2013年2 月 1日 (金曜日)
銭湯へ行くことを口実に浅草の小料理店から逃げ出したみどりは風呂敷包の中に下着と洗面道具と歯ブラシ、郵便貯金の通帳をだけを入れていた。
ボストンバックに身の回りの物や衣類などがあったが持ち出せなかった。
取手駅前の広場でみどりは幼い男の子をおんぶしている少女を見かけた。
東京の下町では見かけない光景であった。
近くの太い銀杏をみどりは見上げた。
葉が一枚もない銀杏の大木は如何にも寒々と映じた。
澄んだ空気のなか青空が広がっていた。
この日は取手から南に遠く富士山が見え、北には筑波山も望めた。
銀杏の大木の向こうに木製のタクシーの看板が見え、運転手がドアを開け運転手仲間たちと新聞を見ながら声高に何かをしゃべっていた。
2月の取手は実に寒かった。
みどりはジャンパーの襟首に巻いた襟巻を二重巻きにした。
みどりは昭和34年2月18歳を迎えた。
「私も一人前になるのね」と思いながら自立することを念じた。
寒さに耐えかねたみどりはためらわず、駅前の食堂へ入った。
10坪ほどの店は意外と朝から満席であった。
この日、取手競輪が開催されており、競輪ファンたちが腹ごしらえをしていたのだ。
男たちの視線が若いみどりの姿に注がれていた。
注視されたみどりは戸惑いうつむいた。
店に70代の女性が居て、お茶を運んできた。
「あんた見ない顔だね。どこから来たの?」
小声でみどりは、「東京の浅草から来ました」と答えた。
「何にするの?」
みどりは壁に掲示されいたメニューを見上げた。
筆文字は達筆であった。
みどりは親子丼を注文した。
ちなみに34年1月には第3次南極観測隊が前年、基地に置き去りにしたカラフト犬5頭中、タロー、ジローの無事 確認され話題となった。
2月黒部トンネルが開通している。
4月皇太子殿下の成婚式が行われた。
取手の映画館では東宝映画の無法松の一生が放映されていた。
銀次じいさは映画好きでみどりをつれ浅草の映画館へ行っていた。
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<追記>
作家:坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日~1955年(昭和30年)2月 17日)は、 私生活では取手の取手病院の離れに 住み込み、1940年には取手の寒さに悲鳴をあげ、詩人の三好達治の誘いで温暖な気候の小田原に転居。
雪国の新潟(新潟市西大畑町:現・中央区西大畑町)に生まれ育った安吾が取手の寒さに答えたことが奇妙でもあるが、事実なのだ。
<参考>
昭和34年の物価
米(10キロ)870円 かけそば35円 豆腐15円 生ビール特大瓶(2㍑)378円 日本酒(1.8ℓ)505円 はがき5円 新聞購読料(1ヶ月)390円 封切り映画館入場料150円 国鉄初乗り運賃10円
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東宝映画の無法松の一生
【概要】 小倉の人力車夫・松五郎(三船敏郎)は喧嘩っぱやいが人情に厚い名物男。
そんな彼が陸軍大尉の家族と知り合いになり、大尉の戦死後、未亡人よし子(高峰秀子)とその子どもに愛情を持って奉仕し続けていくが…。
東宝時代劇の巨匠稲垣浩監督の1943年度作品をカラー・シネスコサイズ・ノーカット版でリメイクした作品。
(左写真:取手駅前のイメージ写真 )
(写真下:昭和30年代の取手ー藤代間の光景)
2013年1 月31日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 9)
昭和33年、常磐線にはSLが走っていた。
蒸気機関車の汽笛はみどりには物悲しく聞こえた。
「みどりよく聞きな。女はね生きていくためには身を張るんだよ」
千代子の声が脳裏に疼くように残っていた。
みどりは車窓から景色をぼんやりと見ながら頭をふった。
「嫌だ。身を売るなんて、絶対私にはできない」
直接、千代子には言えなかった。
常磐線は、上野駅を出発すると日暮里、松戸、我孫子、取手の順で停車した。
蒸気機関車の常磐線はC62やC57が客車列車を、D51が貨物列車をけん引していた。
柏駅には停車しなかった。
また天王台駅は我孫子駅と取手駅間(6.1㌔)の新駅としては昭和46年に開業された。
みどりが乗った列車は終点は平駅行であった。
「分かっているだろう? 明日からみんなのように、みどりも男をとりな」みどりは千代子から宣告されて一睡もできくなっていた。
着の身着のままのみどりは松戸駅を過ぎて眠りに陥っていた。
利根川の鉄橋を列車が渡る音でみどりは目を覚ました。
取手駅に降り立った時みどりは戸惑った。
木造の取手駅はあまりんも侘びれたローカルな田舎駅であったのだ。
ホームの外れの左前方には常総筑波鉄道の気動車が2両編成で停車していた。
取手駅から東口に出ると、商店街には映画館や銭湯があり、肉屋、魚屋、八百屋と商店が立ち並んでいた。
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<参考>
昭和30年2月には町村合併促進法により、取手町・寺原村・稲戸井村・高井村・小文間村が合併して新しい取手町が誕生した。
昭和40年代の高度経済成長期には、首都圏近郊都市として、県下初の日本住宅公団による住宅団地の開発や民間による宅地開発、及び民間大手企業の進出により人口が急増し、昭和45年10月には県内17番目の市制を施行し取手市が誕生した。
http://www.youtube.com/watch?v=li13bVLSjhc
2013年1 月31日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 8)
17歳のみどりにとって、世の中まだ分からないことばかりであった。
みとりが働いていた小料理屋は「青線地帯」にあった。
青線はもぐりの集団売春地帯を指す俗称。
佐々木千代子には旦那がいた。
旦那には本妻がいて千代子は情婦であった。
旦那の木嶋剛は西浅草に本拠を置くヤクザのT組に所属していた。
T組の前身は博徒系右翼団体だった。
その木嶋がみどりが妊娠していることを聞くと「相手の野郎から金をふんだくってやろう」とい言いだした。
「そうだね。みどりは下(堕胎)ろすんだから、最低でも中絶代は出させないけばね」と千代子は応じた。
銀じいさんの甥の作治はテキ屋であり、ヤクザの木嶋の脅しに簡単に応じるのかと思われたが、木嶋は大型のアメリカ車に子分3人を乗せて作治の米屋に乗り込んだのだ。
この日、作治は後楽園競輪で大当たりして20万円ほど儲けていたので、「これで勘弁してくれ」と顔を歪めながら胴巻きから1万円札を鷲掴みにしてさし出した。
昭和33年に1万円札が発行された。
