東洋の伝統思想

2016年12月19日 22時38分44秒 | 社会・文化・政治・経済
儒教思想の中の「天下」は、国家の枠を超えた概念とされている。
「天下」は無数の障壁、砦、溝によって分割された社会ではなく、国家を超えた大同世界なのだ。
実際は国と国の理想的な関係、すなわち、国と国の「共通の価値」を求めることである。
そうすることではじめて、真に国家の壁を超越することができるのだ。
同時に儒教思想は、互いの「違い」を尊重し合うことも重視する。
異なる物同士が組み合わさる「和」は新しい物を生み出すため、長く続く。
一方、同じ物同士が組み合わされる画一的な「同」は長くは続かない。
つまり、理想社会としての「天下」では、共通した価値を求めながらも、そのプロセスでは、異なる道程を歩んでも構わないということだ。
そして重要なのは、「天下」の民には、人類の基本倫理や共通価値と原則を順守し、養護する責務がある。
それらを破るものとは、戦っていくのだと指摘している。
こうした考えは「世界市民」の理念と相通じている。
「世界市民」の教育理論は、東洋の伝統思想から、有益な思想的資源を汲み取る必要がある。
北京師範大学・高益民教授

中国 「二分法」の淵源

2016年12月19日 22時05分18秒 | 社会・文化・政治・経済
日本と中国は戦争状態にあっても、日本の軍部政府が決定した中国への侵略戦争に対して、日本国民のすべてが賛成しているわけではにので、その日本国民と団結して侵略に反対しようというのが「二分法」の淵源だった。
このように中国は国際社会の中で、反戦と平和共存、世界の友好を訴えながら、日本に対しては「二分法」という考えの下、軍部政府とは切り離して、日本の民衆に目を向ける外交政策をとっていくことになる。
この「二分法」の考えは、八路軍(日中戦争時に華北方面で活動した中国共産党軍の通称)の中にも取り入れられた。
そのため、日本軍の捕虜にたいしても虐待などは行わないことが八路軍の中で周知された。
また、日中戦争が終わって日本軍撤退後に残された130万人に及ぶ残留日本人について中国側は、すぐに日本に帰ることができない状況に鑑み、中国に残し保護することを決めるとともに、その人たちの力を新中国の建設に生かそうと考えた。
日本と中国の間には2000年に及ぶ文化交流などの歴史があり、それに比べ日中両国の戦争状態の期間はわずか50年の歴史でしかない。
だからこそ、未来に向けた友好関係を築いていこうとする外交努力が生まれた。
周恩来は、日本人戦犯について寛大に処理し、死刑、無期懲役での処分はしない方針を示した。
さらに、中国側は「二分法」に基づいて、日本に対する戦争賠償の請求も放棄している。
胡金定・甲南大学教授


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戦前の中国指導者層の多くが日本に留学し、日本国民と日本の文化、日本精神を深く理解していた。
このため、日本軍部と日本国民は違うと「期待を寄せていた」のだと思われる。
その意味で、日本の民衆に目を向けた中国外交は注目に値する。
特に周恩来の人道主義の理念を高く評価したい。
沼田利根

失敗は成功のもと

2016年12月19日 13時17分30秒 | 社会・文化・政治・経済
★迷惑がかかったどうかを決めるはあくまでも相手。
謝り方の基本は、まず誤りを認め、それから謝り、そして改めること。
人は失敗をした時、ついごまかしたり、人のせいにしたりしたくんるもの。
まず潔く誤りを認めることが謝罪の第一歩。
「頼み方」にも言えることであるが、タイミングを計る際は自分ではなく相手の状況を優先することが基本。
みんな失敗はしたくないし、できれば謝りたくない。
しかし、人生に失敗はつきもの。
「失敗は成功のもと」
失敗から何かをつかめれば成功につなげることができる。
ちゃんと謝ることができれば信頼関係が生まれ、むしろ相手との関係をよりよくしていくことができる。
「謝る」ことは、失敗を好転させていくチャンス。
謝罪する際、相手の気持ちをしっかり受け止める“聞き上手”になれるかどうかが重要。

国が放置 これは棄民だ

2016年12月19日 12時40分12秒 | 社会・文化・政治・経済
ビキニ被爆の闇
第五福竜丸以外に延べ992隻被災


こんな理不尽なことがあっていいのか?!


