優しい人なので、広島のことをを是非、みんなに伝えてね」
原爆資料館を案内しながら、紀子は芳子の手を確りと握りしめた。
2012年7 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 27
被曝「語り部」の佐々木紀子は、旅行者を度々自宅に招いていた。
そして、「これを読んでください」と原民喜の「夏の花」を本棚から取り出した。
「短い文章ですから、短時間で読めます」
詩や短歌が好きである芳子は、作家で詩人の原民喜の名前を知ってはいたが「夏の花」は読んでいなかった。
原民喜は広島市の中心部の幡町の生家で原子爆弾で被爆した。
紀子が被爆したのは広島駅の近くの市電の駅舎の中であった、
爆心地と広島駅のほぼ真ん中で被爆して、原民喜は一命をとりとめたのだからほぼ奇跡と言える。
作家であり詩人の感覚から、民喜は手帳にその惨状を書きとめた。
8月6日の朝、便所の中にいたため一命を拾つたと記している。
「この地域では大概の家がぺしやんこに倒壊したらしいのに、この家は二階も墜ちず床もしつかりしてゐた。余程しつかりした普請だつたのだらう、四十年前、神経質な父が建てさせたものであつた。(中略)」
「今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾いた。このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知つてはゐなかつたのである」
「河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊し、走り廻つてゐる。「水を、水を、水を下さい、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちやん」と声は全身全霊を引裂くやうに迸り、「ウウ、ウウ」と苦痛に追ひまくられる喘ぎが弱々しくそれに絡んでゐる」
民喜は手帳に2日間の野宿で見たもの、聞いたものを克明に記していた。
「火傷した姪たちはひどく泣喚くし、女中は頻りに水をくれと訴へる。いい加減、みんなほとほと弱つてゐるところへ、長兄が戻つて来た。彼は昨日は嫂の疎開先である廿日市町の方へ寄り、今日は八幡村の方へ交渉して荷馬車を傭つて来たのである。そこでその馬車に乗つて私達はここを引上げることになつた」
初出:「「三田文学」1947(昭和22)年6月号
芳子は読み終えて、涙を浮かべながら大きなため息をついた。
紀子はあえて感想を聞かなかった。
紀子は「夏の花」を何度も読み返し、被曝「語り部」としての自分の役割に背中を押される思いがした。
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<参考>
http://www.youtube.com/watch?v=0J_dULWzxfI
http://www.youtube.com/watch?v=xy9hg4FIses&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=hYDLVtL7TVc&feature=relmfu