岩戸景気と呼ばれるものが始まった年で、大卒の初任給1万3000円くらいの時代であり、20万円は大金であったが、木嶋は「これすまのか、ふざけるな!」と怒りの声を発すると、子分の一人が手にしていた短刀を奪うようにして、鞘を抜くとグサリと畳に突き立てた。
「みどりは、死んだじいさんの養女だろうが、遺産を貰う権利もあるんだよ。みどりを強姦しやがって、犯罪だろうが、サツへ訴え出てもいいんだぞ!」 畳み掛けるように言い放った。
それで驚愕した作治は立ち上がると桐のタンスに仕舞われれいた銀次じいさんが、みどりの将来ために貯めた300万円の郵便貯金通帳を震える手で差し出した。
通帳には印鑑が挟まれていた。
結局、みどりは浅草寺病院で中絶手術を受けた。
浅草寺病院は1910(明治43)年に浅草寺境内念仏堂に設立された「浅草寺診療所」を前身として、1952(昭和27)年に社会福祉法人の病院として設立された 。
木嶋はみどりの郵便貯金300円をおろすと200万円を奪い、100万円をみどりに渡していた。奪った金は組への上納金の一分に流用した。
半年後に千代子から売春を強要されたみどりは銭湯へ行くこと口実にして浅草から逃げ出した。
ヤクザの木嶋が追ってくることを恐れて、みどりは上野駅から常磐線に乗った。
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<参考>
日本には、江戸時代以来の公娼制度が存在していた。
明治5年に、明治政府が太政官布告第295号の芸娼妓解放令により公娼制度を廃止しようと試みた。
しかし、実効性に乏しかったこともあり、1900年(明治33年)に至り公娼制度を認める前提で一定の規制を行っていた(娼妓取締規則)。
1908年(明治41年)には非公認の売淫を取り締まることにした。
売春防止法、1956年(昭和31年)5月24日法律第118号)とは、売春を助長する行為等を処罰するとともに、性行又は環境に照らして売春を行うおそれのある女子に対する補導処分及び保護更生の措置を講ずることによって、売春の防止を図ることを目的とする日本の法律である。この法律の制定に伴い1958年(昭和33年)に赤線が廃止された。
同法は、「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものである」という基本的視点に立脚している。
1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年)にかけて、第15回、第19回、第21回、第22回国会において、神近市子などの女性議員によって、議員立法として同旨の法案が繰り返し提出された。これらは多数決の結果、いずれも廃案となった。
22回国会では連立与党の日本民主党が反対派から賛成派に回り、一時は法案が可決されるものと思われたが、最終的には否決された。
青線 は、1946年1月のGHQによる公娼廃止指令から、1957年4月の売春防止法の一部施行(1958年4月に罰則適用の取締りによる全面実施)までの間に、非合法で売春が行われていた地域である。青線地帯、青線区域ともいわれる。
所轄の警察署では、特殊飲食店として売春行為を許容、黙認する区域を地図に赤い線で囲み、これら特殊飲食店街(特飲街)を俗に「赤線(あかせん)」あるいは「赤線地帯」、「赤線区域」と呼んだ。
これに対して特殊飲食店の営業許可なしに、一般の飲食店の営業許可のままで、非合法に売春行為をさせていた区域を地図に青い線で囲み、俗に「青線(あおせん)」あるいは「青線地帯」、「青線区域」と呼んだとされている。
2013年1 月29日 (火曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 7)
浅草寺の北に広がる浅草花街は、伝統と格式を誇る東京屈指の花柳界の一つである。
浅草寺病院近くの言問通りの小料理屋の表玄関脇の柱に「住み込み女中(お手伝い)募集」の張り紙があった。
みどりがそれを見つめていると、背後から声をかけられた。
「あんたは、いくつだい?」
気落ちした様子で張り紙を見つめているみどりは、重そうにボストンバックを持っている。
その姿は如何にもわけありの娘の姿であり、家出人のそのものように映じただろう。
振り向くと30代後半と思われる浴衣姿の女性であり、髪方をアップにしていて粋な感じがした。
「家出人だね」相手はまじまじとみどりを見ながら念を押した。
みどりは俯いて肯いた。
「今、銭湯の朝風呂から戻ってきたんだ。ともかく店の中に入りな」と促された。
女は素足に下駄ばきであり、洗面器に化粧品とタオルを入れていた。
「朝飯はまだなんだろう? 一緒に食べよう」
女は佐々木千代子と名乗った。
みどりは戦災孤児で、隣の米屋のおじいさんの養女として育てられたことや中卒で現在17歳であることを告げた。
「あんた今、17歳なのかい。私が福島の会津から出て来た時も17歳だった。実家は子だくさんの貧乏農家でね。私も中卒なんだよ」
みどりは東京の下町育ちであり、東北育ちで少しアクセントに訛りが残る千代子に親しみを感じた。
朝食は卵焼き、海苔、漬物のたくわんとキュウリ、味噌汁であった。
みどりは朝食をべながら涙が溢れてきた。
「家出をしたんだから、辛かったこともあったんだね」千代子も目を潤ませた。
店で働いて2か月後にみどりの体に異変が起こった。
一回の強姦による性交で皮肉にもみどりは妊娠していた。
妊娠2か月の症状は以下。
おりものが増加、便所の回数が増える、下痢や便秘症状になりやすい、胸部や下腹が張る、乳首が黒ずんできくる。
まだ赤ん坊の姿ではなく胎芽 (たいが) といわれる。
妊娠2か月目のおわりの形は、頭でっかちで手や足になる部分の発育がはじまり、外陰部もいちおう識別される。
銭湯で千代子はみどりの裸の様子から「あんた妊娠しているんじゃないかい?」と指摘した。
「妊娠?! そんあことがあるのだろうか?」みどりは言葉を失って、この事態に驚愕した。
2013年1 月29日 (火曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 (6
みどりは銀次じいさんが、毎朝お参りに行っていた深川不動尊に立ち寄って手を合わせた後、思い立って浅草へ向かった。
浅草へは銀次じいさんに毎年連れてもらっていた。
初詣、5月の三社祭、7月の七夕やほうずき市、隅田川の花火、10月の菊花展、12月の歳の市、「羽子板市」
また、酉の市は、11月の酉の日(十二支)を祭日として、浅草の酉の寺(鷲在山長國寺)や各地の鷲神社、大鳥神社で行われる、開運招福・商売繁盛を願う祭りで、江戸時代から続く代表的な年中行事。
江戸時代には「春を待つ 事のはじめや 酉の市」と芭蕉の弟子其角が詠んだように、正月を迎える最初の祭りとされていた。
浅草花やしきも忘れられない。
