明確な目標

2016年12月08日 19時58分12秒 | 社会・文化・政治・経済
★物事は、小事が大事である。
大事故の多くは、一つ一つの細かい事柄への注意を怠ったことに起因している。
小さな配慮を欠いたことから、皆の信頼を失い、それが組織の停滞を招いた事例も少なくない。
★自分だけでなく、共に喜び人生を築くことこそ、最高の喜びである。
★明確な目標があってこそ、自分が成長できる。
★人生の早い時期に、自分自身の資質を自覚できるということは、とても重要だ。
自分の資質さえ見きわめることができれば、そこから夢を持ち、自分がやるべきことをはっきり描き出すことができるからだ。
★子どもたちが自分の持つ才能に気付き、夢をみつけていく過程には、大人との充実したコミュニケーションが重要。
家庭での親子のつながりしかり、地域での触れ合いと育成の場、子どもの“やる気のスイッチ”を引き出す鍵が、至る所に潜んでいる。

歌は私の大切な自己表現

2016年12月08日 15時53分18秒 | 社会・文化・政治・経済
ルチアーノ・パヴロッティ、ホセ・カレーラスと共に「三大テノール」の一人として世界的に有名なオペラ歌手プラシド・ドミンゴは、デビュー以来、輝かしい高音を誇るテノールとして活躍してきたが、6年前にテノールより低いバリトンに転向した。
「半年先、1年後に声が出なくなるかもしれない。その時は潔く歌をやめます。指揮者としての活動、後進の指導など仕事はたくさんありますが、本音を言うまら、生涯、オペラに携わりたい。歌は私の大切な自己表現、生き方を映し出すものですから」

ギャンブルが原因のトラブル

2016年12月08日 08時26分26秒 | 社会・文化・政治・経済
★客のばくちをさせて損をさせ、それで経済活性化とはさびしすぎる発想だ。
★ギャンブル依存症の問題。
病的ギャンブラーの数は成人人口の4・8%に当たる536万人。
海外に比べ突出して高い。
ギャンブルが原因のトラブルは自殺未遂などが約25%。
離婚、家出、失踪の原因ともなっている。
依存症は、患者自身が依存症であることを認めたがらない「否認の病」。

保守勢力の結束

2016年12月08日 08時22分03秒 | 沼田利根の言いたい放題
日本会議には強い違和感を持った。
なぜ彼らに「政権の黒幕」と呼ばれるほどの存在感があるのか?
日本会議の核をなしているのは「日本協議会・日本青年協議会」という保守団体。
彼らは宗教団体「生長の家」の学生運動に源流を持ち、40年以上にわたって保守・愛国運動を展開してきた。
いわば「プロ」的存在。
投票率の低下が物語るように多くの国民の政治離れがある。
政治に対する無関心は、保守勢力の存在感を強める要因ともなる。
1960年代の学生運動、1970年代の学生運動が、保守勢力の結束を強める要因となったと思われる。

無知は罪悪!

2016年12月08日 07時16分07秒 | 沼田利根の言いたい放題
戦争始めた12月8日を忘れない
1941年12月8日、不意打ち的に米ハワイ真珠湾を攻撃した日本軍。
当時、帝国主義一色の日本政府は、相手の米国の国力(経済、軍事など)を無視して戦争の踏み切った。
「出せ一億の底力」
「撃ちてしやまん」
「欲しがりません勝つまでは」
の精神主義的なスローガン。
庶民の釜や鍋のみならず、寺の鐘まで戦争のために集めた国力の無さ。
日本は米国と戦争などできない貧乏な国であったのだ。
当然食糧難ともなる。
兵士たちが戦地で飢えて亡くなるのも必然。
愚かな国の指導者たちは、国民を不幸にするばかりであった。
無知は罪悪!

全国のがん診療連携拠点病院にも相談支援センター

2016年12月08日 07時02分12秒 | 医科・歯科・介護
全国のがん診療連携拠点病院にも相談支援センターはあるが、国の調査(2015年)では、がん患者のうち利用したことがある人は7・7%だ。
社会福祉士で国立がんセンター東病院がん相談統括専門職、坂本はと恵さんは「高齢者は、がん告知や生活への不安が強い一方、不安があっても自分の考えを整理するのが難しい人もいる。高齢者は適切な情報を得るため、身近な病院の相談支援センターを利用してほしい」と語る。
主治医に気を使って自分から相談しない高齢者も多いため、医療側から話を持ちかける工夫求められる。

プチャーチンは終生の親日家

2016年12月08日 06時46分01秒 | 社会・文化・政治・経済
★「日本にこれまであるパチンコは、低所得者から金をいただく仕組みばかり。カジノはお金持ちからお金をいただくものだ」
カジノ法案推進派議員
★カジノの負の部分に目をつぶっている発言に唖然とする。
日本のパチンコはカジノ賭博の負の部分を典型的に明らかにしている。
国民は無関心であってはならない。
★ロシアのプチャーチン
鎖国の江戸幕府に武力の威力で開国を迫ったペリー率いる米国艦隊。
これとは対照的にロシアのプーチンは、煮え切らない幕府の対応にいらだちながら、辛抱強く交渉を待ち続けた。
やっと全権の筒井政憲(まさのり)らがやってきた。
プチャーチンの秘書官で作家のゴンチャローフが鋭い観察眼で航海ルポを残している。
当時70代の筒井のたたずまいには圧倒されたようだ。
「わたしたちはじっと彼の目を見つめた。老人は最初から私たちを魅了してしまった。(中略)誰しもこの好々爺を見れば、自分のおじいさんにしたくなるだろう。おまけに、この老人の物腰には立派な教養がにじみ出ているのだ」(ゴンチャローフ日本渡航記)
談判は不調に終わるが、その後の信頼感情は生まれた。
プチャーチンは長崎来航を繰り返した後、幕府の申し入れで伊豆の下田に入港する。
ところが日露和親条約提携交渉のさなか、安政東海地震が発生、津波に襲われた下田の町は壊滅した。
プチャーチン一行のディアナ号も大破し、死傷者を出した。
下田の惨状を見たプチャーチンは上陸し、ロシア人医師を被災者治療に、と申し出た。
かろうじて浮いていたディアナ号は沈没する。
沿岸の村々から村民たちが駆け付け、多くの乗組員たちを救った。
駿河湾に面した戸田村(現在の沼津)での新船建造は職人や村人らの協力で行われた。
貴重な西洋式帆船建造技術の習得につながる。
条約締結後、プチャーチンらは村名から「ヘダ号」と名づけた船で祖国へ帰る。
プチャーチンは終生の親日家となり、日本人留学生らを支援した。
娘は戸田村の人々と交流した。
プチャーチン死後の1887年(明治20年)、娘のオリガ・プチャーチナ女伯(1848年 - 1890年)が戸田村を訪ね、プチャーチンの遺言により、当時の村人の好意に感謝して100ルーブルの寄付をしている。その後の歴史の激動の中にも交流は続き、2008年(平成20年)にも日露修好150年を祝っている。
★ロシア帝国の極東外交で活躍した人物として知られるロシアのエフィム・プチャーチン提督は、日露和親条約を締結するなど幕府との外交交渉にあたっただけではなく、民間レベルで日本と友好関係を築いていた史実はあまり知られていない。
ペリーと違い、シーボルトの進言にしたがって、あくまで紳士的な態度を日本に見せるため日本の対外国窓口である長崎に向かった(プチャーチンに日本遠征を勧めたのもシーボルトである)。