新生丸の吉村義見さんは、脳腫瘍により45歳で死亡。
松村正義さんは喉頭がんで家の窓から大量の血を吐き、61歳で死亡。
吉村勲さんは肝臓がんで58歳で死亡。
米国は1954年、広島原爆の約1000倍、15メガトンの威力を持つ水爆「ブラボー」を、太平洋・ビキニ環礁の人工島で爆発させた。
爆発は海底に深さ約60㍍、直径約2000㍍のクレーターを形成し、破壊したサンゴ礁の粉じんを上空35㌔まで運んだ。
放射能を帯びたサンゴの粒子は、風に乗って世界中に運ばれ、降り注いだ。
これが「死の灰」の正体だ。
水産庁などは、周辺で操業していた漁船を指定5港に入港させ、魚の放射能検査を実施。
延べ992隻の被災船から486㌧以上の魚が海に投棄された。
約3分の1は高知船籍だった。
爆心地の東160㌔の公海で被曝したのが第五福竜丸で、無線長の久保山愛吉さん(40歳)が半年後に死亡し、水爆実験による被害がクローズアップされた。
日本政府は1954年12月末をもって魚の放射線検査を中止した。
これが驚きである。
魚の検査を優先し、人間の検査をしなかったのだ。
翌1955年1月4日、法律上の責任とは関係なく、全ての請求に対する完全な解決のために米国が「見舞金」を支払う事で政治決着した。
以降、被災船に乗っていた多くの乗組員は補償もされず、国による健康診断も行われないまま、今に至っている。
毎日新聞(12月18日)を読んで国が放置「これは棄民」だに怒りを覚えた。

高麗郡誕生の歴史

2016年12月19日 11時57分57秒 | 社会・文化・政治・経済
テレビが面白くないと、避けているが、埼玉県日高市の光景には目を奪われた。
日高市内を流れる清流、高麗川(こまがわ)の蛇行により長い年月をかけてつくられ、その形がきんちゃくの形に似ていることから、巾着田(きんちゃくだ)と呼ばれるようになりました。
 直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地には、菜の花、コスモスなどの花々が咲き、中でも秋の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)群生地は辺り一面が真紅に染まり、まるで赤い絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようです。
毎年多くの人がその美しさに惹かれて訪れます。
巾着田を水彩画で描いている70代の男性。

高麗郡誕生の歴史が紹介された。
「続日本紀」に、高麗人1799人を以て、武蔵国に遷し始めて高麗郡を置く、とある。
霊亀二年(716年)に高麗郡が誕生して1300年目にあたる。
地元の高麗神社では様々記念行事が行われている。
660年に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼした。
倭(日本)も復興を期して旧百済を支援するために出兵したが663年唐・新羅の連合軍に大敗を喫した。
勢いづいた新羅は668年、再び唐の力を借りて今後は高句麗を滅亡させた。
こうした朝鮮半島の相次ぐ動乱により、数多くの百済・高句麗の人々が日本に亡命・移住した。
同時に勝者である新羅から来日した渡来人たちは、西日本のみならず、関東地方にも移住したことは、「日本書記」にも記されている。
日本は、亡命してきた百済の王族・貴族お難波に配置し、大宝元年(701年)に摂津国百済郡を設置している。
滅亡した百済の国名を冠した郡が、天皇の膝元である「五畿」の一つである摂津国に置かれたことが重要である。
これは、倭(日本)が旧同盟国・百済を滅亡後も重視していることを意味している。
渡来人を寛容に受け入れて古代人の民衆の度量に学ぶ必要がある。
大東文化大学教授・宮瀧交二さん

友人から励ましのメール

2016年12月19日 10時43分26秒 | 日記・断片
★「大変だ」と言ってもたいしたことはないのだ。
後になれば、今がどんなに大変であっても、たいしたことはないのだ。
自分自身が強くなれば、何とかなるものだ。
★どんなに苦しいことも、後になってみれば全部、夢の中の出来事のようなものだ。
何があっても生き抜くことだ。
自分らしく自分の歴史を堂々と築くことだ。
★人を恨んだり、焼きもちを焼く必要はない。
私たちには最高峰の命の宝がある。
無量の宝を自在に引き出していけるのである。

友人の米田仁史さんから励ましのメールが送信されてきた。
まさに「善知識」である。