浅草花やしき東京都台東区浅草二丁目にある遊園地。
1853年(嘉永6年)開園で、日本最古の遊園地とされる。
昭和33年は上野へ出て地下鉄銀座線で浅草へ行っていた。
都営浅草線(浅草橋~押上間)初めて開業したのは昭和35年12月である。
浅草へ向かったのは銀次じいさんの導きとも思われた。
ある意味で、昭和33年(1958年)は17歳のみどりにとって印象に強く残るとしであった。
1月に皇太子明仁殿下と民間人の正田美智子さんの婚約が発表された。
ミッチーブームとなる。
また、この年8月17日、東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が行方不明になる。
同月20日に、読売新聞社に同女子学生を殺害したという男から、その遺体遺棄現場を知らせる犯行声明とも取れる電話が来る。
警視庁小松川警察署の捜査員が付近を探すが見あたらず、イタズラ電話として処理される。
翌21日、小松川署に、更に詳しく遺体遺棄現場を知らせる電話が来る。
捜査員が調べたところ、同高校の屋上で被害者の腐乱死体を発見した。
また、銀次じいさんが上るのを楽しみにしていた12月に東京タワーが完成した。
ところで、浅草寺の現本堂は昭和33年に再建さ鉄筋コンクリ-ト造りである。
当時はいたるところで道路工事が行われていた。
そのため道が雨になるとぬかるんで足をとられ実に歩きにくかった。
また、神風タクシーという流行語があった。
運転手たちには1日1万円のノルマ―が課せられていたので、スピード違反承知で路面電車を縫うようにくねくねとフルスピードで走行していた。
かせられていた。
「あと1人にいないかな。銀座方面、誰か乗らないか」
そして強引に客を力ずくで引き込み、4人を詰め込んで走り去っていた。
ノルマ―達成でくたくたになったタクシーの運転手たちは深夜喫茶で休息をとったり寝込んでいた。
2013年1 月27日 (日曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 5)
戦災孤児となったみどりは、米屋の銀次じいさんの養女となって育てられた。
銀次じいさんの息子は南方で戦死し、妻子は東京大空襲で亡くなり一人身となってしまった。
戦災孤児と孤老が終戦後を生き抜いた。
だが、みどりが14歳の時に、銀次じいさんは脳出血で倒れ病院へ救急車で搬送されたが、約2か月後に意識が戻らぬまま亡くなってしまった。
突然の別れであり、みどりの運命も大きく変わった。
銀じいさんの甥の作治が葬儀の喪主を務めた。
作治はテキ屋を家業としていた。
いわゆる露店商である。
背中に刺青をしていた。
葬儀から半年後、作治は米屋に転じたのであるが、根が遊人である。
店をみどりや店員の貞雄に任せると競輪に明け暮れる。
「おい、みどり店を頼むぞ、わしは後楽園へ行って来る」
朝から店を出て行った。
そして、夜はテキ屋仲間と麻雀か花札賭博である。
作治の指示でみどりは高校へ行かずに米屋の従業員になっていたのだ。
貞雄はみどりと2歳違いの17歳であり、茨城県の取手の中学を卒業すると米屋の住み込み店員になっていた。
実は銀次じいさんは茨城県の取手出身であった。
貞雄は銀次じいさんの実家の隣人の斎藤家の3男であった。
貞雄はよく働いた。
自転車で米の配達もしていた。
みどりは16歳の年齢としては豊かな胸をしていた。
それを作治は好色な目で見ていたのだ。
みどりが台所で食器を洗っていると背後で作治が、「おいみどり、色っぽくなってきたな」と言う。
振り向くとタバコをくわえた作治の三白眼がみどりの豊か腰に注がれていた。
みどりが17歳の夏、寝ているところを作治に強姦された。
二階の部屋で寝ている貞雄に助けを求めようとしたが、丸めた手ぬぐいを口に押し込まれて声を塞がれた。
豆電球が灯る暗い部屋でのことで、実際何が何だか分からず驚愕して声も出なかったのだ。
タバコのヤニの強い不快な匂いがみどりにとってトラウマとなった。
蹂躙される間、銀次じいさんから貰った深川不動の願いお守りを右手で握り締めていた。
翌日、貞雄と顔を合わせることがみどりには辛かった。
貞雄は午前6時には起きてくる。
みどりは身支度を整え、ブストンバックに衣類を詰めると米屋を出た。
みどりは涙を浮かべて店の外に立ち止り、貞雄が眠る2階の部屋に視線を注いだ。
そして意を決して、駅へ向かって歩き出した。
「これからどうしょう?」
「どこへ行こうか?」
不安が募ってきた。
午前5時夏の朝、閉ざされた商店街は既に明るくなっていた。
薄曇りで太陽は見えなかった。
2013年1 月24日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 4)
みどりは戦災孤児であった。
東京府 東京市深川区猿江町に祖父母、母、二人の兄、妹と8人住んでいた。
父は酒店を経営していたが、昭和19年8月に赤紙が来て軍隊に徴兵された。
昭和20年3月9日は午後からすごい北風が吹き荒れ肌寒い日であった。
夜10時半ごろ警戒警報が鳴ったので、まず、祖父が飛び起きてラジオをつけた。
敵機の大編隊が房総沖を来襲中とアナウンサーの甲高い声が聞こえてきた。
家族全員が身支度を整えて防空濠に入る。
だが、夜中の零時前後であっただろうか、消防団の人が「焼夷弾だ、みんな焼け死ぬぞ!防空濠から出ろ」と緊急事態を告げ大声で叫んでいる。
「焼夷弾だと!アメ公の奴らは民家にも落とすのか!」祖父は目を剥いて怒りをあらわにした。
その時、母は足が悪い祖母の手をとって立ち上がった。
全員が確りと防空頭巾をかぶった。
母親はいったん家へ戻り桐の箪笥から色々なものを取り出していた。
狼狽えていた祖母が、みどりの手を握り締めて立ち上がった。
みどりは妹勝子の手を確りと握り締めた。
防空濠から出ると、西の方角の視野180度の方角で北風にあおられ炎が夜空を真っ赤に染ていた。
炎は渦を巻き、メラメラと揺れ動きながらこちらへ迫ってくるところであった。
昭和15年2月生まれのみどりは5歳になっていた。
逃げながら「あの炎は水天宮辺か」と祖父が振り返った。
みどりの家は酒屋であり、表通りに面していたが、路地裏からたくさんの人が湧き出すとうに出てきた。
「近所にこんなにも人が住んでいたのかい?!」足を引きずる祖母は息せき切って驚きの声をあげた。
落とされた焼夷弾が次々と家々を焼き尽くしていく。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵そのものであった。
東京で1日夜で10万人もの東京府民の市民で死んだのだ。
ドラム缶でも爆発したようで、いたるところで爆発音もしていた。
家並みに次々と火がつき燃え上がる中をさまよい逃げ惑った。
行く手を阻むように刻々火炎地獄が迫り来て人々を飲み込んでいく。
どちらの方角へ迎えば命が助かるのか?
