母の死から強い生の啓示)

2016年12月30日 23時28分55秒 | 社会・文化・政治・経済
ドストエフスキイは父の農奴たちによる惨殺について生涯かたくなに口を閉ざして語らなかったことは、逆にこの事件の与えた衝撃の強さを物語っているのだろう。
作品はしばしば作者より雄弁に作者自身のことを語るものだが、そういう意味から、作家としての彼が、多くの作品のなかで異常な執念をもって殺人事件を描き、その総仕上げに「カラマゾフの兄弟」のなかで父殺しの悲劇を取りあげていることは注目すべきことと言えるだろう。
フロイトはのちにドストエフスキイの癲癇や異常な賭博熱、作品に現れたた父殺しのテーマは、罪の意識、苦しみの甘受、また彼自身の、国家的な権威である皇帝に対するマゾヒズム的忠誠心と、天帝である神への拝跪(はいき)の思想。
彼が16歳のとき、37歳の若さで世を去った母親。
この母の姿が、彼の目には、純粋で献身的な魂の持主として映った。
母の死から、強い生の啓示を受けることになる。
青年時代の彼は引っ込み思案で人付き合いが悪かった。
女性に対する恐怖心が強く、夜会の席で美人に紹介され卒倒したという逸話もある。
フロイトは賭博熱を<自慰行為の代用>と呼んでいる。
25歳もの年が違う異常な作家と女性速記者との結婚生活。
陰気で嫉妬深く、そのうえ異常性欲の持ち主であり、さらには異常な浪費癖があり、異常な賭博熱と、癲癇の発作がった。
また、周囲には、ならず者の先妻の連れ子と、生活費をせびりとる兄の遺族がいた。
借金は山ほどあった。
賭博に敗れ、貧困の土壇場に自分を追い込んで、自分の創作を続けた。






わたいは賭博を呪っていた

2016年12月30日 12時52分55秒 | 創作欄
ドストエーフスキイ書簡


アンナ宛て(抜粋)
ホンブルク、1867年5月24日

かわいいアーニャ、わたしの友、わたしの妻、どうかわたしをゆるしておくれ、卑劣漢よばわりをしないでおくれ!
わたしは罪を犯してしまった。
お前の送ってくれた金をすっかり、それこそすっかり、最後の1クレイツェルまで負けてしまった。
昨日受け取って、昨日さっそく負けたのだ。
アーニャ、わたしはどうしてお前に合わす顔があろう、いまとなっては、お前はわたしのことをなんというだろう!
(中略)
わたしは賭博というものが憎いのだ。
今だけでない、昨日も、一昨日も、わたいは賭博を呪っていた。
昨日、手紙を受け取って、手形を金に替えると、わたしたせめて幾らかでも負けを取りかえそう、ほんの雫ほどでもわれわれのふところを殖やそうという考えで、
ルレットヘ出かけて行ったのだ。
わたしはちょとした儲けを一途に信じ込んでいたわけだ。
初め少し負けたが、だんだん負けがつづくと、取り返してやろうという気が起こる。
ところが、なおそのうえ負けてくると、少なくとも出発に必要な金だけでも取り戻そうとして、もうわれともなしに負けつづけて、―すっからかんに負けてしまったのだ。(米川正夫訳)

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宮田虎之助は、8レースのみを勝負に松戸競輪場へやってきた。
競輪専門新聞の前夜版を取手白山の新聞取次店で入手して、スナック「エイト」で検討した。
そして、「8レースが勝負だな」と思い込んだ。
思い込みは、あくまで思い込みにすぎないのだが・・・
競輪仲間で高校の後輩の杉田謙輔と幼馴染みの仏壇屋の倉持勝利が一緒であった。
倉持のベンツの後部座席で、大金を持って帰る自分を思い描いていた。
それが宮田の甘さであったのだ。
競輪場の駐車場には午前11時30分ころ到着した。
3人は競輪場の門前にある居酒屋で焼酎を飲み、腹ごしらえもした。
宮田は縁起をかつぎ「カツ丼だ」と注文した。
宮田は田圃を担保に200万円の勝負資金を工面していた。
昭和40年代の松戸競輪場は人で溢れていた。
宮田は競輪選手になることを父親に反対され「栄光の道」を閉ざされた気持ちになっていた。
その父親は宮田が東京でタクシーの運転手をしていた時に、65歳で脳梗塞で亡くなっていた。
父親に抗えなかった不甲斐ないさを宮田は気持ちの上で何時までも引きづっていたのだ。
本来なら、父親がどのように反対しようと、自分の道は自分で切り開いていくべきだった。
それができなかった意志の弱さ。
父親に隠れて、松戸のボクシングジムに通っていたのはせめてもの抵抗であったが、酒を覚え女の肌を知ってから、減量できずプロボクシングの道を断念した。
「何もかも、俺は中途半端なんだな」苛立ちから競輪へのめり込んで行く。
取手の高校時代の同期生が競輪選手として羽振りが良くなったことも宮田を大いに刺激していた。
後楽園球場へお客を送ると宮田もそのまま入場した。
自堕落な生活を送ると段々、タクシーの運転手にも嫌気がさしてきて、水道橋の不動産屋へ勤める。
競輪場で知り合った野崎次郎が不動産屋「栄光ハウス」の経営者で営業の仕事を誘われたのだ。
その不動産屋も2年で辞め、取手に戻ってきて、再び取手でタクシーの運転手になっていた。
だが、宮田は緻密な頭をしていなかった。
つまりギャンブルには向いていなかったのだ。
感情の起伏が激しく、自己規制もできない。
既に先祖代々の田や畑は3分の2が競輪で消滅していたのだ。
不動産屋で中学の同期の大田伸治からは、アパート経営や駐車場経営を促がされたが耳を傾けなかった。
宮田が勝負した松戸競輪の8レースは、実に皮肉な結果となった。
本命の1番選手が3番選手に強引に外に振られ落車してしまう。
その瞬間、賭けた150万円の車券は紙屑となる。
残りの金は50万円に。
何としても、負けた150万円を取り戻そうと9レースに臨む。
その9レースは、本命の3-9ラインが7番手に置かれる展開で大穴の1-4となる。
全ての金がその時点で失われ、宮田は座席に身を下ろしたまま立ち上がれなくなる。
仏壇屋の倉持が10万円を回してくれた。
彼は1-4を的中させ、80万円余の金を手にしていたのだ。
「虎ちゃん、本命で勝負は危ないよ」と諭される。