人は逃げ惑い人の流れは混乱し、錯綜するばかりだった。
母と祖母が遅れていく。
重い柳行李を背負う祖父も遅れて行く。
隅田川の方角を目指した兄二人はどうなったのだろうか。
妹勝子の手を確りと握っていたのに、大人の人たちに度々体が激しくぶつかり、倒れたところを踏みつけたれた。
そしてみどりは家族たちとはぐれて一人取り残されてしまった。
気づけば猿江恩賜公園の方へ向かって歩いていた。
北風に火の勢いは増すばかりで逃げ惑う人たちは翻弄されるばかりだった。
幾台もの大八車に火の粉が飛び火して燃え上がった。
進むか退くか、人々はためらっていた。
「焼け死ぬぞ、川へ逃げろ」と叫ぶ人もいた。
みどりは小名木川橋の方角へ向かっていた。
北風が勢いを増し、さらに火災旋風で空気が対流し、立って歩くこともできなくなる。
みどりは這うようにして橋のたもとにあった交番にたどり着いた。
周りは家屋の強制取り壊しで原っぱになっていて、コンクリートの交番だけがほつりと残されている状態だった。
空襲の激化に伴い軍需工場の付近の家屋は、内務省の指令により強制疎開させられたが、それが住宅地にも及んでいたのだ。
防火帯を作って延焼防止のために行われるものだが戦時下では、長年住み慣れた家も「指令」と言う名で取り壊されなければならかった。
みどりが川を見ると、5人乗り、10人乗りぐらいの小舟が後から後から燃えながら漂流しいた。
それは不気味な光景であった。
炎に船が包まれているので、「乗った人たちみんな死んでいるに違いない」とみどりは思った。
交番の小さい窓から外を見ると、錦糸町、深川八幡、木場の方角の家々が火災旋風に勢いを増して燃えていた。
交番で朝を迎えみどりは実家のある猿江町へ戻ったが家族の誰も戻っていなかった。
それから母の実家がある住吉町まで家族を探しに行ったが、そこも焼き尽くされており、誰もみどり待っていなかった。
近所の警察署も燃えていた。
隣の家に住む米屋の銀次じいさんが、近所の人に向かって「酷いもんだ。死体をたくさん見たが、罪人も哀れなもんだな!警察署の拘置所にいた囚人たちが鉄格子にしがみついて死んでいた」とまゆをしそめた。
みどりがが「わっと」と声を発して号泣すると銀次じいさんがみどりを抱きしめてくれた。
奇跡的に銀じいさんの米屋は類焼を免れていた。
深川不動尊で毎朝祈っていた銀次じいさんは、自分の首からお守り外すとそれをみどりの首にかけた。
「これは、不動尊のお願いお守りだよ。家族は直に見つかるさ、心配はいらない」と慰めた。
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<参考>
深川猿江は、東京都江東区の町名である。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では地区のほとんどが甚大な被害を受けたほか、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも工場地帯であったため、本所区と並んで深川区はアメリカ軍の標的の中心となっており、このような下町特有の町並みがいずれの場合にも膨大な犠牲者を出す要因の一つになったと言われている。
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頭上は低空で300機の爆撃機が飛び交う
4トン積みトラック500台分の焼夷弾が雨霰に降ってきた東京の下町
2時間で広島原爆と同じ10万人が業火のなかで命を奪われた炎の夜を…。
300機以上で2千トン(4トン積みトラック500台相当)、10万発以上の焼夷弾(油脂が入った爆弾)を投下した。
南方の基地からレーダーに写らない海上すれすれの低空で侵入し、大部分が木造住宅であった人口密集地に落としたのだ。
正確な数字は不明であるが、100万を超える人々が逃げまどい、10万人を超える死者と5万人以上の負傷者、27万戸の家が焼きつくされた。
死者のうち朝鮮人は少なくとも1万人を軽く超すとされている。
2013年1 月23日 (水曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 3)
人生の途次、この先に何が起こるかわからない。
タクシーの運転手である彼は、私鉄電車の踏切付近をウロウロしている親子連れの様子を不審に思って車を止めた。
そして車内から窓越しに様子を窺っていた。
線路沿いの道の柵越しの鉄路から電車が近づく音がしてきたので悪い予感がした。
踏切の鐘は高い警告音を発して不気味に響き渡っていた。
彼は思わず車を飛び出して行く。
母親が二人の娘を引きずるようにして遮断機を潜ろうとしていた。
本能的に危険を察知したのだろう娘たちは母の手を振り払いながら後ずさりをして泣き叫び出した。
電車は約500㍍先のカーブを曲がり初めていた。
5歳くらいの女の子が母親の手を振り払い逃げ出した。
3歳くらいの女の子は手を振り払えず母親の腰にしがみついていた。
逃げた娘は助けを求めるように彼のタクシーの方へ向かって走ってきた。
彼は逃げた娘を呆然と見ている母親の青ざめた顔を見て愕然とした。
それの母親は紛れもなく息子二人を残して男と居なくなった彼の別れた妻であった。
「みどり」と思わず彼は叫んだ。
みどりは呆然自失の状態であったが、大きな瞳を見開き声の主を凝視した。
そして相手を確りと認識したのだろう、顔を引きつらせるようにして驚愕の表情を現わした。
みどりは腰を抜かしたように踏切の脇にしゃがみこんだ。
母親の背中に手を添えるようにして下の娘が泣き叫んでいた。
轟音を立て電車が行き過ぎて行く。
みどりの長い髪が疾走する電車の風圧に大きく揺らいだ。
2013年1 月22日 (火曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 2)
長男幸吉の暴力は祖母サチに及んだが、2歳年下の弟の次郎も被害者となった。
このため、弟の次郎は生傷が絶えなくなる。
頭を叩く、腹を蹴る、髪の毛を引っ張り引き倒す。
指や腕にかみつく。
さらに頬や腕に爪を立てた。
あまりに酷いので父親佐吉のは長男を諌めた。
「弟をイジメルのはやめな。父さんが同じ目に合してやる。人の痛みを思い知れ!」
性格が温厚なであったが、その日は激情した。
次男の頬に約10㎝の傷ができていた。
その爪痕は歴然であり頬の肉がえぐられ深い溝をなっており、傷は一生治らないと思われた。
「このガキ、もう許さん!」平手打ちを10発ほどくらわせた。
さらに、箪笥に頭を箪笥にぶつけて昏倒した長男の襟首をつかみ、風呂場へ強引に連れ込み、ホースで水攻めにした。
「とうさん許して!」長男が泣き叫ぶ声がさらに佐吉の怒りに火をつけた。
「もう、許さん、思い知れ!」
「自分に、こんな残忍なことができるのか!」
失神した長男を見降ろしながら、佐吉は震えが止まらなくなった。
性格が温厚と言われていた人が凶悪犯になることがあるが、まさにその時の佐吉の状態そのものであった。
佐吉は自分の行為に愕然とした。
買い物から帰ってきた母親のサチは、ずぶ濡れとなって失神している孫の幸吉の姿を見て驚愕した。
「どうしたの? 何があったの!」
サチは身が固まり買い物籠を絨毯の上に落とした。
長そのような折檻があったのに長男の幸吉は反省しなかった。
相変わらず弟をいじめていた。
思い余って次男に空手を習わせた。
自己防衛をさせるためであった。
だが、次男は2年後、兄に暴力を振るわれると兄に反撃するばかりではなく、年下の者に暴力を振るうようになった。
自分の対応が誤っていたことを佐吉は思い知る。実に皮肉であった。
銭湯へ行くことを口実に浅草の小料理店から逃げ出したみどりは風呂敷包の中に下着と洗面道具と歯ブラシ、郵便貯金の通帳をだけを入れていた。
ボストンバックに身の回りの物や衣類などがあったが持ち出せなかった。
取手駅前の広場でみどりは幼い男の子をおんぶしている少女を見かけた。
東京の下町では見かけない光景であった。
近くの太い銀杏をみどりは見上げた。
葉が一枚もない銀杏の大木は如何にも寒々と映じた。
澄んだ空気のなか青空が広がっていた。
この日は取手から南に遠く富士山が見え、北には筑波山も望めた。
銀杏の大木の向こうに木製のタクシーの看板が見え、運転手がドアを開け運転手仲間たちと新聞を見ながら声高に何かをしゃべっていた。
2月の取手は実に寒かった。
みどりはジャンパーの襟首に巻いた襟巻を二重巻きにした。
みどりは昭和34年2月18歳を迎えた。
「私も一人前になるのね」と思いながら自立することを念じた。
寒さに耐えかねたみどりはためらわず、駅前の食堂へ入った。
10坪ほどの店は意外と朝から満席であった。
この日、取手競輪が開催されており、競輪ファンたちが腹ごしらえをしていたのだ。
男たちの視線が若いみどりの姿に注がれていた。
注視されたみどりは戸惑いうつむいた。
店に70代の女性が居て、お茶を運んできた。
「あんた見ない顔だね。どこから来たの?」
小声でみどりは、「東京の浅草から来ました」と答えた。
「何にするの?」
みどりは壁に掲示されいたメニューを見上げた。
筆文字は達筆であった。
みどりは親子丼を注文した。
ちなみに34年1月には第3次南極観測隊が前年、基地に置き去りにしたカラフト犬5頭中、タロー、ジローの無事 確認され話題となった。
2月黒部トンネルが開通している。
4月皇太子殿下の成婚式が行われた。
取手の映画館では東宝映画の無法松の一生が放映されていた。
銀次じいさは映画好きでみどりをつれ浅草の映画館へ行っていた。
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<追記>
作家:坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日~1955年(昭和30年)2月 17日)は、 私生活では取手の取手病院の離れに 住み込み、1940年には取手の寒さに悲鳴をあげ、詩人の三好達治の誘いで温暖な気候の小田原に転居。
雪国の新潟(新潟市西大畑町:現・中央区西大畑町)に生まれ育った安吾が取手の寒さに答えたことが奇妙でもあるが、事実なのだ。
<参考>
昭和34年の物価
米(10キロ)870円 かけそば35円 豆腐15円 生ビール特大瓶(2㍑)378円 日本酒(1.8ℓ)505円 はがき5円 新聞購読料(1ヶ月)390円 封切り映画館入場料150円 国鉄初乗り運賃10円
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東宝映画の無法松の一生
【概要】 小倉の人力車夫・松五郎(三船敏郎)は喧嘩っぱやいが人情に厚い名物男。
そんな彼が陸軍大尉の家族と知り合いになり、大尉の戦死後、未亡人よし子(高峰秀子)とその子どもに愛情を持って奉仕し続けていくが…。
東宝時代劇の巨匠稲垣浩監督の1943年度作品をカラー・シネスコサイズ・ノーカット版でリメイクした作品。
(左写真:取手駅前のイメージ写真 )
(写真下:昭和30年代の取手ー藤代間の光景)
2013年1 月31日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 9)
昭和33年、常磐線にはSLが走っていた。
蒸気機関車の汽笛はみどりには物悲しく聞こえた。
「みどりよく聞きな。女はね生きていくためには身を張るんだよ」
千代子の声が脳裏に疼くように残っていた。
みどりは車窓から景色をぼんやりと見ながら頭をふった。
「嫌だ。身を売るなんて、絶対私にはできない」
直接、千代子には言えなかった。
常磐線は、上野駅を出発すると日暮里、松戸、我孫子、取手の順で停車した。
蒸気機関車の常磐線はC62やC57が客車列車を、D51が貨物列車をけん引していた。
柏駅には停車しなかった。
また天王台駅は我孫子駅と取手駅間(6.1㌔)の新駅としては昭和46年に開業された。
みどりが乗った列車は終点は平駅行であった。
「分かっているだろう? 明日からみんなのように、みどりも男をとりな」みどりは千代子から宣告されて一睡もできくなっていた。
着の身着のままのみどりは松戸駅を過ぎて眠りに陥っていた。
利根川の鉄橋を列車が渡る音でみどりは目を覚ました。
取手駅に降り立った時みどりは戸惑った。
木造の取手駅はあまりんも侘びれたローカルな田舎駅であったのだ。
ホームの外れの左前方には常総筑波鉄道の気動車が2両編成で停車していた。
取手駅から東口に出ると、商店街には映画館や銭湯があり、肉屋、魚屋、八百屋と商店が立ち並んでいた。
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<参考>
昭和30年2月には町村合併促進法により、取手町・寺原村・稲戸井村・高井村・小文間村が合併して新しい取手町が誕生した。
昭和40年代の高度経済成長期には、首都圏近郊都市として、県下初の日本住宅公団による住宅団地の開発や民間による宅地開発、及び民間大手企業の進出により人口が急増し、昭和45年10月には県内17番目の市制を施行し取手市が誕生した。
http://www.youtube.com/watch?v=li13bVLSjhc
2013年1 月31日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 8)
17歳のみどりにとって、世の中まだ分からないことばかりであった。
みとりが働いていた小料理屋は「青線地帯」にあった。
青線はもぐりの集団売春地帯を指す俗称。
佐々木千代子には旦那がいた。
旦那には本妻がいて千代子は情婦であった。
旦那の木嶋剛は西浅草に本拠を置くヤクザのT組に所属していた。
T組の前身は博徒系右翼団体だった。
その木嶋がみどりが妊娠していることを聞くと「相手の野郎から金をふんだくってやろう」とい言いだした。
「そうだね。みどりは下(堕胎)ろすんだから、最低でも中絶代は出させないけばね」と千代子は応じた。
銀じいさんの甥の作治はテキ屋であり、ヤクザの木嶋の脅しに簡単に応じるのかと思われたが、木嶋は大型のアメリカ車に子分3人を乗せて作治の米屋に乗り込んだのだ。
この日、作治は後楽園競輪で大当たりして20万円ほど儲けていたので、「これで勘弁してくれ」と顔を歪めながら胴巻きから1万円札を鷲掴みにしてさし出した。
昭和33年に1万円札が発行された。
岩戸景気と呼ばれるものが始まった年で、大卒の初任給1万3000円くらいの時代であり、20万円は大金であったが、木嶋は「これすまのか、ふざけるな!」と怒りの声を発すると、子分の一人が手にしていた短刀を奪うようにして、鞘を抜くとグサリと畳に突き立てた。
「みどりは、死んだじいさんの養女だろうが、遺産を貰う権利もあるんだよ。みどりを強姦しやがって、犯罪だろうが、サツへ訴え出てもいいんだぞ!」 畳み掛けるように言い放った。
それで驚愕した作治は立ち上がると桐のタンスに仕舞われれいた銀次じいさんが、みどりの将来ために貯めた300万円の郵便貯金通帳を震える手で差し出した。
通帳には印鑑が挟まれていた。
結局、みどりは浅草寺病院で中絶手術を受けた。
浅草寺病院は1910(明治43)年に浅草寺境内念仏堂に設立された「浅草寺診療所」を前身として、1952(昭和27)年に社会福祉法人の病院として設立された 。
木嶋はみどりの郵便貯金300円をおろすと200万円を奪い、100万円をみどりに渡していた。奪った金は組への上納金の一分に流用した。
半年後に千代子から売春を強要されたみどりは銭湯へ行くこと口実にして浅草から逃げ出した。
ヤクザの木嶋が追ってくることを恐れて、みどりは上野駅から常磐線に乗った。
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<参考>
日本には、江戸時代以来の公娼制度が存在していた。
明治5年に、明治政府が太政官布告第295号の芸娼妓解放令により公娼制度を廃止しようと試みた。
しかし、実効性に乏しかったこともあり、1900年(明治33年)に至り公娼制度を認める前提で一定の規制を行っていた(娼妓取締規則)。
1908年(明治41年)には非公認の売淫を取り締まることにした。
売春防止法、1956年(昭和31年)5月24日法律第118号)とは、売春を助長する行為等を処罰するとともに、性行又は環境に照らして売春を行うおそれのある女子に対する補導処分及び保護更生の措置を講ずることによって、売春の防止を図ることを目的とする日本の法律である。この法律の制定に伴い1958年(昭和33年)に赤線が廃止された。
同法は、「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものである」という基本的視点に立脚している。
1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年)にかけて、第15回、第19回、第21回、第22回国会において、神近市子などの女性議員によって、議員立法として同旨の法案が繰り返し提出された。これらは多数決の結果、いずれも廃案となった。
22回国会では連立与党の日本民主党が反対派から賛成派に回り、一時は法案が可決されるものと思われたが、最終的には否決された。
青線 は、1946年1月のGHQによる公娼廃止指令から、1957年4月の売春防止法の一部施行(1958年4月に罰則適用の取締りによる全面実施)までの間に、非合法で売春が行われていた地域である。青線地帯、青線区域ともいわれる。
所轄の警察署では、特殊飲食店として売春行為を許容、黙認する区域を地図に赤い線で囲み、これら特殊飲食店街(特飲街)を俗に「赤線(あかせん)」あるいは「赤線地帯」、「赤線区域」と呼んだ。
これに対して特殊飲食店の営業許可なしに、一般の飲食店の営業許可のままで、非合法に売春行為をさせていた区域を地図に青い線で囲み、俗に「青線(あおせん)」あるいは「青線地帯」、「青線区域」と呼んだとされている。
2013年1 月29日 (火曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 7)
浅草寺の北に広がる浅草花街は、伝統と格式を誇る東京屈指の花柳界の一つである。
浅草寺病院近くの言問通りの小料理屋の表玄関脇の柱に「住み込み女中(お手伝い)募集」の張り紙があった。
みどりがそれを見つめていると、背後から声をかけられた。
「あんたは、いくつだい?」
気落ちした様子で張り紙を見つめているみどりは、重そうにボストンバックを持っている。
その姿は如何にもわけありの娘の姿であり、家出人のそのものように映じただろう。
振り向くと30代後半と思われる浴衣姿の女性であり、髪方をアップにしていて粋な感じがした。
「家出人だね」相手はまじまじとみどりを見ながら念を押した。
みどりは俯いて肯いた。
「今、銭湯の朝風呂から戻ってきたんだ。ともかく店の中に入りな」と促された。
女は素足に下駄ばきであり、洗面器に化粧品とタオルを入れていた。
「朝飯はまだなんだろう? 一緒に食べよう」
女は佐々木千代子と名乗った。
みどりは戦災孤児で、隣の米屋のおじいさんの養女として育てられたことや中卒で現在17歳であることを告げた。
「あんた今、17歳なのかい。私が福島の会津から出て来た時も17歳だった。実家は子だくさんの貧乏農家でね。私も中卒なんだよ」
みどりは東京の下町育ちであり、東北育ちで少しアクセントに訛りが残る千代子に親しみを感じた。
朝食は卵焼き、海苔、漬物のたくわんとキュウリ、味噌汁であった。
みどりは朝食をべながら涙が溢れてきた。
「家出をしたんだから、辛かったこともあったんだね」千代子も目を潤ませた。
店で働いて2か月後にみどりの体に異変が起こった。
一回の強姦による性交で皮肉にもみどりは妊娠していた。
妊娠2か月の症状は以下。
おりものが増加、便所の回数が増える、下痢や便秘症状になりやすい、胸部や下腹が張る、乳首が黒ずんできくる。
まだ赤ん坊の姿ではなく胎芽 (たいが) といわれる。
妊娠2か月目のおわりの形は、頭でっかちで手や足になる部分の発育がはじまり、外陰部もいちおう識別される。
銭湯で千代子はみどりの裸の様子から「あんた妊娠しているんじゃないかい?」と指摘した。
「妊娠?! そんあことがあるのだろうか?」みどりは言葉を失って、この事態に驚愕した。
2013年1 月29日 (火曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 (6
みどりは銀次じいさんが、毎朝お参りに行っていた深川不動尊に立ち寄って手を合わせた後、思い立って浅草へ向かった。
浅草へは銀次じいさんに毎年連れてもらっていた。
初詣、5月の三社祭、7月の七夕やほうずき市、隅田川の花火、10月の菊花展、12月の歳の市、「羽子板市」
また、酉の市は、11月の酉の日(十二支)を祭日として、浅草の酉の寺(鷲在山長國寺)や各地の鷲神社、大鳥神社で行われる、開運招福・商売繁盛を願う祭りで、江戸時代から続く代表的な年中行事。
江戸時代には「春を待つ 事のはじめや 酉の市」と芭蕉の弟子其角が詠んだように、正月を迎える最初の祭りとされていた。
浅草花やしきも忘れられない。
浅草花やしき東京都台東区浅草二丁目にある遊園地。
1853年(嘉永6年)開園で、日本最古の遊園地とされる。
昭和33年は上野へ出て地下鉄銀座線で浅草へ行っていた。
都営浅草線(浅草橋~押上間)初めて開業したのは昭和35年12月である。
浅草へ向かったのは銀次じいさんの導きとも思われた。
ある意味で、昭和33年(1958年)は17歳のみどりにとって印象に強く残るとしであった。
1月に皇太子明仁殿下と民間人の正田美智子さんの婚約が発表された。
ミッチーブームとなる。
また、この年8月17日、東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が行方不明になる。
同月20日に、読売新聞社に同女子学生を殺害したという男から、その遺体遺棄現場を知らせる犯行声明とも取れる電話が来る。
警視庁小松川警察署の捜査員が付近を探すが見あたらず、イタズラ電話として処理される。
翌21日、小松川署に、更に詳しく遺体遺棄現場を知らせる電話が来る。
捜査員が調べたところ、同高校の屋上で被害者の腐乱死体を発見した。
また、銀次じいさんが上るのを楽しみにしていた12月に東京タワーが完成した。
ところで、浅草寺の現本堂は昭和33年に再建さ鉄筋コンクリ-ト造りである。
当時はいたるところで道路工事が行われていた。
そのため道が雨になるとぬかるんで足をとられ実に歩きにくかった。
また、神風タクシーという流行語があった。
運転手たちには1日1万円のノルマ―が課せられていたので、スピード違反承知で路面電車を縫うようにくねくねとフルスピードで走行していた。
かせられていた。
「あと1人にいないかな。銀座方面、誰か乗らないか」
そして強引に客を力ずくで引き込み、4人を詰め込んで走り去っていた。
ノルマ―達成でくたくたになったタクシーの運転手たちは深夜喫茶で休息をとったり寝込んでいた。
2013年1 月27日 (日曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 5)
戦災孤児となったみどりは、米屋の銀次じいさんの養女となって育てられた。
銀次じいさんの息子は南方で戦死し、妻子は東京大空襲で亡くなり一人身となってしまった。
戦災孤児と孤老が終戦後を生き抜いた。
だが、みどりが14歳の時に、銀次じいさんは脳出血で倒れ病院へ救急車で搬送されたが、約2か月後に意識が戻らぬまま亡くなってしまった。
突然の別れであり、みどりの運命も大きく変わった。
銀じいさんの甥の作治が葬儀の喪主を務めた。
作治はテキ屋を家業としていた。
いわゆる露店商である。
背中に刺青をしていた。
葬儀から半年後、作治は米屋に転じたのであるが、根が遊人である。
店をみどりや店員の貞雄に任せると競輪に明け暮れる。
「おい、みどり店を頼むぞ、わしは後楽園へ行って来る」
朝から店を出て行った。
そして、夜はテキ屋仲間と麻雀か花札賭博である。
作治の指示でみどりは高校へ行かずに米屋の従業員になっていたのだ。
貞雄はみどりと2歳違いの17歳であり、茨城県の取手の中学を卒業すると米屋の住み込み店員になっていた。
実は銀次じいさんは茨城県の取手出身であった。
貞雄は銀次じいさんの実家の隣人の斎藤家の3男であった。
貞雄はよく働いた。
自転車で米の配達もしていた。
みどりは16歳の年齢としては豊かな胸をしていた。
それを作治は好色な目で見ていたのだ。
みどりが台所で食器を洗っていると背後で作治が、「おいみどり、色っぽくなってきたな」と言う。
振り向くとタバコをくわえた作治の三白眼がみどりの豊か腰に注がれていた。
みどりが17歳の夏、寝ているところを作治に強姦された。
二階の部屋で寝ている貞雄に助けを求めようとしたが、丸めた手ぬぐいを口に押し込まれて声を塞がれた。
豆電球が灯る暗い部屋でのことで、実際何が何だか分からず驚愕して声も出なかったのだ。
タバコのヤニの強い不快な匂いがみどりにとってトラウマとなった。
蹂躙される間、銀次じいさんから貰った深川不動の願いお守りを右手で握り締めていた。
翌日、貞雄と顔を合わせることがみどりには辛かった。
貞雄は午前6時には起きてくる。
みどりは身支度を整え、ブストンバックに衣類を詰めると米屋を出た。
みどりは涙を浮かべて店の外に立ち止り、貞雄が眠る2階の部屋に視線を注いだ。
そして意を決して、駅へ向かって歩き出した。
「これからどうしょう?」
「どこへ行こうか?」
不安が募ってきた。
午前5時夏の朝、閉ざされた商店街は既に明るくなっていた。
薄曇りで太陽は見えなかった。
2013年1 月24日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 4)
みどりは戦災孤児であった。
東京府 東京市深川区猿江町に祖父母、母、二人の兄、妹と8人住んでいた。
父は酒店を経営していたが、昭和19年8月に赤紙が来て軍隊に徴兵された。
昭和20年3月9日は午後からすごい北風が吹き荒れ肌寒い日であった。
夜10時半ごろ警戒警報が鳴ったので、まず、祖父が飛び起きてラジオをつけた。
敵機の大編隊が房総沖を来襲中とアナウンサーの甲高い声が聞こえてきた。
家族全員が身支度を整えて防空濠に入る。
だが、夜中の零時前後であっただろうか、消防団の人が「焼夷弾だ、みんな焼け死ぬぞ!防空濠から出ろ」と緊急事態を告げ大声で叫んでいる。
「焼夷弾だと!アメ公の奴らは民家にも落とすのか!」祖父は目を剥いて怒りをあらわにした。
その時、母は足が悪い祖母の手をとって立ち上がった。
全員が確りと防空頭巾をかぶった。
母親はいったん家へ戻り桐の箪笥から色々なものを取り出していた。
狼狽えていた祖母が、みどりの手を握り締めて立ち上がった。
みどりは妹勝子の手を確りと握り締めた。
防空濠から出ると、西の方角の視野180度の方角で北風にあおられ炎が夜空を真っ赤に染ていた。
炎は渦を巻き、メラメラと揺れ動きながらこちらへ迫ってくるところであった。
昭和15年2月生まれのみどりは5歳になっていた。
逃げながら「あの炎は水天宮辺か」と祖父が振り返った。
みどりの家は酒屋であり、表通りに面していたが、路地裏からたくさんの人が湧き出すとうに出てきた。
「近所にこんなにも人が住んでいたのかい?!」足を引きずる祖母は息せき切って驚きの声をあげた。
落とされた焼夷弾が次々と家々を焼き尽くしていく。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵そのものであった。
東京で1日夜で10万人もの東京府民の市民で死んだのだ。
ドラム缶でも爆発したようで、いたるところで爆発音もしていた。
家並みに次々と火がつき燃え上がる中をさまよい逃げ惑った。
行く手を阻むように刻々火炎地獄が迫り来て人々を飲み込んでいく。
どちらの方角へ迎えば命が助かるのか?
人は逃げ惑い人の流れは混乱し、錯綜するばかりだった。
母と祖母が遅れていく。
重い柳行李を背負う祖父も遅れて行く。
隅田川の方角を目指した兄二人はどうなったのだろうか。
妹勝子の手を確りと握っていたのに、大人の人たちに度々体が激しくぶつかり、倒れたところを踏みつけたれた。
そしてみどりは家族たちとはぐれて一人取り残されてしまった。
気づけば猿江恩賜公園の方へ向かって歩いていた。
北風に火の勢いは増すばかりで逃げ惑う人たちは翻弄されるばかりだった。
幾台もの大八車に火の粉が飛び火して燃え上がった。
進むか退くか、人々はためらっていた。
「焼け死ぬぞ、川へ逃げろ」と叫ぶ人もいた。
みどりは小名木川橋の方角へ向かっていた。
北風が勢いを増し、さらに火災旋風で空気が対流し、立って歩くこともできなくなる。
みどりは這うようにして橋のたもとにあった交番にたどり着いた。
周りは家屋の強制取り壊しで原っぱになっていて、コンクリートの交番だけがほつりと残されている状態だった。
空襲の激化に伴い軍需工場の付近の家屋は、内務省の指令により強制疎開させられたが、それが住宅地にも及んでいたのだ。
防火帯を作って延焼防止のために行われるものだが戦時下では、長年住み慣れた家も「指令」と言う名で取り壊されなければならかった。
みどりが川を見ると、5人乗り、10人乗りぐらいの小舟が後から後から燃えながら漂流しいた。
それは不気味な光景であった。
炎に船が包まれているので、「乗った人たちみんな死んでいるに違いない」とみどりは思った。
交番の小さい窓から外を見ると、錦糸町、深川八幡、木場の方角の家々が火災旋風に勢いを増して燃えていた。
交番で朝を迎えみどりは実家のある猿江町へ戻ったが家族の誰も戻っていなかった。
それから母の実家がある住吉町まで家族を探しに行ったが、そこも焼き尽くされており、誰もみどり待っていなかった。
近所の警察署も燃えていた。
隣の家に住む米屋の銀次じいさんが、近所の人に向かって「酷いもんだ。死体をたくさん見たが、罪人も哀れなもんだな!警察署の拘置所にいた囚人たちが鉄格子にしがみついて死んでいた」とまゆをしそめた。
みどりがが「わっと」と声を発して号泣すると銀次じいさんがみどりを抱きしめてくれた。
奇跡的に銀じいさんの米屋は類焼を免れていた。
深川不動尊で毎朝祈っていた銀次じいさんは、自分の首からお守り外すとそれをみどりの首にかけた。
「これは、不動尊のお願いお守りだよ。家族は直に見つかるさ、心配はいらない」と慰めた。
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<参考>
深川猿江は、東京都江東区の町名である。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では地区のほとんどが甚大な被害を受けたほか、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも工場地帯であったため、本所区と並んで深川区はアメリカ軍の標的の中心となっており、このような下町特有の町並みがいずれの場合にも膨大な犠牲者を出す要因の一つになったと言われている。
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頭上は低空で300機の爆撃機が飛び交う
4トン積みトラック500台分の焼夷弾が雨霰に降ってきた東京の下町
2時間で広島原爆と同じ10万人が業火のなかで命を奪われた炎の夜を…。
300機以上で2千トン(4トン積みトラック500台相当)、10万発以上の焼夷弾(油脂が入った爆弾)を投下した。
南方の基地からレーダーに写らない海上すれすれの低空で侵入し、大部分が木造住宅であった人口密集地に落としたのだ。
正確な数字は不明であるが、100万を超える人々が逃げまどい、10万人を超える死者と5万人以上の負傷者、27万戸の家が焼きつくされた。
死者のうち朝鮮人は少なくとも1万人を軽く超すとされている。
2013年1 月23日 (水曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 3)
人生の途次、この先に何が起こるかわからない。
タクシーの運転手である彼は、私鉄電車の踏切付近をウロウロしている親子連れの様子を不審に思って車を止めた。
そして車内から窓越しに様子を窺っていた。
線路沿いの道の柵越しの鉄路から電車が近づく音がしてきたので悪い予感がした。
踏切の鐘は高い警告音を発して不気味に響き渡っていた。
彼は思わず車を飛び出して行く。
母親が二人の娘を引きずるようにして遮断機を潜ろうとしていた。
本能的に危険を察知したのだろう娘たちは母の手を振り払いながら後ずさりをして泣き叫び出した。
電車は約500㍍先のカーブを曲がり初めていた。
5歳くらいの女の子が母親の手を振り払い逃げ出した。
3歳くらいの女の子は手を振り払えず母親の腰にしがみついていた。
逃げた娘は助けを求めるように彼のタクシーの方へ向かって走ってきた。
彼は逃げた娘を呆然と見ている母親の青ざめた顔を見て愕然とした。
それの母親は紛れもなく息子二人を残して男と居なくなった彼の別れた妻であった。
「みどり」と思わず彼は叫んだ。
みどりは呆然自失の状態であったが、大きな瞳を見開き声の主を凝視した。
そして相手を確りと認識したのだろう、顔を引きつらせるようにして驚愕の表情を現わした。
みどりは腰を抜かしたように踏切の脇にしゃがみこんだ。
母親の背中に手を添えるようにして下の娘が泣き叫んでいた。
轟音を立て電車が行き過ぎて行く。
みどりの長い髪が疾走する電車の風圧に大きく揺らいだ。
2013年1 月22日 (火曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 2)
長男幸吉の暴力は祖母サチに及んだが、2歳年下の弟の次郎も被害者となった。
このため、弟の次郎は生傷が絶えなくなる。
頭を叩く、腹を蹴る、髪の毛を引っ張り引き倒す。
指や腕にかみつく。
さらに頬や腕に爪を立てた。
あまりに酷いので父親佐吉のは長男を諌めた。
「弟をイジメルのはやめな。父さんが同じ目に合してやる。人の痛みを思い知れ!」
性格が温厚なであったが、その日は激情した。
次男の頬に約10㎝の傷ができていた。
その爪痕は歴然であり頬の肉がえぐられ深い溝をなっており、傷は一生治らないと思われた。
「このガキ、もう許さん!」平手打ちを10発ほどくらわせた。
さらに、箪笥に頭を箪笥にぶつけて昏倒した長男の襟首をつかみ、風呂場へ強引に連れ込み、ホースで水攻めにした。
「とうさん許して!」長男が泣き叫ぶ声がさらに佐吉の怒りに火をつけた。
「もう、許さん、思い知れ!」
「自分に、こんな残忍なことができるのか!」
失神した長男を見降ろしながら、佐吉は震えが止まらなくなった。
性格が温厚と言われていた人が凶悪犯になることがあるが、まさにその時の佐吉の状態そのものであった。
佐吉は自分の行為に愕然とした。
買い物から帰ってきた母親のサチは、ずぶ濡れとなって失神している孫の幸吉の姿を見て驚愕した。
「どうしたの? 何があったの!」
サチは身が固まり買い物籠を絨毯の上に落とした。
長そのような折檻があったのに長男の幸吉は反省しなかった。
相変わらず弟をいじめていた。
思い余って次男に空手を習わせた。
自己防衛をさせるためであった。
だが、次男は2年後、兄に暴力を振るわれると兄に反撃するばかりではなく、年下の者に暴力を振るうようになった。
自分の対応が誤っていたことを佐吉は思い知る。実に皮肉であった。